地球の四倍のサイズのガスでできた真っ青な巨大惑星。この青の中の氷点下二百度になるダイヤモンドが吹き荒れる嵐の中で、超巨大コンピューターシステムは湯気をもうもうとたてながら地球をシミュレートしていた。

 英斗は自分の選んだ世界の結果がこんなサイバーな構造物になり、地球を街を人を動かしている事実に感嘆する。単に『異世界があったらいいな』と無意識で思っていただけで自分たちの世界がこんなことになるとは全く想像もつかなかった。

 ここで、レヴィアたちの宇宙船が火星に行こうとして、女神に止められた理由に気が付く。そう、女神たちは火星を作っていなかったに違いない。探査機の調査に耐えられるレベルの火星は作ってあったものの、レヴィアたちに暮らされると都合が悪かったのだ。

 しかし、魔王は『女神は金星にいる』と、言っていた。なぜ海王星ではなく金星なのか不思議に思った英斗はさらにメタな視点で海王星を俯瞰(ふかん)していく。そして次の瞬間、ブワッと意識が金星に飛んだ。

 神々しく黄金色に輝く惑星、金星。そしてその衛星軌道に広がる巨大な構造体。それは宇宙空間にまるで悪魔の羽のような巨大な黒いパネルを無数展開し、ぼうっとほんのり赤く光っている。そう、これらもコンピューターシステムだった。

 なんと、海王星はこの金星のコンピューターシステムによって創り出されていたのである。

 つまり、金星のコンピューターシステム上の仮想現実空間で海王星が作られ、海王星で作られたコンピューターシステム上で仮想の地球が作られていたのだ。

 このまるでマトリョーシカのような入れ子構造の世界に、英斗はめまいがした。

 自分は異世界が欲しかっただけなのに、なぜこんなとんでもない複雑な構成になっているのだろうか? きっとこの金星もまた別の星のコンピューターシステムに作られているに違いないのだ。

 英斗はその複雑怪奇な宇宙の構造に気が遠くなり肩をすくめ、首を振る。

「パパ! 急いで!」

 振り向くとついてきたタニアが指さしている。指先には空間の切れ目があった。

 英斗は全てを理解し、うなずく。

 この宇宙は自分の作った情報の世界。分かるということはすなわち自在に動かせるのだ。


       ◇


 英斗は気がつくと、死んで転がっていた遺体の中に戻っていた。吹き飛ばされた頭は元に戻り、心臓もドクンドクンと元気に鼓動を打っている。

 英斗は両手を見つめ、指を動かし、元通りになったことを確認した。瞑想し、単に自分が復活した世界を思い描いただけで本当に生き返ってしまったのだ。世界がこんな仕組みになっていたとは本当にどうかしている、とまるでキツネにつままれたような顔をして英斗は首を振った。

 視線を感じてそちらを見ると、転がされた紗雪が丸い目をして英斗を見つめている。

 英斗はニコッと笑って立ち上がる。

 女神をいたぶっていた魔王は、いきなり英斗が立ち上がったのを見て唖然とする。

「お、おい……。お前なんで生き返ってんだ?」

 しかし、英斗は魔王を無視し、スタスタと紗雪のところまで行った。

「え、英ちゃん……」

 すっかり弱って、涙と血で汚れてしまった綺麗な顔を向ける紗雪。

 英斗は涙ぐんでそっと抱き起し、

「僕が来たからもう大丈夫だよ……」

 そう言いながら、怪我を瞬時に治した。

 うっ……うっ……。

 紗雪は英斗の体温を感じながら嗚咽する。完全に諦めた絶望の中に現れたまさかの温かな希望。落ち着いた英斗の心音を聞きながら紗雪は少しずつ自分を取り戻していった。

 無視された魔王は怒髪天を()く勢いで怒り、

「無視してんじゃねーぞ! ザコが!」

 と、叫びながら腕をビュンと振り、光の刃を撃ち出した。

 光の刃は光の微粒子を辺りにまき散らしながら優雅に宙を舞い、英斗の背中に着弾し大爆発を起こす。

 ズン! という激しい衝撃がシールドいっぱいに響き渡り、漆黒の爆煙がもうもうと上がった。普通の人間なら木っ端みじんである。

「クズは死んどけ! カッハッハ!」

 魔王はいやらしく笑いながら吐き捨てるように言った。

 ところが、爆煙が晴れていくと英斗たちは平然としているではないか。

「な、何だお前は……。やはり特異点か……」

 と、眉をひそめ、思わず後ずさった。

 英斗は魔王の攻撃が効かない宇宙を選んでいる。どういう機序でこうなっているのか英斗も分からないが、もう魔王の攻撃が効くイメージがわかなかった。

 英斗は憂鬱そうな顔をして、

「ねぇ? 魔王って殺した方がいいよね……。でも……」

 と、紗雪に聞いてうなだれる。

 人殺しなんて初めてなのだ。たとえどんな悪人でもその人の未来をすべて切断してしまうということは抵抗があり、戸惑ってしまう。

 紗雪は英斗の顔を見上げ、

「あいつは生かしておいてはダメよ。地獄なら私が落ちるわ……。殺して」

 と、まっすぐな目で英斗を見つめた。

 英斗はしばらくその澄み通ったこげ茶色の瞳を見つめ、

「勇気を……、くれないか?」

 と、泣きそうな顔で頼む。

 紗雪はクスッと笑うと目を閉じて唇を差し出した。

 英斗はそっと唇を重ね、紗雪の柔らかな舌をチロチロと優しくなでた。

 体内に流れ込む紗雪の新鮮なエクソソーム。体中に勇気が沸き起こってくる。

 英斗は戦いに行く時のキスの気持ちを初めて理解したのだった。









57. 宇宙の意志

「おい! 何見せつけてくれてんだよ!」

 魔王の罵声が響いた。

 ユラリと立ち上がる英斗。

 くるっと振り向き、確固たる決意が浮かぶ目で魔王を見据えると、ツカツカと魔王の方へと歩き出した。

「特異点だろうが今の俺には関係ない。すり潰してくれるわ!」

 魔王はクワッと目を見開くと、次々と煌びやかに輝く魔法陣を展開し、英斗を炎であぶり、重力で潰し、絶対零度で凍らし、真空で切り裂いた。

 その圧倒的な攻撃のラッシュはすさまじく、爆発的なエネルギーの奔流が英斗の身体の周りで渦巻く。

「あぁ! 英ちゃん!」

 激しい閃光に目を向ける事すらできない紗雪は、今にも泣きそうな顔で叫んだ。

 しかし、英斗の歩みは止まらない。次元を切り裂いても、英斗の身体のデータを書き換えても何をしても止まらなかったのだ。

 爆煙を身にまといながら、青く不気味に光る眼でまっすぐに魔王をにらみ、淡々と魔王との距離を詰めていく英斗。

 あまりの想定外のことに魔王の額を冷汗が流れる。この世界の法則を牛耳っているはずの魔王に倒せない者がいることなどあってはならなかった。

 魔王はピョンと大きく後ろに飛び、距離を取ると、

「仕方ない……。究極の技で葬ってやろう……」

 魔王はギロリと英斗をにらみ、両手のひらを英斗に向け、うぉぉぉぉ! と雄たけびを上げる。

 魔王の目は血走り、苦しそうにしながら技を繰り出そうと脂汗をタラリとながした。

 満天の星々の美しいシールドの中を、英斗は淡々と魔王を目指し、歩く。辺りには、魔王が放った魔法の残り火がかすかな音を立てていた。

 直後、ギュウンと空間が一瞬歪み、全ての音がピタッと止まる。

 英斗も足を空中に上げたまま不安定な姿勢で止まってしまった。

 魔王は辺りを見回し、全てが止まっている状況に満足げにうなずくと、

「クハハハ! 見たか! これが世界制動(シャットダウン)だ! 海王星のサーバーの動作を止めた。お前らはもう動くことも感じることもできん。俺の勝ちだ! はーっはっはっは!」

 と、満足げに笑った。不気味な存在だった英斗ももはやただの人形同然である。

「さーて、あの女を無茶苦茶に犯してぶち殺し、生首を見せてやろう。どんな顔するかな? クフフフ……」

 魔王はタッタッタと軽快に紗雪のところまでかけていくと、紗雪の顔を、身体をねちっこく視姦し、

「うーん、ちと胸が足りんがいい身体だ。グチャグチャに犯してやる。ウヒヒヒ……」

 と、言いながら服に手をかける。

 直後、ゴスッ! と、鈍い音をたてて、魔王が吹っ飛んだ。

 ぐはぁ!

 魔王は一体何が起こったのか分からず唖然とする。何かが頭をヒットした。しかし、自分以外時間が止まったこの空間で吹き飛ばされるなどありえない。

 満天の星々の中に浮かぶシールドの中で、英斗は離れたところで足を上げたままだし、ヴィーナも転がったままだ。一体どういうことか分からず、魔王は鼻息荒くしながらギリッと歯を鳴らした。

 魔王は辺りを慎重に見まわし、再度紗雪に迫るとそっと服に手を伸ばした。

 刹那、ゴスッ! とまた魔王が吹き飛ばされる。

 ゴロゴロと転がり、無様にひっくり返る魔王。

「チクショウ! 誰だ!」

 魔王は真っ赤になって辺りを見回す。そして、英斗の立っている位置が微妙にさっきと違うことに気が付いた。

「小僧……? 貴様、動けるのか!?」

 魔王は信じられないというような顔で喚いた。

 英斗はニヤッと笑うと、

「あれ? バレちゃった」

 と、嬉しそうに肩をすくめた。

「な、なぜだ……。くっ!」

 魔王は得体の知れない英斗の強さにゾッとして、冷や汗を流す。

「諦めな、宇宙の意志がお前を許さない」

 英斗はそう言って、ツカツカと魔王に向かって歩き始めた。

 魔王は気おされ、後ずさりながら、

「特異点、お前は危険だ! この世界ごと葬ってやる!」

 と、充血した目で叫ぶと、床を蹴り跳び上がった。シールドを超え、宇宙へ高く舞い上がっていく魔王。

 火の玉になった地球の紅い輝きをうけながら満天の星々の中で

「ぬぉぉぉぉ!」

 と、鬼のような形相で魔王は吠えた。

 いよいよ、魔王の最大の攻撃が来る。英斗はキュッと口を結ぶと、精神をもう一度瞑想の世界へと下ろしていく。

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

 と、深呼吸を繰り返し、その時を待つ英斗。

 汗びっしょりになった魔王はニヤリと笑い、

「準備は整った……。この一帯の星系含めてお前ら全部消し去ってやる。お別れだ……。クフフフ……」

 と、ドヤ顔で英斗を見下ろした。
















58. フローラルの香り

 英斗はすまなそうな顔で、

「本当に申し訳ないんだけど……。お前が作ったのはそれか?」

 と、魔王のすぐそばに発生した【空間がぐにゃっと歪んだ黒い球】を指さした。

「へ?」

 魔王は横を見て凍りつく。

 そこにはマグマの塊となった地球がぐんにゃりとひずんで見え、真ん中に漆黒の丸が不気味に口を開けていた。

「こ、これはブラックホール!? なぜここに? 金星に仕掛けたはずだぞ!」

 真っ青になって逃げようとした魔王だったが、時が動き出す。

 強烈なブラックホールの重力がグン! と魔王を襲い、まるで無数の手で捕まえたように魔王の動きを止めた。ブチブチっと魔王のシャツが引きちぎられ、ブラックホールへと吸い込まれて、パリパリっとかすかな閃光を発しながら消えていく。

「き、貴様ーーーー! 何やった!?」

 吸い込まれてしまったらもう生き返ることもできない【根源の力(エッセンス)】で作ったブラックホール。魔王は必死に活路を探した。

 しかし、ワープも何も一切の権能がロックされていて何もできない。

「僕は何も? ただ、お前が致命的に失敗する世界を選んだだけさ」

 英斗は肩をすくめる。

「くぅぅぅ! だから特異点は嫌なんだよ! うわっ! うわぁぁぁぁ!」

 魔王は断末魔の叫びをあげ、ブラックホールへと真っ逆さまに堕ちていく。

 刹那、パリパリっとほのかな閃光を上げ、魔王の身体は漆黒の球体の中へと消えていった。

 あの邪悪な限りを尽くしてきた魔王。それが今、宇宙の根源へと還っていった。もはや二度と悪さすることはないだろう。

 終わった……。

 英斗は大きく息をつくと手を合わせ、ただ、冥福を祈った。

 ブラックホールは徐々に火の玉となっている地球の方へと落ちていき、最後には地球を飲みこみ始める。綺麗な灼熱のマグマの球体だった地球に、まるで風船をつまんだようなえくぼができると、徐々にそれが広がっていき、どんどんとブラックホールに飲みこまれていく。

 英斗は紗雪のもとへ行き、手をつないでその恐ろしい天体ショーを眺めていた。自分の妄想で選んでしまった世界。そこで織りなされた数々の冒険の日々。それらが今、終焉(しゅうえん)の時を迎えたのだ。もう邪魔するものは誰もいない。あの愛しい日常がもうすぐ戻ってくる。

 徐々に小さくなっていく灼熱の地球を眺めながら、英斗は何も言わずただ、その数奇な運命を感慨深く思い、紗雪の手をぎゅっと握りしめた。


        ◇


 地球が全てのみ込まれると、満点の星々の世界が広がった。ヴィーナが乗ってきた乗り物が淡く黄金色に輝き、まるで満月の夜のように静かに辺りを照らしている。

 英斗は倒れているヴィーナを揺り動かし、

「女神さま……。大丈夫ですか?」

 と、声をかけた。

 ヴィーナはゆっくりとまぶたを開き、琥珀色の瞳で英斗を見つめる。その美しい澄んだ瞳に徐々に力が戻ってくると、ゆっくりと辺りを見回し、

「あれ……? あいつは?」

 と、不思議そうに聞いた。

「僕が倒しておきました」

 英斗はニコッと笑う。

 ヴィーナはピクッと眉を動かすと、辺りを解析し、地球があったところにありえない重力を見つけた。

「な、何よこれ……」

 と、真っ青になって【根源の力(エッセンス)】で作ったブラックホールを調べていく。

 システム上ありえない、全てを飲みこむその異常な存在にヴィーナは唖然として、

「これであいつを……? 君が倒した……の?」

 と、目を丸くして英斗に聞く。

「そう、僕が」

 英斗はニコッと笑って手を差し伸べる。

 ヴィーナは信じられないという表情で英斗の目を見つめ、英斗に引っ張ってもらって起き上がった。

 しばらく何かを考えていたヴィーナだったが、ハッとして、

「そうか! 君、君なのね!」

 と、嬉しそうに笑いながら英斗にハグをした。

 うわっ!

 いきなり抱き着かれ、華やかなフローラルの香りに包まれて焦る英斗。

「ありがとう。待ってたわ」

 ヴィーナは安堵した表情を浮かべ、耳元でささやいた。







59. 再会の分娩室

 ――――それから五年。

 英斗とレヴィアは東京の田町にある女神のオフィスで働いていた。

 地球を丸っと動かすコンピューターシステムと言ってもバグや障害は発生するし、ハッカーたちが悪さしたり、魔王のようなテロリストが攻撃を仕掛けてきたりする。管理者(アドミニストレーター)である女神にはそういったトラブルを解決する役割があり、英斗たちはそれをお手伝いしていた。

 いくら英斗が好きな宇宙を選べると言っても、些細なことまで全部宇宙を選び続ける訳にもいかない。世の中、あちらを立てたらこちらが立たないことは多いのだ。

 英斗がデスクで端末を叩いていると、レヴィアがコーヒーを片手にやってきて、

「嫁さん、そろそろ予定日じゃろ?」

 と、ニコニコしながら聞いてくる。

「はい、もうそろそろですよ。すっかりお腹も大きくなって、ポコポコ蹴ってくるんですよ」

 英斗は嬉しそうにそう返す。実は仕事をしていても、もうすぐ生まれる赤ちゃんのことで頭がいっぱいだったのだ。

「ははは、楽しみじゃのう」

「レヴィアさんのところはまだですか?」

 ニヤッと笑う英斗。

「う、うちはそういう計画じゃないから……」

 真っ赤になって、うつむくレヴィア。

「ふふっ、毎晩パワーアップしてそうですね」

 レヴィアはギロッと英斗をにらむと、

「お主はどうしてそういうデリカシーの無いことを!」

 と、いいながら背中をバシバシと叩いた。

「痛い、痛いですって! あ……」

 その時、ピコンとスマホにメッセージが入る。

「じ、陣痛だ! 行かなきゃ! 後、お願いします!」

 英斗は急いで空間を割ると病院へと跳ぼうとする。

「おいおい、まずは自宅なんじゃないのか?」

 レヴィアは呆れたように言う。

「あっ! そうだった! さ、紗雪ーーーー!」

 英斗は行先を自宅へと変え、空間を跳んで行く。

 いよいよやってくる赤ちゃん。いままで覚えたことのないような嬉しさ半分、不安半分の不思議な感情に戸惑いながら、英斗は紗雪の元へと急いだ。


         ◇


 翌朝、空が白み始めたころ――――。

「はい! 頭見えてきたよー! さぁ最後のひと踏ん張り!」

 女医さんの声が分娩室に響く。

 んんーーーー!

 パジャマ姿の紗雪は分娩台で足を開き、持ち手を握って全身の力をこめていきんだ。もう何時間も激しい痛みと戦って疲労困憊(こんぱい)だったが、いよいよクライマックス、最後の力を振り絞る。

 直後、するりと赤ちゃんが女医さんの手に降りてきた。

 オギャー! オギャー!

 分娩室に可愛い声が響きわたる。

 や、やった……。

 長かった、手に汗握る出産に安堵し、英斗は紗雪の髪をなでながら大きく息をついた。

 女医さんは手早くへその緒を処理すると、

「はい、可愛い女の子ですよー!」

 と、嬉しそうに英斗に見せた。

 生まれたての真っ赤な新生児。その可愛い顔には泣きぼくろがついている。

 それは忘れられないタニアのチャームポイントだった。そう、やっぱりタニアは二人の子供だったのだ。

 英斗はこの数奇な運命に思わず涙ぐむ。魔王軍の襲撃で、魔王城で、激しい戦いの中、何度この子に助けられたか知れないのだ。

 今はか弱い新生児でも、すぐにとんでもない存在へと育っていくだろう。

「ありがとう。待ってたよ」

 英斗はそっとタニアの頭をなでた。

 タニアは目を開け、英斗を見ると泣き止み、

「パパ……?」

 と、小首をかしげる。

「おぉ、パパだぞ!」

 英斗は唖然としている女医さんからタニアを受け取ると、

「ほら、ママもいるぞ」

 と、紗雪の方を向かせる。

 紗雪はそっと伸ばした指でタニアの泣きぼくろをなで、

「おかえり……」

 と言ってポロリと涙を流した。

「マンマ……」

 タニアはちっちゃな手で紗雪の人差し指をキュッとつかむと、幸せそうに微笑んだ。

 女医さんはその光景を見て、

「え? なんでもう話せるの?」

 と、青ざめた顔で思わず後ずさった。








60. 限りなくにぎやかな未来

 それから三年、タニアが過去へと旅立つ時がやってきた――――。

 自宅のリビングで出発準備をしているタニアを眺め、心配で仕方ない英斗は泣きそうになりながら、

「タニア! 肉球手袋は持ったか? おやつは?」

 と、声をかける。

「大丈夫だよ、パパ。きゃははは!」

 ボーダーのシャツを着た可愛いプニプニの幼女は、楽しそうにくるりと回る。

 なぜこんないたいけな幼女を送り出さねばならないのか、因果の歪みの理不尽さに英斗はうなだれる。

「ごめんなぁ、制約でタニアじゃないと行けないんだ……」

 紗雪はそんな英斗を見て、

「大丈夫よ、あなた。タニアは立派に活躍してたじゃない」

 と、英斗の肩をポンポンと叩く。

 タニアはトコトコっと英斗の前まで来ると、

「じゃあ、行ってきますのチュー!」

 と、言って唇を突き出し、英斗に両手を伸ばす。

「お、おう。魔物は強いぞ。気をつけろよ」

 そう言いながら英斗はタニアを抱き上げる。

 タニアは目をつぶると嬉しそうに英斗の唇にぶちゅっとキスをした。

 神々しく光り輝き始めるタニア。

 きゃははは!

 プニプニのほっぺで楽しそうに笑った直後、英斗の腕の中でブゥン……という音を残してタニアは消えていった。

「あぁ……、タニア……」

 ガクッとひざから崩れ落ちる英斗。

「大丈夫だって……」

 紗雪はそう言ってそっと英斗にハグをする。

 巨大な手で十万匹の魔物を潰し、魔王城で一つ目ゴリラの群れを倒していったタニア。英斗はその情景を思い出しながら、手を組んでひたすらに無事を祈った。

「なんで……、うちの娘が戦うことになっちゃったのかしら……?」

 紗雪が不満げに言う。

 世界には無数に人間がいる。何もわざわざ未来から娘が助けに行く必然性などなかったのだ。

 英斗はピクッと反応し、目を宙に泳がせながら、

「な、なんでだろうね……」

 と、ごまかす。

 しかし、紗雪にはそんなごまかしは通用しない。

「あなたのせいなの!? どういうこと?」

 紗雪はギロッと英斗をにらむ。

「え? あ、そ、それは……。昔のラノベに父娘で一緒に戦うのがあって『そういうのもいいなぁ』って思っただけなんだよ」

 紗雪は唖然とし、宙を仰いだ。

 紗雪が戦う羽目になったのも、タニアが戦う羽目になったのも全部英斗の妄想のせいだったのだ。

「こんなになるなんて思わなかったんだよぉ」

 必死に弁明する英斗。

 紗雪はジト目で英斗をにらむと、

「あなたの妄想は危険だわ。これからはラノベ禁止ね!」

 と言ってプイっと向こうを向いてしまった。

「えっ! き、禁止ぃ!?」

 大好きな趣味を禁止され、呆然とする英斗。

 異世界で、宇宙で、ヒーローやヒロインが活躍するファンタジーは、英斗の魂をどこまでも無限にはばたかせてくれていたのだ。それが禁止になってしまう……。

 はぁ~と、英斗はため息をついて、この世界の理不尽さを憂えた。

 その時だった、

 ガチャ!

 いきなりリビングのドアが開いた。

「ただいまー!」

 そう言いながら、黒のボディスーツに身を包んだ美少女が現れる。それは紗雪にも似た、黒髪を長く伸ばした女の子だった。

「あれ? タ、タニア……? は、早かったな……」

 段取りと違う帰還を果たしたタニアに、英斗は固まってしまう。

 タニアはそんな英斗に迫ると、ニコッと笑いながら美しい目をきらっと輝かせ、

「じゃあ、ただいまのチュー!」

 と、目をつぶって唇を近づける。母親似の美しく整った顔、長くカールしたまつ毛。もう女としての魅力がのぞいているタニアに、英斗は心臓が高鳴ってしまう。

「ダメ、ダメー!」

 紗雪が焦って介入してくる。大きくなった娘と英斗がキスするのは許しがたかったのだ。

 タニアはクスッと笑うと、

「じゃあ、ママとチュー!」

 と言って、紗雪に抱き着くと、唇を吸った。

 予想外の展開に紗雪は対応が遅れ、手をバタつかせる。

 ん、んん-ーーー!

 紗雪はタニアに舌まで入れられてしまい、目を白黒とさせた。

「ダ、ダメよ!」

 両手でタニアを突き放す紗雪。

 直後、二人は神々しい黄金色に輝きだした。

「え?」「は?」

 紗雪は英斗と顔を見合わせ、唖然とする。

「新たな扉を開いちゃったみたいね。くふふふ」

 タニアはペロリと唇をなめながら、嬉しそうに笑った。

「もう! この子は!」

 紗雪はタニアを捕まえようと飛びかかり、タニアはまるで鬼ごっこみたいに鋭い身のこなしで逃げ回る。

 きゃははは!

「待ちなさい!」

 タニアは壁を蹴り、天井を蹴り、リビングを縦横無尽に逃げ回る。なんというおてんば娘だろうか。

 娘に負けじと追いかける紗雪。

 黄金の輝きを振りまき、すさまじい運動性能を見せる二人を見ながら、英斗は、

「俺ってもう要らないのでは……?」

 と、アイデンティティの喪失の危機に震える。

「おっとアブナイ!」

 紗雪の手をギリギリで避けたタニアだったが、よろけた隙にひざが英斗に直撃。ゴスッ! と鈍い音を立てて英斗が吹っ飛び、ごろごろと転がった。

「あっ! いけない! パパー!」「あぁっ! あなた!」

 パワーアップしたタニアの洗礼を受けた英斗は、ぐったりとして意識が飛びかける。

 慌てて英斗を抱き起こす紗雪。

「あなた……、大丈夫?」

 目を回しながら英斗は、

「キ、キスは相手の了解を取ってからな……」

 そう言って、ガクッと紗雪のふくよかな胸にもたれた。


 こうして三人の限りなくにぎやかな暮らしが始まった。

 タニアの起こす楽しい騒動の数々はまたの機会に……。