「ありがとう」
俺からボールペンを受け取った彼女は、左腕に子どもを抱っこしたまま、右手でサインを書いた。ペンを持つ彼女の右手の薬指には、透かしのハートを横にいくつか連ねたピンクゴールドの指輪が嵌っている。
結婚指輪にしてはカジュアルだし、三十代の女性がつけるにしては少しデザインが子どもっぽく見えなくもない。だけどそれは、俺が別れた恋人にプレゼントで渡そうと思っていた指輪とデザインがよく似ていた。
佐藤菜々の手元をぼんやり見ていると「あの、書けました」と、彼女がボールペンを差し出してくる。
「あ、ありがとうございます。それでは、失礼します」
佐藤菜々に不思議そうな顔で見つめられた俺は、慌ててボールペンをひったくるように奪い取ってポケットにしまう。それから、彼女に背を向けた。長居すればするほど、彼女の幸せに当てられてしまう。
「あの、ちょっと待ってください……!」
早足でエレベーターのほうに歩いていると、佐藤菜々が子どもを抱いたまま追いかけてきた。
「これ、落としましたよ」
ポケットからボールペンを出したときに落としたのだろうか。佐藤菜々が差し出してきたのは、俺がズボンのポケットに入れていたはずのネックレスだった。
ピンクゴールドの小さなハートのモチーフがついたそれは、俺が一年前の恋人の誕生日にプレゼントしたものだ。そんなに高価なものではないけれど、彼女はすごく喜んで、とても大切にしてくれていた。ほとんど毎日、肌身離さずつけてくれていたんじゃないかと思う。
そんな思い出のあるネックレスを、彼女は別れ話を切り出したあとに俺に返してきた。彼女のほうから俺を振ってきたくせに「持っていると、つらいから……」と、泣きそうな声で言われた。
別れ話をされたのもネックレスを返されたのも、バイトに出かける直前のことで。すぐに理解が追いつかず、俺は返されたネックレスをとりあえずズボンのポケットに突っ込んだ。
バイトが終わったら、処分の方法を考えなければ……。そう思っていたものを、わざわざ拾って届けてくれなくてもよかったのに――。