◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで? クロには何て言われてるの?」
テーブルの向こうから翡翠が軽く身を乗り出した。小さく揺れるピアスの飾りが翡翠の品のある雰囲気にとても似合っていて、見ているわたしが幸せな気分になる。
テーブルの上にはパスタと数種類のチーズが載った皿とシーザーサラダ、そしてワインのグラス。パスタはさっき店員さんが大きなチーズの塊の中で仕上げをしてくれたもの。今回、翡翠が選んでくれたのはチーズとワインが自慢のレストランだ。
「うん。振るんじゃなくて、斬るんだって」
「は?」
パスタを取り分ける手を止めて翡翠に目を向けると、眉間にしわが寄っている。なぜ?
「桜、誰かにしつこく言い寄られてるの?」
「……ん?」
「確かにそのとおりだよ。しつこい男はただ振るだけじゃなくて、徹底的に斬り捨てなくちゃダメ。甘い顔したら、いつまでもつきまとわれるからね」
「んんん……?」
話がずれているみたい。今まで演武に出ることを話していたはずなのに、いきなり「しつこい男」なんて、何を勘違いしているのだろう。
「しつこい人も気軽な人も、特に出てきてないけど。わたしに言い寄る人なんて、そうそういないよ」
風音さんが現れたことだって、未だに不思議なのに。
わたしの答えに翡翠は鼻息荒く腕を組み、椅子に体を預けた。
「それはそれで、あたしにも意見はあるけどね」
彼女はわたしを高く買ってくれているため、”実はモテる説” の支持者なのだ。でも、実績がゼロなのだから、翡翠の評価が世間とずれていると考える方が正しいだろう。そして風音さんは――蓼食う虫も好き好き、とか?
そんなことを考えながらパスタを取り分けていると、翡翠はあきらめた様子でため息をついた。
「あたしはね、剣術の話題になったから、続きの話として桜とクロの関係がどうなったか訊いたんだよ」
「あ、なるほど」
納得。翡翠にしてみれば、演武よりも恋愛問題の方に興味があるのは当然だ。風音さんとは長い付き合いの友達なのだし。
「まったく……、相変わらずのんきなんだから」
「あはは、ごめんごめん」
「で、どうなの?」
あらためて尋ねられ、どう話せばよいか頭の中を整理する。風音さんに早く話をしなければと思いつつ、演武を言い訳にして後回しにしていることが後ろめたい。
「一応、いつかは結婚したいって言われてる」
翡翠の表情が輝いたのを見て、急いでストップをかける。
「でもでも! 返事はまだいいって。ほら、さっきの演武のこともあるし……」
「そんなイベントは関係なくない? 返事をしたからといって、すぐに入籍するわけじゃないし」
「でも、小説とかにはたまにない? 体育祭が終わったら、とか、大きな仕事にひと段落着いたら、とか」
自分で言ったものの、わたしの場合は向き合うのを先延ばしにしているだけで、それで悩みが解決するわけではない。演武に願掛けしているわけでもない。翡翠が「そうねえ……」と首を傾げているのを見たら、どんどん無責任な気がしてきた。
「つまり、桜が決断できてないってことね?」
「まあ……、そうね」
返事をしていない理由は翡翠にも話しづらい。自分が冷酷で自己中心的な人間だなんて、友達にだって告白するのは辛い。翡翠に対する友情には打算も損得勘定もないということを疑われるかも知れないし。
もし話したとしても、聞いた相手としては否定するのが社交辞令の一つだろう。そんなふうに気を遣わせるのは申し訳ないし、慰めにもならない。
空しい気分でフォークにパスタを巻き付けていると、翡翠が「そうだ、今は食べよう!」と力強く頷いた。スマホを取り出し、「楽しい話をしないとね」と言いながら画面をタップする。
「結婚式の衣装を選びに行ったんだよ。それがさあ、ちょっと見てよ。イッチーが何を着ても七五三みたいで」
見せられた写真で思わずむせてしまった。
タキシード姿の一柳さんの数枚の写真。体格の良さと人のよさそうな顔が、良い家庭のお坊ちゃん風の雰囲気を醸し出している。
「ひ……翡翠は? 翡翠の方を見せてよ」
あんまり笑うと失礼なので――翡翠の夫になる人だもの――一柳さんの写真から視線を外した。でも、すでに記憶に焼き付いてしまっている。家に帰ったら思い出して笑ってしまうのは確実だ。
「あたし? 十着以上、着たんだよ! 五、六着のつもりで行ったんだけど、次々に出してくれてね」
「うわあ、きれい! いいね! いいね!」
簡単にとは言え、髪をアップにした翡翠は美しく、つやつやと輝く白いドレスを纏った姿は結婚式場のPRポスターかと思うほど完璧だ。
「翡翠の美しさには誰も敵わないね」
「ありがとう。イッチーは反応薄かったけどね。美的感覚がいまいちだから」
「そこも好きなんでしょ?」
わたしの指摘に翡翠は秘密めかした微笑みで応じた。
「ふふっ、『見た目に惚れたんじゃなくて、翡翠が翡翠だから惚れたんだよ』って」
「なんだか……感動するなあ」
一柳さんならきっと、照れも気取りもなく言ったに違いない。自分の気持ちを表現する当たり前の言葉として。ちょっぴり世間一般とは感覚がズレているけれど、誠実さは折り紙付きだ。
「……あたしね」
ワインが三杯目に入ったころ、翡翠がふと遠い目をした。
「プロポーズの返事をするまで何か月もかかったでしょう? その間に一番悩んだのは、自分のせいでイッチーが嫌な目にあったらどうしよう、不幸になったらどうしようってことだったの。自分の過去を打ち明けてふられることよりも、そっちの方が怖かった」
「翡翠……」
過去を打ち明けることよりも、大好きな人に、自分のせいで嫌な思いをさせることの方が辛い……。それって今のわたしと似ている気がする。
一番の願いは相手の幸せ。それは、どんな事情を抱えていても同じだ。
「翡翠は悪くないのにね……」
「うん。そうなんだよ」
翡翠が頷いた。その普通の――力みも闘争心もない口調に、逆に胸を衝かれた。
「あたしは悪くないの。こういうふうに生まれたんだもの。……これってね、十代のころからずっと自分に言い聞かせてきたことなの。大学に女性の服で通うことを決めたときも、戸籍を変更するときも。普段、ちょっとしたことがあったときも」
「うん」
そうやって勇気を出して、自分の道を切り開いてきたんだね。その道には戦いも葛藤もあったはずなのに、ここにいる翡翠はこんなに穏やかだ。
「イッチーへの返事を悩んで悩んで悩みぬいていたときに、ある日突然、イッチーもきっとそう言ってくれるって気付いたの」
「……うん、そうだ。そのとおりだよ!」
一柳さんは物事のこまごました部分には頓着せず、核心をまっすぐに突く。重要なことを見極める目があるのだ。
翡翠がにっこりした。
「ってことは、あたしが悩んでいるのは、要するにイッチーが信じられないってことになるでしょう?」
悩んでいるのは相手を信じられないから……? 相手の愛情、いいえ、それだけじゃなく、本質を?
「つまり、あたしがイッチーを信じるか信じないか、その決断にかかってるってことだったわけ。で、信じるって決めた。イッチーはきっと、ずーっとあたしの味方でいてくれるって」
「うん、わたしもそう思う。一柳さん、翡翠のことを一生大事にすると思うよ。他人の意見で簡単に気持ちが変わったりするひとじゃないもん」
「そうなんだよね。まあ、融通が利かなくて困るときもあるんだけど」
くすっと笑って翡翠が続ける。
「それにね、あたしが悩んでるのは未来のことでしょう?」
「うん、そうだね」
「だったら、それが本当に起こるかどうか分からないじゃない」
「……ああ、そうだ。そのとおり」
確かにそうだ。わたしは風音さんを不幸にするかも知れない……。
「で、逆にプロポーズを断ったら、確実にイッチーは悲しむ。まあ、悲しまないとしても、落ち込む」
それはそうだろう。断られても何のダメージもないプロポーズなんて、あるわけない。
「しかも、断ったあたしも悲しいんだよ? だとしたら、未来に起こるかも知れない不幸と、目の前にある確実な不幸二人分、どっちを避ける? となったら、とりあえず確実な方を避けた方が良くない? だって、未来の不幸は起こらないかも知れないし、ふたりで努力して防げるかも知れないんだから」
「そうか……。そうだよね……」
「そしてさらに、だよ」
翡翠が身を乗り出す。
「結婚したら、あたしがイッチーを幸せにしてあげることが可能になる。ただ “不幸を避けられる” だけじゃなくて、あたしが幸せをあげられる。それって素晴らしいでしょう?」
結婚したら、自分が相手を幸せに……。
「もちろん、イッチーと一緒にいられたら、あたしも幸せだしね」
微笑む翡翠から光が放射されているように感じる。
「だからね、桜」
真っ直ぐ見つめて名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばした。
「未来の悪い可能性をいくら考えても、断る理由にはならないよ。問題はそこじゃなくて、相手を信頼して、一緒に幸せに向かって努力できるかどうか、ってことだと思う。ちょっと賭けみたいだよね」
「賭け、か……」
ふふっと笑う翡翠を見ながら思い出した。風音さんは、結婚は冒険みたいだと言っていた。あの日、「不安もあるけど、わくわくする」と。
そうだった。風音さんは結婚に良いことばかりを想定しているわけではない。悪いこともハプニングもきっとあるだろうと、だから「冒険」と言ったのだ。自分はそれに立ち向かう覚悟ができていると……。
「覚悟の問題なんだね……」
つぶやくと、翡翠が笑った。
「ま、あたしの場合、悩み過ぎてやけっぱちになった感じはあるけどね」
やけっぱちでもなんでも、翡翠は一生をかけた賭けに出た。一柳さんがずっと自分の味方でいてくれることに賭けたのだ。
わたしに必要なのは一緒に冒険に出る覚悟。風音さんが差し出してくれている手を取って、パートナーとなる勇気。
……そうだ。以前、風音さんは、わたしたちの関係は対等だと言ってくれた。どちらかが優位なわけではないと。今だって、わたしを急かさずに待ってくれているのは、わたしの気持ちを尊重してくれているからだ。
風音さんのことは信じている。やさしい人だということも分かっている。だからこそ……冷酷で自分勝手なわたしではダメなのだ。風音さんはきっとわたしを優先しようとするだろうから、風音さんがいつも我慢することになってしまう。
冷たい心――直らない、よね。お母さんへの気持ち、どうしても変えられない。
やっぱり、ちゃんと話すしかない。まずは話をするための勇気が必要だ。パートナーの件はその次のこと。
でも、どうすれば勇気がでるの……?
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