撫子が桜河が所有する屋敷に来た頃、叔母である玲子は謝罪行脚に追われていた。
 地位は最高位に立つ鈴代家だが、急な結婚白紙に地主一家は不満を露わにしていた。
 その場はひとまず収まったが玲子と真紀は怒りが隠せない。
 近くにあった花瓶を勢いよく倒す玲子。
 「鈴代家の顔に泥を塗って……。絶対に許せない」
 猛烈な怒りが玲子達の頭を支配していた。

 龍神が人々の前に姿を現し、地主の花嫁を奪ったことはすぐに町中の噂になった。
 それは撫子の幼なじみである崇明の耳にも届く。
 「龍神が撫子を攫った!?」
 婚儀に招待されていた崇明の父親から衝撃の事実を聞かされ目を丸くする。
 清瀬家当主、清瀬英一。
 鈴代家に次ぐ名家で海外にも事業を展開しており英一はその手腕が評価され時折メディアにも露出していた。
 日頃から鈴代家の屋敷へ行き、撫子に会いたいと尋ねてきた崇明は叔母達から嫌悪感を抱かれており幼なじみの存在でありながらも招待をされなかった。
 「で、二人は何処に行ったんだよ!」
 英一の肩を掴みながら問う。
 まるで英一に対して怒っているような言い方だ。
 「崇明、落ち着きなさい。撫子さん達は恐らく光結町に向かったのだろう。神に選ばれた花嫁の多くがそこで暮らすから」
 崇明は力無く手を降ろす。
 光結町は強力な結界が張り巡らせており無関係の人間は入ることが出来ない。
 撫子と会える方法が無いのか頭を回転させて考える。
 もっと早く撫子をあの叔母達から助けていたら。
 もっと早く自分が想いを伝えていたら。
 様々な後悔の念が思い浮かんでぐっと握っていた拳に力が入る。
 「おい、大丈夫か?」
 黙る崇明に英一は心配そうに声をかける。
 このまま諦めるしかないのか。
 神に選ばれた花嫁は寵愛を受け、離れることは無いと崇明も聞いたことはあった。
 思い出すのは花のように愛らしい撫子の笑顔。
 急に現れた龍神にずっと想いを寄せていた少女を取られたことにたとえ相手が格上の神であっても許すことは出来なかった。
 「撫子……」
 悔しさと怒りが混ざった複雑な感情になりながら俯く崇明を英一は初めて見たのだった。

 撫子が光結町の屋敷に来て初めての夜。
 お風呂を済ませ自室のソファに座る。
 百合乃が用意してくれた冷たいお茶を飲み、一息つきゆっくりと目を閉じる。
 (今日は色んなことがあったな……)
 地主との婚儀が始まると思ったら龍神である桜河が現れ、光結町に来ていて広大な屋敷で暮らすことになった。
 普通じゃあり得ないような出来事を経験してまだ胸がドキドキしている感覚がする。
 (まさか私が花嫁なんて……。あ、もしかしてこれは夢?)
 自分の頬を試しにつねってみる。
 「いひゃい……」
 しっかりと痛さが伝わりこれは現実であることが分かる。
 「撫子?」
 「……。龍神様……!?」
 急に耳に届いた低い声の方を見ると桜河が襖を開け、立っていた。
 頬をつねっている撫子を不思議そうに見ている。
 慌てて手を離しながらソファから立ち上がる。
 「いつからそこに……?」
 「声をかけたんだが返事がなかったんだ。勝手に入ってすまない」
 「い、いえ!」
 ぼーっとしてしまい桜河の声も届かなかったのだろう。
 首を横に振る撫子に桜河が近づく。
 「隣、座っても良いか?」
 「は、はい!」
 桜河と一緒にソファに座る。
 二人が座っても十分なほどスペースのあるソファなのに桜河は撫子の隣にぴったりとくっつくように座る。
 肩が触れそうなくらいの距離になり恥ずかしくなる。
 照れて俯いていると顔を覗き込まれる。
 至近距離に端整な顔立ちがあり一瞬息が止まった。
 「さっきは何をしていたんだ?」
 さっきのこととは頬をつねっていたことだろう。
 美しい瞳を直視出来ず視線を逸らしながら口を開く。
 「今日の出来事は夢かなって思って確かめてました……」
 何だかわけも分からず自分のしていたことが恥ずかしくなりさらに顔に熱が集中するのが分かった。
 すると桜河の手が撫子がつねっていた頬を優しく撫でた。
 桜河のしなやかでありながら男らしい手が撫子の柔らかく熱い頬を撫で初めての感覚に次は体が固まる。
 撫子はもう思考停止の状態だった。
 「夢じゃないよ。こうして出逢えたのも全部現実だ」
 桜河の低く色気のある声が鼓膜に届く。
 撫子はこくりと小さく頷くだけで精一杯だった。
 林檎のように顔を真っ赤にしている撫子を見て微笑む桜河。
 「撫子は可愛らしいね」
 今日一日何度も言われている言葉に恥ずかしさの限界を迎えて無意識に口を開く。
 「そんな可愛いだなんて……。そういう風に言ってくれるの実の両親と崇明お兄ちゃんだけでした」
 「撫子には兄がいたのか?」
 「あ、いえ。私より五つ年上の幼なじみです」
 そう言うと桜河の目が少しだけ変わった。
 顎に手を当て何かを考えている姿に撫子は首を傾げる。
 「龍神様どうかされました?」
 何か変なことを言ってしまったか自分の言葉を振り返るが思い当たる節は無い。
 「撫子はその男が好きなのか?」
 「え……!?」
 真顔で見つめられ予想もしていなかった質問に思わず大きな声を出してしまう。
 何か勘違いをさせてしまっているのだろうかとすぐに自分の思いを伝える。
 「崇明お兄ちゃんは実の兄のような存在で恋愛感情は無いです……!」
 早口になりながらも最後まで言い切った。
 撫子の言葉に桜河に安心したような笑顔が戻った。
 「そうか。なら良かった」
 しっかりと説明出来たことに胸を撫で下ろしていたが今の会話の中の人物の名が再び思い浮かぶ。
 崇明は虐げられていた自分を心配して何度も様子を見に来てくれた。
 地主との婚儀には招待されていなかったのであの時の状況を知っているか分からない。
 せめて今は安心出来る場所にいるよと報告しておきたい。
 それが恩人への礼儀であると思う。
 「あの崇明お兄ちゃんに今の状況を伝えたいのですが……。明日会いに行っても良いですか?」
 撫子の言葉に桜河は返事を考えているのか少し間をおいて頷く。
  「ああ。だが俺も共に行く」
  「龍神様も?」
 崇明の家や会社の場所は知っているし会いに行くくらいなら一人でも行ける。
 思わぬ回答にきょとんとしてしまう撫子。
 「撫子は龍神の花嫁。神の財産を狙おうと身代金を要求する誘拐などされても可笑しくない。今後外出をする際は俺か護衛の者が付く」
 怖い言葉に撫子は背筋に冷たいものが走った。
 日頃から自分をよく思っていない娘が婚儀を放棄して家の顔に泥を塗ってしまったことを叔母達は激怒しているだろう。
 もしかしたら今まで以上に酷いことをしてくるかもしれないと恐ろしい想像をしてしまった。
 顔を青ざめる撫子に桜河はそっと手を伸ばし小さく細い体を抱きしめる。
 ゼロになった距離に恐怖で震えていた気持ちが止まった。
 「怖がらせてしまったね。でも大切な撫子を守る為なんだ」
 恐怖心を取り除かせるように大きな手が優しく背中を撫でる。
 そのおかげで撫子は少し落ち着きを取り戻していった。
 桜河の提案を断ろうとしていたが、もし一人で行動をして周囲に迷惑をかけてしまったらそれこそ後悔の念に押し潰されそうだ。
 「では……宜しくお願いします」
 少しだけ間を取り自分の顔を見上げている撫子に優しく微笑みながら頷く桜河だった。

 翌日。
 朝食や身支度を済ませ屋敷を出る。
 この時間だと崇明は勤務する会社に出勤してくるはずだ。
 桜河の力を使い、目的地まで瞬間移動をするが流石に昨日のように人が多い場所だと目立ってしまうので今日は人通りの少ない場所に到着する予定だ。
 桜河の隣に立ち、手を繋ぐ。
 「では行くぞ」
 桜我の言葉に撫子は頷き、そっと目を閉じた。

 「着いたぞ」
 風が止む気配を感じゆっくりと目を開けると人がいない路地裏に立っていた。
 周囲を見渡し誰にも瞬間移動を見られていないことを確認してホッと胸を撫で下ろす。
 早速、崇明の会社に行こうと歩き出すが手を繋いだままであることを思い出した。
 慌てて離そうとするが桜河はしっかりと撫子の手を握っていて離れなかった。
 「あの、手……」
 頬を赤く染めながら繋がれているじっと手を見ている撫子。
 「嫌か?」
 「い、嫌というより恥ずかしくて……」
 町中で手を繋ぐなんてデートのようだなんて考えてしまう。
 中学生の頃、手を繋いで仲睦まじく歩いているカップルを見たことがあった。
 いつかは自分もあんな風になるのかななんて思った矢先、両親を亡くした。
 夢見ていたはずなのにいざ叶うとなると恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。
 この胸が高まるのは男性と手を繋ぐから?
 桜河に対しての恋愛感情?
 感情の名前がつけられなくて片方の手で胸をそっと抑える。
 「嫌ではないのだな?それならこのままで」
 そっと手を引き歩き出す桜河。
 路地裏から大通りへ開けていくと同時に逆光を感じ目を細める。
 撫子はそれ以上何も言わず身を委ねた。
 大通りへ出て歩くとすぐに人々の視線が桜河に集まった。
 和服姿の男性が歩いているのも珍しいが桜河の美しさに誰もが足を止めて見ている。
 撫子もお世話係の百合乃が用意してくれた着物を着て隣を歩いているがこんな地味な自分が共にいていいのかと視線を浴びる度、複雑な感情になってしまう。
 「撫子、大丈夫か?」
 心配そうに顔を覗き込まれて慌てて安心させるように笑顔を見せる。
 「だ、大丈夫です!」
 「そうか?無理はするな」
 (いけない、いけない……。私がお願いして崇明お兄ちゃんに会いに来たんだから)
 まだ若干黄色い声や視線を気にしながらも前を向いて歩き出した。
 暫く歩くと崇明が勤務する会社に到着した。
 数年前に一度だけ崇明に教えられて来たことがあったが見上げるほどのビルの高さに圧倒される。
 中に入るのは初めてで緊張してしまう。
 深呼吸をして入ろうとした時。
 「撫子!?」
 自分の名を呼ばれてパッと振り向くと崇明が止めていた車の窓を開け、驚いた様子でこちらを見ていた。
 「崇明お兄ちゃん!」
 すぐに車から降り、撫子の元へ駆け寄る。
 崇明は手を伸ばし撫子を抱きしめようとしたが桜河の手によって阻まれた。
 「俺の花嫁に触れるな」
 「……っ!」
 桜河に掴まれた腕を振り払い怪訝そうな視線を向ける。
 桜河はそれ以上に冷酷な瞳を崇明に向けていた。
 二人の初めて見る表情に動揺してしまう撫子。
 何か言わないとと焦りながら口を開いた。
 「た、崇明お兄ちゃん。昨日の地主様との婚儀でね、龍神様と出逢ってこれから一緒に暮らすことになったの。心配かけてごめんなさい」
 「一緒に暮らす……!?」
 幼なじみの急展開の出来事に目を丸くする崇明。
 少し遅くなってしまったが報告が出来て良かったと安堵する撫子。
 しかしホッとするのも束の間、崇明は一歩前に出て撫子に近づく。
 近づく前に桜河が撫子を自分で隠すように間に立つ。
 桜河の背が高くて撫子からは崇明が見えなくなった。
 「俺は撫子と話がしたいんだ」
 「それ以上近づくなら撫子の幼なじみであっても容赦しない」
 喧嘩の雰囲気を感じ止めたいと背中の後ろから顔を出す。
 「二人とも喧嘩は……」
 少し撫子の顔が見えた瞬間を見逃さず崇明は躊躇わず口を開いた。
 「俺、撫子が好きなんだ!結婚してほしい!」
 「……え!?」
 思いもよらない幼なじみからの求婚に大きな声を出しながら驚いてしまう。
 ずっと本当の兄のように慕っていた崇明が自分に求婚をしている。
 衝撃で言葉が出ない。
 撫子が返事をする前に桜河が割って入った。
 「お前、撫子を俺の花嫁と知ってそのような戯れ言を言っているのか?」
 撫子からは桜河がどんな表情をしているのか見えないが明らかに声は今まで聞いた中で一番冷たかった。
 崇明からは一瞬怯んだような息の音が聞こえたがすぐに話を続けた。
 「俺はずっと撫子を想ってたんだ!お前よりずっと昔から……!」
 桜河の背中越しに崇明の悔しそうな表情が見える。
 本気で自分を想ってくれていたのだと分かった。
 自分の中で崇明への返事は何となく決まっていた。
 それを言葉にして伝えたいのに動揺しすぎてまとまらない。
 「神と花嫁の絆は他者が入れるような代物では無い。お前も聞いたことぐらいあるだろう」
 「そんなの俺は信じない!撫子、まだ正式に夫婦になったわけじゃないんだろう……!?」
 「そうだけど…」
 何か言わなければと焦れば焦るほど頭の中がぐちゃぐちゃしてしまう。
 混乱していると視界が急に暗くなった。
 桜河が撫子を抱き締めていたからだ。
 崇明に見せつけるように。
 「撫子、用件は済んだ。屋敷に帰ろう」
 耳元でそう呟かれると二人を風が包む。
 「待て……!撫子!俺は諦めないから……!」
 伸ばした手も虚しく宙をつかんだのだった。