君をひとりぼっちにしたくなくて、君の隣にいたくって、私は君の傍にいた。壊れた君に近づく人は、他にはどこにもいなかった。いつも君と一緒にいる私からも、数少ない友人は離れていった。それでよかった。静かでいい世界だと思った。

 次第に私と君は、学校にも行かなくなっていった。もう一緒に暮らした方が、家賃が浮いていいんじゃないかっていうぐらい、私は君の部屋に入り浸っていた。
 私には君しかいなかった。もしもその反対までもが成り立つなら、私は本当に嬉しい。

 君の見えざる感情が伝播したのかもしれない。ある時、陽の暮れた薄暗い部屋で、もう死んでもいいやあって思った。君になら殺されてもいいかなって思ったから、「生きていたい」って言った。だから君は、手を伸ばした。

「殺すよ」
「やだよ」
「ほんとに殺すよ。いつもの嘘じゃないぞ」
「やだってば」
 首にかかる君の手は震えてた。誤魔化すように手に力が入って、私の喉がひゅって音を立てた。君は怯えたような目をした。
「ああ、でも、ひとつだけ心残りかなあ」
 仰向けに転がる私の声は、囁くぐらい小さかったけど、君はきちんと聞き取ってくれた。
「私を殺したら、君は人殺しになっちゃうよ」
「いいよ」
 望むところだと、やけに素直な君は言った。その強気な言葉は、手と繋がって震えてた。私はなんだか少しおかしくなって小さく笑った。だって君が、幼い子どもみたいに見えたんだ。疲弊しきってすっかり足を引きずってるのに、おんぶしようかと言われても、疲れてないと答える嘘つきな子。そんな風に見えたんだ。
「生きてくの、苦しいよ」
「わかってる」
「捕まるよ」
「逃げるから」
「たたるよ、私が一生」
 言ってから、それもいいかなあって思った。そうしたら、ずっと一緒にいられるし。
「かまわない」
 君はそう言った。
 少しずつ、手に力が入った。君の細腕のどこにこんな力があるのか不思議なくらいだった。目の前がかすんだ。耳が遠くなった。頭が痛くなって、意識がぼうっとした。
 もう、死んじゃうんだなあ。
 だらしなく開いた口から涎が流れた。身体は無意識に抵抗を試みていて、最期の呼吸を促していた。
 その一息で、私は「ばいばい」って言いたかった。それなのに、天邪鬼な君と違って、私はとっても正直だったんだ。
「ありがとう」
 唇の形で、私が最期になんて言ったのか悟った君は、びっくりした顔で両手を離してしまった。
 肺に空気が入り込んで、血流に酸素が流れはじめて、私は跳ねるようにせき込んだ。陸に上げられた魚みたいに喘ぎながら、大それた失敗をしてしまったことに気がついた。君は私の願いを叶えないように生きている。

 だから君は、私を殺せなくなった。

 覆い被さる君の瞳からぽたぽたとこぼれ落ちるそれが、まるで私の流したものの顔をして頬を伝っていった。くしゃくしゃに歪んだ顔は、本当に小さな子どもみたいだった。
「いじわる」
 首を絞めてた人間に、言われたくない。
「僕か君を、消してしまいたい」
 君はそう言って、乱暴に目元を拭った。

 それから君は少し眠って、目を覚ました。あんなに疲れていたのが嘘のように元気な顔をする君は、「海に行こう」と言って立ち上がった。
 呆れ顔の私を余所に、さっさとジャケットを羽織って、財布だけをポケットにつっこんで、靴を履いて。玄関先で「何してるの、早く行こう」と急かす子犬のような目をしてこっちを振り返った。
「そんなに振り回すと、女の子に嫌われるよ」
 さっぱりした顔つきの君を見て、私は呆れた声を返しながら、ため息をついてマフラーで首のあざを隠した。
 君の天邪鬼は、治っていた。
 鍵は、かけなかった。


 最終列車で、いろんな話をした。といっても、ほとんどが君の話だったんだけど。


 十二月の暗い海には、明るい月が浮いていた。何もない砂浜にジャケットと靴を置き去りにすると、ズボンをたくし上げて、君は海に入っていった。
「寒い」ってばかみたいな台詞を吐いて震えながら、膝下まで浸かってしまった。私はそれを、砂浜に突っ立ったまま、ポケットのカイロを握りしめて眺めていた。
「冷えるよ、出てきなよ」
「海の方が、あったかいかも」
 両腕で細い身体を抱きしめたまま、君は海面を蹴り上げた。ぱしゃり。きらきらと月光に散る水しぶきを、私は綺麗だと思った。君の細い足首のシルエットを、よく覚えてる。
「僕の名前、知ってる?」
 唐突に君はそう言ったけど、私はすんなり答えられた
「違うよ。海(うみ)っていうんだ」
 嘘っぱちだ。学校のプリントに書く名前は、そんなんじゃないって、よく知ってる。
「ほんとだよ」
 少しむくれた顔をして、君は教えてくれた。

 君のふるさとは、海辺の小さな町だった。酒飲みの父親に連れられて、堤防から海を眺めながら、言われるままに初めてお酒を飲んだ。ぼーっとしながら聞いたのは、父親が「海、海」と嘘っぱちの名前を呼んで機嫌よく笑う声。
 その日の夜、君の全ては壊れていった。

 君はもう一度、海を蹴り上げた。今度は少しだけ強く。顔に水しぶきがかかって、ぶるぶるって震えながら、君は笑った。ざまーみろって、言ってるみたいだった。

 君の大好きな人は、大好きな君を、大好きなものに例えたんだ。
 だけどその言葉が出なくって、そう言ったら君が怒る気がして、私はかがんで手頃な石を拾うと、思い切り水平線にぶん投げた。「危ないなあ」っていう君の抗議には、聞こえないふりをした。

 君の身体は、あまりに細かった。あらゆるものに潰されて、ぺったんこになってしまった。波間に溶けて消えてしまいそうなほど。君がその身体で、一生懸命呼吸をしていたのを、私は知ってる。
 それでも、もう苦しかった。酸素が足りなかった。枯渇した空気の中、必死に喘いで君は生きていた。限界すれすれを、君のちっぽけな命は揺れていた。

 朝焼けがやってくるには、まだ少しだけ時間が必要だった。
 冷え切った君の身体は、もう震えてはいなかった。
「僕、帰るよ」
 どこに、とは訊かなかった。嫌だ、って言いたかった。待って、って喉元まで出かけていた。
 どれも言えないまま、頷きもせず、私は海を見つめていた。
 その姿を滲ませたくなくって、笑われそうなくらい瞼を大きく見開いて。目は乾かなかった。喉元に小石が詰まって、息が苦しかった。

 大好きだよって、言えばよかった。 

 明け方の海はとても美しかった。真っ白な今日が瞼を開いていた。
 私は、誰もいない海で、ただただ、泣いた。


 あの時、君の脱ぎ捨てたジャケットは、まだ私が持っている。
 天邪鬼だった君が「やっぱり寒かった」って笑いながら、いつ現れてもいいように。