初めはただ見ているだけだった。
 苛烈さを見せる彼女の絵を描く姿を見ているだけでいいと思った。
 でも、次第にそれだけでは物足りなくなる。
 キャンバスに向けるその激情を自分にも少し向けてみて欲しいと思うようになった。
 思えば、このときにはもう彼女に心を奪われていたのかもしれない。

 いつものように美術室のドアから見ていたある日、豊は初めて早瀬に声を掛けた。
「何で笑ってんの?」
 と。
 瞬間、ビクリと肩を震わせた早瀬は驚きも露わに豊を見る。
「……え?」
 まるで自分に掛けられた言葉が幻聴だったのではないかとでも言うように、驚きつつも不思議そうな顔をしていた。
「何で笑ってんのって聞いたんだよ」
 別に質問の答えが欲しかったわけではない。
 けれど、確かに彼女に声を掛けたのだと理解してもらうために繰り返す。
 それでも早瀬はもういいだろうと止めたくなるほど何度も瞬きをした。
「……え? 私に言ったの?」
「他に誰がいるんだよ」
 呆れた豊の言葉を聞いてもまだ信じられないのか、早瀬はぐるりと周囲を見渡す。そして豊のもとへと視線を戻し、また二度ほど瞬いた。
「あ、えっと……ごめん。声を掛けられるとは思ってなかったから」
 ということは、見ていたことには気付いていたのだろう。
(そりゃそうか)
 早瀬がいる場所からドアまではそこまで離れているわけでもなく、豊自身も身を隠すようなことはしていなかった。
 逆に気付いていない方がおかしい。

「いいよ……で? 西田さんはどうして絵を描きながら笑ってんの?」
 キャンバスに向けるような苛烈さはないけれど、やっと自分に向けられた意識を手放したくなくて続けて聞いた。
「えっと……楽しいから、かな?」
「芸術病なのに?」
「っ⁉」
 無難なやり取りで終わらせたくなかった豊は、賭けに出るように突っ込んで聞く。
 どんな病気だって、命に関わるようなものならデリケートな話題だ。
 それをこんな無造作に聞いて……早瀬は怒り出すだろうか。
「……知ってるなら分かるでしょう? 私は描くことでしか人として生きられないの。命が削られていくのが分かっていても、描いているときが一番生きていると感じられる……」
 だから笑っていたのだと硬い声で告げられた。
 怒っているかは分からない。
 けれど、警戒されている事だけは分かる。

 豊は内心焦った。
 せっかく声を掛けたのにこのまま距離を取られるのは嫌だ。
 焦りを顔には出さない様に気をつけながら、「そっか」と呟くように口にする。続けてひとつ頼みごとをした。
「あの、さ。もっと近くで見てもいいかな?」
「え? 何で……?」
 警戒の眼差しがまた驚きに変わる。
 もう賭けだなんだのと言っていられない。
 率直に自分の望みを口にした。
「君に興味があるんだ」
「……芸術病だから?」
「いや……まあ、関係なくはないけど。君が絵を描いているところを見るのが好きなんだ」
 もう来るなと言われるのが怖くて、正直に告げる。
「……変な人だね、相良(さがら)くんって」
 困惑気味な彼女はそれでも拒否はしなかった。
 それを了承と取った豊は、それからは美術室の中で早瀬の絵を描く姿を見る。
 今までよりもっと近くで、早瀬が命を燃やす姿を見た。
 彼女の、一番綺麗な姿を。