気が付くと、わたしはコインランドリーに居た。
人の居ない空間、仄かに香る洗剤や柔軟剤の香り、電源の入った機械特有の小さな音、四角い空間に詰め込まれた、幾つもの箱とつやつやの丸い扉。
何年も前、一人暮らしの頃お世話になった近所の手狭で薄暗いコインランドリーよりも、ここは幾分明るく内装も綺麗で、白い壁と天井は清潔感があり、機械が並ぶ空間において、木の椅子はどこか温もりを感じる。
しかしわたしは、何故ここに居るのかを思い出せなかった。
片手には恐らく洗濯機を使うためのコイン、もう片手には、娘の美衣のお気に入りの白いワンピース。
けれどその白は、今や見る影もなくすっかり土やら砂で汚れてしまっている。ぱっと見では元が白だと分からないくらいだ。これは果たして普通の洗濯で落ちるだろうか。
「よくわかんないけど……とりあえず洗うか。お気に入りが汚れてたら、あの子泣いちゃうもんね」
まだまだやんちゃな年頃の娘は、白なんてすぐに汚すくせに、それでもお気に入りだと言って毎日着たがるのだ。
お陰でこのワンピースだけ異様に洗濯回数が多い。生地の傷みやほつれが気になったけれど、何を言っても聞かないのだから仕方ない。
わたしは数年ぶりの家の洗濯機ではない機械に僅かな高揚感を抱きながら、扉を開け、そのワンピースを一番小さなドラム式洗濯機に入れる。
一枚だけ洗うのも何だか勿体ない気がしたけれど、何しろ今のわたしは手ぶらなのだ。申し訳程度に羽織っていたカーディガンを脱ごうとして、ぎょっとして手が止まる。
「えっ、なんでわたしまでこんな汚れてるの!?」
美衣のワンピースに負けず劣らず、すっかり汚れてしまっているアイボリーのわたしのカーディガン。それに、良く見るズボンや靴も汚れていた。
泥んこの美衣を抱き上げたりしたのだろうか。
それにしては、目に見える範囲の服は汚れていない。美衣を抱いたなら、胸や腹が真っ先に汚れるはずなのに。
「本当になんで……?」
全くもってわからない。ここまで来ても尚、今に至るまでの記憶がないことに戸惑う。
記憶を辿ろうと努力しつつ、とりあえず置いてあったアロマのような香りが心地好い洗剤と柔軟剤を使って、二枚を一緒に洗濯することにした。
やがて二枚が洗濯機の中くるくる回りだしたのを確認して、わたしはようやく一息吐く。
家事に育児にパートで、目まぐるしい日々の中、こんなに静かなのはいつ以来だろう。……というか、今更ながら静かすぎやしないか。洗濯機の稼働音しか聞こえない。
やけに気になって外に出ようとするけれど、ガラス張りの扉の向こうは、光一つなく真っ暗だった。
「え、何……夜……?」
夜にしたって、もう少し明かりなり人の気配なりあるだろう。それが、見渡す限り一面の闇。物音ひとつしない。
思わず扉を閉めて、コインランドリーに引きこもる。
一度回し始めた以上、洗濯が終わるまではここに居よう。
もしかすると、今が一番暗い夜明け前で、終わる頃には朝になるかもしれない。
押し寄せる不安と戸惑いと焦燥の中、何とかそんな希望的観測をもって、わたしは木の椅子に腰掛け洗濯機の窓から回る二つの衣類を眺めるしか出来ない。
四角い機械の箱の中、白く泡立ち、回り、揉まれて、洗われ、汚れが少しずつ落ちていく。
ふと、くるくる回るワンピースとカーディガンに、既視感を覚えた。
美衣を抱き締めて、二人揃ってごろごろと地面を転がるわたし。
そして、わたしを泣きながら呼ぶ、美衣の悲痛な声。
「痛……っ!?」
いつの間に擦りむいたのだろう、手や腕が急に痛み始める。
驚いて確認するけれど、手の外側に傷口はあるのに、血は出ていなかった。
やはりおかしなことばかりだ。思い出そうとしても、記憶に靄がかかっているような、何とも言えないもどかしい感覚。
そんな中、ぼんやりと見詰めていた洗濯機の艶々の窓に、不意に美衣の姿が映っているのに気付く。
「……え」
驚いて身を乗り出して、思わず目を擦る。その洗濯扉の丸い窓には、まるで望遠鏡かスクリーンのように、白くなりかけの衣類と洗濯泡を背景にして見覚えのある映像が流れていたのだ。
わたしを見下ろす若い両親の顔、好きだった幼稚園の先生、よく遊んだ公園、学生時代の制服を着た友達、一人暮らしをしていた頃の狭いアパート、彼氏だった頃の頼りない旦那、純白のドレスを着た結婚式。
記憶に残る場面が、断片的に次々と映し出される。
「何なの、これ……」
「おや、もう始めていたんですね」
「……!?」
突然近くから声が聞こえて、反射的に振り返る。
洗濯扉の映像に集中していたとはいえ、この静かで狭い空間で、誰かが入ってきて気付かないはずがない。
わたしのすぐ隣、いつの間にか佇んでいた見知らぬ黒いスーツ姿の男は人好きのする笑みを浮かべ、洗濯機を食い入るように見詰めるわたしを見下ろしていた。
そして恭しく、胸に手を当てて頭を下げる。
「ああ、申し遅れました。俺は魂の案内人。死神やら天使やら……まあ呼び名は御自由に。そしてそちらは、白城舞衣様、あなたの走馬灯になります」
「……は? いや、待って、色々突っ込みたいけど……走馬灯!? 洗濯機が!?」
「はい、走馬灯の上映会場はその方の未練で決まるので……ふむ、コインランドリーですか。あなたの未練は、洗濯に関わることだったんですね」
訳がわからないことが増えた。
それなのに、やけにしっくり来てしまう。
覚えのない傷、普通にしていたんじゃ中々ない全身汚れた服、記憶にないここまでの経路。
そして洗濯機の窓に映される光景はすべて、間違いなく『わたしの視点』なのだ。
「わたし、本当に死んだの……?」
「ご理解が早くて助かります」
「そんな、どうして……」
「ええと、死因につきましては『事故死』となっていますね。どうやら、歩道橋で足を踏み外した娘さんを庇ってお亡くなりに……」
「……っ! 美衣は、美衣は無事なの!?」
「ええ、美衣さんは軽い怪我のみで、命に別状はありませんよ」
「……良かった」
「ご自分の命をなげうってでも娘さんを守るなんて、いやはや、母親の鑑ですね」
歩道橋、足を踏み外す、転落。
スーツの男の言葉に、朧気に思い出した。先程既視感のあったくるくると回る洗濯物と、わたしの最期の姿が重なる。
美衣を抱き締めて、階段を転げ落ちて、服も泥だらけ。回る世界と痛みの中、わたしを呼んで泣く美衣の声を聞きながら、意識を失った。
そして気付けば、このけったいな場所に居たのだ。
「あー、そっか、うん。……ていうか、わたしの未練が洗濯って言った?」
「ええ、未練と言っても日頃からの悲願などではなく、最期の瞬間『こうしとけばよかった』みたいなふと浮かんだ心残りですね」
「それが未練なの?」
「ええ、悲願を一々叶えていたら、それこそ世界は死者によってめちゃくちゃにされてしまいますので」
「……っ、あはは。成る程、そっか、それで洗濯」
現実味のない状況で、やけに納得してしまい、思わず笑いが込み上げる。そうだ、全部思い出した。
事切れる間際に思ったことが、土とわたしの血で汚れた美衣のワンピースを綺麗にしてあげなくちゃ、なんて。我ながらいい母親なのではないか。
「あーあ、わたしが死んだら美衣、泣くだろうなぁ。もっと……一緒に居たかったな……パパは、ちゃんと洗濯機使えるかな。……二人でこれから、頑張っていけるかな」
咄嗟の未練が洗濯だったとして、自覚して思い浮かぶ後悔や願いは尽きることはない。
けれど案内人の彼は、わたしの涙の気配を遮って淡々と告げる。
「遺された方のアフターフォローは専門外ですので、俺からは何とも」
「……、ちょっと、そこは嘘でも『大丈夫ですよ』とか言うところでしょ。わたしが死にたくないとか暴れだしたらどうするの」
「そう言われましても……暴れられても死は確定事項ですし、案内人が嘘つきでは信用を失いますので」
彼はやれやれと肩を竦め、手振りを交えて首を振る、仕草が一々仰々しい。真面目なのか何なのか。
お陰で泣き笑いになってしまった不格好な表情も、誤魔化す気が失せた。
「ねえ、案内人さん」
「何でしょう」
「洗濯が終わったら、これ、お願いしてもいい? 未練なんだから、解消してこそでしょ」
「……承りました。死後の魂のアフターフォローは、俺の専門ですので」
*****
やがて洗濯が終わり、すっかり白くなったワンピースとカーディガンを、普段使わない乾燥機に入れる。
生地の傷みや解れは、何度も着て、汚して、洗ってを繰り返した、日々の積み重ねの愛情の証。
もうこれが最後なのだと、ワンピース達が乾いていくのに比例して、わたしの顔面は色んな液体でぐちゃぐちゃだ。
案内人はそんなわたしの顔を見ても茶化すことも呆れることもせず、一緒に椅子に座りながら、今度は乾燥機に映し出される映像を眺める。
いつもなら早く終われと思うばかりの洗濯の待ち時間が、いつまでも終わって欲しくないとさえ思う。
けれど何事にも、いつか終わりは来るものだ。乾燥機の中、水気の飛んだ二つの衣類は、最後にふわりと白い羽根のように舞って、やがて完全に停止した。
腫れてすっかり重たい目蓋を抉じ開けて見た走馬灯の最後には、もう会うことの叶わない、柔らかく愛しい家族の笑顔が映し出されていた。
*****
「……あれ? ねえパパー、みいのワンピース、よごれちゃってたのにきれいになってる! ママのカーディガンも!」
葬儀を済ませ、深い溜め息と共に慣れない喪服を脱ぐ最中。娘の美衣が、部屋の隅でお気に入りのワンピースが元通り白くなっているのに気付き、僕の元へと運んでくる。
ワンピースもカーディガンも、二人が事故の時に着ていたものだ。
辛い気持ちにはなれど捨てる気にもなれず、すっかり汚れていたものの、血や土が付いていて綺麗に落とせる自信がないそれらは、諸々落ち着いたらクリーニングに出そうと考えていた。
「いつの間に……? 母さんがやってくれたのかな……」
「ちがうよ、ばあばじゃない! みいのワンピースをあらうのは、ママだけだもん!」
「美衣……」
まだ幼い娘は、母親が居なくなったことを、どれだけ理解しているのだろう。
軽い擦り傷だけ残った腕でワンピースとカーディガンを必死に抱く姿に、思わず胸が締め付けられる。
「美衣、あのな……ママは……」
「あれ……いいにおいがする。……パパ、これ、ママが天国でおせんたくしてくれたのかな?」
「……っ! そうかも、しれないな……」
しばらくして、そのまま白い衣を抱いて眠ってしまった娘を、起こさぬようにそっと抱き締める。
その柔らかな香りが消えてしまわぬ内に、僕は胸の奥まで深く深く吸い込んだ。