冬、春

冬の寒空の下、芦澤結衣は白い息を吐き出した。
静かに降ってくる雪が、かじかんだ手を更に冷たくしていた。一面に広がる銀世界。それは息も忘れてしまうくらいに美しく、そして冷たかった。
ここはどこだろう。自分がどうやってここに来たのか、なんのためにここに来たのか、さっきまでどこで何をしていたのかすら忘れていた。知らなかった、の方が近いのかもしれない。何も、わからなかった。
結衣は帽子もマフラーも、手袋だってしていなかった。幼い頃祖母が編んでくれたミトン。その暖かさを思い出した途端、寂しさが胸にこみ上げてきた。流すまいと思っていた涙は、頬を伝って雪の上に落ちた。
結衣は一人だった。兄弟も両親も友達も、ここにはいなかった。
どうしてこんなところにいるんだろう。家は、中学校はどこにあるんだろう。知らないはずの場所なのに、なぜか見覚えがある気がするのはなぜだろう。空を見上げる。どこまでも続いていそうな暗い空。雲に覆われ、太陽は気配すらも感じさせない。空には、灰色しか無かった。辺りを見回す。白、白、白。雪が全てを覆い尽くして、色とりどりの世界をモノクロの世界に変えていた。左手にある連なった山々の青も、もみの木の緑も、茶色も、白い雪の下に眠っている。
灰色と白。なんてつまらない世界なんだろう。自分以外灰色と白でしかないだなんて。そして僅かな違和感を覚える。人気がない。結衣以外の人間が、動物が、消えていた。冬眠しない動物だっている。なのに、動くものの一つも確認できなかった。
青くなった唇で、小さく呟く。
ここには誰もいない。



山内涼子は窓の外にしんしんと降る雪を眺めていた。ヒーターの音が静かな部屋の中涼子の耳にやけに大きく聞こえた。ものの数秒でこの部屋に、広い家に、一人きりになっていた。
結衣が、いなかった。ついさっきまでいたはずの。
「あのこと」があってからパタリと来なくなった結衣が、やっと来た日だった。
二人で涼子の部屋で、一緒に中学の宿題をしていた。なぜ。なぜ、結衣が消えてしまったのか。つい三分程前、二人で窓の外を見た。外には今と同じように雪が降っていた。
雪だね、涼子は窓の外を見たまま、結衣に話しかけた。返事を待っていた。数秒経って、返事がないことに気づいた。小さな声で聞こえなかったのかな、と思って、窓の反対側、結衣がいるはずの場所へと目を向けた。そこには、お揃いで買ったシャーペンと宿題のプリントだけが残され、結衣の姿だけが忽然と消えていた。
なぜ。と最初にそう思った。なぜ、いないのか。いなくなったのか。一体何がどうなったというのだろう。
分からない時に聞けば何でも教えてくれた祖母のことを思い出す。
「あのこと」があったときも、最初に浮かんだのは「なぜ」の一言だった。見上げた壁掛け時計は、夕方の四時半を指していた。その時間が、ずっと忘れようと努力してきた涼子の過去の記憶をはっきりと蘇らせる。
九年前の六月十六日、午後四時半。その頃三歳と幼かった涼子は、亡くなった祖母と母親、父親と四人でこの家で平穏な日々を送っていた、はずだった。午後四時半頃、涼子は一人、リビングで立ち尽くしていた。窓の外には、夏の雨が降っていた。父と母が仕事の都合で遠出している間のことだった。
「おばあちゃん・・・」
祖母が、キッチンに倒れていた。心臓発作だった。
涙も出なかった。ただ、そこに立ち尽くしていた。一歩も動けず、救急車を呼ぶということまで頭が回らない。祖母の笑顔が、頭の中を駆け巡り、彼女の青白い顔がそれと同じ形をしていることが認められなかった。なぜ。なぜなんだろう。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘・・・
涼子は叫んだ。言葉にならない声となって、それが家中に響いた。

涼子はおばあちゃん、と呟いた。
熱いものが喉にこみ上げてくる。カーペットの上にしゃがみ込む。泣きたくはなかった。その思いを
耳にも入れずに、カーペットに点々と水玉模様をつける涙を、恨めしく思った。
もう此処にはいない人のことを、いつまでも引き摺っていてもしょうがないと一生懸命忘れようとするのに、忘れようと思うと逆に意識されて記憶が鮮明に思い出される。
苦しかった。誰かに助けて欲しかった。誰にも知ってほしくなかった。だから、その気持ちは涼子の中の奥底にしまい込んで誰にも―――両親や友達にも、教えなかった。



結衣はズボンのポケットに手を突っ込み、雪の上を歩いていた。黒髪の上に積もった雪を払い落とし、細い腕を擦る。スリッパが雪の上に点々と足跡をつけていた。足を止め、暗い空を見上げる。靴も、コートも身に着けていない。雪が入ったスリッパの中の足には、もう感覚がなかった。
凍え死んでしまう。そう思った。こんなところで生きている必要性は、結衣の中には見つからなかった。この雪の中に、倒れこんでしまえることができれば、どれだけ楽だろうか。時が経つにつれ、朽ちて跡形もなくなってしまうだろう。そうすれば、この寒さに耐えることは無いかもしれない。孤独に涙を流すことは無いかもしれない。とても良い方法だと思った。でもそれは、逃げることと同じだった。結衣は臆病だった。このまま、あの人間の優しさに、温もりに触れることができなくなってしまうのが怖かった。
死ぬのはやめだ。こうなればもう意地でも生きてやる。
顔を前に向ける。辺りを見渡す。人気はなかった。白い雪の隙間からのぞく黒が視界の端に映る。黒い屋根。東屋だった。四つの柱の上に屋根が乗っているだけの簡単な造りだが、少しは寒さを防ぐことができるかもしれない。足を向ける。そして結衣は、歩き出した。

結衣は東屋の下で雨宿りならぬ雪宿りをしていた。
雪宿りなんて言葉はあるのだろうか。こんな時にそんな呑気なことを考えるのは結衣だけかもしれない。だが、そうでもしていないと不安で仕方がない。こんな空っぽの世界から、どうやって脱出するのか、そもそもここから出ることができるのか、そんなことを考えると怖くて、泣き出してしまいそうだった。
もしかしたらここは天国か地獄なのかもしれないと、ふと思う。こんな目に遭うほど酷い事はしなかったつもりだが―――一番酷いと言えるのは小学校低学年の頃家のお菓子を盗み食いしたことくらいか―――神様は意外と気まぐれなのかもしれない。もしそうならば、結衣は死んでしまったのか。どうやって?交通事故?自殺?それとも誰かに殺されたか―――そんなことを考えていても仕方がない。
結衣は黒い屋根の下から顔をのぞかせて雪の降ってくる白い曇り空を見上げた。今は何時なのか、それすら分からない。食べ物はどうしようか、寝床はどうしようか。こんなことを考えるとまた不安になってくる。泣いてはいけない。何故か、そう思った。



ともかく、結衣はここではないどこかへ行ってしまったということになる。
涼子は立ち上がった。結衣を、助けるために。結衣は今、どこで何をしているのだろう。きっと、苦しんでいる。どこかで―――。
涼子は雪の降り積もる窓の外を眺めた。建物の中ではない、どこかで。寒がっている。死んではいない。なぜか、分かった。
どこかに、ヒントがあるかもしれない。結衣と二人で、笑いあった場所に、苦しんだ場所に、一緒に泣いた場所に。そう思い、コートを羽織って家を出る。四時五十分、雪の降る空は灰色だった。

どれくらい経っただろうか。不意に涼子は、目眩のような感覚に襲われた。
思い当たるところがあるはずなのに、思い出せない。中学校はどこだろう。今は何時だろう。どの道でここまで来たのか。家はどこだろう。さっきまで分かっていたはずなのに、今、何一つ思い出せなかった。知っているはずの場所が、知らない場所になるのはどんなにか恐ろしいことだろう。涼子は恐怖に染まりかけた自分を落ち着かせる。辺りを見回す。人気は、無かった。誰一人、見当たらなかった。そして、寒さに体全体が震え上がる。
涼子は冷静だった。冷たい雪が降り続く空を見上げる。体内時計では、家を出たときから小一時間程が経過していた。結衣と、同じ世界に来てしまった。
結衣を、探そう。この世界に、いるのかもしれない。腕を擦りながら、涼子は降り続く雪の中を歩き出した。



結衣は涼子のことを思い出した。九年前の六月中旬、結衣達が三歳だった頃のことだった。十七日からパタリと、彼女が幼稚園に来なくなった。
次の日心配して涼子の家を訪ねた時、彼女の母親はいつものような優しい顔で結衣に対応した。でも、少し困ったような、いつもとは少し違った表情だった。涼子は今熱が出てしまっていて、当分行けそうにないの。結衣の涼子を心配する声に答えるその母親は、つい先程まで泣いていたかのように目を赤くしていた。耳を研ぎ澄ませると、奥からかすかに泣き声が聞こえる。涼子の声だった。訳が分からないまま、涼子の母親に挨拶をして家に帰った、その次の日。幼稚園が終わり、母親の迎えを待ち侘びていた結衣は、ふと先生が立ち話をしている方に目を向けた。そちらに少し近づいて、耳を傾ける。
山内さんのお宅、同居していたおばあさんが亡くなったみたいよ。怖いわねぇ、心臓発作だって。
山内さん。同居していたおばあさん。亡くなったみたいよ。
山内。山内、涼子。おばあさん。同居していた。亡くなった。一昨日も昨日も今日も来なかった。
心の中で呟いていた単語が、一つに纏まる。辻褄が合ってしまう。
一昨日も昨日も今日も来なかった山内涼子の同居していたおばあさんが亡くなった。
嘘だ、と思った。信じられなかった。
咄嗟に俯き、耳を塞ぐ。どうしよう。聞いてしまった。涼子本人にも母親にも、誰にも言わない。何故か、そう心に決めた。

涼子の祖母に会ったことがある。涼子の家に遊びに行った時だった。色素の薄い綺麗な瞳が、涼子とその母親と似ていた。優しかった。温かいお茶を淹れて、結衣を迎えてくれた。涼子の家族が、大好きだった。
梅雨の季節に起こった、衝撃的な事実。あれがあってから、涼子の家に行きづらくなった。涼子の家に行けば、彼女の祖母がいないことに結衣が気づかないはずがない。それに気付いた涼子と、そんな話をして気まずくなるのが嫌だった。
結衣は東屋の近くにあった池を、じっと見つめていた。固く凍りついた小さな池には生き物のいる気配がない。永眠したかのように変化がなく、冷たかった。分厚い氷に触れる。触れたてだけでなく全身も凍ってしまいそうなほどに冷たかった。慌てて手を離し、辺りを見回す。雪はまだ降り続いている。

しんしんと降り積もる雪が弱まってきたのは気のせいだろうか。
期待してはいけない。まだ小さい頃に年の離れた兄から「サンタさんはいない」と言われ、絶望した時から、そう思うようになった。期待してはいけない。期待すればするほど、潰された時の影響が大きくなるから。だから、この白と灰色の世界に希望は、光は差してはいけないのだ。
でも。それでも、この世界から開放される予感がして止まないのはなぜだろう。誰かが来て、この世界から出してくれる、そう信じたい。どんどん膨らんでいく期待を抑え、立ち上がる。誰かが来てくれるのを信じないのならば、自分から動くしかない。
そして結衣はどこか分からない場所への一歩を、スリッパの足で踏み出した。



雪はまだ降り続いている。でも、少し優しくなった気がする。結衣のいる場所に少し近づいたのだろうか。このまま進めば結衣に会えるかもしれない。そう、涼子は思う。待っててね、今行くから。心の中で結衣に呼びかける。
雪の積もった道を急ぐ。走り出す。一定のテンポで白い息が上がる。
心の中で、声がする。がんばれ、と涼子を応援している。優しい声だった。応援してくれているのが祖母のような気がして、頑張るから見ててね、おばあちゃん。と心の中で、声に答える。
祖母が応援してくれている。それだけで、心強かった。夢中で地面を蹴る。
「結衣ー!」叫びながら走る。返事が返ってくることを願って。
寒さで歯がガチガチと音を立てる。この寒さで上着を着ていなかったら風邪を引いてしまうかもしれない、そう思った。早く結衣を見つけないと。結衣は涼子よりも、寒い思いをしている。
走るスピードを上げて、大きなマンションの前を通り過ぎる。走りながら見回す何もかもが、白い雪に覆われている。
通りを奥へ進んだところに、桜の木のある小さな公園が見えた。「見つけた」と呟いた涼子は、そこに向かって進み始めた―――



結衣は雪に覆われた道を歩いていた。
小さな公園の前を通りかかる。妙な既視感に襲われた結衣は足を止めた。目前に広がる小さな公園が、この灰色と白でできたモノクロの世界の中で唯一知っている場所のような気がした。周りを囲むエメラルドグリーンの柵。どこにでもありそうなありきたりの滑り台。青いペンキで塗られたブランコ。小さな水飲み場。そして、公園の中心にある大きな桜の木。見覚えのある気がする。
そして中に入る。あたりを見回す。やはり、知っていた。
その時だった。
聞き覚えのある、声がする。結衣を呼ぶ優しい声。それがする方へと目を向ける。
見覚えのあるコート。優しい瞳。結衣に向かって手を振って・・・
涼子だった。山内涼子。
とても懐かしく感じるのはなぜだろう。ずっと不安だった、凍りついていた心が、段々と溶けていく。二つに結わえた結衣の黒髪が、暖かい風に揺れる。春が、来る。暖かい春。
涼子は優しく、そして温かい。結衣にとって、大切な存在だった。
思い出した。何もかもが、蘇る。公園が、世界が、彩り豊かになる。白というより灰色だった雪は、いつの間にか銀色に光る雪へと変わり、暖かい日差しに溶けていった。涼子とここで、笑い合い、苦しみ、二人して泣いた。今まで冷たかったこの世界に、暖かみが戻るような感覚を覚える。
よく知っている、大好きなこの場所。ずっと見てきたのに。大切な場所なのに。
この場所には、色んな思い出が詰まっている。そして、これからも。きっとここで、思い出を形作っていくだろう。桜のつぼみが開きはじめ、花びらが舞う。桜の木の下で、結衣と涼子は互いに見つめ合った。そして言った。
―――大好きだよ