風が止むのを感じ、恐る恐る目を開けると視界に大きな屋敷が建っているのが分かった。
 鈴代家よりはるかに大きい屋敷に目を丸くする撫子。
 「ここは……」
 ちらりと周りを見てみると森の中に居るようだった。
 鈴代家周辺には無い景色に元の場所よりかなり離れた場所にいることが分かる。
 「ここは光結町にある俺が所有する屋敷だ」
 桜河が優しく説明しながらゆっくり撫子を降ろす。
 光結町。
 引き合わせられた神と花嫁が暮らす為の町。
 花嫁の合意があれば天界に住むことも出来るがほとんどの花嫁は住み慣れた人間界にいたいと願う。
 その為に天界人と政府が創り出した町が光結町。
 周囲は神達による強力な結界が張られており無関係の人間は入ることは出来ない。
 撫子も話には聞いたことがあったが神々しい土地に自分が居ることが信じられなかった。
 「光結町……。あ、あの貴方は本当に龍神様なのですか?」
 風を巻き起こし瞬間移動が出来る時点で普通の人間では無いことが確かだが一応質問をしてみる。
 「ああ。俺は龍神の桜河だ」
 撫子も噂程度だが聞いたことがある。
 八百万の神の中でも絶大な力を持つ龍神がいると。    
 偉大な存在から龍神の花嫁に選ばれたいと願う女性は多かった。
 「それに私が花嫁って?」
  地主もそうだったが初めて会う人と結婚することはやはり抵抗がある。
 桜河は悪そうな人には見えないがまだ信じることも出来ない。
 しかもこんな自分が世の女性達の憧れの的である龍神の花嫁に選ばれたなんて何かの間違いではないかと思ってしまう。
 「俺達神は伴侶を決める際、水鏡という運命の相手が映る物を使用する。俺が水鏡を覗き込むと映し出されたのは撫子だったんだ」
 神達は水鏡に花嫁の女性が映し出されると恋い焦がれたような感情になると言われている。
 生涯その感情は続き、愛されるのだと。
 しかし花嫁にはその感情が分からない。
 容姿端麗な神に自然と惹かれる花嫁もいるが戸惑う花嫁もいるらしい。
 撫子は自分が後者だとすぐに分かった。
 「でも私なんか……」
 愛されずに虐げられてきた自分が龍神様の花嫁になっていいはずが無い。
 姉の真紀のように愛嬌も無く、地味な容姿に性格。
 今までの辛い出来事を思い出して俯いてしまう。
 「顔を上げて、撫子」
 優しい声が耳に届き、自然と顔を上げると桜河が温かな眼差しを撫子に向けていた。
 「そんなに自分を否定しないで。撫子はとても素敵な女性だよ」
 撫子の頬に手を添えながら甘く微笑む桜河。
 男性にこうして褒められるのは初めてで顔に熱が集まるのが分かった。
 自分の存在を認められたような気がして暗闇に支配されていた心に一筋の光が差したような感覚がした。
 「俺は撫子を離すつもりはない。生涯、君だけを愛す」
 今日初めて会ったのにこんなにも想ってくれる桜河に気持ちが許しそうになってしまうが神達が花嫁に対して覚える感情はどのようなものなのだろうと考える。
 自分には分からず、すぐに答えられない状況に戸惑う。
 この人と一瞬にいればあの地獄から抜け出せるのか。
 しかし今日初めて会った人に求婚されて『はい、お願いします』と言っていいのだろうかと自問自答する。
 「……少しお時間を頂けますでしょうか」
 やはりすぐに答えを出してはいけないと小さな声で保留の返事をした。
 撫子の言葉に桜河は少し悲しそうな顔をしながら頷く。
 「分かった。困らせてしまってすまない」
 悲しそうな表情に申し訳なさを感じるが気持ちの整理がついていないのに返事をしてしまっては失礼だろうと思った。
 優しく頭を撫でると撫子の後ろに視線を送る。
 「お前達、準備は出来ているか?」
 「はい、全て整っております」
 急に聞こえた声にハッと振り向くと屋敷の玄関に何人もの使用人らしき人々が頭を下げていた。
 先程まで誰も居なかったのにどこから現れたのだろう。
 「撫子、今日からこの屋敷で暮らさないか?」
 「え!?で、でも……」
 「悪いが鈴代家や撫子のことは事前に調べさせてもらった。辛い思いをしていたのだろう」
 桜河は数日前から使役獣の小鳥を鈴代家の屋敷に送り、内情を調べていた。
 使役獣から送られてくる念話で撫子が虐げられていることを知り激怒した桜河は使用人達に早急に迎える準備をするよう指示をしていたのを撫子は知らなかった。
 婚儀を放棄し撫子が帰る場所は無い。
 仮に帰ったとしても叔母達がさらに酷いことをしてくるのは目に見えて分かる。
 「私がここにいたらご迷惑に……」
 もし撫子がこの屋敷にいることを知ったら叔母達は何をしてくるか分からない。
 自分だけならまだしも他人に、しかも格上の桜河に迷惑がかかるのは嫌だった。
 それだけは絶対に避けたい撫子は桜河の提案を断ろうと俯いていた顔を上げた。
 しかし言葉を発する前に先に桜河が口を開いた。
 「迷惑じゃない。撫子がいてくれたら俺達は嬉しい。この屋敷には撫子を怖がらせるものは何も無いよ」  
 その言葉に胸の中に浮かんでいた断ろうとしていた気持ちがゆっくりと消えていく。
 ふと近くに控えている使用人達の姿が目に入る。
 どの使用人も撫子を優しい眼差しで見つめている。
 その光景で自分の存在を嫌悪している人はここにはいないのだと分かった。
 今まで他人に甘えるということはしてこなかったが勇気を振り絞り口を開く。
 「龍神様、皆様……。よ、宜しくお願いします」
 撫子が頭を下げると使用人達がワッと喜びの声を挙げる。
 ゆっくりと顔を上げると桜河も優しい笑顔で見つめておりその美しさに胸の鼓動が高まった。
 思わず魅入ってしまい、慌てて視線を逸らすと一人の侍女が前に出てくるのに気づいた。
 撫子でも惚れ惚れするような美しい女性。
 「撫子様のお世話係を務めさせて頂きます。百合乃と申します。誠心誠意お仕えさせていただきます」
 鈴代家だと戸籍上は娘で本来なら令嬢の扱いだが毎日のように虐げられてきた撫子は侍女に丁寧にお辞儀をされるのは初めてで慌てて撫子もお辞儀をする。
 「よ、宜しくお願いします」
 挨拶を済ませると桜河が撫子の手を取る。
 急に伝わる体温に再び胸が鳴った。
 「疲れただろう。まずは着替えて休もう」
 「さあ、撫子様のお部屋はこちらです」
 にこやかな表情をしながら百合乃は先を行く。
 撫子は若干の緊張を感じながら広大な屋敷へ足を踏み入れた。