君は、自分だけじゃなく、他人に対しても天邪鬼だった。私が「これ不味い」といったものを率先して食べたりした。君は、私の願いが叶わないように振る舞っているみたいだった。
 狭い道の先で陽炎が揺れるその日も、私が嫌いだと言ったメーカーのグミを、わざわざ隣で君は噛んでやがった。「美味しい?」って訊いて「美味しい」って答えたから、君も好きになれなかったんだと思う。
 見通しの悪い交差点を、さほど気にもとめず渡ろうとしたとき、甲高いクラクションが鼓膜で爆ぜた。

 背中に衝撃があって、よろめいて膝をついて振り返って見えたのは、地面に倒れている君だった。私の不幸を望むはずの君は、私を庇って、アスファルトで頭から血を流していた。不味いグミの小さな袋が、軽自動車のタイヤの下敷きになっていた。

 丸一日。君が意識を取り戻すのにかかった時間。君が目を覚ましたとき、私は安堵で足が立たなくなって、へなへなとパイプ椅子にへたりこんだ。
 頭に包帯を巻いた体の丈夫な君は、それでも、手足の軽い打撲とあばらの骨折という怪我を負っていた。検査や様子見ということで、数日間入院することになった。
 大学は夏休みに入っていたから授業の心配は必要なかったけど、もちろん、君にお見舞いに来てくれる誰かはいなかった。
 代わりに罪悪感が破裂しそうな私と、はるばる私の両親が病院にやってきて、君に頭を下げた。

 これまで男友達すらろくにいなかった私が親しくしているということで、両親は何らかの疑りを持っていたようだったけど、病室から出てきた二人は外でジュースを飲んでる私に心配そうに言った。「もう一度、検査しなくて大丈夫かしら」って。
 君はこんなところでもあべこべで。あざを触られれば痛くないって答えて、なんでもないところでは痛いなんて言う奴だったから。頭の心配をされるのは、至極当然の成り行きだろう。

 また、これはチャンスだと私は汚い思惑を抱いた。君のまだ見ない表情を見られる、千載一遇の機会だと考えた。
 君が照れる顔を見たくって、私はある時のお見舞いにりんごを持っていった。
 食べさせてやるだなんて偉そうなことを言って、記憶に従ってかつらむきをしようとした。身のたっぷりついたりんごの皮がぼろぼろと重力に従って落ちていくのを、「何がしたいの?」って顔をしながら君は目で追っていた。ただ単に不器用な恥をかいた私は、でこぼこになったやけに小さなりんごを大人しく八つに割った。室温ですっかり温くなり、少し酸化を始めたりんごは美味しくなくって、君も「美味しい」って言いながら眉間に皺を寄せていた。

 せめてもの償いに、私は退院した君の部屋に何度となく押し掛けた。必要ないって拒否する君を無理矢理ベッドに押さえつけ、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
 それは君の骨折が治ってからも続いた。
 君は痩せていた。それが気になった私は、君に間食をさせようと思った。無駄に高いカロリーを摂取させるべく、台所を占拠した。
 君は何かすることがないかって、入り口を野良犬のようにうろついていたけど、私は敢えてそれを無視した。自分の部屋なのに居場所をなくした不憫な君は、大人しく勉強を始めていた。

 いろんなものを作ってみたけど、君の反応が著しかったのは、初めて焼いたチーズケーキだった。
「美味しい」って、一口食べた君は珍しくはっきりそう言った。あ、これは失敗だなって私はすぐに予感した。
 君は顔色を真っ青にしながら、ホールのそれを食べきった。私がいつも、全部食べるまでしつこくつきまとうせいだった。明らかに君の胃袋の容量を超過していたけど、君は全部口に運んで、そのまま寝込んでしまった。
 片づけの時、私は自分用に分けていたそれの生地を口にして、吐き出した。砂糖と塩を間違えるという軽率なミスを犯した結果に生まれたそれは、明らかに人間の食用ではなかった。君の腎臓が壊れないことを願い、私の料理研究はその後控えめになっていった。


 君の部屋は、私の部屋よりも随分落ち着いた。
 君の隣は、誰の隣よりも随分居心地がよかった。
 一緒に過ごす時間が、私は大好きになっていた。


 夏休みが終わり再び授業が始まって少しした頃、君は私に無断で学校を休んだ。ただのサボりかと思ったけど、出席表の催促も、ノートの貸与のお願いもなかった。
 風邪でも引いて寝てるのかな。
 私はそう思って、学校の生協で買ったポカリスエットを鞄に忍ばせて、授業の終わりに君の部屋に行った。

 君の部屋は、滅茶苦茶になっていた。
 窓ガラスは割れて、ベランダに目覚まし時計が転がっていた。部屋中に折角仕上げた授業のプリントが散乱し、床ではコップが割れていた。ゴミ箱はひっくり返り、枕は破れ、恐ろしいことに卓上には包丁が投げ捨てられていた。
「帰って」
 肩越しにその惨状を見て、口をあんぐり開けている私に、君は繰り返した。
「帰って」
 ただ、その口調にあんまりにも力がなくって、二度目のそれはか細くて消え入りそうだったから、私は君が観念するまで居座った。
 力なくふらふらと足下のおぼつかない君と、部屋を片づけた。包丁は、君の目に触れないよう、そっと台所にしまった。この刃を君が誰に向けようとしたのか、知るのは怖かった。
「寝なよ。私起きてるから」
 私がそう言うと、君は一度小さく頷いて、ぐったりと深く眠ってしまった。君の疲れ切った寝顔をしばらく眺めてから、私は裁縫道具を探し当て、破れた枕を縫った。
 二時間ぐらいで目を覚ました君は、疲れていたけど、すっかり落ち着いていた。
「帰ってくるって」
 誰が、と私は訊いた。天邪鬼を忘れた君は、瞼を擦ってがっくりと肩を落としたまま、弱々しく笑った。
「僕の人生を、壊した人」

 刑務所から父親が戻ってくるんだと、君は言った。

 君の心を乱す誰かに、私は君を渡したくなかった。君の兄はとっくに社会人として生活してるけど、絶縁状態で居場所すらしれなかった。同じように父親とも縁を切ればいいと残酷なことを言う私に、君は頷かなかった。ようやく君は、君のことを誰も知らない世界までやってきた。それが壊されてしまう恐怖と怒りに、君はただ一人、震えてたんだ。
 そのくせ笑う君は、とびっきりに優しかった。


 君は、段々と疲れていった。目の下には三日月の隈が浮いた。痩せてるのに、さらにがりがりになっていった。眠くならないし、お腹も空かないんだって、君は困った顔をしていた。もうすぐ冬がやってくるのに、寒くもないって衣替えもせずに、半袖のシャツを着ていた。
 私は心配になった。大丈夫って尋ねると、大丈夫って答えるから。君なら、大丈夫じゃないって答えるべきなんだ。


 悲しいことに、君は自分が異常だと自覚していた。自分の人生が壊れたものだと、知っていた。