ジャケットのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて幸男(さちお)は街の歩道を歩いていた。手入れをしていなかった癖の強い長髪が木枯らしに吹かれて荒れ狂う。それを押さえて散髪に久しく行ってないことに気がついた。
「そろそろ髪切らないと、さがすがにヤバイな」
 大学生で一人暮らし、節約を強いられる貧乏学生だ。自分のことに気が回らず、着ている服もヨレヨレで、だらしなさが漂う。でもそれが精一杯だから仕方がない。何をしたところで生まれつき運が悪いときている。
 例えば、晴れている日にちょっと買い物に外に出れば突然土砂降りの雨に見舞われたり、雨宿りする場所を探せば不注意で車に轢かれそうになったり、慌ててそれをよければ側溝に足を突っ込んだり、最後に水溜りの泥水がタイヤで跳ねて幸男に掛けていくという始末。
 ずぶぬれで仕方なく家に戻ったとたん雨が止み、晴れ間が覗いて虹が掛かかる。それがとても虚しい。
 しばらく空を見上げれば、カラスが幸男の頭に糞を落として「アホー、アホー」と飛んでいった。そんなのは日常茶飯事で、不運なことがちょこちょこ起こる。
 名前は幸せな男で幸男というのに、それに似合ってない境遇だ。
 母親は単純に幸せを願ってつけたのはわかるのだが、一遍に幸を与えようと欲張り過ぎて却って不幸を引き寄せているのかもしれない。
 しかも七年周期で大きな不幸がやってくるジンクスがあるから、二十一歳になった幸男は少し怯えている。
 七歳の時は、自転車が突っ込んできてぶつかった。十四歳の時はバイクが突っ込んできて跳ねられた。自転車、バイクときたら今度は車が突っ込んでくるかもしれない。
 七と言う数字は一般的にラッキーセブンと思われがちだけど、幸男だけは不運の数字になっている可能性が高い。
 二十一歳の今、幸男は特に気をつけていた。
 また風が吹き荒れ、くるっと縮じれた髪の毛がタコの足のように四方八方暴れてしまう。
 すっきりさせたいと、衝動で散髪屋に向かおうとしたその時、前から白い紙が風に舞いながら幸男の顔をめがけて飛んでくる。
「あっ」と気がついた時には顔にパシャッとへばりついていた。
「うっ、前が見えない」
 その紙を引き剥がせば、顔を真っ青にした女性が幸男の前に立ちじっと見つめていた。
「か、紙が、髪が、ええっ!?」
 気が動転してうろたえている。
 幸男は眉根を寄せながら、乱れて顔を覆っていた髪の間からその女性を怪訝に見つめていた。
「あの、もしかして、この紙はあなたのですか?」
 幸男は飛んできた紙を手渡そうとすれば、女性は泣きそうな顔をして「ご、ごめんなさい。結構です」と叫んで走って逃げていく。
「ちょっと」
 呼び止める隙も与えないまま、女性はどんどん小さくなってそのうち角を曲がって消えていった。
 あまりにも突拍子で後味が悪い。自分の見かけにショックを受けて逃げたとしか思えず、むっとするもよく考えればいつもの不幸な出来事だ。
「仕方ないか」
 境遇を受け入れてふと紙を見れば、それは何かの宣伝のビラで簡単な地図も載っていた。
『これをお持ちのあなたに必要なものを授けます』
「なんだ、これは?」
 だけどあの逃げた女性が持っていたと思うと、気になってくる。あの女性もここに行こうとしていたのではないだろうか。
 人に知られたくなくて黙って訪れようとしていたのに、この紙を幸男が見たせいでそれで恥ずかしくて焦ったと考えられなくもない。
 この紙がないと困るかもしれない。どうすればいいのか。とりあえず地図に沿って行ってみることにした。
 店など何もないただの住宅街。地図を見ればこの辺りの様子だ。それによれば、左に曲がれば目的地なのだが、そんな道などなかった。
 あるといえば、建物と建物の間、猫くらいしか通れそうもないかなり狭い路地だけだ。
「まさか、ここを通るのか?」
 半信半疑に身体を横にして通れば、その先に広い空間が現れた。そこにきれいな古民家が建っていた。『御紙屋(おかみや)』と木の看板が入り口の横に掲げられている。
「何の店だろう?」
 幸男は首を傾げる。
 オレンジ色の暖かそうな電気が中でついていて、営業してそうだ。幸男は迷わず格子戸を引いた。
「あの、ごめん下さい」
 甘いお香の匂いがプンと鼻につく。そして広い土間が目に入った。その先に上がり(かまち)がついて段差があって奥に部屋が続いている。昔ながらの玄関だ。懐かしい感じがして和んでいると、奥から着物を着た女主人がすーっとすべるように現れた。
「いらっしゃいませ」
 抑揚のない落ち着いた声で女主人に迎えられ、はっと息を飲む幸男。目が釣りあがった面長な白い顔が狐の面を連想させ、独特な雰囲気がしたからだ。彼女はニコリともせず上から幸男をじっと見つめる。少し不気味だった。
「あの、僕、こ、この紙を」
 道端で女性が落としたと言いたかったのに、圧倒されて上手く言えない。
 その紙を見た女主人の目がきらりと光って鋭くなった。ますます幸男は息を飲んだ。
「ああ、なるほど、そうですか」
「あの、その、この紙は持ち主の方がいらっしゃって、僕のじゃないんですけど」
「でも、お持ちになられたのはあなた様でございますね。かしこまりました。それではこちらをどうぞ」
 どこから取り出したのか全くわからず、まるで手品のように別の紙を差し出された。
 訳もわからず、幸男は成り行きでそれを手にしてしまう。
「これは一体どういうことでしょうか」
 それはこの辺りの街の地図だった。
「これからあなたが行くべき方向が記されます。何があってもどうかその通りにお進みになって下さいませ」
「一体どういうことですか?」
「あなたは幸ある男性です。きっとどういうことかお分かりになられると思います」
 怪しげな笑みを残して、その女主人はすーっと目の前から消えてしまった。
「えっ!?」
 気がつけば古民家もなくなり、幸男は街の中で紙を手にして立っていた。まるで狐にでも化かされた気分だ。
「何が起こったのだろう」
 幸男は現実に起こったことだと思えない。でも手元には地図をもち、そこに先ほどまでなかった矢印が赤で一本書き込まれていた。ちょうど自分の目の前の道を表している様子だ。
「ここをまっすぐ歩けということだろうか」
 夢でも見ている気分で、幸男は地図に従って歩き出した。
 暫くすれば、三人の主婦が家の前で井戸端会議をしているのが目に入る。ちらりと視線を向けられて、自分のことを噂されそうな雰囲気を感じた。緊張しながら側を歩きさっと通りすぎて行く。ほっとしたのも束の間、電信柱の陰から幼児がいきなり飛び出してかわし損ねて、運悪く幸男は足を引っ掛けてしまった。幼児は案の定バタッと派手に転んでしまった。
「ゴホッ」と胸を打って苦しむ声が聞こえ、幸男は驚いてすぐに抱き起こせば、そこで火がついたように泣き叫ばれた。
「ちょっとあなた、うちの子に何してるの」
 先ほどの井戸端会議をしていた主婦が走ってくる。
「ぼ、僕は何も」
 主婦は幼児を抱きかかえ睨んでくる。幸男はごまかしながらその場を去るも、後ろから「ちょっと、あなた!」と呼び止めてくるので怖くなって走り去った。
 何も悪いことをしてないのに、またいつもの不幸だ。大事にならないためにもひたすら逃げた。
「はあはあ」と息を弾ませ立ち止まる。地図を見れば、新たな矢印が出ていて右に曲がれと指示が出ていた。
 大通りの歩道に出て、街路樹が目に付いた。その下で男の子がジャンプをしている。近くで見れば風船が枝に引っかかり、それを取ろうとしていた。
 優しい幸男は手を伸ばしジャンプする。一回、二回、三回目で紐に手が届き、風船が取れた。それを男の子に渡した。
「ありがとう、おじさん」
 元気にお礼を言われるも、ちょっと呼び方が気に食わない。
「おじさんじゃないんだけどね」
 苦笑いしていると、目の前でタクシーが止まり、ドアが開いた。
 幸男がもじもじとして困惑していると、ドライバーが窓を開けて声を掛けてくる。
「お客さん、手を上げてジャンプして派手に呼んだじゃないですか」
「あっ、あれは、この子が困っていて、その」
 また変な方向へと行ってしまう。ここは逃げたもの勝ちだ。幸男はダッシュする。先ほどから走ってばかりだ。
 気になって一度後ろを振り返れば、赤い風船を持った男の子がタクシー運転手と話していた。きっとこれで誤解が解けるだろう。小学生に責任をなすりつけたみたいで幸男は情けなかった。
 地図の通りに歩けば、誤解を生じることばかりが起こる。
「何なんだ、この地図は。一体、僕をどこに連れて行きたいのだろう」
 また新たに矢印が出ている。
 今度は交差点で横断歩道を渡る指示が出ていた。
 再び変なことが起こらないか心配しながら青に変わるのを待っていた時だった。隣にみかんが沢山入ったビニール袋を提げたおばあさんが立ち止まった。
 重たそうに右から左へと持ち替える。よく見れば、ビニール袋の底が破れかけている。このままでは中身がこぼれてしまう。
「あの、おばあさん、そのみかん……」
「なんだいあんた、みかんがほしいのか。それだったら、あそこの八百屋で売ってるがね」
「違うんです。そのみかんの袋が」
「はあ? 何だって?」
 近くを走った車の音がうるさくてよく聞こえない。
 そうしている間に、みかんの頭が底から見えてきた。こぼれるのも時間の問題だ。幸男はその袋を下から抱きかかえる。
「あんた、何しよるがね」
「みかんの袋が破れそうで」
 どこかに袋をくれそうな店はないか探すも、おばあさんにはみかん泥棒と思われ騒がれてしまう。
 おばあさんが引っ張る中、幸男も必死でみかんを守る。
「ちょっと、離さんかいな」
「おばあさん、落ち着いて」
 結局、袋は衝動に耐えられず派手に破れてしまった。その弾みでみかんは四方八方に転がっていった。
「ああ! なんてことを」
「だから、こうなる前に助けたかっただけなんですって」
 そんなことを言っても、おばあさんには幸男のせいでこうなったとしか思ってなかった。
 周りの人たちがみかんを一緒に拾っていると、信号が青に変わっていた。
 幸男はまた逃げようとどさくさに紛れて横断歩道をひっそりと渡ろうとする。
 その時、信号を無視した乗用車が幸男をめがけて突っ込んでくるのが目に飛び込んだ。危ないと身体が竦み動けない。
 呪われた七年周期。やはり二十一歳はこうなる運命だったのか、幸男は怖くて目を瞑った。
「僕の人生はなんだったのだろう」
 心で問いかける。
 その間全ての音が遮断され、時が止まったようだった。
 どれくらい経ったのか、一秒が一分にも感じられ、目を開ければ、目の前でギリギリに車が止まっていた。奇跡だ。
 それと同時に周囲の音が耳に入り、辺りは騒然となってみんなが幸男を見ていた。
「あんた、大丈夫かね」
 おばあさんがびっくりして幸男に尋ねていた。
 幸男はガラス越しに運転手と目が合った。どちらも呆然として無言に見つめ合った。そのうち我に返って幸男は歩道へと戻った。
 その後、その車は何事もなかったように去っていき、信号が再び赤になって道路は何の問題もなく他の車も走り始める。
「あんたが、みかんを引っ手繰(たく)ったお陰で、ここでみかんを拾った人たちは横断歩道を渡らずに命拾いしたわ」
 おばあさんが、胸をなでおろすように言った。
「彼は、みかんを引っ手繰ったんじゃなくて、袋が破れそうになっていたのを止めようとしていただけだと思います」
 見ず知らずの人が説明してくれた。初めて自分の味方がいたと喜んで振り返れば、見たことのある女性だった。
「あっ、あなたはあの時の!」
 紙を落とした女性だった。
 女性は面映い顔をして幸男にぺこりと頭を下げていた。
「少し、お時間ありますか?」
 女性に声を掛けられ、幸男は戸惑いながら「はい」と返事した。
 まじまじと見ればスタイルもよくきれいな女性だった。
「先ほどは、紙を拾って頂きながら、逃げてしまって本当にすみませんでした。その、髪の毛が、あの」
 女性は言いにくそうに、なんとかわかってほしいと言い訳をする。
 どうやら、幸男の顔に長い縮れた髪の毛が覆って、片目だけがぎょろりと見えていたことで妖怪に見えてしまったらしい。本当の顔を知った今、女性はそれを恥じていた。
 女性から丁寧に謝罪され、益々髪を切らなければと幸男は慌てていた。

「そうですか。真実(しんじつ)と書いてマミさんとおっしゃるんですか。いいお名前ですね」
 近くにあった喫茶店に入りお互いの自己紹介をした後、何を話していいのかわからない幸男は名前を褒めていた。
「幸せな男と書いて幸男さんもいい名前ですよね」
「名前負けしていまして、実際は全然名前通りに行かなくて。へへへ」
 頭の後ろに手を持ってヘラヘラしてしまう幸男だった。
「いえ、そんなことないですよ。幸男さんは幸せを呼ぶ方なんだと思います」
「はい?」
 真実に真顔でいわれ幸男は驚く。
「実は、私、あれから逃げてしまった後、幸男さんを探して後をつけていたといいますか……」
「あっ、それって」
 幸男はドキッとしてしまう。自分の失敗したことを全て見られていたと思うと恥ずかしくてたまらない。
「あの、ストーカーという意味じゃないですよ。声を掛けようとしたんですけど、すぐに走っていかれたので、それでついてきてしまったんです」
 真実も誤解されたと思い言い訳をする。
 お互い、この辺りは無難にやりすごしたいと、顔を見合わせて笑ってごまかすしかなかった。
「なんかお恥ずかしい。あんな感じでいつも僕は運が悪くて変な方向に行くんです」
「はい? 何をおっしゃっているんですか? 幸男さんは名前のごとく、幸ある男性ですよ」
 真実の言っている意味がわからなくて幸男はきょとんとしてしまう。
「井戸端会議をしていた主婦の方ですけど、あのあと幸男さんにお礼が言いたかったみたいですよ」
「えっ? どういうことですか?」
「あの時、幸男さんが通らなかったらお子さんはアメを喉につめたままになって死んでいたかもしれないんです」
 真実は説明する。幸男が子供をこけさせたことで、喉にひっかかっていたアメが弾みで運よくとれたということだった。
「そうだったんですか!?」
「母親も道に落ちていたアメに気がついて、あのお子さんも、息ができず苦しかったって言ったことで、真相がわかったんです」
 その話を聞くや、幸男は目を見開かせていた。
「それから、あのタクシー運転手ですけど、幸男さんが止めたことで息子さんに会えたことをとても喜んでいらっしゃいました」
「どういうことですか?」
 ここでも真実は説明する。
 離婚後、元妻から息子を遠ざけられてなかなか会わせてもらえなかったところ、幸男の行動で偶然止まったところに自分の息子がいたらしい。それが風船をとってあげた男の子のことだった。
「幸男さんが何をしたのか知りたくて、タクシー運転手と少し話したんです。風船を取ってもらった男の子もとても喜んでいましたよ。幸男さんのお陰だってふたりは言ってました」
「なんという偶然」
「交差点でのみかんが落ちたこともそうですけど、あれも周りがみかんに気をとられてたお陰で横断歩道を渡らずに済みました。幸男さんも危機一髪でしたが他の方が渡っていたら轢かれてたかもしれません。特にあのお婆ちゃんはそう思ったみたいでしたよ」
 真実に言われて、幸男は目を瞬かせていた。
「僕、なんか役に立ってたんですね。実は七年周期で悪いことが起こって、車が突っ込んできた時、それが今日なのかと思いました」
 幸男は過去に起こったジンクスのことを話した。
「それって、本当に悪いことだったんでしょうか。もしかしたら、そのときも視点を変えれば今日みたいなことがあったんじゃないですか?」
 真実に言われ、幸男は驚く。
「でも、まさか」
「一度、誰かご家族の方に訊かれたらどうでしょう?」
 半信半疑で幸男はスマホを取り出し、母親にラインでメッセージを送った。するとすぐに返事がポンポンと連続して返って来た。
 それを読むと幸男の目が益々見開いた。
 真実の言った通り、七歳の自転車事故は、ブレーキが壊れていたせいで乗っていた学生は自転車を止められず、幸男とぶつからなかったら、大通りに出て車の中に突っ込んでいたかもしれなかったらしい。
 十四歳のバイクの接触事故は引ったくりの常習犯だったらしく、幸男とぶつかったせいで転倒し犯人逮捕に繋がったそうだ。引っ手繰られた鞄には大金が入っていたので、被害者からはかなり感謝されたとあった。
 それを真実に言うと、彼女はにこっと微笑んだ。
「ほら、幸男さんは、自分自身は痛い思いをされたかもしれませんけど、必ず関わった人に幸をもたらしているじゃないですか」
「なんか信じられません」
 関わった人が幸せになっていることを知った幸男は心から喜び、不幸だと思っていたネガティブさが払拭されて心が満たされていく。
「そうです。幸男さんは幸ある男なんです。関わった私もきっと幸せに……」
「そうだといいですね。是非、真実さんにも何かの幸せが訪れたら僕もこの上なく嬉しいです」
 幸男に笑顔で見つめられ、真実は頬を赤らめる。まともに見たこの時の幸男はとても素敵で、こんなにもイケメンなことに真実はドキドキしていた。髪を整えればもっとかっこよくなるだろう。あの時、幸男を前にして逃げたことが恥ずかしい。あれには言えないもうひとつの深い訳があった。
「あっ、そうだ。この紙を返さないと。これから行かれるところじゃなかったんですか。僕は行って来たんですけど、不思議なところでした。だけど訪ねたお陰でとても幸せになった気分です」
 真実が落とした紙を幸男は手渡した。それを震える手で真実は受け取る。
「私もすでに行ってきました。これで、いいことに繋がったと思います」
「真実さんもそうでしたか。それはよかった」
 ふたりは顔を見合わせ恥ずかしそうに笑っていた。

 その一時間前――。
「なるほど、そうですか。ではこの紙をお持ちなさい」
 面長の白い顔の女主人から、真実は紙を手渡された。
「これをどうするんですか?」
「その紙を手にした男が、またそれをあなたに返す時、あなたたちはきっと結ばれお互い幸せになるでしょう」
「それって、運命の人と出会うってことでいいんですか?」
 真実は嬉しそうに訊き返していた。

 了