その文学賞に応募したのは三回。芥川賞作家が選者をつとめるその純文学の賞は「題材自由」とうたっている。私はとっておきのプロットを書き、賞に臨んだ。

 一回目は二次予選突破。二回目は四次予選突破。私の文章はこの賞に向いているのだと自信を持って臨んだ三回目、予選落ちだった。屋根に上ったところで梯子を外された気持ちだった。

 モニタの前で次々に発表されていく名前を睨んだ。脳味噌をぎゅっとしぼられるような不快な圧迫感。腹の底に重いものがずしりずしりと溜まっていくのを感じる。

 嫉妬だ。これは私が長い間、抑え続けてきた感情だ。私が、こんな惨めな思いを味わわされるなんて、間違っている。
 欲情にも似た渇望が沸き上がり、うねり、ぎゅうぎゅうと私の脳をしぼりあげる。最後の一滴まで小説のアイディアを出しつくそうとする。

 しかし私の、怒りしか残っていない、すかすかの脳味噌には、もう小説の欠片さえもありはしない。どれだけ本を読もうとも脳のシナプスをすり抜けて、知識も情感もこぼれおちていく。
 私に残されているものは何もない、空っぽだった。
 私は書くことを止めた。


 部屋に射す夕陽の橙色に窓から伸びる影が薄汚い縞模様をつくる。
 窓の外にはビルが立ち並び、古ぼけたこのアパートに陽が射すのは冷たい冬の夕暮れのほんの一時だけだ。
 踏めば足が沈みこみそうな湿った畳に仰向けに寝そべり、橙が遠のくのを、ただぼんやりと受け止めた。

 一際高いビジネスビルの光が消えてしまうと、この部屋にはどこよりも早い夜がやってくる。
 電気をつける事も出来ず立ち上がる事もせず、天井を見るともなく見ていた。そこには文学賞で入選した誰かの小説の一文が浮かんでいた。

 良くもなく悪くもなく、どこにでもある陳腐な一文。
「そこにはすべてがあった。」
 そこ、とはどこだろう。
 きっと自分には関係のない場所、たとえば窓の向こうのビルの一室なのだろう。手を伸ばせば触れられるような気がするのに、本当はビルは遥か遠くにある。

 すぐ近くにあるように思えるほど、それだけ高いのだ。その高みに上るための梯子は既に取り外されてしまった。

 むらむらと腹の底から湧きあがる黒いものに耐えきれず、うつ伏せて拳を畳に叩きつける。二度、三度、畳は湿り気を帯びた間抜けな音をたてる。その音にさらに苛立ち拳をふるい続けた。


 いつの間にか眠っていたようで、目を開けると部屋の中はすっかり冷え切っていた。貧乏な部屋に暖房器具などない。
 せめてカーテンを引こうと立ち上がると窓の下、薄汚い路地の電柱の陰に黒い人影が見えた。身を隠すように電柱に寄りそっている。

 顔は見えないのになぜか視線はこちらに向かっていると感じた。その目に強く睨まれているようで、慌ててカーテンを閉めた。空っぽの部屋が急に巨大になり、自分が小さな小さな生き物になってしまったようで不安だった。


 翌朝、陽の射さない薄暗い部屋で目覚め、部屋がやはり狭くるしいことにほっとしつつカーテンを開けた。窓の外を見るのが少々躊躇われたが、思い切って窓を開けた。冷たく清々しい朝の空気の中に、黒い影はなかった。ほっとして窓を閉めた。

 つまらない苦痛なだけの単調な労働を終えて部屋に帰るころには、外はすでに真っ暗だ。
 スーパーで安焼酎を買って部屋に戻る。たった一合の焼酎では酔う事もできない。酔えなくとも少しは暖まり、敷きっぱなしの蒲団に入ろうと立ち上がる。

 カーテンを引き忘れていた事に気づき窓に近づくと、昨夜と同じように電柱の陰に黒いものが立っていた。やはり睨まれているように感じる。自分のことを批判されたような気がする。無性に腹が立ち部屋を飛び出した。

 電柱のそばに駆け寄ると、そこには一人の男が立っていた。こちらに背を向けて電柱に額を押しあてている。その後ろ姿に見おぼえがあるような、決して会いたくなかった人物のような気がして足を止めた。男はふと振り返った。

 男は私だった。

 私は私と向き合い、私は私を睨みつけた。まるで私を責め合うように。
 急速に体が冷えていくのを感じて、私は後ずさった。
 私は一歩も動かなかったが、私は部屋に駆け戻り、鍵を閉めカーテンを引き、布団をかぶった。
 震えが止まらず朝まで動くこともできなかった。

 それ以来、私は、あちらこちらで私を見つけた。
 車窓の向こうに、人波の中に、見上げたビルの屋上に、そして鏡の中に。
 私は常時、鏡の中に二人の私を見るようになった。
 私はやはり私を睨む。私は鏡に手をつき、もう一人の私を隠す。
 しかし私の首筋に、私の息づかいを感じる。もうだめだ。

 私は部屋に駆け戻ると紙とペンを取った。プロットを書き殴る。
 腹の底から黒い、真っ黒のどうしようもなく醜悪な言葉が湧きでてくる。それは私の汚らしさだ。私の本性だ。私は薄汚く劣悪で薄っぺらな、しかし本当の文章を書き殴った。

 息を切らし、手を止める。いつの間にか部屋中に紙が撒き散らされ、そこに詰まったプロットが黒々と私を取り囲んでいた。
 私はこの黒い黒い文字の底を生きていく。