「ねぇ、キスして」

 つややかな黒髪をサラサラと流しながら紗雪(さゆき)は小首をかしげ、不機嫌さを隠しもせず英斗(えいと)を見つめながら意味深な言葉を放った。

 放課後の教室に忘れ物を取りに来ただけの英斗は、紗雪の真意をはかりかねて眉をひそめ、紗雪のご機嫌斜めな顔を見つめた。三組のクールビューティと噂される紗雪の肌は透き通るようにきめ細やかで、整った目鼻立ちには見る者の心を揺り動かす魔力をはらんでいた。

 紗雪は英斗の幼馴染ではあったが、仲が良かったのは小学校まで。中学時代に呼び出され、

「もう声かけないで」

 と、紗雪に宣告されてからというもの、関係はすっかり破綻していた。同じ高校に進んだ後はお互い目を合わさないような関係となり、席が隣となっても言葉一つ交わしたこともない。それなのにいきなりキスをしろという。

 幼いころ、紗雪はいつも笑っている太陽のような娘だった。そんな紗雪と毎日のように遊ぶうち、いつしか英斗にとって紗雪は、心の真ん中に輝く存在になっていた。

 だからあの日、断交を宣告された時には絶望の中で心臓が止まりかけたし、自分の何が悪かったのか何度も何度も考えた。しかし、ちゃんと彼女と向き合う機会を設けられずにここまで来てしまっている。

 確かに、何のとりえもなく、異世界物のラノベを読み漁っては妄想を楽しんでいるような男では、クールビューティとは釣り合わないだろう。それでも、英斗には誠実にまっすぐに生きてきた自負はあった。

 だから、キスをせがまれることには心をときめかせる色がある。あの頃の笑顔で笑ってくれるなら自分は何だってできるのだ。しかし、紗雪の言う『キス』はそんな甘い感傷とは程遠く感じられる。

 単にからかっているだけかと思ったが、ラムネのビー玉みたいに澄み通った紗雪の瞳には深い憂いの色が浮かんでいる。

 英斗は真意を問いただそうと口を開いたが、いい言葉が見つからず、間抜けにも口を開けたまま止まってしまった。

 窓から入ってくる風がモスグリーンのカーテンを膨らませ、まるで催促(さいそく)するようにパタパタとはためく。

「早くしてよ」

 紗雪は口をとがらせ、眉をひそめる。

 美少女はずるい。そんな不機嫌な顔でも美しさをたたえているのだ。

 雲がすっかり傾いた太陽を覆い隠し、教室はふっと暗くなる。紗雪の表情には悲壮ささえ感じさせる闇のニュアンスが見て取れた。

 英斗は眉をひそめ紗雪の瞳をのぞきこむ。そして、大きく息をつくと、ニコッと笑いながら近づき、

「何があったんだい? 何でも聞く……」

 と、言いかけた時、紗雪は

「黙って!」

 と叫ぶと、英斗の頭をつかみ、強引に唇を重ねてきた。

 英斗は意識を持っていかれる。視界が覆われ、目の前に美しくカールしたまつ毛が迫っていた。

 ん!? んん……?

 これがキスというものなのだろうという事は分かったが、どうしたらいいのか全く分からず、英斗はただ両手で宙をもがくばかりだった。

 紗雪の柔らかい舌が、チロチロと英斗の唇を愛しそうに()い、英斗の脳髄(のうずい)を揺らす。

 英斗は頭が真っ白になってしまったが、自然と舌が紗雪を求めていく。

 失われていた紗雪が戻ってきてくれた。ついそう思ってしまった英斗は調子に乗り、両手で紗雪を抱きしめる。

 直後、紗雪は英斗を突き飛ばすように離れ、顔を真っ赤にし、手の甲で唇をぬぐった。その全てを貫きとおすような瞳は鋭く英斗をにらみ、息も上がっている。

 英斗はただ紗雪の不可解な行動に言葉を失い、この幼馴染の胸中を推しはかりかねていた。

 紗雪は急いでポーチからリップスティックのような筒を取り出す。

 何だろうと思った瞬間、紗雪は筒を英斗の顔に向けプシュッと何かを噴きかけた。

 くはっ……。

 思わず顔をそむけた英斗だったが、急に意識が遠くなっていく。

「な、なにするん……」

 そう言いかけて、英斗は椅子にどさりともたれかかると机に突っ伏すように倒れ込んでしまう。

「ゴメンね、英ちゃんに酷いことしちゃった……。でもこれでみんな忘れるわ」

 紗雪はそう言いながら近未来的なシルバーのジャケットにそでを通す。心なしか黄金色の淡い光が紗雪を包んで見えた。

 そして、窓枠にピョンと飛び乗ると、そのまま三階の窓から裏庭に飛び降りていく。

 え……?

 ぼんやりとした意識の中で、現実感のない光景をどう理解したらいいのか混乱する英斗。

 紗雪はそのまま裏庭をピョンピョンと凄い速度で駆け抜けると、まるでハードルを飛ぶ陸上選手のように高い(へい)を軽々と飛び越え、街の方へ消えていった。


         ◇


 しばらくぼんやりしていた英斗だったが、徐々に頭がはっきりしてきた。

 いきなりキスをして、超人的な身のこなしで街の方へと消えていった美しい幼馴染。英斗はその現実感のない出来事に顔をしかめ、首をひねる。

 しかし、唇に残るあのチロチロとした紗雪の舌の動き、柔らかな舌の温かさは今でもありありと思いだせる。それは夢でも何でもない現実として自分に起こったミラクルな物語だった。

 英斗はほほを赤く染めながらそっと唇をなで、紗雪の不可思議な行動について考えてみる。しかし、いきなりのキスも超人的な運動能力も理解の及ぶような話ではない。首を振って、大きく息をついた。

 ヴィ――――ン! ヴィ――――ン!

 いきなりスマホがけたたましく鳴り響いた。ゲート発生の緊急警報だ。

 あわててスマホを開くと、

『小杉町にゲートが発生しました。至急避難してください』

 というメッセージが踊っている。

 マジか……。

 英斗はドバっと悪い汗が噴き出る感覚に襲われ、血の気が引く。

 急いでSNSアプリを開くと、見慣れた駅前広場に瑠璃色の輝きが揺らめくゲートが開き、魔物がワラワラと出てきている動画が上がっている。たくさんの人が逃げ惑う動画や魔物たちの破壊活動の状況も凄い勢いで流れてくる。

 去年あたりから地球上のあちこちでゲートと呼ばれる空間の切れ目が発生し始め、そこから湧いてくる面妖(めんよう)な魔物たちが人々を襲うようになっていたのだ。日本ではこれで五回目、東京では初めての襲来だった。

 LIVE映像を見ると、駅前で十頭くらいの魔物が暴れている。毛皮に覆われた魔物は巨大なヒグマのようで、四つ足でズンズンと飛び跳ね、鋭い爪のついた太い腕で鉄骨もコンクリートも粉砕してしまう。不思議なことにその顔には凶悪なデカい口があるだけで目も鼻もなかった。そして魔物たちはガチガチガチと鋭い歯を鳴らし、身のすくむような奇声を上げている。

 英斗はそのこの世のものと思えない不気味な存在が自分の街に現れてしまったことに、苦虫をかみつぶしたような表情をしながら首を振った。最高とは言えないまでも愛しい日常が壊されてしまう予感が真綿のように首の周りにまとわりついて、思わずため息をつく。

 魔物たちは嬉々として破壊活動に精を出す。車を軽々と持ち上げるとそのままバスにぶつけて爆発炎上させ、駅前公園の赤いタワー型のモニュメントを一撃で粉砕するとガレキをブンブンと振り回して放り投げ、駅ビルの喫茶店をグチャグチャにぶち壊した。

 その時、銃声が上がり、魔物が断末魔の悲鳴を上げながらひっくり返る。

 見ると、駅前の歩道橋の上に自衛隊員らしき人影があり、そこから銃を撃っているようだった。

『うぉぉぉぉ!』『キタ――――!』

 LIVE映像のコメント欄には歓喜の声が一斉に流れていく。何とかこの奇怪な化け物どもから日本を守って欲しい。みんなの思いがコメント欄の勢いに現れていた。

 さらなる攻撃を加える自衛隊員だったが、魔物たちは素早く動き、なかなか当たらない。当たっても体表の毛皮は強靭で、弾丸は弾かれてしまう。ツルっとした口だけの顔に当てない限り効果は無いようだった。

 そうこうしているうちに歩道橋に迫った魔物は屈強な熊パンチ一撃で橋脚を粉砕し、歩道橋はあっさりと崩壊していく。自衛隊員は放り出され、魔物の餌食となってしまう。

『あぁぁ……』『マジかよ……』

 魔物は身の毛もよだつ雄たけびを駅前広場にこだまさせた。

 直後、重機関銃の重い銃声がビル街に響きわたり、魔物が吹き飛んだ。応援の装甲車がビルの影から魔物たちを狙い撃ちにしたのだ。

 再び盛り上がるコメント欄だったが、それも長くは続かなかった。

 ゲートから真っ赤な巨体の【オーガ】と呼ばれている魔物が出てきたのだ。世界各地で甚大な災厄をもたらしてきた筋骨隆々とした体躯はまさに赤鬼。まるで重機のように一歩歩くたびにズシンズシンと地響きを鳴り響かせながら装甲車に迫る。重機関銃を集中砲火させる自衛隊だったが、オーガにはすべて弾かれて全く効果が見られなかった。

 急いで撤退し始めた装甲車だったが、オーガは全身に力をこめ、身の毛がよだつ雄たけびを上げると口から閃光を放つ。

 パウッ!

 鮮烈なレーザー光が撤退中の装甲車を貫き、爆発炎上。激しい爆炎がもうもうとビル街に上がっていった。

 お通夜のようなコメント欄。

 オーガは調子に乗り、次々とレーザー光を辺りに放ちだした。雑居ビルはレーザー光で斜めに切り裂かれ、崩落しながら爆発炎上していく。次々と火の海に沈んでいく駅前のビル群。

 その時だった。小さな雑居ビルの一階の本屋が映像に映り、中で人影が動く。英斗は思わず息をのんだ。それは英斗が子供の頃から通っていたなじみの本屋である。お店のおばちゃんは気さくな人で、いつもおまけをたくさんくれた。英斗はこのおばちゃんのおかげで本好きになり、今や英斗を構成する血肉になっている。まさに原点ともいえる聖地だったのだ。

 それがオーガのレーザーを受け爆発炎上し、火の海に沈んでいく。

「お、おばちゃん!」

 英斗は真っ青になった。失ってはいけないものが目の前で燃え上がっている。それは心の奥の柔らかいところを容赦なく激しくえぐり、英斗の存在そのものを揺らした。

 直後、絶望に震えるスマホの映像に、銀色に煌めく影が横切る。すると、急にオーガが苦しみだした。

 え……?

 一体何が起こったのか分からず、コメント欄も書き込みが止まる。

 ガクッとひざをつくオーガ。

 次の瞬間カメラが映し出したのは銀色のジャケットを着込んだ女の子だった。女の子はオーガから距離を保ちながら軽やかに跳び回り、手に持った棒からカチカチカチと光の筋を無数発射してオーガに当て続けている。

 銃機関砲すら跳ね返す強靭な皮膚もこのレーザーには無力なようで、当たったところは焼け焦げて青い血を吹きだしていた。

『え?』『は?』『誰これ?』

 コメント欄にはたくさんの『?』マークが流れていく。過去の襲来ではこんな女の子が出てきたことはなかったのだ。

 女の子は仮面舞踏会で使うようなマスクで顔を隠しているが、英斗にはすぐにわかってしまう。紗雪だった。そのプリッとした紅い唇は見間違いようのない、さっきキスしたばかりの唇そのものである。

「な、何やってんだ!?」

 英斗は人間ばなれした紗雪の身のこなしに唖然としながら、無意識に唇をなでていた。

 オーガもやられるばかりじゃない、紗雪が着地する地点を狙ってその辺りにレーザー光を斜めに流し打ちする。

「危ない!」

 英斗は青くなって叫ぶ。しかし、紗雪を真っ二つに切り裂いたはずのレーザーは銀色のジャケットに跳ね返され、近くのビルに爆炎が上がった。

「見てらんないよもう!」

 英斗は駆け出す。大切な人がこの街を守るために戦っているのだ。自分に何ができるか分からないが、最悪盾にくらいはなれるだろう。

 自転車に跳び乗って英斗は駅を目指した。


       ◇


 その頃、オーガと紗雪の戦闘はクライマックスを迎えていた。

 オーガはレーザーを乱射し、紗雪は軽快な身のこなしで何とかかわす。たまに被弾するが、ジャケットに守られてギリギリ事なきを得ていた。しかし、もうジャケットもあちこち黒焦げで猶予は無くなってきている。

 紗雪は一か八か、オーガの動きを読み、一直線にオーガに迫る。オーガはすかさずレーザーを放ったが、それを両腕のジャケットではじき、そのまま頭の上を飛び越えざまに手に持っていた棒を後頭部に突き立てた。

 機関銃を跳ね返す鋼鉄の筋肉も、後頭部は弱点なのだろう。断末魔の叫びを上げながらオーガは倒れ、地響きをあたりに響かせた。

『マジかよ……』『スゲェ』

 自衛隊も歯が立たなかった怪物を、はかなげな美少女が一撃で倒してしまった。そんな現実離れした事態に日本中が騒然とする。

 映像では引き抜かれた棒がアップで映し出され、先端からは青い血が滴っていた。

『シャーペン!?』『文房具?』『そんな馬鹿な……』

 コメント欄には混乱したコメントが並ぶ。

 確かにそれは赤いシャーペン、学生が良く使っている見慣れた文房具だった。

 オーガが倒されたのを見た魔物たちは恐れおののき、急いでゲートへと逃げていく。

 紗雪はそれを眺め、ふぅと大きく息をつくと駅舎の屋根へと軽やかに飛びあがり、そのまま駅の向こうへと消えていった。

 英斗が駅前に来た時にはもう勝負はついていて、ただ、消えていく紗雪の後ろ姿だけが見えただけだった。

 駅前には息絶えているオーガの巨体が転がっていて、そのおぞましさに思わずブルっと身体を震わせる。

「紗雪……、お前……」

 幼馴染が魔法少女ばりの活躍をして街を守ったことに理解が追い付かず、英斗は頭を抱え、宙を仰いだ。