「一生カコと顔を合わせないですむ方法があれば良いのに」
そんな愚痴を彼女にこぼしたのは、カコと大喧嘩をした翌日だった。
目の前に座る金色の髪の少女が、大きな翡翠色の瞳をパチパチとさせ、可愛らしく首を傾げる。
「カナちゃんとカコちゃんって、双子なのに仲悪いよね」
「双子だからだよ!」
何度も聞いた言葉に、思わず語気が強くなる。
「生まれたときからずっと一緒で、何でもかんでも二人で一セットみたいに扱われるの、本当に嫌なんだから! アリスみたいに、一人っ子なら良かったのに!」
頬を膨らませ、唇を尖らせた顔が面白いのか、アリスが華奢な肩を震わせながら笑い声をあげる。
「そうだなあ、カナちゃんが望むなら、願いを叶える魔法をかけてあげる」
ひとしきり笑って満足したのか、アリスが悪戯っぽい表情で私の瞳を覗き込んだ。
絵本の中から抜け出してきたかのように美しい少女に真正面から見つめられると、何となく居心地が悪くて目をそらしてしまう。
「魔法って、おまじないみたいなもの?」
「違うわ。魔法は魔法よ。おまじないみたいに、可能性を願うものじゃないの」
魔法は絶対
唇の前で人差し指を立て、囁くような声でアリスがそう呟いた。
彼女ならできそうだという予感が半分、魔法なんて現実的じゃないと否定する理性が半分。
直感よりも論理を優先した結果、私は軽い気持ちでアリスに頼んだ。
「いいわ。その魔法をかけて」
「それじゃあ、願いを言って」
アリスの細く冷たい指が、私の手に触れる。よく磨かれた爪は桜色で、ネイルはしていないはずなのに、爪の奥にうっすらと金色の丸い模様が見えた。
「カコと一生顔を合わせないですみますように」
「あーあ、カナと顔合わせないですむ方法があればなあ」
思わずそんな愚痴を呟いてしまったのは、カナと大喧嘩をした翌日だった。
目の前に座る金髪の少女が、困ったように首を傾げる。
「今度の喧嘩の理由はなに?」
「大したことじゃないんだけどね」
そういって言葉を濁したのは、喧嘩の原因が私にあったから。彼女に言ったら「それはカコちゃんが悪いよ」と正論を言われてしまうから。
そう、いつだってカナは正しい。成績だって私より上だし、運動だってできる。身長はカナのほうが高いのに、体重は私より軽くて、胸は彼女のほうが大きい。
生まれたのだって、カナが先だ。数分の差とはいえ、カナが姉で私が妹、それは変わらない。
今回のことだって、カナの注意はもっともなことだった。それを子供っぽい逆切れで返して、結果喧嘩になった。
私が謝れば、きっとカナは許してくれる。たった一言、ごめんねと言えば良いだけ。
分かってはいるけれども、その一言をひねり出すのが難しい。
先に謝ったら負け。カナにだけは負けたくない。そんな変なプライドが邪魔をして、素直に口に出すことができない。
「あーあ、一生顔を合わせないでも良い方法があれば良いのに」
いつか謝らなければいけないと分かっているからこそ先延ばしにしたくて、思わず言ってしまった。
「カコちゃんがそう願うなら、魔法をかけてあげる」
アリスの提案に思わず飛びついてしまったのは、もし本当にそんな魔法があるなら、カナに謝らないですむという打算が半分、魔法なんてあるわけがないと軽く考えていたのが半分。
「凄い素敵な魔法! ぜひかけてほしいよ!」
「いいよ、かけてあげる。さあ、願いを言って」
アリスが手を差し出し、何も考えずに握る。彼女の手は小さくてヒンヤリとしていた。
「カナと一生会わないですみますように」
けたたましいベルの音が耳元で聞こえ、私は飛び起きた。
はっきりしない頭を二度、三度と振り、大きく伸びをする。ぼんやりしていた頭がクリアになったとき、目の前の光景に息を呑んだ。
見慣れた天井はそこにはなく、澄んだピンク色の空が広がっていた。
右から左へと流れていく雲は淡いクリーム色で、真珠のような光沢を放っている。
クッキーのベッドにゼリーのマットレス、綿菓子の掛布団に、枕はマシュマロ。再び枕もとで鳴り出した目覚まし時計だけが、食べられなさそうな見た目をしている。
時計を手に取り、時刻を確認する。
短針は七、長針は十二の位置にあるが、数字がある部分には花の絵が描かれていた。
(これは夢ね)
そう即座に判断できるほど、夢らしい夢に苦笑する。これほどファンシーな夢の世界に来たことなんて、今まで一度もなかった。
「やあやあ少女、いつまでベッドの上でのんびりしてるんだい?」
突然背後から声をかけられ、肩がビクリと上下する。振り返って見ると、青いベストに真っ赤な蝶ネクタイを締めた白兎が、怪訝な顔でこちらを見ていた。
「もうオソヨウの時間なのに、まだ寝るのかい? もしかして、今日は寝坊してしまったから、明日まで寝て、オハヨウにする気なのかい?」
鼻にかかる嫌味っぽい声に、しかめ面になる。
白兎の口調は、数学の笹原先生にそっくりだった。
単純な計算ミスですら、なぜこんなに簡単な問題が解けないのかと、上から目線で大げさに嘆く。あのねっとりとした言いかたそのものだった。
「なによ、まだ七時でしょう? そこまで遅い時間じゃないわ」
「ふむ、確かに七時はそれほど寝坊の時間ではないかもしれないね。でも残念ながら、今は牡丹時だ。牡丹時はオソヨウの時間なんだよ」
「牡丹時? なにそれ?」
素っ頓狂な声に、白兎がヤレヤレと首を振り、目覚まし時計を指さす。
「君の時計のどこに、七なんて書いてあるんだい? よく見たまえ、今は牡丹だろう?」
「……これ、牡丹なの?」
ピンク色の豪華な花の絵を指先でつつく。牡丹はよく耳にする花の名前だが、実際に目にしたことはなかった。
「ほらほら、早くしないと百合時間たって、タンポポ時になるよ。アリスとのお茶会はコスモス時の予定だろう? まだ時間があるとはいえ、ここから広間までは最低でもスミレ時間はかかるし、君は支度に手間取るだろうから、百合時間は見ていたほうが良い。それに、アリスはああ見えて時間に厳しいから、薔薇分前にはついていたほうが良い。そう考えると、全然時間がないだろう?」
まくしたてるように言われるが、時間がすべて花の名前で、全く感覚がつかめない。
「えぇっと……結局、アリスとのお茶会は今から何時間後にあるの?」
「今をタンポポ時とすると、ナツメ時間後だよ。アリスとのお茶会は、コスモス時だって言ってるじゃないか」
「そんなこと言われても!」
数字じゃないと分からない! そう文句を言おうとするが、白兎がゼリーのマットレスを引っ張るほうが早かった。
ゼリーの上で、体が滑る。ベッドから落ちた先にはグミの階段が続いていて、体がぶつかるたびにポヨンと跳ねる。
トランポリンのように跳ねて回転して、自分の頭がどちらを向いているのかわからなくなったころに、長かった階段が終わり、クッキーの椅子に着地した。
サクっと小気味よい音がお尻の下から聞こえてくる。片足が折れてしまった椅子は斜めに傾き、上手く受け身が取れずに思い切りお尻を地面に打ち付けてしまう。
「もうっ!」
痛むお尻をさすり、苛立ちまぎれに椅子を蹴れば、サクリと美味しそうな音をたてて崩れていく。
「なんで椅子がクッキーなのよ!」
「別に良いじゃないか。クッキーでできたものは、椅子と認められないってわけじゃないんだから」
頭上から降ってくるのんびりとした声に顔を上げれば、真っ白な猫が細い枝に座っていた。
ふさふさとした長い毛が風に揺れ、黄金色の瞳が意地悪そうに細められる。
白兎に、猫に、不思議な世界。既視感を覚える展開に、思わず呟く。
「チェシャ猫?」
「僕のどこを見たらそう思うのか分からないね。この美しい純白の長毛が見えないのかな?」
手触りの良さそうな毛に、どこかツンとすました顔。彼は、ペルシャ猫だった。
「そもそも、君はいつから不思議の国のアリスの主人公になったんだい?」
「そうよ、アリス! 彼女のお茶会があるらしいんだけど、どこに行けば良いか分からなくて」
いつの間にか、あの嫌味な白兎はいなくなっていた。
「お茶会って言っても、アリスは四六時中開いているからね。君は何時のお茶会に呼ばれたんだい?」
白兎が時間を言っていたが、次々と出てくる花の名前に頭がこんがらがったせいで、正確に思い出すことができない。
「ナツメ? ううん、百合だったかな? でも、タンポポも言ってた気がするし……」
「ナツメ時ならアリスの自宅、百合時だと右のキャンディーの花畑、タンポポ時なら左のキャンディーの花畑だね」
全部違う。白兎は広間でお茶会があると言っていたはずだ。
「広間でやるお茶会は、何時?」
「コスモス時だね。君、もう夕顔時も過ぎてヒナギク時になりそうなのに、こんなところでノンビリしてる暇はないんじゃない? 蓮華時薔薇分くらいには着いておきたいなら、急がないと」
「そんなに急かされても、広間がどこにあるのか分からないんだってば!」
仕方がないなと言うように大きなため息をつくと、ペルシャ猫はポンと枝を蹴って宙に飛び出した。
クルクルと綺麗な孤を描いて回り、音もなく肩に飛び乗ってくる。軽やかな空気だけが耳元をくすぐり、髪が揺れる。
「ここから広間まで行くには、アイスの川を渡ってプリンの山を登り、チョコレートの森を抜けるしかないんだけど、迷ってると遅刻しちゃう時間だ。特別に僕が案内してあげるよ」
ペルシャ猫が欠伸を一つして、肩の上で丸くなる。不思議と重さは感じないが、ほんのりとした温かさはある。
「ありがとう?」
「なんで疑問符がついてるのかが疑問なんだけど、まあ良いや。とりあえず右手にしばらく歩いて」
言われたとおりに歩き出す。空には四角いビスケットの太陽が浮かび、透き通った色の鳥が優雅に飛んでいる。
硬そうな見た目なのに、どうやって羽を動かしているのだろうかと目を凝らす。羽の付け根部分が、トロリと白く濁りながら溶けていた。
「飴細工の鳥がそんなに珍しい? あまり上ばかり見ていると、足元がおろそかになるよ」
ペルシャ猫の注意に、視線を前に向ける。鳥は気になるが、今は急いで広間に行かなくてはならない。
「飴が鳥になるなんて、変な世界」
「なぜ? 飴が鳥になっては駄目だなんて、だれが決めたんだい?」
「でも、飴だよ?」
「君は差別主義者なのかい?」
「違うわよ! ただ、飴は飴であって、鳥ではないでしょう? これはただの常識よ」
「その常識を作ったのは、誰?」
「誰って言われても……」
常識を作ったのが誰なのかなんて、考えたこともなかった。常識は常識、それ以上でも以下でもない。
「君の言う常識を常識としているのは、世界でたった一人、君だけじゃないのかい?」
言い返そうとして、押し黙ってしまう。自分の中にある常識は、誰かの受け売りもあれば、勝手に常識だと思い込んでいるものもある。
世界に無数にある常識と呼ばれるものを、自分の好きなように選んでいる時点で、他の人の選ぶ常識と差異が生じる。
「君の中の常識と合致する常識が、この世界にあるとは思えない」
「私の夢なのに?」
「ここが君の夢? まさか!」
ペルシャ猫が甲高い笑い声をあげる。
いつの間にか、川岸まで来ていた。甘い香りのする白色の川は、ところどころに置かれたチョコチップの岩にぶつかっては、白波をあげている。
「これ、どうやって渡れば良いの? チョコの岩の上を跳ぶの?」
間隔的に跳べないことはないが、足を滑らせれば流れに飲まれてしまいそうだ。
「普通に歩いて渡れば良いじゃないか」
「そんなに深くない川なの?」
「さあ? 深さは誰も気にしたことがないからね。でも、浅くはないと思うよ」
「こんなに流れが速いのに、歩いて渡るなんて無理!」
「流れの速さも深さも、何の関係があるんだい? まあ、多少今日の川は荒れてるから、気を付けて歩かないと転ぶかもしれないけどね」
「転ぶどころじゃすまないでしょ?」
「君は何を言っているんだい?」
「あなたこそ何を言ってるのよ!」
平行線の会話に、ペルシャ猫が不愉快そうに鼻を鳴らすと、目を細めた。
「君は、この場所が自分の夢の中だと思っているから、君の中にある常識を当てはめようとする。でもここは君の夢の世界じゃないから、君の尺度で物は測れない」
「どういうことなの?」
「そのままの意味だ。ここは、アリスの夢の世界だよ。だから飴は鳥になって空を飛ぶし、アイスの川は渡れる。試しに歩いてみると良い」
自信満々なペルシャ猫の様子に、私は恐る恐るアイスの川に足を乗せた。
いつの間にか履いていた靴は淡いブルーで、歩きにくさを感じない程度に上げ底になっている。
ゆっくりと体重をかける。グニャリとした感触が靴底から伝わって来たものの、沈み込むことはなかった。
浅い泥の上に立っているような、不思議な感覚だった。
チョコチップの岩と、時折たつ白波に気を付けながら渡り切る。
「さあ、次はあのプリンの山を登るんだ」
前足で指された先を見れば、見上げるほどに大きなプリンがあった。表面にはホイップクリームが点々とついており、どうやらボルダリングのようにして登るらしい。
「ねえ、ここにあるお菓子って、食べられるの?」
「まあ、大体は食べられるんじゃないか? 何せお菓子だからね」
「じゃあ、プリンの下の部分を食べて、トンネルみたいに掘り進めたら、向こう側に出られない?」
「出られるかもしれないけど、君のお腹は破裂するだろうし、お茶会には間に合わないだろうね」
「でも、あんなに高い山を登る技術はないわ」
「技術なんて必要ない。ホイップを掴み損ねないようにすれば、誰だって頂上まで登れる」
それなりに体力には自信があるが、握力に自信はない。あんな高いところまで登ろうとしたら、確実に腕や指が悲鳴を上げて落下してしまう。
けれど今までのことを考えるに、ここでは自分の常識は通用しない。
ペルシャ猫が登れると言うのなら、きっと登れるのだろう。ホイップさえ、掴み損ねなければ。
「一番目のホイップをつかんで、すぐに二番目のホイップをつかむんだ。後は速度を調整しながら、ホイップを適度につかんで」
自分の筋力を過信せず、無理だと思ったら早々に諦めよう。
そう決意してホイップに右手をかければ、体が下から押されるような感覚に、慌てて左手でホイップを掴んだ。
重力が反転してしまったかのように、上へ上へと体が持ち上げられる。
ホイップさえ握っていれば上へ落ちることはないが、下手をすると上空に跳ね上げられてしまいそうだ。
「あまり加速しすぎないように気を付けて。ホイップをうまく使うんだ」
「なんで上に引っ張られるの?」
「プリンの山を登るんだから、上に落ちるのは常識だろう?」
そんな常識は知らない。そもそも、上に落ちるという言葉もおかしい。
けれどそんなことを言っても、この世界ではそれが常識なのだから仕方がない。
「ねえこれ、くだるときはどうするの? 下に登らないといけないの?」
「いや、上に落ちるのは登りだけで、くだりは下に落ちる。とは言え、プリンの山を下に落ちるのは危ないから、滑り台がある。安心したまえ」
ペルシャ猫の説明を聞いているうちに、プリンの山の頂上についた。カラメルの山頂では重力が正常になっており、プヨプヨとした弾力を足裏に感じながら進む。
滑り台の入り口はわかりやすく、下山と書かれたゲートが置かれていた。
「ねえ、ここはアリスの夢の世界って言ってたけど、アリスってあのアリスよね?」
滑り台は緩やかに蛇行をしながら伸びていたため、スピードがつきすぎることはなかった。
プリンの香りがする風に髪をなびかせながら、肩の上で気持ちよさそうにヒゲを揺らすペルシャ猫に目を向ける。
「君の知り合いのアリスが一人だけなら、そうだろうね」
「どうして私は、アリスの夢の世界に来ているの?」
「それを僕に聞かれてもね。君とアリスの間で交わした約束なんて、知る由もないよ」
「約束? 夢に来る約束なんてしてないわ」
「ソレが約束と言う名の契約だったのか、呪いと言う名の契約だったのかは分からない。でも君は確かに、アリスと何かの契約をしたはずだ」
「ちょっとした魔法をかけてもらったけれど……」
「何かを願って、アリスがそれを叶えたのなら、立派な契約だ。しかも魔法はなんでも叶うぶん、かなり強力な契約になる。君は、どんなことを願ったんだい?」
「同じ日に生まれた片割れと、二度と顔を合わさなくてすみますように」
「……それはそれは……」
ペルシャ猫はとても驚いたらしく、瞳がまん丸になっていた。
出会った時から人を食ったような表情しか見ていなかったため、少しだけ気分がスっとした。
謎の優越感が伝わったのか、ペルシャ猫は気分が悪そうに鼻を鳴らし、前足を右へとむけた。
遠目で見るとただの枯れた茶色い森だったが、近くまで来ると、木々がチョコレートでできていることに気づく。
独特の甘い香りが、あたり一面に漂っていた。
「この森を半分くらい進んだ所に、コスモス時のお茶会をやっている広間がある。まだ紅花分はあるから、薔薇分までにはたどり着く」
未だに分からない花の数字に、曖昧に頷く。
「それで、何故君たちはそんなに仲が悪いんだい?」
「悪いわけじゃないわ。良くはないってだけ。なんとなく、合わないの」
「まあ、同じ日に生まれて似たような形をしていても、中身は全然違うのだからそう言うこともあるだろう。だが、魔法という契約をしてまで会わないなんて、普通じゃない」
ペルシャ猫が吐き捨てるように呟き、くしゃみをした。小声の悪態に耳を傾ければ、どうやらチョコレートのにおいが嫌いらしい。
「そんな契約をしたせいで、君たちは代償としてこの世界に囚われることになった。偶数日は姉が、奇数日は妹がこの世界に閉じ込められる。逆に君たちの世界では、奇数日は姉が、偶数日は妹が担当することになった」
「どういうこと?」
「カナとカコは契約により、ナコという少女になった。カナがナコのときはカコがこの世界にいて、カコがナコのときはカナがこの世界にいる。双方の願いが同じだったからこそできた、強力な魔法だ」
双方の願いが同じと言うことは、相手も顔を合わせないですむようにと、アリスに願ったのだ。
さすが双子、考えていることは同じだと苦笑する反面、双子だからこそ、相手の考えが分かる。
きっと私と一緒で、軽い気持ちで言ったのだろう。まさかアリスが本当に魔法を使えて、叶えてもらうためには代償が必要だなんて思ってもみなかったのだろう。
「私は……ううん、私たちは、契約なんてしてないわ。あれは願いなんかじゃない。ただの愚痴から派生した冗談」
「いいえ、あれは契約よ」
鬱蒼としていた森が急にひらけ、視界が明るくなる。高く澄んだ空では、飴細工の鳥たちが旋回している。
テーブルの一番奥、背の高い椅子に座っていたアリスが上品に微笑む。息を呑むほど美しい顔の中央では、翡翠色の瞳が冷たくこちらを見つめていた。
「魔法が契約だって知らなかったのよ」
「それなら、魔法を何だと思っていたの? なんの代償もなく願いが叶えられるとでも思っていたの?」
小さな子供に言い聞かせるような柔らかな言い方だったが、言葉の端々には苛立ちが透けて見えた。
「二度と会いたくないなんて、本心なわけないでしょ! 確かに一緒にいてイライラすることも多いけど、でも双子なんだから!」
「……双子だから? 双子だからこそ嫌なんだって言ってたじゃない」
アリスから笑顔が消える。無表情な顔は人形のようで、周囲の風景と相まって、絵本を眺めているような気分になる。
「会いたくないって言うから、相手と会わなくてすむようにしてあげた。カナちゃんは一人っ子が良かったって言うから、現実の世界で叶えてあげた。カコちゃんは比べられるのが嫌だって言ってたから、この世界から数字をなくしてあげた」
数字があるから順番ができ、順番ができるから優劣が生まれる。
二番は一番には勝てない。でも、スミレと百合はどちらも美しく、そこに勝ち負けはない。
「二人が願ったから叶えてあげたの」
「常識的に考えて、あんなの冗談だってわかる……」
反射的に言い返すが、ペルシャ猫ののんびりとした声にさえぎられた。
「君の常識は、相手の常識ではない。でもそれはアリス、君も一緒だ。君にとっては常識の範囲にある魔法でも、彼女にとっては常識の範囲外だ」
「……でも、一度契約した魔法は解除できないわ」
「なら、新しい契約をすれば良い」
ペルシャ猫が立ち上がり、後ろ足で軽く私の肩を蹴るとテーブルの上に着地した。
「今度の契約では、双子そろってこの場を訪れて、アリスに願いを叶えてもらうと良い。双方納得した上での願いなら、拗れることもないだろう?」
「でも、二人一緒にこの世界にいることはないんでしょう?」
偶数日はカナが、奇数日はカコがこの場所にいて、片割れは現実世界でナコになっている。
「それは、ナコちゃんを消してしまえば良いだけだから大丈夫。彼女さえいなければ、二人とも現実に戻らないですむから」
それなら良かったと安堵するが、現実世界との繋がりを断たれたような気がして、不安になる。
でも片割れとこの世界で出会い、アリスにお願いさえできれば、カナとカコは双子として現実に戻ることができる。
「それで、どこにいるの?」
「君が起きた場所から右の方向にずっと歩いて行けば、いずれ出会うと思うよ。この世界は丸いからね」
「クッキーのベッドまで魔法で連れて行ってあげる。心配しなくても、これは簡単な移動魔法だから代償はいらないわ」
アリスが指をパチリと鳴らせば、耳元でポンと大きな音が響いた。
突然の音に目を閉じ、気づけばクッキーのベッドの上に座っていた。
「やあやあ少女、また会ったね」
嫌味ったらしい白兎の声に盛大なため息をつくと、片割れを探すために勢い良く立ち上がった。
冷めてしまった紅茶を口に運び、アリスは時計に視線を落とした。次のお茶会までは、まだ時間がある。
「それにしても、本当に同じことを言いに来るとは思わなかったな。だって彼女たち、性格が全然違うからこそ、こんなことになったんだろう?」
「私から見れば、二人ともそっくりよ」
顔も同じ、考え方も同じ、言い方も同じ、歩き方も同じ。
だからこそ反発し合い、自分だけの個性を伸ばそうとして、気持ちがすれ違ってしまっただけだ。
「ねえ、いつになったら二人がそろってこの場に来るか、賭けない?」
「それは、賭けになるかい? だって僕は、北で起きた姉と南で起きた妹に同じことを言ったからね」
丸い世界で正反対の場所にいる双子は、全く同じ速度で互いに右へと進んでいく。
ベッドから右へ進めばソーダの海、キャンディーの花畑、ビスコッティの砂漠にティラミスの湖、フィナンシェの林にバームクーヘンの渓谷。そして反対側のベッドへとたどり着き、再びソーダの海、キャンディーの花畑と続いていく。
「右半分と左半分が全く同じ景色だなんて、二人は気づかないと思うんだ」
「そうね、私もそう思うわ」
アリスはこの日一番の笑顔をペルシャ猫に向けると、スコーンを一口かじった。
双子は素直に、片割れを探すために右へ右へと歩き続けるだろう。この丸い世界で、右に歩いていけばいずれ会えると言う言葉を信じて。
しかし、双子がそっくりであるがゆえに、右に歩いていても出会うことはない。姉が一歩進むたびに、妹も一歩進む。姉が一休みするとき、妹も一休みする。
ここはアリスの夢の中。アリスが双子をそっくりだと認識しているうちは、絶対に出会うことはない。
互いを探すことを諦めたときになってはじめて、この場所で三人そろってお茶会をすることができるだろう。
そんな愚痴を彼女にこぼしたのは、カコと大喧嘩をした翌日だった。
目の前に座る金色の髪の少女が、大きな翡翠色の瞳をパチパチとさせ、可愛らしく首を傾げる。
「カナちゃんとカコちゃんって、双子なのに仲悪いよね」
「双子だからだよ!」
何度も聞いた言葉に、思わず語気が強くなる。
「生まれたときからずっと一緒で、何でもかんでも二人で一セットみたいに扱われるの、本当に嫌なんだから! アリスみたいに、一人っ子なら良かったのに!」
頬を膨らませ、唇を尖らせた顔が面白いのか、アリスが華奢な肩を震わせながら笑い声をあげる。
「そうだなあ、カナちゃんが望むなら、願いを叶える魔法をかけてあげる」
ひとしきり笑って満足したのか、アリスが悪戯っぽい表情で私の瞳を覗き込んだ。
絵本の中から抜け出してきたかのように美しい少女に真正面から見つめられると、何となく居心地が悪くて目をそらしてしまう。
「魔法って、おまじないみたいなもの?」
「違うわ。魔法は魔法よ。おまじないみたいに、可能性を願うものじゃないの」
魔法は絶対
唇の前で人差し指を立て、囁くような声でアリスがそう呟いた。
彼女ならできそうだという予感が半分、魔法なんて現実的じゃないと否定する理性が半分。
直感よりも論理を優先した結果、私は軽い気持ちでアリスに頼んだ。
「いいわ。その魔法をかけて」
「それじゃあ、願いを言って」
アリスの細く冷たい指が、私の手に触れる。よく磨かれた爪は桜色で、ネイルはしていないはずなのに、爪の奥にうっすらと金色の丸い模様が見えた。
「カコと一生顔を合わせないですみますように」
「あーあ、カナと顔合わせないですむ方法があればなあ」
思わずそんな愚痴を呟いてしまったのは、カナと大喧嘩をした翌日だった。
目の前に座る金髪の少女が、困ったように首を傾げる。
「今度の喧嘩の理由はなに?」
「大したことじゃないんだけどね」
そういって言葉を濁したのは、喧嘩の原因が私にあったから。彼女に言ったら「それはカコちゃんが悪いよ」と正論を言われてしまうから。
そう、いつだってカナは正しい。成績だって私より上だし、運動だってできる。身長はカナのほうが高いのに、体重は私より軽くて、胸は彼女のほうが大きい。
生まれたのだって、カナが先だ。数分の差とはいえ、カナが姉で私が妹、それは変わらない。
今回のことだって、カナの注意はもっともなことだった。それを子供っぽい逆切れで返して、結果喧嘩になった。
私が謝れば、きっとカナは許してくれる。たった一言、ごめんねと言えば良いだけ。
分かってはいるけれども、その一言をひねり出すのが難しい。
先に謝ったら負け。カナにだけは負けたくない。そんな変なプライドが邪魔をして、素直に口に出すことができない。
「あーあ、一生顔を合わせないでも良い方法があれば良いのに」
いつか謝らなければいけないと分かっているからこそ先延ばしにしたくて、思わず言ってしまった。
「カコちゃんがそう願うなら、魔法をかけてあげる」
アリスの提案に思わず飛びついてしまったのは、もし本当にそんな魔法があるなら、カナに謝らないですむという打算が半分、魔法なんてあるわけがないと軽く考えていたのが半分。
「凄い素敵な魔法! ぜひかけてほしいよ!」
「いいよ、かけてあげる。さあ、願いを言って」
アリスが手を差し出し、何も考えずに握る。彼女の手は小さくてヒンヤリとしていた。
「カナと一生会わないですみますように」
けたたましいベルの音が耳元で聞こえ、私は飛び起きた。
はっきりしない頭を二度、三度と振り、大きく伸びをする。ぼんやりしていた頭がクリアになったとき、目の前の光景に息を呑んだ。
見慣れた天井はそこにはなく、澄んだピンク色の空が広がっていた。
右から左へと流れていく雲は淡いクリーム色で、真珠のような光沢を放っている。
クッキーのベッドにゼリーのマットレス、綿菓子の掛布団に、枕はマシュマロ。再び枕もとで鳴り出した目覚まし時計だけが、食べられなさそうな見た目をしている。
時計を手に取り、時刻を確認する。
短針は七、長針は十二の位置にあるが、数字がある部分には花の絵が描かれていた。
(これは夢ね)
そう即座に判断できるほど、夢らしい夢に苦笑する。これほどファンシーな夢の世界に来たことなんて、今まで一度もなかった。
「やあやあ少女、いつまでベッドの上でのんびりしてるんだい?」
突然背後から声をかけられ、肩がビクリと上下する。振り返って見ると、青いベストに真っ赤な蝶ネクタイを締めた白兎が、怪訝な顔でこちらを見ていた。
「もうオソヨウの時間なのに、まだ寝るのかい? もしかして、今日は寝坊してしまったから、明日まで寝て、オハヨウにする気なのかい?」
鼻にかかる嫌味っぽい声に、しかめ面になる。
白兎の口調は、数学の笹原先生にそっくりだった。
単純な計算ミスですら、なぜこんなに簡単な問題が解けないのかと、上から目線で大げさに嘆く。あのねっとりとした言いかたそのものだった。
「なによ、まだ七時でしょう? そこまで遅い時間じゃないわ」
「ふむ、確かに七時はそれほど寝坊の時間ではないかもしれないね。でも残念ながら、今は牡丹時だ。牡丹時はオソヨウの時間なんだよ」
「牡丹時? なにそれ?」
素っ頓狂な声に、白兎がヤレヤレと首を振り、目覚まし時計を指さす。
「君の時計のどこに、七なんて書いてあるんだい? よく見たまえ、今は牡丹だろう?」
「……これ、牡丹なの?」
ピンク色の豪華な花の絵を指先でつつく。牡丹はよく耳にする花の名前だが、実際に目にしたことはなかった。
「ほらほら、早くしないと百合時間たって、タンポポ時になるよ。アリスとのお茶会はコスモス時の予定だろう? まだ時間があるとはいえ、ここから広間までは最低でもスミレ時間はかかるし、君は支度に手間取るだろうから、百合時間は見ていたほうが良い。それに、アリスはああ見えて時間に厳しいから、薔薇分前にはついていたほうが良い。そう考えると、全然時間がないだろう?」
まくしたてるように言われるが、時間がすべて花の名前で、全く感覚がつかめない。
「えぇっと……結局、アリスとのお茶会は今から何時間後にあるの?」
「今をタンポポ時とすると、ナツメ時間後だよ。アリスとのお茶会は、コスモス時だって言ってるじゃないか」
「そんなこと言われても!」
数字じゃないと分からない! そう文句を言おうとするが、白兎がゼリーのマットレスを引っ張るほうが早かった。
ゼリーの上で、体が滑る。ベッドから落ちた先にはグミの階段が続いていて、体がぶつかるたびにポヨンと跳ねる。
トランポリンのように跳ねて回転して、自分の頭がどちらを向いているのかわからなくなったころに、長かった階段が終わり、クッキーの椅子に着地した。
サクっと小気味よい音がお尻の下から聞こえてくる。片足が折れてしまった椅子は斜めに傾き、上手く受け身が取れずに思い切りお尻を地面に打ち付けてしまう。
「もうっ!」
痛むお尻をさすり、苛立ちまぎれに椅子を蹴れば、サクリと美味しそうな音をたてて崩れていく。
「なんで椅子がクッキーなのよ!」
「別に良いじゃないか。クッキーでできたものは、椅子と認められないってわけじゃないんだから」
頭上から降ってくるのんびりとした声に顔を上げれば、真っ白な猫が細い枝に座っていた。
ふさふさとした長い毛が風に揺れ、黄金色の瞳が意地悪そうに細められる。
白兎に、猫に、不思議な世界。既視感を覚える展開に、思わず呟く。
「チェシャ猫?」
「僕のどこを見たらそう思うのか分からないね。この美しい純白の長毛が見えないのかな?」
手触りの良さそうな毛に、どこかツンとすました顔。彼は、ペルシャ猫だった。
「そもそも、君はいつから不思議の国のアリスの主人公になったんだい?」
「そうよ、アリス! 彼女のお茶会があるらしいんだけど、どこに行けば良いか分からなくて」
いつの間にか、あの嫌味な白兎はいなくなっていた。
「お茶会って言っても、アリスは四六時中開いているからね。君は何時のお茶会に呼ばれたんだい?」
白兎が時間を言っていたが、次々と出てくる花の名前に頭がこんがらがったせいで、正確に思い出すことができない。
「ナツメ? ううん、百合だったかな? でも、タンポポも言ってた気がするし……」
「ナツメ時ならアリスの自宅、百合時だと右のキャンディーの花畑、タンポポ時なら左のキャンディーの花畑だね」
全部違う。白兎は広間でお茶会があると言っていたはずだ。
「広間でやるお茶会は、何時?」
「コスモス時だね。君、もう夕顔時も過ぎてヒナギク時になりそうなのに、こんなところでノンビリしてる暇はないんじゃない? 蓮華時薔薇分くらいには着いておきたいなら、急がないと」
「そんなに急かされても、広間がどこにあるのか分からないんだってば!」
仕方がないなと言うように大きなため息をつくと、ペルシャ猫はポンと枝を蹴って宙に飛び出した。
クルクルと綺麗な孤を描いて回り、音もなく肩に飛び乗ってくる。軽やかな空気だけが耳元をくすぐり、髪が揺れる。
「ここから広間まで行くには、アイスの川を渡ってプリンの山を登り、チョコレートの森を抜けるしかないんだけど、迷ってると遅刻しちゃう時間だ。特別に僕が案内してあげるよ」
ペルシャ猫が欠伸を一つして、肩の上で丸くなる。不思議と重さは感じないが、ほんのりとした温かさはある。
「ありがとう?」
「なんで疑問符がついてるのかが疑問なんだけど、まあ良いや。とりあえず右手にしばらく歩いて」
言われたとおりに歩き出す。空には四角いビスケットの太陽が浮かび、透き通った色の鳥が優雅に飛んでいる。
硬そうな見た目なのに、どうやって羽を動かしているのだろうかと目を凝らす。羽の付け根部分が、トロリと白く濁りながら溶けていた。
「飴細工の鳥がそんなに珍しい? あまり上ばかり見ていると、足元がおろそかになるよ」
ペルシャ猫の注意に、視線を前に向ける。鳥は気になるが、今は急いで広間に行かなくてはならない。
「飴が鳥になるなんて、変な世界」
「なぜ? 飴が鳥になっては駄目だなんて、だれが決めたんだい?」
「でも、飴だよ?」
「君は差別主義者なのかい?」
「違うわよ! ただ、飴は飴であって、鳥ではないでしょう? これはただの常識よ」
「その常識を作ったのは、誰?」
「誰って言われても……」
常識を作ったのが誰なのかなんて、考えたこともなかった。常識は常識、それ以上でも以下でもない。
「君の言う常識を常識としているのは、世界でたった一人、君だけじゃないのかい?」
言い返そうとして、押し黙ってしまう。自分の中にある常識は、誰かの受け売りもあれば、勝手に常識だと思い込んでいるものもある。
世界に無数にある常識と呼ばれるものを、自分の好きなように選んでいる時点で、他の人の選ぶ常識と差異が生じる。
「君の中の常識と合致する常識が、この世界にあるとは思えない」
「私の夢なのに?」
「ここが君の夢? まさか!」
ペルシャ猫が甲高い笑い声をあげる。
いつの間にか、川岸まで来ていた。甘い香りのする白色の川は、ところどころに置かれたチョコチップの岩にぶつかっては、白波をあげている。
「これ、どうやって渡れば良いの? チョコの岩の上を跳ぶの?」
間隔的に跳べないことはないが、足を滑らせれば流れに飲まれてしまいそうだ。
「普通に歩いて渡れば良いじゃないか」
「そんなに深くない川なの?」
「さあ? 深さは誰も気にしたことがないからね。でも、浅くはないと思うよ」
「こんなに流れが速いのに、歩いて渡るなんて無理!」
「流れの速さも深さも、何の関係があるんだい? まあ、多少今日の川は荒れてるから、気を付けて歩かないと転ぶかもしれないけどね」
「転ぶどころじゃすまないでしょ?」
「君は何を言っているんだい?」
「あなたこそ何を言ってるのよ!」
平行線の会話に、ペルシャ猫が不愉快そうに鼻を鳴らすと、目を細めた。
「君は、この場所が自分の夢の中だと思っているから、君の中にある常識を当てはめようとする。でもここは君の夢の世界じゃないから、君の尺度で物は測れない」
「どういうことなの?」
「そのままの意味だ。ここは、アリスの夢の世界だよ。だから飴は鳥になって空を飛ぶし、アイスの川は渡れる。試しに歩いてみると良い」
自信満々なペルシャ猫の様子に、私は恐る恐るアイスの川に足を乗せた。
いつの間にか履いていた靴は淡いブルーで、歩きにくさを感じない程度に上げ底になっている。
ゆっくりと体重をかける。グニャリとした感触が靴底から伝わって来たものの、沈み込むことはなかった。
浅い泥の上に立っているような、不思議な感覚だった。
チョコチップの岩と、時折たつ白波に気を付けながら渡り切る。
「さあ、次はあのプリンの山を登るんだ」
前足で指された先を見れば、見上げるほどに大きなプリンがあった。表面にはホイップクリームが点々とついており、どうやらボルダリングのようにして登るらしい。
「ねえ、ここにあるお菓子って、食べられるの?」
「まあ、大体は食べられるんじゃないか? 何せお菓子だからね」
「じゃあ、プリンの下の部分を食べて、トンネルみたいに掘り進めたら、向こう側に出られない?」
「出られるかもしれないけど、君のお腹は破裂するだろうし、お茶会には間に合わないだろうね」
「でも、あんなに高い山を登る技術はないわ」
「技術なんて必要ない。ホイップを掴み損ねないようにすれば、誰だって頂上まで登れる」
それなりに体力には自信があるが、握力に自信はない。あんな高いところまで登ろうとしたら、確実に腕や指が悲鳴を上げて落下してしまう。
けれど今までのことを考えるに、ここでは自分の常識は通用しない。
ペルシャ猫が登れると言うのなら、きっと登れるのだろう。ホイップさえ、掴み損ねなければ。
「一番目のホイップをつかんで、すぐに二番目のホイップをつかむんだ。後は速度を調整しながら、ホイップを適度につかんで」
自分の筋力を過信せず、無理だと思ったら早々に諦めよう。
そう決意してホイップに右手をかければ、体が下から押されるような感覚に、慌てて左手でホイップを掴んだ。
重力が反転してしまったかのように、上へ上へと体が持ち上げられる。
ホイップさえ握っていれば上へ落ちることはないが、下手をすると上空に跳ね上げられてしまいそうだ。
「あまり加速しすぎないように気を付けて。ホイップをうまく使うんだ」
「なんで上に引っ張られるの?」
「プリンの山を登るんだから、上に落ちるのは常識だろう?」
そんな常識は知らない。そもそも、上に落ちるという言葉もおかしい。
けれどそんなことを言っても、この世界ではそれが常識なのだから仕方がない。
「ねえこれ、くだるときはどうするの? 下に登らないといけないの?」
「いや、上に落ちるのは登りだけで、くだりは下に落ちる。とは言え、プリンの山を下に落ちるのは危ないから、滑り台がある。安心したまえ」
ペルシャ猫の説明を聞いているうちに、プリンの山の頂上についた。カラメルの山頂では重力が正常になっており、プヨプヨとした弾力を足裏に感じながら進む。
滑り台の入り口はわかりやすく、下山と書かれたゲートが置かれていた。
「ねえ、ここはアリスの夢の世界って言ってたけど、アリスってあのアリスよね?」
滑り台は緩やかに蛇行をしながら伸びていたため、スピードがつきすぎることはなかった。
プリンの香りがする風に髪をなびかせながら、肩の上で気持ちよさそうにヒゲを揺らすペルシャ猫に目を向ける。
「君の知り合いのアリスが一人だけなら、そうだろうね」
「どうして私は、アリスの夢の世界に来ているの?」
「それを僕に聞かれてもね。君とアリスの間で交わした約束なんて、知る由もないよ」
「約束? 夢に来る約束なんてしてないわ」
「ソレが約束と言う名の契約だったのか、呪いと言う名の契約だったのかは分からない。でも君は確かに、アリスと何かの契約をしたはずだ」
「ちょっとした魔法をかけてもらったけれど……」
「何かを願って、アリスがそれを叶えたのなら、立派な契約だ。しかも魔法はなんでも叶うぶん、かなり強力な契約になる。君は、どんなことを願ったんだい?」
「同じ日に生まれた片割れと、二度と顔を合わさなくてすみますように」
「……それはそれは……」
ペルシャ猫はとても驚いたらしく、瞳がまん丸になっていた。
出会った時から人を食ったような表情しか見ていなかったため、少しだけ気分がスっとした。
謎の優越感が伝わったのか、ペルシャ猫は気分が悪そうに鼻を鳴らし、前足を右へとむけた。
遠目で見るとただの枯れた茶色い森だったが、近くまで来ると、木々がチョコレートでできていることに気づく。
独特の甘い香りが、あたり一面に漂っていた。
「この森を半分くらい進んだ所に、コスモス時のお茶会をやっている広間がある。まだ紅花分はあるから、薔薇分までにはたどり着く」
未だに分からない花の数字に、曖昧に頷く。
「それで、何故君たちはそんなに仲が悪いんだい?」
「悪いわけじゃないわ。良くはないってだけ。なんとなく、合わないの」
「まあ、同じ日に生まれて似たような形をしていても、中身は全然違うのだからそう言うこともあるだろう。だが、魔法という契約をしてまで会わないなんて、普通じゃない」
ペルシャ猫が吐き捨てるように呟き、くしゃみをした。小声の悪態に耳を傾ければ、どうやらチョコレートのにおいが嫌いらしい。
「そんな契約をしたせいで、君たちは代償としてこの世界に囚われることになった。偶数日は姉が、奇数日は妹がこの世界に閉じ込められる。逆に君たちの世界では、奇数日は姉が、偶数日は妹が担当することになった」
「どういうこと?」
「カナとカコは契約により、ナコという少女になった。カナがナコのときはカコがこの世界にいて、カコがナコのときはカナがこの世界にいる。双方の願いが同じだったからこそできた、強力な魔法だ」
双方の願いが同じと言うことは、相手も顔を合わせないですむようにと、アリスに願ったのだ。
さすが双子、考えていることは同じだと苦笑する反面、双子だからこそ、相手の考えが分かる。
きっと私と一緒で、軽い気持ちで言ったのだろう。まさかアリスが本当に魔法を使えて、叶えてもらうためには代償が必要だなんて思ってもみなかったのだろう。
「私は……ううん、私たちは、契約なんてしてないわ。あれは願いなんかじゃない。ただの愚痴から派生した冗談」
「いいえ、あれは契約よ」
鬱蒼としていた森が急にひらけ、視界が明るくなる。高く澄んだ空では、飴細工の鳥たちが旋回している。
テーブルの一番奥、背の高い椅子に座っていたアリスが上品に微笑む。息を呑むほど美しい顔の中央では、翡翠色の瞳が冷たくこちらを見つめていた。
「魔法が契約だって知らなかったのよ」
「それなら、魔法を何だと思っていたの? なんの代償もなく願いが叶えられるとでも思っていたの?」
小さな子供に言い聞かせるような柔らかな言い方だったが、言葉の端々には苛立ちが透けて見えた。
「二度と会いたくないなんて、本心なわけないでしょ! 確かに一緒にいてイライラすることも多いけど、でも双子なんだから!」
「……双子だから? 双子だからこそ嫌なんだって言ってたじゃない」
アリスから笑顔が消える。無表情な顔は人形のようで、周囲の風景と相まって、絵本を眺めているような気分になる。
「会いたくないって言うから、相手と会わなくてすむようにしてあげた。カナちゃんは一人っ子が良かったって言うから、現実の世界で叶えてあげた。カコちゃんは比べられるのが嫌だって言ってたから、この世界から数字をなくしてあげた」
数字があるから順番ができ、順番ができるから優劣が生まれる。
二番は一番には勝てない。でも、スミレと百合はどちらも美しく、そこに勝ち負けはない。
「二人が願ったから叶えてあげたの」
「常識的に考えて、あんなの冗談だってわかる……」
反射的に言い返すが、ペルシャ猫ののんびりとした声にさえぎられた。
「君の常識は、相手の常識ではない。でもそれはアリス、君も一緒だ。君にとっては常識の範囲にある魔法でも、彼女にとっては常識の範囲外だ」
「……でも、一度契約した魔法は解除できないわ」
「なら、新しい契約をすれば良い」
ペルシャ猫が立ち上がり、後ろ足で軽く私の肩を蹴るとテーブルの上に着地した。
「今度の契約では、双子そろってこの場を訪れて、アリスに願いを叶えてもらうと良い。双方納得した上での願いなら、拗れることもないだろう?」
「でも、二人一緒にこの世界にいることはないんでしょう?」
偶数日はカナが、奇数日はカコがこの場所にいて、片割れは現実世界でナコになっている。
「それは、ナコちゃんを消してしまえば良いだけだから大丈夫。彼女さえいなければ、二人とも現実に戻らないですむから」
それなら良かったと安堵するが、現実世界との繋がりを断たれたような気がして、不安になる。
でも片割れとこの世界で出会い、アリスにお願いさえできれば、カナとカコは双子として現実に戻ることができる。
「それで、どこにいるの?」
「君が起きた場所から右の方向にずっと歩いて行けば、いずれ出会うと思うよ。この世界は丸いからね」
「クッキーのベッドまで魔法で連れて行ってあげる。心配しなくても、これは簡単な移動魔法だから代償はいらないわ」
アリスが指をパチリと鳴らせば、耳元でポンと大きな音が響いた。
突然の音に目を閉じ、気づけばクッキーのベッドの上に座っていた。
「やあやあ少女、また会ったね」
嫌味ったらしい白兎の声に盛大なため息をつくと、片割れを探すために勢い良く立ち上がった。
冷めてしまった紅茶を口に運び、アリスは時計に視線を落とした。次のお茶会までは、まだ時間がある。
「それにしても、本当に同じことを言いに来るとは思わなかったな。だって彼女たち、性格が全然違うからこそ、こんなことになったんだろう?」
「私から見れば、二人ともそっくりよ」
顔も同じ、考え方も同じ、言い方も同じ、歩き方も同じ。
だからこそ反発し合い、自分だけの個性を伸ばそうとして、気持ちがすれ違ってしまっただけだ。
「ねえ、いつになったら二人がそろってこの場に来るか、賭けない?」
「それは、賭けになるかい? だって僕は、北で起きた姉と南で起きた妹に同じことを言ったからね」
丸い世界で正反対の場所にいる双子は、全く同じ速度で互いに右へと進んでいく。
ベッドから右へ進めばソーダの海、キャンディーの花畑、ビスコッティの砂漠にティラミスの湖、フィナンシェの林にバームクーヘンの渓谷。そして反対側のベッドへとたどり着き、再びソーダの海、キャンディーの花畑と続いていく。
「右半分と左半分が全く同じ景色だなんて、二人は気づかないと思うんだ」
「そうね、私もそう思うわ」
アリスはこの日一番の笑顔をペルシャ猫に向けると、スコーンを一口かじった。
双子は素直に、片割れを探すために右へ右へと歩き続けるだろう。この丸い世界で、右に歩いていけばいずれ会えると言う言葉を信じて。
しかし、双子がそっくりであるがゆえに、右に歩いていても出会うことはない。姉が一歩進むたびに、妹も一歩進む。姉が一休みするとき、妹も一休みする。
ここはアリスの夢の中。アリスが双子をそっくりだと認識しているうちは、絶対に出会うことはない。
互いを探すことを諦めたときになってはじめて、この場所で三人そろってお茶会をすることができるだろう。