今日という日に、同じ世界で

 
 そうしてやってきた、菜々の20歳の誕生日。

 夕方6時に迎えに行くと約束していたのに、菜々は昼の12時前に、俺の住むマンションのエントランス前で待っていた。

「なにしてんの、こんなとこで。夕方迎えに行くって約束したよな」

 配達のバイトに向かう予定だった俺は、驚いたし、ちょっと焦ってもいた。早口でそう言うと、菜々が泣きそうな目で見つめてくる。

「ごめん。今日の約束、キャンセルしてほしい」
「え?」
「洸希、別れよう……」
「え、急に何言って……」
「最近ね、ずっと不安なんだ。離れているときや会えない時間、洸希はどこで何してるんだろうって。洸希が私を好きでいてくれてるってことはわかってるのに、あのことがあってから、洸希のことを前みたいに信じきれなくて……。洸希のことを一ミリでも疑ってしまう自分が嫌だ……」
「菜々……」

 菜々の言葉に、ショックを受ける。

 カナエに写真を撮られたあの日のことを、菜々はもう許してくれていると思っていた。

 だけど、許されたと思っていたのは俺の勘違いだったのか……?

「ごめんね、洸希。今日の夕方は、もう迎えに来なくていいよ。今までありがとう……」

 よく見ると、泣きそうに笑う菜々の首元にはいつもつけてくれていたネックレスがない。それは、彼女の手の中に握りしめられていて……。

「さよなら」の言葉とともに、俺の手のひらの上に落とされた。



 バイトを終えて帰宅した俺は、ワンルームの部屋のベッドに腰かけると深いため息を吐いた。

 ポケットの中には、佐藤菜々が拾ってくれたネックレス。テレビの横の棚には、白い箱に赤のリボンがかかった指輪のケース。

 これ、どうするかな……。

 菜々に振られて、お役御免となったネックレスと指輪。それらの処分に困っていると、高本からラインが入った。

『洸希、菜々ちゃんと別れたの? 他学部の友達が来週行く合コンメンバーに菜々ちゃんがいるって言ってるけど』

「は?」

 ショックと、怒りと、悲しさと。いろんな感情がごちゃ混ぜになった声が出た。

 合コンてなんだよ。俺と別れたから、新しい相手を探すのか……?

 何かの間違いであってほしい……。でもほんとうは、俺のこと信じきれないなんて言っておいて、菜々だって裏切っていたのかもしれない。

 立ち上がると、テレビ横の棚に置いた指輪のケースを力任せにつかむ。それをゴミ箱に投げ込んだあと、ポケットに入れたネックレスを引っ張り出した。そのままゴミ箱に捨ててしまおうとしたとき、なぜか、配達先で出会った女の人の言葉が耳に蘇る。

『持ち主に返してあげてほしい。もしかしたら、後悔してるかもしれないから』

 佐藤菜々の言葉を思い出しながら、俺はネックレスをぎゅっと握りしめた。

 後悔しているのは、菜々じゃない。

 カナエのことで誤解されたときも、菜々から「別れよう」と言われたときも、俺はもっと必死になるべきだった。何があってもいつも笑って許してくれる菜々の優しさに甘えていてはダメだった。

 ほんとうに後悔してるのは、泣きそうな顔で別れを告げてきた菜々を引き止められなかった自分だ。

 もう間に合わないかもしれないけど……。俺は菜々との関係を、このままで終わらせたくない。

 ゴミ箱の指輪のケースを拾い上げると、ネックレスとともにズボンのポケットにねじ込む。そうして、部屋を飛び出した。


「ただいまー」

 家に帰ると、玄関に花が飾られていた。

 今日は妻の30歳の誕生日。いつもそばにいてくれる彼女に、感謝の気持ちを込めて送った花束だ。

「ぱっぱあ」

 リビングのドアを開けると、もうすぐ二歳になる息子が両手を広げてテトテトと出迎えてくれる。

「ただいま〜」

 妻似の息子をぎゅうーっと力いっぱい抱きしめると、ジタバタと少し嫌がられる。その反応が可愛くてにやけていると、キッチンから妻が出てきた。

「おかえり。もうすぐごはんできるよ」

 キッチンからは、肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。夕飯はたぶん、息子の好きなハンバーグだ。

「うん。ケーキ、買ってきた」

 駅の近くにある妻の好きな店で買った誕生日ケーキ。その箱を手渡すと、彼女が嬉しそうに口元を綻ばせた。

「ありがとう。あとお花も。びっくりしちゃった」

 嬉しそうな妻の言葉に、今さらながら少し照れる。

「誕生日なのに、今年はどこにも食べに連れて行けなかったからさ……」
「そんなの気にしなくていいのに。でも、嬉しかったよ。あなたに(、、、、)届けてもらえて」

 妻の言い方には、なんだか妙な違和感がある。首を傾げた俺は、妻の首元に光るものに気が付いた。

 妻がつけていたのは、学生時代に俺がプレゼントしたネックレス。付き合っているときも結婚してからも、妻はそれを肌身離さずつけてくれていた。

 二年前に息子が産まれてからは「引っ張られて千切れちゃいそうだから……」とジュエリーケースに入れていたから、つけているのを見るのはひさしぶりだ。

「それ、なつかしいな」

 指差して笑う俺に、「そうでしょう」と、ふふっと妻も笑い返してくる。

 妻が何の気まぐれでネックレスを出してきたのかはわからないが、それは俺にとって特別に思い入れのあるものだ。

 妻の首元で揺れる、ピンクゴールドの小さなハートのモチーフがついたネックレス。これがなければ、妻との今はなかったかもしれない。

 もう十年くらい昔。配達のバイトの途中でうっかり落としたネックレスが、離れかけていた俺と妻の未来を繋げてくれた。

 そういえばあのとき、落としたネックレスを俺に届けてくれた女性が、誕生日に夫から花束をプレゼントされていて。幸せそうな彼女のことを少しだけ羨んだっけ。

 あれから時は過ぎ……。妻の誕生日に花を贈っている今の俺は、同じ世界の誰かに羨まれるような、幸せなやつになれているだろうか。

「お誕生日おめでとう、菜々」
「ありがとう、洸希」

 今の俺のそばには微笑む妻と、彼女によく似た可愛い息子がいて。毎日が、優しい幸せで満たされている。

fin.

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