いたい。
夢の中で、知らない人の大きな掌が私の頬やおでこを直撃し、ヒリヒリと熱を運ぶ。あまりにリアルな感触に、思わず顔を歪めた。目が覚めると、それが夢だということに安心する前に、びっしょりと汗をかいていることを知って心臓が暴れている。
「うた葉、起きたなら早く朝ご飯食べなさい」
部屋の外から母親が私を呼んでいる。まだ朝の6時半だというのに、母の仕事が始まるのが早く、私もそれに合わせて早起きしなければならない。
「んー」
私には父親がいない。
物心がついたときにはもう母子家庭だった。家族の思い出は小さい頃母と公園やスーパーに行ったことくらい。
小さい頃はそれでも良かったのだが、歳を重ねるにつれ、よその家とは違う単調で退屈な生活に嫌気が差してきた。
おまけに最近、母親は私の進路のことで口うるさくなっている。
まだ中2だというのに、どこそこの塾がいいとか、友達から情報をもらいなさい、とか。
お金がないと口癖のように言っているはずなのに、そういうことにはお金を使おうとする母が疎ましく、必要なとき以外は母と会うのを避けるようになった。
私と母の間には次第に距離ができていった。
「行ってきます」
バタバタと化粧をし鞄を引っ掴んで仕事に出かけていく母を見て、私は食パンをくわえたままため息をついた。

こんな生活、いつまで続くんだろう。
高校に行ったらもう少し気が楽になるんだろうか。
そもそも私、高校には行くべきなんだろうか。
あんなに身を粉にして働いて私なんかが進学するためのお金を稼ぐだけの母の人生が、なんだかかわいそうに思えて仕方がなかった。
「あれ、今日もいない」
学校へと続く道で、私は毎朝近所の河川敷公園に寄っていた。
お目当ては“くるり”に会うことだ。
くるりは、河川敷公園に住み着いている猫。私が名前をつけた。目がくりくりしていて可愛かったからだ。くるりに出会ったのはもう5年前のこと。
小学生だった私は、いつになく帰りの遅い母を待ちくたびれて、その辺を散歩しようと思い立った。途中、雨がしとしとと降ってきて、夏場だというのに頬や腕に触れる水がいやに冷たかったのを覚えている。
さすがに雨の中うろうろするのも憚られ、雨脚が酷くなるまでに帰ろうと思っていた。
そんなとき、どこからともなく「ミィ」と猫が鳴く声が聞こえてきたのだ。
鳴き声のする場所を辿ると、近所の公園でダンボールに捨てられている子猫を見つけた。
その猫は、銀の毛並みに端正な顔立ちをしたイケメン子猫だった。猫に「端正な顔立ち」などという表現を使うのはおかしいのかもしれないが、初めて見た時に実際そう思ったのだから仕方ない。
ダンボールの中で「ミィ」とすがるように鳴く彼は、毛が汚れてしまい、せっかくの銀色の毛並みが台無しになっていた。
動物を飼ったことのない私は、どうしたら良いか分からず、とりあえず段ボールごと抱えて家に連れて帰ることにした。
うちはボロアパートで動物を飼ってはいけないマンションだった。
「ごめんね、ウチじゃ飼えないから」
せめてもの慈悲として、子猫にミルクをあげ、身体を洗ってあげた。押入れから捨てる予定だったダンボール、タンスから私の使っている水色の大きめのハンカチを引っ張り出す。再び子猫を抱え、外に出た。幸い雨は本降りにはならずに止んだらしく、先ほどの公園で新しいダンボールにハンカチを敷き、その中に子猫を置いた。
「目がくりくりしてるから、あなたの名前は“くるり”ね」
我ながら小学生らしいネーミングセンスだと思う。しかし、見たまんまの名前をくるりは気に入ってくれたのか、大きな瞳をくるりと回転させ、ニッと笑ったように見えた。

それからというもの、学校にいく前にくるりのところへ行くのが日課になった。
子猫時代は家からこっそり持ってきたミルクをあげていたが、大人になると自分で餌を調達できるようになったのでミルクは持ってこなくて済んだ。
いつのまにか、私があげた水色ハンカチはなくなっていてダンボールはボロボロになったが、くるりが元気に生きてくれているだけで、私は嬉しかった。

そんなくるりの姿がここ最近見えない。
数日前に激しい雨が降ってから、彼の姿が見えなくなった。
5年間、くるりがいなくなるなんてことは一度もなかった。時々公園にいないこともあったが、餌を捕まえに行っているだけで、次の日には戻っていることがほとんどだ。
くるりがいないと知った私は諦めて公園を後にする。
学校が始まる前だから、あまり長く寄り道することはできなかった。



「片岡さん、“地域調べ発表”の準備やっといてくれる?」
その日の掃除の時間、担当している階段の拭き掃除をしていると同じ班の三浦さんの声が頭上から降ってきた。彼女は箒を踊り場の隅に立てかけて、腕組みをして窓のある壁に寄りかかっていた。隣には彼女の取り巻きである女子が二人、怪しげな笑みを浮かべている。
「え、それって班でやるものなんじゃ……」
“地域調べ発表”とは最近5教科以外の特別授業で行っているグループ研究発表のことだ。
私たちの住んでいる地域にまつわることを題材に取り上げ、大きな模造紙にまとめて発表するというもの。いわば自由研究のようなものだ。
調べ物だけでもかなりの量になり大変なのに、一人でなんて絶対にできるはずがない。
しかし同じ班の三浦さんはクラスの中でカースト上位に属するキラキラ系女子で、私なんかよりも権力がずっと上だ。
「いいでしょ。あたしらは放課後カラオケで忙しーの。あんたは友達いないでしょ? どうせ一人で暇なんだからそれぐらいいいじゃない」
「でも」
悔しいことに、三浦さんの言う通り私には放課後に一緒に遊ぶ友達がいない。
どういうわけかクラスには派手な女子が多く、私みたいに社交的でくて髪の毛の手入れもままならないような女子は誰にも必要とされていない。授業で二人組を組めと言われたら、15人の女子の中であぶれるのはいつも私だ。
「何? なんか文句あるの?」
「それは……」
ギロリと鋭い目で私を睨みつける三浦さんを見ると、私はとたんに返事ができなくなる。本当は抗議したいことばかりなのに。
どうして私が一人でグループ発表の準備をしなければならないの。
どうして私が放課後暇だって決めつけるの。
どうして私には何を言っても許されると思っているの。
口にしたい言葉たちは、しかしいつも決してカタチになることなく、腹の底の、一番深い場所にまで沈んでしまう。
言いたいことを言えない性格をどうにか変えたいと思うものの、これまで一度も自分の本当の気持ちを誰かに伝えたことはなかった。母親にさえも、気持ちは通じずすれ違ったまま。
そんな時はいつもくるりに本音を漏らすことでストレスを解消していたのに。
くるりさえも、私の前からいなくなって。
これから私はどうして生きていけばいいのだろうか。



三浦さんに言われるがまま、その日の放課後に二時間ほど調べ物をした。図書館で蔵書検索をかけ、地域の伝統行事とか工芸品とか、あとは地理的な特徴がないか調べた。まだ題材すらも絞れておらず、疲れがたまる一方だ。
これ以上粘っても埒が明かないと思い、ひとまず今日の作業は終えることに。第一お腹も空いてあまり頭が回らなかった。
荷物をまとめて学校を出る。私の家は学校から徒歩20分のところにある一軒家だ。そのまままっすぐ帰ろうと思ったのだが、気づいたらくるりがいた河川敷公園に立ち寄っていた。
私は河原の土手に寝そべって何も考えず、時が経つのをただひたすら待った。そうしていれば、憂鬱な出来事に心を乱されずに済むと思ったのだ。
空が茜色に染まっている。梅雨明けの時期なので、だいぶ日は長くなった。あと一時間くらいは明るいはずだ。
草木が揺れる音や風の音を聞きながら、ゆっくりと目を瞑る。意識を遠くへと飛ばして、悩み事を考えないように努める。
次第に眠気が襲ってきて、気がつけば私の意識は途切れていた。
……。
………。
…………。
「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」
「わっ!」
突然誰かに肩をつつかれて、私ははっと目を覚ました。
目に飛び込んできたのは茜色の空ではなく、上から私の顔を覗き込む見知らぬ少年の顔だった。
「ごめんなさいっ」
寝顔を見られたという羞恥と、知らない少年に起こされたという驚きが入り混じり、私は勢いよく身体を起こすとなぜか少年に謝っていた。
「いや謝らなくてもいいけど。風邪ひきそうだから大丈夫かなって」
「だ、大丈夫。夏だし……」
面識のない私を心配してくれる少年の気持ちがまったく分からない。
とにかくこんなところで寝顔を晒してごめんなさいという気持ちで足早にその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待って」
「なんですか?」
「もし時間があるなら、少し話さない?」
「話すって、誰と?」
「僕と」
自分の鼻の頭を指差して、にっこりと彼は笑う。そこでようやく夢から覚めて視界も頭もはっきりとしてきた私は、彼の全身を見た。
見たところ私と同じくらいの歳だろうか。Tシャツに半パンという、中学生男子によくあるいでたちをしている。肌の色は白くて、思わず自分の腕の色と比べてしまった。一番印象的だったのは目だ。大きな目に、はっきりとした二重。その目で見つめられると彼の提案を断れそうになかった。
「いいですけど、あんまり時間ないです」
「ははっ。そうだよね。その制服、中学生みたいだし」
嘘だった。お母さんはいつも帰りが夜遅いのでそこまで早く帰る必要なはない。でも初対面の男の子とそんなに長く話していられないという思いから冷たい台詞が口から漏れていた。
しかし私のぞんざいなもの言いも、臆することなく彼は笑って流してくれた。
「あなたは、高校生?」
本当は同い年くらいだと思っていたのだが、こういう時はなんとなく「年上に見える」と伝えた方がいいのかと思って訊いた。
「いや、中学生——みたいなもん」
「みたいなもんって」
「まああまり深く考えないでよ。ほとんど同い年ぐらいだって思ってくれたらいいから」
「……」
彼が身分をごまかすのには、相応の事情があるのだろう。たとえば、不登校で学校に行けていないとか。お金がなくて学校に行けていないとか。いや、でも中学生なら義務教育だし、後者は違うのかな。それならやっぱり不登校? それにしては愛想がいいし、人間関係に悩むような人には見えないけれど。
どちらにせよ彼が言わないことに深く追及するのはよくない。
こちらだけ身分がバレて不公平だとは思ったけれど、悪い人じゃなさそうだし、学校でのもやもやした気分を発散するのに彼と少しだけ話しても構わないと感じた。
「きみ、名前は?」
「……うた葉」
一瞬、フルネームを答えようかと迷った。でも彼とは今日きりの関係だろうし、わざわざ個人情報を晒すことはないと思い名前だけにした。
「うた葉、可愛い名前だね」
「な……!」
可愛いなんて、たとえ名前に対してだとしても普通はそんなにすらすらと出てこない。もしかしてこの男、相当人たらしなんじゃ……。
そんな私の動揺もおかまいなしに、彼は続けた。
「僕の名前は巡(めぐる)
「巡……めずらしい名前だね」
「そうだね。大切な人がつけてくれたんだ」
なぜか巡は目を細めて昔を懐かしむように言う。
「大切な人って、お母さんじゃなくて?」
「ああ。僕のお母さんは僕を産んですぐ死んじゃったから」
「……なんかごめん」
わざとではないにしろ、彼にとっては聞かれたくないであろうことを話させてしまい申し訳なくて俯いた。
「いやいいよ。お母さんの記憶はほとんどないんだし」
「じゃあ、今はお父さんと二人暮らしなの?」
「そうだね。まあそんな感じかな」
「へえ」
私の周りにも片親の子はいるけれど、あまり話したことがない子だ。友達、とすら呼べない関係。というか、私には友達という存在がいない。言葉にするとなんだかとても悲しいけれど事実だ。私は教室で仲間外れにされ、家では仕事に忙しくカリカリとしているお母さんと二人きり。唯一心を通わせていた猫のくるりも姿を消してしまった。
だから私は今、どうしようもなくひとりぼっちだ。
「うた葉、どうかした?」
「ううん。なんか、こういうの久しぶりだなぁって」
「久しぶり? 人と話すのが?」
「うん。私、友達少ないから」
「いない」というのにプライドが邪魔をして「少ない」と答えてしまう自分に嫌気が差す。
巡は、なるほどと顎に手を当てる。反応しづらいネガティブ発言をした申し訳なさに、穴に潜りたくなった。
「でもそれなら、僕が友達になっても怒らないってこと?」
「え?」
友達になっても怒らない……て。
そんなの当たり前じゃないか、という気持ちと、今会ったばかりの人に友達と言われるこそばゆさが相まって私はなんと答えたらいいのか分からなくなった。
「混乱させてごめん。僕も友達を探してるんだ。よかったら僕たち友達にならない?」
「……べつに、いいけど」
ぶっきらぼうな返答をしたものの、心の底ではすごく嬉しくて舞い上がりたかった。
友達ができるなんて、いつぶりだろう。
幼稚園や小学生の頃は一人、二人友達がいたけれど私立の中学校に行ってしまって、中学に上がってからはまともに友達ができてない。
だから、およそ2年ぶりにできた友達という存在に、心が踊っていた。
「うた葉はいつもここに来るの?」
「うん。でもいつもは朝しか来ない。放課後に来たのは久しぶりかも」
「そっか。朝に来るのは何か理由があるの? 散歩とか?」
「ううん。この間までここに猫が住んでて、その子に会いに」
いなくなったくるりのことを思い出し、自然に涙が溢れそうになるのをぐっと堪える。急に泣き出したら巡だって心配するだろう。第一、初対面の男の子の前で泣くなんて、プライドが許さなかった。
私は制服の袖でゴシゴシと目元を擦る。袖は少し濡れてしまったが、彼には見られずに済んだようだ。
「猫か。きっと可愛いだろうね」
「可愛いよ。目がくるくるしてたから、“くるり”って呼んでた」
「ははっ、そのままじゃないか」
「だって呼びやすいし、覚えやすいじゃん」
「なるほどね。うた葉って素直で可愛い」
……また、さらっと可愛いなんて言ってくる巡の方を私は直視できない。
きっとこの人はここで何人もの女の子を口説き、愛想を振りまいてきたんだ。
そうでなければ会ったばかりの私に甘い言葉をかけられるわけがない。
「巡は? 普段からよくここに来る?」
「来るよ。僕はここから見える景色が好きだから。あと、ここにいればあの人に会えるような気がして」
「あの人って?」
「それは、内緒」
彼は憂いのにじむ眼差しで川の向こうに沈む夕日を眺めていた。彼が会いたいと願う人って、一体誰なんだろう。友達になったばかりの人に、そんな大事なことを教えるわけないよね。でも、このまま彼と仲良くなったら、もしかして彼の秘密を知ることができるかもしれない。
出会ったばかりだというのに、私は巡のことをたくさん知りたいと思うようになっていた。
彼といると不思議なくらい、素直に心の内を話せるような気がしたから。



それからというもの、私は毎日放課後に河川敷公園に寄り道をし、彼と話をした。彼は私を待ってくれているのか、私をみつけると淡く微笑んで迎えてくれる。その笑顔が嬉しくて、学校であった嫌なことを全部忘れてしまっていた。くるりがいなくなった今、私にとっては巡だけが大切な友達だった。
「うた葉って、なんでいつもここに来るの?」
「だって巡と話したいから」
「それは嬉しいな。でも、家に帰らなくていいの」
「……いい。だってお母さん、私のことなんてどうでもいいんだもの」
「そんなことはないと思うけどなぁ。まあ僕もうた葉と話せて嬉しいから来てくれるのはありがたいけど」
巡はいつも私の話を親身になって聞いてくれる。学校で今日も一人ぼっちだったとか、お母さんと喧嘩したとか、くるりのこととか、なんでも。
私は彼になら心のうちを全て話すことができるのだ。
そんな巡と話をしていると、私は気持ちが落ち着いていき、学校や家での嫌なことを忘れられた。
巡は私にとって王子様みたいな存在だった。

「片岡さんって、最近河川敷公園で逢引きしてるんだって?」
三浦さんが私にニタニタと笑いかけてきたのは巡に出会って二週間が経った頃だった。毎日のように巡と話しているので、クラスメイトの誰かに目撃されるのは仕方のないことだ。
「そんなんじゃないよ」
「うわ、否定するってことはやっぱり知られたくないんだー。友達いないくせに、外で男といちゃいちゃするなんて気持ち悪い」
「……ほっといてよ」
これ以上私をいじっても面白くないと判断したのか、三浦さんはフンと鼻を鳴らして去っていった。
どうして私のやることなすことにケチつけられなきゃいけないんだろう……。
それに、「気持ち悪い」という言葉に、ショックを受けなかったいえば嘘になる。今までもハブられたり仕事を押し付けられたりしてきたけれど、これほどの言葉のナイフを突きつけられたのは初めてだった。
「うう……」
友達がいなくても真面目な生徒のふりをしていれば、なんとか学校生活もやっていけると思っていた。でも、私はたった一言の嫌味だけでこんなにも心が折れそうになっている。
その日、私は「気分が悪い」と嘘をついて学校を早退した。

昼過ぎに学校を出て河川敷公園に向かったものの、まだ巡の姿は見えなかった。それもそうだろう。彼だって学校に行っているだろうから、放課後の時間にならないときっと現れない。諦めて、河川敷に寝そべる。そうしていれば、いつかと同じように巡が声をかけてくれるような気がした。
「うた葉、こんなところでなにしてるの!?」
金切り声がしてはっと身体を起こす。後ろを振り返ると、鬼の形相をしたお母さんが信じられないという眼差しで私を見ていた。
「お母さん……」
「今学校の時間よね。あなた、まさかサボってるの?」
「お母さんこそ、仕事は……」
「今日は早上がりだったのよ。家に帰る途中であなたの姿が見えたから慌てて来たら……どうしてこんなところにいるの!」
「……お腹が痛かったから早退した」
「は? それなら家で休んでればいいでしょ。こんなところに寝そべって、何かあったらどうするのよ」
「何もないよ。ただぼうっとしてるだけなんだし」
「あんたねえ、私がどれだけ心配——」
「ああもうっ、うるさい! ほっといてよ! お母さんはいつも仕事仕事って、私のことなんてどうでもいいくせにっ!」
あまりに母がしつこいものだから、カッとなった私は大声を上げていた。
すると、母の顔がみるみるうちに曇っていく。やってしまった、と思った。でも、気づいたときにはもう遅く、母は「そう」とだけ呟いて家に帰っていく。私も私で、素直に家に帰ることができずに家とは反対方向に河原を走った。
途中、雨が降り出して全身に冷たい水が打ちつける。最初は弱い雨だったけれど、どんどん本降りになり、雷が鳴った。ドン、とどこかに落ちる音がして身を竦めた。けれど、それでも止まることのできない私は走る。遠くへいきたい。母のいないところへ。クラスメイトのいないところへ。
一心不乱に走っているうちに、風が強く吹き荒び、私は土手から転げ落ちた。
「いたい」
いつかの夢と同じように、全身に痛みが走り、泥だらけになった。川辺まで落ちた私は、自分の力で起き上がることができない。
雨が、余計に酷く顔面を刺す。見上げた空は飲み込まれてしまいそうなほど暗く厚い雲で覆われていた。川の水位がどんどん高くなり、澄んでいた水は濁流になる。あと数分もしたら川辺に溢れ、私は川の流れにさらわれてしまう——。
「私、死ぬのかな」
本気でそう思ったのは初めてだ。自分の身が危機に瀕しているにもかかわらず、全身が凍りついたように動かない。ああ、ダメだ。もう私、巡に会うことはできない——。
最後に頭をよぎったのが彼の優しい表情や口調だ。会いたい人がいると言って切なげな表情を浮かべていた。彼はもう、会いたい人に会えたんだろうか。
震えと涙が止まらない私だったが、力尽きていよいよ諦めた。だらりと腕を伸ばし、大地と共に溶けて流さる。そんな覚悟を決めた。
「うた葉っ!」
鋭い声が聞こえ、ピクリと身体が震える。でも、その声のする方に顔を向ける力もなく、宙を見つめたままじっとしていた。
「うた葉、うた葉……!」
ザ、ザ、と音がしてその人は現れた。私の頭を抱き、胸に引き寄せる。ああ、あの人の匂いがする——とこんなときに呑気なことを思った。
「……めぐる」
目の前に、いちばん会いたかった人の顔がある。
ごめんね、巡。
私は、あなたが会いたがっていた人ではない。本当はもっと抱きしめたい相手がいるんじゃないだろうか。それなのに、あなたの貴重な時間を私なんかのために使わせてしまったごめん。
「うた葉、生きてる……よかった」
彼はそう一言呟くと、ポケットから水色のハンカチを取り出して私の頬を拭った。
そのハンカチを見て、私は息が止まりそうになった。
なぜなら、彼の手にしたそのハンカチが、私が昔くるりにあげたものとそっくりだったからだ。
ううん、そっくりなんじゃない。
私があげた水色のハンカチそのものだ(・・・・・・・・・・・・・・)
「それ、どうしたの……?」
「これ? これは……僕が昔、大事な人にもらったんだ」
「……どういう意味」
彼の言うことが半分も理解できない私は、寒さでぼうっとする頭を必死に動かしていた。
大事な人にもらった?
それって、巡が会いたがっていた人のこと?
でもそのハンカチは、私がくるりのためにずっと前に使ったもので。
どうしてそのハンカチを彼が持っているというのだろう——。
「昔、きみにもらったんだよ」
「な——」
突如ぶわっと、巡は目から涙を溢れさせる。それが雨水でないことはすぐに分かった。
「僕は、くるりなんだ」
「なんで……?」
彼は一体何を言っているんだろう。
理解が追いつかない。くるりは猫だ。人間じゃない。だけど、涙を流す巡は嘘をついているようには見えなかった。
「信じられないと思うけど、僕はくるりで、一ヶ月前に川に足を滑らせて流された。雨が強い日で、そのまま溺れてしまって……」
「そんな、こと」
信じられない。
と口にしかけてやめた。
信じてもらえないかもしれない、と彼が不安になっていると分かったからだ。
それに、彼の持っている水色のハンカチが、彼の話を真実だと裏付けているような気がした。
「僕はずっとうた葉に会いたかった。ありがとうって言いたかった。僕、うた葉に見つけられる前はひどい人間に飼われていて、毎日頬や頭を殴られてたんだ。最後には捨てられて、お腹が空いてもうダメだと思った。そんな時、きみが見つけてくれたんだ」
私は、最近見たあの夢を思い出す。頬やおでこを殴られてとても怖かった。あれはもしかしたらくるりの記憶だったのかもしれない。
およそ信じられない話なのに、気がつけば私は巡の頬に手を伸ばしていた。
「くるり……守ってあげられなくてごめんね」
「ううん、いいんだ。あれは事故だった。でも、最後にどうしてもうた葉に会いたかったんだ。本当だよ。だから、会えて嬉しかった」
「私も、嬉しい。私、初めて友達ができたの。くるりと——巡と、出会えて良かった。助けに来てくれてありがとう」
彼に伝えたかった想いを口にした。
くるりがこんなにも私のことを大切に思っていてくれた。それだけでもう飛び上がりたいくらい嬉しかった。

彼はそれから泣き笑いのような表情を浮かべ、すうっと消えてしまった。

淋しい。だけど、胸にはひだまりのような温かさが残っていた。
「うた葉―!」
遠くから、お母さんの声が聞こえる。
雨が少しずつ弱くなって、遠くの空に晴れ間が見える。
ああ、私、変わらなきゃ。
くるりが、巡が助けてくれた命を大切にして生きなきゃ。
お母さんに、ごめんなさいって言わなきゃ。
「お母さん——」
泥だらけの顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
痛む身体を庇いながら、私は母の元へと一歩踏み出した。
【終わり】