翌日

あたしはもちろん家から出させてもらえなかった。

お母さんが寝てる時に_とも思ったが、全く隙がない。
まるであたしを獲物のように睨みつけ、ずっと監視している。

朝起きた時からずっとそう

監視されているという気持ちの悪さに部屋にこもって鍵を閉めてやろうかと思ったがあっけなく開けられた。

椅子に座っても、何かを食べていても。

誰かに見られている

そんな感覚があまりにも気持ち悪くて、やけに美味しそうな朝ごはんも食べた後に胃からせり上がってきてしまった。
(嗚咽をもらしてしまったけれど、母親が聞いていないことを祈る。)

一人にさせてもらえなくて、誰かに見られていて。

そんな感覚が、あたしは小さな檻に閉じ込められているような気がした。

叫んでも、叫んでも開放してくれる事はない。
もがき続け、そのまま死んでいく、無様な生き物。

そんなことを想像するだけでも背筋が凍った。

そしてその反面、ふと思う。

山吹さんは、大丈夫なのかって。

入院してるであろう病院に行きたいだけれど、この調子じゃ無理そうだ。

_いや、違う。

お母さんに監視されてるからじゃない。

・・・怖いからなんだ。

それを心の奥から引っ張り出してきたとき、一気に体が恐怖で包まれた。

怖いくせに、監視されているから、と理由をつけて、言い訳をつけて、行かないことにしようと思おうとしている。

そんな自分にも恐怖を感じた。

あたしは、山吹さんを怪我させてしまった。
ううん、もしかしたら怪我どころで済んでないかもしれない。

それなのに会いに行くのはおかしいじゃないか。
あわせる顔がないじゃないか。

そんな気持ちで胸がいっぱいで、山吹さんの気持ちなんて考えやしなかった。

山吹さんは、どう思っているんだろう。

いくら自分から庇ってくれたとはいえ、流石に怒ってるんじゃないか。

あたしのせいなのに、お見舞いに来ないなんて、なんてやつだ_とも思っているかもしれない

そう思うと、もっと恐怖が増した。

何かの本の主人公なら、ここで行かなきゃ、となるのだろうか?

でも、現実はそう簡単じゃないということをあたしは知っている。
そんないきなり恐怖が消えるわけないのだ。

じゃあどうすればいい_?

・・・なんてその答えも知らない。

ごちゃごちゃ考えていても何も変わらないということもあたしは知っている。

だから、何も考えない。

これが、優勝だ。

あたしの頭の中で、ぱーん、という軽快なメロディーが流れ始める。

そっと目を閉じて瞼の裏の真っ黒な世界を見た後、あたしは立ち上がった。

何も考えない。

自分の気持ちも、相手の気持ちだって。
自分の思うがまに進む。

今はこれが正しい道だと思った。

立ち上がった後、右足、左足と動かしながら玄関の方へと向かう。

そしてドアに手をかけた_時、もちろん『あの人』が邪魔しないわけなかった。

「どこに行くの?・・・ひまりちゃん、ねえどこにも行かないわよね?」

またあたしの腕を力強くつかんで、甘ったるい声でそう聞いてくる母親。

_自分の、決めた道を

そう心の中で繰り返して、あたしは母親の方を振り返った。

「行くよ。外にね」

はっきりと、一言一句、間違いなくそういった。

するとみるみる母親の表情は怒りへと染まっていき、あたしの腕を思いっきり引っ張る。

腕に痛みが走ったが、それを気にする様子もなく母親はあたしを睨みつけた。

「ひまり・・・あんた、まだ懲りてないの⁉︎あんたのお母さんなのよ私は!お母さんのいうことを聞けないわけ⁉︎」

「・・・・・・・聞けるわけないじゃん」

「は?」

あたしのポツリと発した低い声に、母親が少し驚きの表情を見せる。

そんな母親に少し苛立ちを感じ、落ち着いて声を発した。

「あたしね、会いたい人がいるの。だから外に行きたいの」

乾いた低い声でも声は届いたのか、母親は絶句したように黙り込んでいる。

「・・あたしを愛しているなら・・・。あたしを産んだ母親ならさ・・・・」

お母さんはあたしを掴んでいる腕を力弱く放して、その先はいうなと言わんばかりにあたしに手を伸ばす。

「あたしのこと・・・」

その先を発しようとした時、頬に鋭い痛みが走った。

思わず手を頬に寄せる。

ゆっくり見上げると、母親が涙をこぼしながらあたしを叩い手を見つめていた。

「・・・お母さん」

その一言に、お母さんの顔が醜く歪む。
そしてその場に座り込むと、手で顔を覆った。

あたしもお母さんに近寄り、その隣に座り込む。

真っ白な天井を見つめながら、ぼんやりと口を開いた。

「お母さん、あたしね、」

少しためらって、また口を開く。

「お母さんは、どうして出ていっちゃったんだろうって思ってた。どうしてあたしの前にいつもいないんだろうって」

お母さんの体が、ピクリと反応する。
あたしはゆっくり瞼を閉じて、ゆっくりその続きを言った。

「でも家が散らかってることがあるから、お母さんは帰ってきたりはしてるんだなとも思ってた」

「机にお金を置いてくれてたり、してくれたよね。修学旅行とか、水泳の紙とか、そういうのも全部サインしてくれて、お金もちゃんと入れてくれてた」

真っ暗な瞼の裏でも、あたしはお母さんが大粒の涙を流していることがわかった。

嗚咽をもらして、あたしの話をゆっくりと聞いている。

「お母さんがあたしの前に現れないのは、あたしのことが嫌いだからっていうのはわかってた。でも、ちゃんとそういうことをやってくれたっていうのがね、すごく嬉しかったんだよ」

少し微笑んでから目を開けて、お母さんの手を握る。

「正直言って、お母さんはなんで今帰ってきたんだろう、って今でも疑問に思ってる。それに、外に出たらいけないっていうことも疑問」

乾いた笑いを漏らしてから、お母さんが握り返してくれた手を見つめる。

「これも正直言っちゃうけど、すごくムカついたんだよね。あたしのこと今まで育てなかったくせにーって。何が母親だよって思って、大嫌いって思った」

今でも、好きじゃないけど。

そのことは伏せて、あたしはぼやける視界の中母親を見つめた。

「ねえ。お母さんはさ、何があったの?」

お母さんが、あたしのことを見つめる。

「あたしが話したもん、今度はお母さんの番だよ」

また乾いた笑いを漏らしてから、ついに溢れてしまった涙をぬぐった。

お母さんはあたしの頬に落ちる涙を見つめながら自分の涙を拭う。
そしてまたゆっくりと見つめてから、口を開いたり閉じたりを繰り返す。

そして小さなため息をつくと、決心したように口を開いた。

「お母さんね、ひまりが大きくなった時、急に不安になったの」

掠れてはいるが、しっかりとした声があたしの心を揺さぶる。

「お父さんが、ひまりが3歳ぐらいの時に出ていったでしょう?その時は、私がちゃんと一人でこの子を守っていかないとって必死だった」

顔をふせ、次に出る言葉を探すように黙り込み、口を開いた。

「でも、気づいたの。私しかいないんだって。私の手でこの子の命は左右するんだって」

「・・・・そしたら、急に怖くなった。もう恐怖だったの」

少し震えた声でそう発するお母さんの手を、さらに握りしめる。

「あたしなんかが、この子を育てられるの?この子の命を握りしめてしまっていいの?・・・そう思って・・・」

家を、抜け出してしまった、

その言葉は、もう聞くまでもなかった。

ごめんなさい、と小さくつぶやくお母さんが、少し可哀想に思えてしまう。

お母さんも、不安にかられ、恐怖にかられ。
もう家を抜け出すしかできなかったんだろう。

どうして家を抜け出すことになるの、と今でも思ってしまうがそこは堪えることにする。

「家を出たら、ものすごい解放感があって。すごい楽だなって思っちゃって・・・・。する気もない、男遊びをしちゃったの」

あたしの手を握っていない方の手で、目元を拭う。

あたしは何もいえなくて、黙りながら話を聞いていた。

「それが止められなくなって、少しだけのはずだったのに家にも帰れなく・・ううん、家にも帰らなかった。・・・もう、この子は大丈夫だろうって勝手に思って、勝手に置いていって。・・・・本当に、私ってなんてことしちゃったんだろうね」

まるで独り言のように小さく呟き、また目尻を拭う。

「帰ってきたのはね、今まで男遊びをしてきたのが全部裏目に出て、元から私のメンタルなんてちっぽけなものだからすぐ壊れちゃって。・・・耐えられなくなったから家に帰ってきたの」

最後の方はもうかき消されてしまいそうな小さな声だった。

あたしは、ああ辛かったんだな、そうなんだな_なんて思えるはずがなかった。

なんて図々しい理由だろう
なんて見苦しい理由だろう

そんなことを、思ってしまった。

「ひまりのことを監視してしまったのは、この子だけでも、この子だけでも大切にしたい、そう思って・・・。私の前から離れないでほしかったの」

またごめんなさい、と呟きあたしの手を強く握る。

あたしは何か言うべきか迷い、でも今は自分の道を進む、と言うことを思い出し、口を開いた。

「・・・はっきり言う。あたし、今でもよくわからない」

それを言うと、お母さんの顔がぐしゃりと歪んだ。

「ごめんね。でも言わせて欲しいの。子供を育てるのが親っていうもので、子供を喜ばせるものが親っていうもので、子供がダメなことをしていたらちゃんと叱ってあげるのが親っていうもの・・・だと思うの、あたし」

お母さんのように顔を伏せ、ポツリぽつりと言葉を発していく。

「だからね、お母さんは、お母さんはあたしの親っていうものだから、だから・・・お母さんとさ、そういう親子みたいになりたかんだよ・・・」

顔を上げて、また溢れる涙を拭いもせずお母さんを見つめる。

気づけばお母さんもこっちを向いて、あたしを呆然と見つめていた。

「お母さん、ねえお母さん・・・。今からでも、遅くないと思うんだよ。あたしたち、まだ『親子』になれると思うんだよ」

もう震えてしまう声を隠すことなく、お母さんの瞳を見つめ続けていく。

お母さんはそんなあたしにさらに顔を歪ませて、あたしの体を包み込んだ。

「ごめんね、ごめんね・・・」

お母さんのきつい香水があたしの鼻を刺激するも、今度はその香水が愛らしいものに見える気がする。

「・・・お母さんのこと、許してくれる?」

か弱いような、心細いような、小さな声だった。

「・・・さー?どーだか」

あたしはわざとらしくニヤリとした表情をつくって、ふざけた声で言葉を発してみる。

あたしがふざけていることを察したのか、あたしを包み込んでいた体をはなしてお母さんもわざとらしくニヤリと笑った。

「あら、じゃあどうやったら許してくれるわけ?」

初めて見たお母さんのふざけている様子に少し心が躍るも、あたしはまたニヤリと笑って冷静に口を開いた。

「・・・もう一度、また『親子』になったら、かな?」

「・・・」

それにお母さんは少し黙り込むも、少し微笑んでからまた口を開く。

「・・・なるって言ったらどう?」

「もうこの時点でなってるよ」

「じゃあ許してくれた?」

「どうだと思う?」

「・・・あんたね」

「あはは、うそだよ!ね、怒んないで!」

鬼になっていくお母さんの表情を見ながら、あたしは弾けた笑いをもらして降参の手を出す。

こんなにお母さんと楽しく喋れたのは、いつぶりなんだろう。
もう10年ぶりくらいかもしれない。

あたしがそんな考えにおちいっていると、お母さんは急に真面目な顔になった。

「・・・ひまり」

凛とした真面目な声に、少し体を反応させる。

あたしも真面目な顔をし母親に向き合った。

「今まで、ごめんね」

そんな、か弱い声。

驚くほど小さな声に、思わず耳を疑った。

「これからも、よろしくお願いします・・・って、言ってもいい?」

悲しそうな瞳を揺らし、お母さんはそういった。

心臓がどきりと音をたて、やけに静かなこの部屋が緊張感を高くする。

少し微笑んで、口を開いたり開かなかったりを繰り返した。

あたしは、この人のことを信用してしまっていいのか。
一度おいていったこの人を。

そんな灰色の思いが口を邪魔し、何もいえない状態におちいってしまった。

お母さんがそんなあたしを凛と見つめて、また口を開く。

「お母さんね、これからはひまりのことちゃんと育てていきたいって思ってる。そりゃあ一度置いて行ったやつなんて信用できないでしょうけど・・・。ひまりと・・・うん、ひまりと親子でありたいって思ってる。この気持ちだけは本当」

涙を含ませた声でそういい、あたしに手を差し伸べた。

あたしはというと、まるで海のように真っ暗で苦しくて退屈な場所を漂っているようだった。

あたしは_

どうしたい?
何がしたい?

その疑問。
溢れて溢れてなくならない疑問。

お母さんなんて、はっきりいって大嫌いだ。

あたしを

最後まで育てずに置いていって。
自分勝手でありながら急に帰ってきて。
あたしに意味のわからない言葉を突きつけて。

数えきれない怒りと悲しみと憎しみに溢れている。

でもその分。

お母さんが帰ってきた時。

あたしは

嬉しかったんじゃないか?

恐怖の裏側で、『お母さん』という姿を見ることができたことに。

話せたことに。

絶対に信用なんてしたくない

でも

大事なのは

『過去』じゃなくて『今』なんだ。

あたしは、今、今この瞬間を生きている。

あたしがしたいがまに。
あたしという自分自身の存在を信じて。

あたしは、あたしは・・・・

「これから・・・うん、これから、よろしくお願いします・・・」

引っ込んでいた涙がまた溢れ出す。

お母さんは目を見開いてから、あたしをまたぎゅっと抱きしめた。

「今までごめん、本当にごめん・・・。こんなお母さんを許してくれてありがろう・・・。これからもよろしくお願いします・・・」

泣きながら必死に言葉を繋ぐお母さんの胸に、顔をうずめる。

「お母さん、お母さん・・・」

曇った声で、小さな声で、ただそう呟き続けた。