しばらくお母さんに体をあずけていると、急にパッと体が離された。
睡魔があたしの体をおそっていたので、離されたことによって眠気が覚める。

お母さんは何故か申し訳なさそうに、慌てたように口を開いた。

「ひまり・・・。私が引き止めたせいなんだけど、ひまりどこか行きたいところがあるんじゃなかった?」

「あっ」

その言葉で、ようやく山吹さんの存在を思い出した。

自分のせいで怪我をさせておいて、存在を忘れるなんて最低じゃないか。

一気に恐怖で体が包まれ、心臓が暴れ出す。

山吹さん
山吹さんは無事なの?

今すぐにでも立ち上がって行こうと思ったが、また別の恐怖が体をおおう。

あたしなんかが行ってしまっていいのか?

あたしは怪我をさせた張本人であって、あたしなんかがお見舞いに行くなんて間違ってるんじゃないか?

いかない方が、いいんじゃないか・・・?

そんな考えが頭をよぎり、行こうと思った心が一瞬で静かになる。

もちろんこれは自分が傷つきたくないからと変な理由をつけて、行かないようにしてるだけ。

どうしよう、怖い、怖い、怖い____

「ひまり」

恐怖で覆われている中、一つの凛とした声があたしの脳内に響いた。

__お母さん

「会いたい人が、いるんでしょ?」

少し微笑んで、あたしの肩に手を置いた。

「今度は止めない。お願い、行って。後悔してほしくないの」

今度は恐ろしい微笑みじゃない、母親らしい微笑みで。

「自分の思う道を、進んで」

ああ

あたしが言ってほしかった言葉、あたしがかけてほしかった言葉__

今日何度目かわからない涙が溢れてきそうになるのを堪えて、頷いた。

「行ってきます」

誰もいないんじゃない、信じることのできる母親がいる部屋に、そう呼びかけた。

「行ってらっしゃい」

久しぶりに聞いた、お母さんの優しい声。

うん、行ってきます

心の中でもう一度呟いて、玄関の扉を開けた。





向かい風という風が、あたしの髪を跳ね飛ばす。
ヒヤリとした汗が頬をつたっても、前髪が跳ね飛ばされても、緩めることなくペダルを踏んだ。

自転車のグリップを握りしめて、目的地の病院へと向かっていく。

どんなに疲れても、どんなにしんどくても、山吹さんのことを考えるだけで元気がでた。

山吹さん、山吹さん

何度呟いたかわからないけれど、名前を呟くだけで山吹さんに会いたいという衝動に駆られる。

山吹さん、山吹さん

そう何度も何度も呟いて、ようやく真っ白な病院が見えてきた。

恐怖がまた体を覆いそうになるけれど、ぐっと堪えてまたペダルを漕ぐ。

どんどんと姿を現す病院。

窓ガラスから、綺麗な真っ白の部屋が見える。

進め、あたし。がんばれ、あたし。

そんなことをおまじないのように心の中で唱えてから、もうひと漕ぎして病院の駐車場に自転車を止めた。

自動ドアが開くと同時に冷たい空気があたしを歓迎する。

真っ白な部屋。
恐ろしいほど綺麗な部屋。

そんなイメージがどんどんと重なっていき、またあたしを恐怖状態にしようとする。

このままじゃ、だめだ。

今までの思いを振り払うように頬を両手でパシリと叩き、一歩前へと進んだ。

カウンターで名前を言って部屋を教えてもらい、その部屋へと向かう。

というか、あたしのせいで入院するほど悪くなってるじゃないか。

真顔で進んでいながらようやくそのことに気づき、また恐怖。

怖くないわけじゃない。
うん、怖くないわけがない・・・。

恐怖、緊張、悲しみ、苦しみ、さまざまな感情があたしの体を行き来する。

でも、ここで逃げていいの?

答えはいいえ。

一歩一歩進むたびに恐怖を振り払うつもりで進んだ。

大丈夫、大丈夫__

そして、とうとう山吹さんの部屋の前まで来てしまった。

本当にここであっているかの確認を何度もして、軽やかなノックの音を響かせる。

すると、あの聞きたかった優しい声が、愛おしい声が聞こえてきた。

「どうぞ」

たった一言なのに、こんなにも感情を揺さぶられる。

__山吹さん

大きな深呼吸をして、あたしはその声がするとともにドアを開いた。

山吹さんの優しい顔が、驚いたような表情、そして優しい微笑みへと変わっていく。

「・・・山吹さん」

できるだけ落ち着いて言おうと思っていたのに、その声は泣く前寸前の声になってしまった。

次から次へと涙がとめどなく溢れる。

「やま、ぶき、さ・・・」

溢れる涙を止めようと、必死に手で涙を拭う。
だがその努力は虚しく、次から次へと涙は溢れた。

山吹さんはいつもの微笑みで困ったように眉を下がらせて、あたしを見つめる。

「どうしたの、ひまりちゃん」

・・・ああ

ずっと
ずっと
ずっと

ずっと聞きたかった

大好きな声
優しい声
愛おしい声

まるであたしを包み込むようにあたしの名前を呼ぶ、声。

山吹さん・・・

あたし、山吹さんのこと好きだ・・・

好きで好きで、もうずっと山吹さんの隣にいていたい。

あたし、山吹さんのこと大好きなんだよ・・・

頬は赤くなることなく、ただただ涙を流し続けながらそう思った。

こんなに思って。
こんなに一生懸命になって。
こんなに会いたいと思って。

こんなの、山吹さんしかいないよ・・・。

ねえ、大好き。

何度もそう心の中で唱えて、一歩足を進める。

そして、山吹さんが病室のベッドに座っている光景が目に入った。
その視界で、ようやくあたしが怪我させたという重大さに気付く。

あたしは、なんて馬鹿なんだろう。

そのことに、また恐怖。

何回目なんだと思いながら山吹さんの元に駆け寄り、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きながら大きな声で言った。

「あた、あたしの、せ、いで・・・ほん、とに・・」

うまく繋がらない言葉を必死に伝えていると、山吹さんはあたしの頭を大きな手で包み込んだ。

驚きのあまり、言葉が詰まる。

「来てくれてありがとう。すごく嬉しい」

山吹さんは愛おしそうに微笑んで、あたしの頭を撫でた。

「ちなみに。言っておくけどひまりちゃんのせいじゃないからね?しかも車にはかすり傷程度しか当たってなくて、軽い捻挫で命に別条はないんだ。一応脳に異常がないか入院してるだけ」

その言葉が耳に通された瞬間、あたしはさらに涙が溢れた。

もう今日で、一生分の涙が出てしまっている気がする。

必死に涙を止めながら、なんとか口を開く。

「よ、よかったです・・・!ほん、とに命に別条はないんですよね?」

しゃっくりをあげながら確かめるようにそういうと、微笑んで頷いてくれた。

一気に体が安堵で包まれるのがわかる。

「・・・あれぐらいなら俺も怪我せずひまりちゃんのこと助けれたんだけどね」

小さく呟いた低い声に、思わず体が反応するのがわかった。

_どういうこと?

もしかして、山吹さんの元気がなかったことに関係してる・・・?

その思いが脳内を通ると同時に、あたしは山吹さんに質問を投げかけていた。

「何かあったんですか?」

自分が無防備な質問をしていると気付いたのは、言った後だった。

こんな質問をされたら嫌かもしれないのに。

「ごめんなさい、答えなくても_」

「いいよ、話すよ」

大丈夫です、と言おうとした時、その言葉は山吹さんによって遮られた。

無理、してないだろうか?

顔色を伺う限り、無理はしていないように見える。

けれど、無理をしているか聞く間もなく山吹さんは口を開き始めた。

声が入っていくとともに、どんどん心臓はいろんな意味で速度を早める。

「・・・俺さ、お兄ちゃんがいたんだけど」

い、た。

そのお兄ちゃんがいた、という言葉で、これから何をいうのか察してしまう自分が憎い。
耳を塞ぎたくなるような気持ちを押し殺し、黙って耳を傾けた。

「お兄ちゃんさ、事故で、死んじゃって」

・・・・。

山吹さんはできるだけ元気に言おうとしているのか、笑っている。

でも、今にも溢れそうな涙を見過ごすわけにはいかなかった。

声は震え、手は震え。

その時その震える声と手を見て、山吹さんは一人で耐えてきたんだと直感的に思った。

山吹さんと久しぶりに会った時、あたしを心配させまいと笑顔を出して。

きっと今にも泣き出したかっただろうに。
今にも笑うのをやめたかっただろうに。

でもそんなことをしたらあたしが困ると思ってしなかった。

どうして

どうしてあなたはそんなに優しいの

どうして、と吐息で呟いてから、今にも涙が溢れそうな瞳を見ていられなくて顔を伏せた。

「それで・・・力が抜けて、さ。カフェにもいけなくて・・・ごめん」

どうして謝るの

カフェに行くことは約束でもなんでもなかったし、それに山吹さんはしんどかったんだから。

どうして人の思いを一番に考えられるの・・・?

涙でびしょ濡れになった頬が乾いてきた時、その頬に山吹さんの手が触れる。

「俺、すごい、しんどくて・・・。暗くて、なんか、すごい幽霊みたいだったよな、俺、はは、だか」

山吹さんの言葉が最後まで告げられる前に、あたしは思わず山吹さんを抱きしめていた。

「ひまり、ちゃ・・・?」

「・・・もう、いいんです」

気づけば、そう言っていた。

無理に笑って強がろうとする山吹さんを見ていられなくなった、というのが一番素直な思い。
もう泣いていいよ、と無心に伝えたくなった。

今の山吹さんは、まるで、まるで、あの時のあたしみたいで。

無理に笑って、ごまがして、もがいて。

いつか真っ暗な闇に一筋の光がさすことを祈って、ずっともがき続ける、無様、という言葉が一番似合う生き物。

悲しくて苦しくて切なくて。

無様、と言われても何も感じれない。

怒り、すら。

そんな感情が、あの時あたしの体の中でいつづけていたんだ。

静かに瞼をとじ、山吹さんの体を抱きしめる手に力をこめる。

「無理、しないでください・・・。泣いていいんです、逃げていいんです・・・。山吹さんも、そう言ってたじゃないですか・・・」

震える声で、ゆっくりとそう告げる。

山吹さんの体が、ピクリと反応した。

「山吹さん、悲しみも、苦しみも全部、あたしに分けてください。そうしたら、きっと、きっと、楽になれるはずなんです・・・」

真っ暗な視界の中で、ぽつりとそう放たれた言葉。

小さく、小さく山吹さんの嗚咽が聞こえるのがわかる。
そんな山吹さんの背中を小さくさすり、ゆっくりと瞼を開いた。

明るい真っ白な視界が、あたしの視界を維持する。

もう一度山吹さんの背中をさすり、肩に顎をのせた。

山吹さんはしゃっくりをだしながら、懸命に言葉を繋げている。

「ひ、っく、まり、っ、ちゃ、」

しゃっくりをしながら懸命に出すあたしの名前に、あたしの心が揺さぶられる。

「・・・なんですか、?」

「、ほ、んとに、あり、がと、う・・・」

泣いていることを隠すことなくお礼を言われ、嬉しさと困惑の感情が混じる。

山吹さんがしてくれたことを返しただけですよ、そんな言葉が口からでかけていたが、そこは堪えることにした。
山吹さんが本当に感謝をしてくれているので、水をさすのも悪いと思ったのだ。

体を離すと、山吹さんはいつもの大好きな笑みで、口を開いた。

「すごく、救われた!」

「・・・あたしもですよ」

山吹さんの感謝の言葉に対して小さく自分の本音を呟くと、山吹さんはキョトンとした顔であたしを見つめる。

茶色い瞳に吸い込まれそうで、自分の言ったことに寒気を感じた。

キョトンとした顔からいつもの人懐っこい笑みになると、あたしの手をそっと握る。

「じゃあ、俺たちお互いどっちも救っちゃったね〜!」

・・・その笑みでそんなずるいこと言います?

その笑顔は反則だと言わんばかりに、心臓の速度が早くなる。

苦くて甘い感情を味わっていると、山吹さんはあたしの手を握る手に力をこめた。

「・・・ありがと」

改めてそういわれ、あたしは本気で心臓が止まるかと思ってしまった。

まさに、口から心臓が飛び出る、だ。

ドキドキという思いが高鳴る反面、ある決意も一つした。

山吹さんが退院したら、この自分の思いを素直に伝えよう、という決意を。

好きです付き合ってください、なんてそんなセリフじゃなくて、今までの気持ち、素直なこの感情を届けたい。

こんな決意をするなんて、自分らしくないと思う。

でも、ちゃんと、伝えたいから。

あたしはそっと目を閉じて、またゆっくりと目を開いた。

大好きだよ、山吹さん

そんなどうしようもない思いを、そっと散ってしまう花びらのように呟いた。