「新しい夜警の男か」

 わかってはいたけれど、気を引き締める。

 男。そう。いまの私は、男性だ。

 男性用の警備隊の制服を着て、男性の名を名乗り、男性として生きている。男性しか所属していない宮中の警備隊から派遣されてきた、皇帝の夜警担当。
 ほんとうの性別を、知られてしまってはならない。けっして。

『もし本当に、高雅(こうが)帝国にゆくならば。男として生きるんだよ。女だと知れてしまったら――』

 最期に頭を撫でてくれた母の命を、無駄にしてはならない。

「はい。本日から陛下の夜警をいたします。灯然(とうねん)と申します。下賤の身分ではありますが、皇帝のお役に立ちたく存じます」

 まさに、氷の精霊のような。
 氷そのものを、身体に抱いているのではないかと思わせるような。
 この世の存在とも思えない――まるであやかしの血を引いているのではないかと思うほどの、美しい皇帝は。

「先に、決まりごとを言っておく。十尺以上の距離を、常に取ってほしい。それ以上は、けっして、近寄らないように」

 皇帝陛下は、思った以上に人間不信極まるようだ。
 噂には、聞いていたけれど。想像以上だった。

 後宮。皇帝の住まう、透雅殿(とうがでん)

 彼は、妙な場所に座っている――部屋の真ん中に、寝台をぽつりと置いて、それを椅子にして座っているのだ。
 そして身体を、白い、上質そうな、雲のように柔らかそうな毛布で覆っている。

 白銀の長髪に、蒼い瞳。
 端正で、意志の強そうな顔つき。
 美しき仙人のような容姿、幽玄な雰囲気を纏っている。

 この国の人間は、ほとんどが黒い髪に黒い瞳を持つ。
 ……まあ。金髪に茶色い瞳の私は、他人のことをどうこう言えた義理ではない。
 それに――きれいだ。透き通っていて。

 だけども、そんな見目麗しい皇帝は、他人を拒絶する幼子のごとしで――。

「……お言葉ですが、陛下」

 私は立って、自身の立ち位置と皇帝の距離感を目測で確かめた。

「十尺の距離を保っていては、いざというときに御身を護れません」
「頼むから、近づかないでくれ」

 声を荒げるわけではない。
 だけども、ひんやりと。凍てついた声で。
 その言葉の意図するところは、明確だった。

「失礼しました」

 私は素直に頭を下げる。

 手に提げた提灯が、私が腰を折るのと同時にゆらめく。
 この部屋には、私の持つ明かりしかない。夜警の担当は、私ひとりだけ。

 本来ならば、警備の担当をもっと集められるはずだし。
 当然に、炎ももっと集めることができるはずだけれども。
 あの噂は――あながち、間違いでもないのだろうか。

 ……呪われた皇帝。
 妃嬪たちと夜伽をしようともせず。他人を避けて。
 そして――彼の警備を務めた者は、みな何らかの暗い結末に至る。

 皇帝が病で崩御されて。
 高雅帝国ではずっと公主が多く、皇子がほとんどいなくて。跡継ぎが少ないことが、以前から問題となっていて。
 多忙な前の皇帝は、跡継ぎの問題に取り組む前に、世を去ってしまった。

 そして。
 たった三月前に、即位されたばかりの。
 人間嫌いの、変わり者の「蓑虫陛下」。

 皇帝の実の御子である(そう)氷臥(ひょうが)は、これまでほとんど表舞台に出てこなかった。
 それが、皇帝が崩御された途端――急に、即位した。
 文官たちの間で、議論にもなったらしいのだけれど。血筋から考えれば、やはり、彼が即位するしかなかったようで――。

 人に会うことを嫌い、広い大広間のような部屋の真ん中に寝台だけ置いて、年中布団をかぶって過ごしているさまが――まるで、ひきこもりの蓑虫のようだと、宮中で揶揄されている。
 警備隊でも――。

『なあ、聞いた? 今日も蓑虫陛下ときたら、昭儀(しょうぎ)様を冷たく追い出されて……』
『うっわ、昭儀様、可哀想』
『あんなに美人なのに。蓑虫陛下には勿体ないよな』

 雑談の種になる日常。

『やっぱりあれって呪われてるのかね』
『間違いねえだろ。……昔さ。大罪の皇子って言われてたっぽいの、知ってる?』
『えっ、何それ、知りたい知りたい』
『ご生母様が賤しいご身分だったんだってよ。お生まれからして、呪われてただろ、間違いなく。それで、昔さあ……』

 心無い噂。

『早いところ天へとお昇りになればいいのにな』

 冗談めかして、死を願う。

 そんなことすべてが、当たり前の日常で。
 皇帝たる者への敬意など、微塵も感じられなかった。
 ……立場があるとは言え、そこで黙っているしかなかった自分も、同罪かもしれないけれど。

「頭を上げろ」

 私は、その通りにした。

「俺には、けっして、近づくなよ」
「……かしこまりました」

 私は、もう一度頭を下げた。
 炎が、再びゆらめく。

 ……さて。私は、病になるのか、行方不明になるのか。
 それとも足早に去っていくかのように、仕事を辞めてしまうのか。

 行方不明になるわけにはいかない。
 まだ……高雅帝国での目的を、果たしていない。
 会いたいひとと……会えていない。

 提灯の炎は足元だけを照らしている。
 長い長い、夜が始まる。



 夜警の仕事は、まず第一に扉の前に立って寝ずの番をすること。
 そして万一不審な者がいたら、即座に対応する。

 私は今回、宮中の警備隊から皇帝の夜警に派遣された。
 灯然という名の少年として、警備隊に入ったのが二年前。そこからずっと、本隊員だったのだけれど――初めての派遣だった

 普通であれば、皇帝の御傍に仕えることができるなんて、随分な出世なのだろうけれど。
 呪われた皇帝と噂される蒼氷臥の場合は、少々異なる。

 彼に仕えた者たちはみな、なんらかの形で宮中を去っているのだ。
 重い病になるか、行方不明になるか、あるいは急に仕事を辞めてしまうか。
 唯一の手がかりは、辞める者たちの証言なのだけれども――彼らはかたく口を閉ざし、何も言ってくれない。

 人が減りすぎて。もはや後宮仕えの宦官たちでは対処不可能となり、宮中の警備隊から一人また一人と狩り出され、そして――彼らも、暗い結末のどれかを辿っている。

 最初こそ有力者が狩り出されていたが、やがて警備隊は要らない人材を差し出すようになった。当然と言えば、当然だ。出世頭を失いたくはないだろう。
 今上の陛下は本当に呪われているかもしれない。そう判断した途端、警備隊は途端に、人身供養のごとし人事を始めた。

 私は特に、疎まれてもいなかった。
 警備隊で普通に勤めていくことも、まあ、できたのだろう。

 私の失態は、あきらかだ。
 本当の性別が、女であると。
 徹底して、隠しきれなかったこと。

『――なんだ。おまえ。女だったのか』

 あの下卑た笑み。良いひとだ、と思っていた男性の。……下衆な行い。

『女だったなんて』

 実の妹のように可愛がっていた女性の、軽蔑に満ちた眼差し。

 女だと、わかられてしまったから。
 住まわせてもらった家からは追い出され。
 居心地の良さを感じ始めていた警備隊からも、追い出される。

 露見したら最後。その場所から、追い出される。

 ……今回も、そうだ。
 ここは後宮。天子と妃嬪たちの住まう場所。

 今は、皇帝の警護をする人間があまりに不足していて、例外的に警備隊の武官も入れているけれど――本来であれば、皇帝と妃の親族やよほど親しい人、宦官たちを除けば、男性は足を踏み入れてはならないところ。
 むろん、男性が妃に手を出したら――その末路は、想像するに容易いけれど。

 妃嬪でもない女性が、男性と偽って、皇帝陛下に近づいた――。

 考えるだけで、背筋が凍る。
 そこで皇帝に手でも出されて、御子を産めば、まだ恩赦を受ける余地があるかもしれないけれど。

 この帝国で、女だとわかれば、おそらく。
 私の命はおしまいだ。
 
 ……女であること、そのものもそうだし。
 正体も――私が何者であるのかも、けっして、ここでは露見してはいけない。



 夜警の時間は、それはそれは静かなものだった。

 皇帝は、蓑と噂の白い毛布に身を包んだままで、眠っているのかいないのかわからない。
 ただ時折布がこすれる音が響いて……ああ生きてるんだな、とそれだけはわかった。

 初日の仕事は、緊張のうちに……しかし、何事もなく終わった。

 明け方が近づくと、闇はひときわこっくりと重みを増した後、ふいに白みを帯びてくる。
 それが合図と言わんばかりに、朝の警備の者がやってきて、私のその日の仕事は終わりだ。

 交代の者は、警備隊の同僚、雷雷(らいらい)だった。
 彼は私が配置換えを命じられても、変わらず接してくれる。

 雷雷は皇帝に形通り一礼してから、私に向きなおる。
 
「灯然。お疲れ。今朝も小さいな」

 雷雷はそんなことをうそぶいて、身長を測るように手をかざす。
 嫌な気持ちにはならない。彼は、心置きなくいろんなを言い合える友人だから。

 お返しに、部屋から出て行くとき。
 うるさいよ、と小声で言って、彼の胸を肘で軽く小突いた。

 扉を背にして、自然と頬が緩んでいた。
 親しい相手とのやりとりは良い――心がほぐれる。

 最初こそ、やむにやまれず始めた男装だけれども。
 色々と、得たものもあって。
 そのひとつが、男性同士の友情というものを実感して、その関係の強さを信じられていること。

 女性同士に、それがあったように。男性同士にも、ああ、確かにあるのだと――見聞以上に、実感として、知ることができたのだ。



 その日の昼間は、慣れない皇帝の警護で思った以上に疲れていたのか、熟睡してしまった。
 警備隊の宿舎、二十人ほどで使っている部屋の、悪くない寝心地の寝台で。

 なんだか花畑のような夢を見ていた。
 故郷の……空のよく見える、花畑のような……。

 ふいに、花畑の世界が揺れる。
 身体が揺さぶられる。

「おい。灯然。夜警に行かなくていいのかよ」
「……ふえっ?」

 目を開けると、そこには腕を組んで呆れ顔の雷雷がいた。
 広い部屋は紅色に染まっている――もう、交代の時間だ。

 うそ。寝坊したの?
 自慢じゃないけれど、私はめったに寝坊しない。

 慌てて、布団を胸に引き上げた――衣が少しはだけている。
 衣は二重に纏っているから、すぐにはわからないだろうけれど。いよいよ膨らみ始めてきてしまった胸を隠すため、きつく巻いている白い布を見られたくはなかった。

葉葉(ようよう)が。普段、灯然は持ち場に早めに来るのに来ないから、様子を見てきたら、って。それで見に来たんだが、来て正解だったな」
「ご、ごめん。すぐ向かう。ありがとう。葉葉に、すまないことしちゃったな」
「別にいいんじゃね。まだ交代時間にはなってないわけだし」

 雷雷は、大きな欠伸をする。

「はー、眠い。じゃあ、俺は寝るわ」
「えっ、葉葉、置いてきちゃうの?」
「これから灯然が交代だろ。葉葉によろしく」
「相変わらず葉葉ばっかり割を食う」

 私は苦笑しながら言った。

 雷雷と葉葉は双子で、見た目はよく似ているんだけれど、性格は全く違う。
 ざっくり言って。不真面目な不届き者が、雷雷。真面目で勤勉なのが、葉葉。

「しょうがねえだろ。昨日遅くまで麻雀してて眠いんだよ」
「またやってたの、飽きないね」
「良い鴨がいなくなってつまんねえよ」
「それ、僕のこと?」
「紛れもない灯然さんのこと」
「言ったな。今度は勝つからね?」

 私は声を立てて笑う。雷雷も、にやりとする。

「それにさー、話、聞いてほしかったのによ。好きな子の話ー」
「ああ、また」
「またとは何だよ。長くてふわふわの髪に顔をうずめる話、灯然だって、したいだろー」

 雷雷は最近、城下町の餅屋の女の子に恋をしている。
 そのせいで、警備隊でやたら恋やら女の子やらの話が増えた。
 私もよく好きな女性はどんな女性? と聞かれて、困っていたのだけれど――。

『か、髪が長くてふわっとした女の子。ふわふわした髪に顔なんかうずめられたら、最高かも!』

 あるとき困りに困ってそんなことを言ったら、これが周りにすごくうけて。
 それ以来、「灯然は長くてふわふわの髪の毛の女の子に顔をうずめたい」というのが、なんだか警備隊での鉄板みたいになってしまった。

「まあ……まあね。でもそれより、餅屋の女の子の話のほうが聞きたいよ」
「えー、麻雀弱い灯然さんには、どうしよっかなー」
 
 そうだ。これだ。この感じ。
 大丈夫だ――私は、ちゃんと「男」をやれている。

 と、思った矢先。
 雷雷はふいに私の胸もとにちらりと視線をやって――。

「っていうか、何してんの?」
「え?」
「それ。布団。なんでずっと身体隠してんの。おかしい、女みてえでさ」

 ひやっと、胸の中心から、嫌な冷たさが巡って広がるかのようだった。

「……そ、そうだよね」
「そんじゃな」

 雷雷が、隣の寝台でこちらに背を向けて横になる。
 彼が寝息を立て始めても、私の胸はどくどくとうるさいほど鳴っていた。

 ……偶然だろうけど。
 雷雷の言葉に、深い意味なんて、ないのだろうけれど。

 やっぱり――心底、肝が冷える。



 身支度をして、なんだかんだで交代時間ぎりぎりになってしまった。
 宵に沈み始めた氷雅殿の廊下を、小走りで進む。

 ……人がいない。
 たまには下働きの人とすれ違うけれど――おおよそ、天子の住処とは思えない静けさだった。

 私は息を切らしながら、それでもどうにか作法通りに、皇帝の部屋の扉を開ける。
 部屋に立っていた葉葉が振り向いて、にこりと微笑む。
 そして皇帝に失礼にならない程度の声量で、ささやくように言う。

「ああ。灯然。良かった、間に合って」
「うん、ごめん。ちょっと遅れちゃって」
「いいよ。雷雷のやつ、ちゃんと呼びに行った?」
「あ、うん、おかげさまで」

 よかった、と葉葉は微笑みを深くした。

「それでは、失礼いたします、陛下」

 葉葉は皇帝に作法通りの礼をして、私の隣を通り過ぎる。

「夜警、頑張れ」
「ん、ありがと。麻雀ほどほどにって雷雷に言っといて」
「ありがたい。やっぱり灯然のお節介がないと、あいつ、駄目かも」
「いやお節介って、言い方」

 私と葉葉は軽口を交わし、小さく笑みを交わし合った。
 そしてぱたりと扉が閉じると――今宵も、皇帝と二人きりになる。

「陛下。夜警担当の灯然でございます。よろしくお願いいたします」

 私もまた、礼儀通りに頭を下げた。
 陛下は――相変わらず、蓑虫のまま。

 冬。陽が暮れてしまうと、早い。
 闇がどんどん濃くなっていく。

「灯然、とやら」
「……は、はいっ」

 突然話しかけられて、思わず背筋が伸びる。

「昼の警備の者たちとは、親しいのか」
「え、ええと、はい。親しくしております」
「そうか」

 陛下の、ぴくりとも動かない無表情。
 何か……失態を犯してしまった?
 葉葉と、言葉を交わしたのが良くなかった?

 だけども、陛下は。

「良いな」

 心なしか表情を柔らかくして、言っただけだった。
 えっ、と声が出そうになったのをどうにか抑える。

「俺は同性の友人がおよそいなかったから」
「さようで、ございますか」
「皇子は後宮で育つ。後宮は女人ばかり。父上の子は公主が多く、皇子は俺だけだった」
「……なるほど」

 感じること。
 そして、言いたいこと――差し上げたい言葉も、あったのだけれど。
 下手な相槌しか打てない。

 これが、たとえば、気楽な警備隊員同士の仲だったら。
 どうしたの、飯でも食いに行くか、とか肩を組んで。気楽に。……そのひとの言いたいことに、耳を傾けたりもできるんだけど。

 なにせ、相手は皇帝陛下だ。

 そして、そんな私の気持ちを見抜いているかのように――。

「俺が、友人になってくれ、と言っても、困るだろう」

 その通りでございます、とも。……言えないし。
 でも、現実としてはその通りで。

 高雅帝国を統べる天子たる皇帝と、たかが警備隊員のひとり。
 皇帝の親戚や、貴族の子弟とかなら、まだしも。
 友人だなんて――名乗っただけで、不敬が過ぎる。

「……畏れながら、陛下は」

 皇帝の青い瞳が、意外そうに、見開かれた。

「お、男のご友人はいらっしゃらなかったと、仰せになっておいででしたが、女性のご友人はいらしたと……いうことでしょうか……」

 皇帝は、まじまじと私を見ている。
 その青い瞳で――。

 ……ま、まずい。
 さすがに、差し出がましすぎた、かも。

「……驚いた。即位してから、三月(みつき)。初めてだ。俺からではなく。相手から、話しかけてもらえたのは……」
「……え?」

 今度は、声が出てしまった。

「夜は長い。話相手をしてくれないか、……灯然」

 私は思わず、胸もとに提灯を上げてしまった。
 蒼氷臥が、どんな顔をしているのか、やはり不敬かもしれないけれど、……見たくなってしまって。

 彼は、相変わらずの無表情。
 のように。見えるんだけれど。
 よく見ると――切羽詰まった、そんな、表情をしていた。

「いや……すまない。よかったらで、いい。俺と近づいても大して、良いこともない」

 おそらく、蒼氷臥は……よくわかっている。
 自分の持つ権力が、どれほどのものか。

 皇帝の命令は、絶対だから。

 ……そんな顔をされて。
 そんなこと言われたら、断れない。

「……私などでよろしければ、ぜひ、陛下のお話相手になりとう存じます」

 皇帝の命令が絶対だから、ではない。
 このひとの孤独が、わずかでも、震えるように感じとれてしまったから。

 三月――誰にも、話しかけてさえもらえなかった。
 たぶん、話しかけたところで……型通りの返事だけで、それ以上は何も話せなかったのだろう。

 高貴な身分の人の多くが、本当の意味で信頼できる側近を持っているものだけれど、夜警は私だけ、昼間は雷雷と葉葉だけ。
 普通は皇帝だったら夜伽で夜も忙しいのに、彼は寝台で蓑虫のようにじっとしているだけ。

 その孤独が――震えるように、音楽のように、燃えさかる炎のように。
 胸に、全身に、迫ってきてしまったから。

 断るなんて、選択肢。
 断りたいなんて気持ち――私には、微塵もなかった。

 皇帝のお話相手。
 自分に余る役割だと、わかっていたけれど、それでも。

 確かに。夜は、長いから。

 孤独な夜は、とりわけ。
 長くて、長くて、とても、長いだろうから――。

「……ありがとう。灯然」

 皇帝は、やっぱり、柔らかく笑った――でも先ほどより、もっと深まった笑顔で。

 その笑顔に――私の全身は、またしても震えた。
 今度は、どこか、うずくかのような熱を帯びて。



 それから、私は夜警をしながら皇帝と話をするようになった。
 距離は、相変わらず十尺保ったままだけど……。

 皇帝は、確かに、人と話すのに慣れていなさそうだった。
 ぽつり、ぽつりと。紡ぐように。雨だれのように、話す。

「話が下手で、すまない」

 皇帝にそう言われるたびに、いえいえそんな、と私は頭を下げた。
 この国での頂点であるはずなのに。下々の者に謝りもしないのが、普通の皇帝だろうに。
 彼は、わりと頻繁に謝罪の言葉を口にした。

 ……やはり、皇帝らしくは、なかった。
 実質的な権力は、前の皇帝の代から継続してその座につく大臣が握っているという噂は――本当なのかもしれない。

 皇帝の部屋には、人が来なくて。
 本当に、皇帝という身分からすれば信じられないほど、来なくて来なくて来なくて。

 夜の時間。毎夜、毎夜。
 他愛のない話を、色々とした。
 私にとっても、ただ黙って夜警をしているよりはよっぽどありがたかった――毎日結構あっという間に、夜明けの刻がくる。

 私は今年、十五になる。
 陛下は、十七になったばかりだと教えてくれた。

 だけれど私の、たいていの人に尋ねられる金髪と茶色い瞳については、聞かれなかった。
 どうしてだかはわからないけれど、ありがたい……。
 聞かれれば一応、異国の出身なんです、と答える準備はいつもあるのだけれど。……誤魔化すのもなかなか心苦しいから、聞かれないならそれに越したことはない。

 彼は自分のことも話したけれど、私のことも、知りたがった。
 本当のことをすべて話すわけにはいかなかったけれど――そのあたりは、どうにか誤魔化して、話を逸らしたりもして。
 歳とか、警備隊での過ごし方とか、警備隊での面白おかしい出来事とか……そういったものは、色々とお話をした。

「灯然は友人が多いのか?」
「そうですね……友人は現在、警備隊の男ばかりですが。皆で親しくしております」
「男性同士の友情とは……どのようなものなのだろうか」
「そうですね……」

 私は考え込む。
 私自身が、十二の年までは女子として生きてきて……男性同士の友情なんて、それこそ遠巻きに見ているばかりだったのだけれども。

「……あっさりしてます、かね」
「あっさり」
「いつも一緒にいて、ふざけあってるんですが、ずっと一緒にいなければいけないわけではない、と申しましょうか。女性同士の友情は、良くも悪くも密で、それもまた心地よさがありましたが――」
「灯然は女性の友情についても詳しいのか」
「……心地いいと、女性の知人から聞いておりますが」

 危ない……ふっと気を抜くと、男性である前提が崩れそうな話し方をしてしまう。

 ある夜には、私が聞いた、女性の友人についても答えてくれた。

「先日は答えられなくてすまなかった。話しかけられたことに驚いてしまって」
「いえいえ、そのような、恐れ入ります」
「友人と呼べる相手は、一応いる……ただ今は、彼女を友人と呼んでいいものかは、わからない」
「と、おっしゃいますと……」
「三月前。即位した際に。後宮が、俺のものになった。そして彼女は賢妃(けんぴ)となった」
「ああ、賢妃様と言いますと、(あん)賢妃様でしょうか」
「そうだ。彼女を、知っているのか?」

 皇帝は嬉しそうだった。

「はい。とてもお優しく、可憐なお妃様ですね」

 およそ宮中にかかわる者で、安賢妃――安花陽(かよう)を知らない者は、いないのではないだろうか。
 妃には位があって、皇后のいないこの国において、現在、賢妃は最も上位の妃だ。他には同位の妃もおらず、安花陽は名実ともに後宮の妃嬪の頂点。

 もともと、幼くして先帝に嫁いだ安花陽。
 その実績もあり、蒼氷臥と親しくしていた実績もあって、今回、賢妃という高位に躍り出たのだと聞いている。

「花陽と俺は幼なじみでな。後宮では同年代の者がほとんどいないなか、唯一歳が近く、昔から親しくしている」
「そうでございましたか」
「近頃では後宮をまとめねばならないと言って、あまり顔を出せなくなってしまったようだが」

 そして私は、安花陽賢妃と出会うことになる。



 皇帝の夜警を始めて、十日目。
 夕餉の時間が終わったころ。
 安花陽妃が、皇帝を訪ねてきた。

 花陽妃の側仕えの女性が扉を叩き、私が応対する。
 扉を開けると、そこには、眩いばかりの雰囲気を纏った安花陽妃。

 花陽妃は、たくさんの側仕えを伴っていた。
 普通は……高貴な者には、このくらい人がつくのが普通だ。
 やはり皇帝には、異常なほど少なすぎる――。

 側仕えの女性が、にこりともせず口を開く。

「安花陽賢妃様が、陛下にお目にかかりたいと仰せになっております」
「ああ、はい。少々お待ちくださいませ」

 私は一礼して、いったん扉を閉じ、皇帝に向き直る。
 いきなり訪問するのは、失礼と捉えかねられないが……。

「安花陽妃様のご訪問です。いかがされますか?」
「もちろん、通してやってくれ」

 皇帝は、嬉しそうだった――表情の少ないなかにも、柔らかさが満ちている。
 私は安心して少し息を吐き、扉を開け、その旨を告げた。

 私は扉を開けて、閉じないように持ったまま立つ。
 隣を、ふわりと、花畑のような香りとともに花陽妃が通る。

「失礼いたしますわ」

 これまでも何度か、警備隊として遠目から彼女を見たことがあるけれど。
 お名前の通り、花のように朗らかなひと――その印象は、今宵も変わらなかった。

 彼女はそのまままっすぐ、皇帝のもとに向かうかと思いきや。
 扉を開けたまま保っている私に向けても、ふわりと笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 私は驚きながらも、顔に出さないように気をつけつつ頭を深く下げた。
 気配りのできる……性格の良いお妃様、という感じだった。

 花陽妃も、皇帝と十尺以上の距離で留まる。ごく自然に。
 側仕えの者たちも部屋に収まり、私は扉を静かに閉めた。

「陛下。しばらくご無沙汰してしまい、申し訳ございませんでした」

 花陽妃は、服の裾をふわりと広げて、高貴な身分の方々がそうするように華麗な一礼をする。

「構わない。忙しかったのだろう?」
「いえ、わたくしの力不足がすべていけないのです。後宮のみなさんに納得していただけるような。模範の妃にならねばなりませんのに」
「花陽は充分に人望があると聞いている。妃嬪たちからの信頼も厚いと」
「まあ、そんな、恐れ入ります……」

 花陽妃は、儚げに、にっこりと笑った。

「陛下。お土産を差し上げても? おもしろいお菓子が届きましたのよ。ぜひ陛下に召し上がっていただきたいと」
「ありがとう。では……」

 皇帝は、私をちらりと見た。

 わかっている。毒味係だ。
 事前に説明は受けている。あまりにも人がいない夜警では、私は訪問者の対応も、必要であれば毒味係も請け負うと。

 仕事なのだ。
 だから、別に皇帝が悪いわけではないから――そんなに、申し訳なさそうな顔をしなくても大丈夫だと、言ってあげたい。

 大丈夫だ。
 知られるわけにはいかないけれど。私は、たいていの毒ならば、避けられるから。

「失礼いたします」

 私は花陽妃に一礼して、美しい皿に盛られた菓子をひとつまみ。
 口に含み、呑み込んだ。
 軽やかな甘さが口に広がる。その後、倒れるようなこともない。

「では、陛下にこれを持っていってくださる?」
「かしこまりました」

 私は皿を受け取るけれど――。
 十尺。その距離が。……崩れてしまう。

「灯然。構わない。今だけ、そばに」
「恐れ入ります」

 私は一礼して、皇帝に皿を持っていく。
 受け渡す。

 ……近い距離で見る皇帝の顔は。
 相変わらず、冷たそうなんだけれども、柔らかさが滲んでいて。

 ああ、もっと見ていたいかも――そう思ったけれど。
 もちろん、そんな時間など存在するわけもなく。
 私は皇帝に一礼して、元の位置に戻った。

 その後、花陽妃の座る椅子と、皇帝と妃が菓子を置くための机を私は他の部屋から持ってきて。
 皇帝と花陽妃は、菓子を食べ、側仕えが用意したお茶を飲みながら談笑していた。
 もちろん、お茶も私が毒味をした。

 二人の仲が良いのが伝わってくる。
 幼なじみというのも、納得だ。
 現在の話のなかに、自然と昔話が咲く。

「陛下はすっかり落ち着かれましたわね。昔は、あんなにいたずら好きでしたのに」

 そして花陽妃は、皇帝の皇子時代の悪戯遍歴をあれこれと話す。
 意外だった。いまの皇帝からは想像もつかないけれど――話を聞いていると思わず笑みがこぼれてしまうほど、確かに、幼いころの蒼氷臥はいたずら好きだったらしい。

 花陽妃は、おしゃべりだけれど、自分だけがしゃべるのではなく、皇帝に色々問いかけて話を引き出すのも得意。
 そして、私のような身分の低い者にも、話しかけてくる御方らしい。

「……あなた。灯然さん、とおっしゃるの? 陛下の、新しい夜警の者ね?」
「さようでございます」
「そうなの。好青年ね。しゅっとされていて。女性に人気なのではなくて?」
「いえ、そのようなことは。警備隊では、女性との出会いもなかなかございませんので……」
「陛下、灯然さんにどなたか紹介して差し上げればよろしいのに」

 くすくす、と花陽妃は笑っている。

「それも良いかもしれないな」
「灯然さん、どのような女の子がお好みなのかしら?」
「もったいないことでございます……」

 私もそう言って、笑うけれど――もし本当にそうなった場合のことを考えると、ひやひやする。

「灯然さんは、どちらから参ったの?」
「警備隊でございます」
「そう……入れ替わりが激しくて、警備隊の方々も大変ではないかしら」
「い、いえ。私のような者にとって、陛下の御身を護れる以上の誉れはございませんから」
 
 定型通りの返事をする。

「でも……警備隊の方々だって、危ない目に遭いたくはないはずよ」

 花陽妃は、一口お茶を飲む。
 そして、可憐に、手を頬に当てた。

「と、いうことは……あなたも宦官ではないのね?」
「はい」
「男性なのね」
「おっしゃる通りでございます」

 ……すらりと、嘘をつくのも慣れてしまった。

「陛下。もう警備隊から呼ぶしかない状況なのですね。普通の男性までが、後宮に参るようになってしまって……。高雅帝国では。昔は、後宮と言えば、何があろうと天子以外の男性が入ることは禁じられていたものですが、時代は変わるものですね」
「……もう武術を扱える宦官は残っていない。俺が即位してから……宦官が、あっという間に減ってしまった。残っている宦官は、高齢か、病弱か。いずれにせよ警備の仕事を任せられる者はもう、いないと考えたほうがいい」
「痛ましいこと……」
「なぜなんだろうな、花陽。俺の警備をするとみな、宦官も警備隊の者も、病になるか、口を閉ざして去ってしまうか、行方不明になるかで――」
「陛下……お気持ちをお察しいたしますわ。花陽は陛下の味方です」

 皇帝……つらそうだ。

「灯然さんも気をつけてくださいね。お願いですから、どうか陛下をお護りあそばして。……あら。そういえば」

 花陽妃は、ふと――笑顔のまま、目を細めた。

「灯然さんは、おもしろい髪の色をされているのね。きれいな金髪……」
「――異国の出身なものでして」

 不意打ち――すかさず返すのに、ひと呼吸、遅れた。

「そうなの……どちらから?」
「先祖が西方の者だったようです。砂漠から参ったとのことですが、私自身は高雅帝国で育った身でございます。陛下と高雅帝国に忠誠を誓っております」
「あら、大丈夫よ、わかっているわ、そのようなことは。陛下の夜警をなさるほどですもの」

 ふわりと笑いながら――その笑顔のまま、花陽妃は続ける。

「いえ、以前、ふと耳にしたことがありましたの。ほら、五年ほど前に我が国が滅ぼした半狼の国、ご存じ?」
「……ええ」
「あの国の者ども。狼がほとんどだったけど、ひとのすがたの者もいて、それが金髪で赤い瞳だったんですって。戦いに出た兵が、そのように証言していて。でも、そうよね、西方の御方も金髪だといいますし」
「私の瞳は、この通り、茶色でございます」
「そうよね。ごめんなさいね。あんな賤しい者たちと一緒にされてしまっては、灯然さんも、お嫌よねえ。あんな……高雅帝国に歯向かって、兵を傷つけた、とんでもない下賤のあやかしと一緒にされては、高雅帝国の人間だったら、嫌に決まっているものねえ」
「……お気遣いを、いただきまして、痛み入ります」

 どうにか、平静を、保って、……言う。

「花陽。灯然にあまり妙なことを言うな」
「あら。そうですわよね。ごめんなさいね、変なことを言ってしまって」
「もったいないお言葉でございます」

 頭を下げながら――胸の鼓動が。早鐘のようで。全身の血が、沸騰して。
 どうにかなってしまいそうだった。



 そして、数日後。
 いつも通りに夜警をしながら、皇帝と話していたのだけれど――。

 私の耳は、いまあってはならないはずの声を掴む。

『ひめ! ひめ!』

 私は弾かれたように顔を上げた。
 視線は、皇帝の寝台を超えて、窓の外。

 必死に、とんとん窓を叩く影がある。
 ……小炎(しゃおえん)
 どうして――。

『ひめ! ごめんね! でも、大変! 小暖(しゃおだん)が――』 

 一気に、血の気が引く。
 小暖が――どうした?

「……陛下、お話中、申し訳ございません。何か気配が……少し、見て参ります」

 私は窓際に行き、小さく窓を開けた。
 そこにいたのは、確かに――小炎だった。

 立っても、私の胸下くらいまでの大きさの、狼。

『ひめええー』

 小炎は、私の腹のあたりにぎゅっと肉球を押しつけてきた。
 狼は涙を流さないけれど、泣いているのが私にはわかる。

 ……どうしよう。
 皇帝がいる――あまり、堂々と話をするわけにもいかない。

 だけども、小暖の身になにかがあったなら、それを放っておくわけにも、もちろん、いかない。

 私はできる限りの小声で言う。

「……声が大きいよ、小炎」
『だいじょうぶ。どうせ、ひとには、聞こえないんでしょう? ぼくのことば』

 確かに、あやかし――狼のあやかしである小炎の言葉は、思念のように伝わってきて……普通のひとには、聞こえないはずだ。

 でも、私のほうから伝えるには、声のかたちにしなければならない。
 私は思念のかたちで伝えられる体質ではないのだ。

 私は必死で、身振り手振りで小炎に伝えた。
 静かに伝えて。いま、仕事中。あそこにいるの、この国の一番えらいひと。
 このあいだ話した通り、私はいま、彼の警備の仕事をしているから。

 小炎はきょとんと首を傾げたりしつつ、でも、最後にはどうにか私の言いたいことの意味をわかってくれたみたいだった。

「……大丈夫か。灯然」
「は、はい、問題ございません。ただちょっと藪に妙な気配が……もう少し……警戒してみます……」

 仕方がないとは言え、嘘をつくのは心が痛む……。

『ひめ、あのねあのね、小暖が、大変なの』

 うんうんと、私は頷く。

『みんなでね、ごはんを食べたのね。今日は、えものが大きかったから、いっぱいいっぱいみんなで食べたの。小暖はね、からだが小さいのに、こーんなに、食べたの。そしたらね、小暖が……小暖が、うう。おなかが痛いって。いま、おなかが痛いようって、横になって泣いてるの。小暖、どうなっちゃうの? 死んじゃう?』

 これは、身振り手振りでは伝えられない……。
 私は、最大限、窓の外に顔を出して。
 最小限の小声で言った。

「……食べすぎなんじゃないかな」
『えーっ。食べすぎ?』
「狼もね、たぶん……食べすぎると、おなかが痛くなるよ」

 小暖だったら、そのあたりの知識もありそうなものだけど……。
 でも、彼もまだ幼い。
 普通に知らなかったのかもしれない。

『おいしいごはんでも?』

 うん、と私は頷いて、一応、と私は懐から動物用の胃薬を取り出した。
 獣医が城下町に来ると、必ず購入している、動物用の薬だ。
 愛玩犬のためだけど、まあ、狼にも大体は効くだろう。

『知らなかったあ。やっぱり、ひめに聞いて正解だったな。ひめは人間のところで暮らしてるから、いろんなこと知ってるね! あっ、でさ、でさ、そこにいる男のひとが、この国の王さまなんでしょ? ひめ、男のふりなんてして、かわいそう。かわいいかわいい女の子なのにね』
「かわいくはないよ」
『今度は、いじめられてない?』
「いじめられてないよ。安心して」
『じゃあ、なかよし?』
「うん、仲良し」
『一緒にいて、たのしい?』
「そうだね、楽しいよ」
『ええと、ええと、じゃあ……すき?』

 皇帝が、急に咳き込んだ。
 意図的に、というよりは、何かにむせたような咳き込み方。
 私は弾かれたように振り向く。

「……すまない。気づかないふりを……しようと、思っていたのだが……それ以上は……」
「も、申し訳ございません、そ、その、獣がいたようで、対処に手間取っておりまして」
「いや……本当に、すまない。黙って、盗み聞きのようになってしまって」
「……え?」
「……聞こえるんだ。俺にも。あやかしの声が」

 息が、止まるかのようだった。
 ――そんな。なぜ?

 普通の人間には、あやかしの話す言葉なんて、絶対に聞こえないはず。

「女だったのか――灯然は」

 がさっと、小炎が顔を出した。

「ちょ、ちょっと小炎」
『ひめは女の子だよ! かわいい、かわいい、女の子! ぼくたちの、おひめさまなんだから!』
「……はは、そうか、そうか。……かわいい女の子、だったのか」

 皇帝は、小炎に小さく笑顔を向けている――信じられなかった。
 けれど。目の前に起きている、現実として。
 ほんとうに――彼は、小炎の言葉が、わかっている。

『もーっ、本当に信じてる?』

 小炎はひらりと部屋に入ってくると、私の服の裾を口でくわえてはだけさせた。
 すると――膨らんできている胸を無理やり押さえつけている布が、露出した。

「ちょ、ちょ、ちょっと、小炎!」
『これでわかった? ひめは! 女の子!』

 皇帝は目を見開いた後、さっと目を逸らす。
 心なしか、その頬は赤かったけれど……私ももう、顔が熱くて熱くて真っ赤なんじゃないだろうか。

『ねえ! ほら見てよ、ひめ、女の子でしょ?』
「しゃ、小炎! 人間にとって、服は大事だから簡単に脱がせちゃ駄目なんだって! ふ、服を脱いだすがたを、簡単にひとに見せちゃいけないんだってば! ずっと言ってるのに」
『あ、そっかあ。忘れてた。ごめんね』

 思い出すと、小炎はぱっと口を離す。
 良くも悪くも、単純な……狼らしい性格なのだ、小炎は。

 小炎は、よいしょよいしょと口と前脚で服を着るのを手伝ってくれる。
 だけど……。
 もう遅い……。

 小炎が悪いわけではない……。
 狼のあやかしだから。人間社会の慣習や常識のことなんて、ほとんど知らないわけで。
 人前で服を脱がせるということが、人間社会のなかでどういう意味を持つかとか、そんなことだって、やっぱり実感をもってわかることはないはずなのだ。
 私がもっと、いろんなことを、言い聞かせておかねばならなかった。
 
 でも――まさか、皇帝が。あやかしの言葉が聞こえるなんて。
 そんなこと。予想もできなかった。
 
 それに……小暖のことも。小暖を心配して、山から駆けてきたであろう小炎のことも。
 無碍にするわけには、いかなかった。

 警備隊の男性用の服を、もう一度きちんと着直して。
 目を逸らしたままの皇帝に向かって、私は、地に膝をつき、両手も地につけた。
 深々と。地に、頭をつけた。

『……ひめ? なにしてるの?』

 地に頭をつけて謝罪する、という文化も、狼たちは知らない。

「――申し訳ございませんでした。陛下。性別を騙り、後宮に入ったこと。陛下を謀ったこと。謝罪することしかできません」

 大罪だ。
 ……死罪になっても仕方はない。

「……灯然。顔を上げてくれ」

 皇帝の顔に、息が苦しくなった。
 彼は、怒っていなかった。

 むしろ心配そうな顔をしていた。

「俺は、灯然を罰する気はない。だが……まずは、事情を聞かせてくれないか」

 灯然を守るためにも、と皇帝が言った気がするのは、きっと空耳だろう、そう思わないと……縋ってしまいそうだった。
 このひとが向けてくれる、優しさに。……甘えてしまいそうだったから。

 だから。
 私は、跪いたまま。せめて誠実にと――素直に、語った。
 
 私は、五年前に滅んだ炎狼(えんろう)たちの国――月下(げっか)国の君主、賢狼(けんろう)のひとり娘。

 炎狼は、狼のすがたをした、あやかしだけれど。
 賢狼であった母君はかつて、ひとの姿で人間と交わり、私をもうけたのだという。

 だから、私はひとの姿で生まれた。……狼の姿で生まれる可能性もあったのだけれど、ひとの血が、色濃く出たようだ。

 人間のすがたに変身できるけれど、真のすがたは真っ白な狼である母君と。
 全部合わせて百匹もいない、国民の狼のみんなと。

 私は、本当に幸福な幼少期を過ごした。
 みんな、すがたの違う私のことを、差別することもなく。とても良くしてくれて。

 そして――五年前、国は滅ぼされた。
 蒼氷臥の父である、前代の皇帝に。

「……そうか。すまなかった」
「いえ……陛下が申し訳なく思われることは、何もございません」

 それは、真実だった。
 あくまでそれは、前帝が行ったこと……。
 彼は、なにも悪くない。

 ……花陽妃も言っていた通り。
 この国で、炎狼の評判は、ひどく悪い。
 攻められたとき。母君の掛け声のもと、全力で抵抗したからだ。

 母君は、争いを好まない。
 高雅帝国ともどうにか和平の道がないか、探り続けていた。

 だけど先帝は、あやかしが大嫌いだった――あやかしの国々との共存を図った先々代とは異なり、あやかしの国をすべて侵略しようとしていた。

「……そうだな。父上は、あやかしが、大嫌いな人だった」

 母君は争いを好まず、だけども、国民を守ることには、命をかけた。
 いざ高雅帝国が攻めてきたとき――炎の術を使い、全力で抵抗した。

 だから、炎狼は、月下国は。
 高雅帝国で、いまでも評判が悪い。

「……そうだったのか。小炎……と言ったか。狼たちはいまも、身を寄せて暮らしているのか?」

 すると小炎は、うーっと唸る。

『また、ぼくたちにひどいことするの? ゆるさないよ』
「ああ、違うんだ。ただ……灯然がともに暮らしていないのは、なぜかと思っただけだ」
「……狼たちの生活様式に私が馴染めない、というのもございますが」

 それも事実、ひとつの理由ではある。

 狼たちは生肉を食べ、衣を身につけないまま横になって眠る。
 私の身体では、その生活をするのは難しい。
 生肉を食べればお腹を壊すし、衣を身につけなければ寒くてすぐに体調を崩す。

 母君が生きていたときはまだ、よかった。母君は人間のすがたに変身して、人里に降りて、いろんなものを揃えてくれたからだ。
 でももう、母君はいない。狼たちが人里に現れるだけで、大騒ぎになる。

 彼らは、私と暮らせるならと、炎の術で肉を焼いたり、人里から衣を奪ってきてくれたりしたけれど……彼らの生活にかなり負担をかけていることも、盗みを働かせていることも、心が痛んで。
 私の生活に必要なものは、私が揃えるしかないと、思うようになった。

 こういった事情が、関係していないわけではなかった。
 だけど。
 もっともっと、大きな理由は。
 私が高雅帝国で暮らしているわけは――。

「父が。高雅帝国に、あやかしと交わった罪人として捕らえられているかもしれない、と。母君から、聞きました。だけど……高雅帝国に行くならば、私が女であることは隠さないとならない、とも言われました」
「月下国の賢狼の御子にはたったひとり、人間のすがたをした姫君がいる、というのはよく耳にした。行方不明になっている、とも。見つけ次第捕らえて殺せと、父上が言っていたのも聞いたことがある……そういうわけだったのか」
「……はい。正体を知られぬよう、性別を偽り、人里に参りました。そして、ある貴族の家で奉公させていただけることになったのですが……」

 お嬢様に、嫌われてしまった。
 私が男だと思っていたうちは、とても懐いてきてくれて。
 ああ可愛いな、妹みたいだなと思い始めていた矢先――着替えているのを見られてしまい、女だと露見した。

 それからは、虐められるばかりの毎日だった。
 お嬢様が私をひどく嫌っていることは、雇い主にもすぐに伝わった。

「雇い主の主人は、悪い方ではなかったのですが、やはりお嬢様が大切で。伝手で宮中の警備隊の仕事を見つけたから、そちらへと行ってくれとおっしゃいました。ありがたく思っております」
「……灯然を追い出したことには、変わりない」
「いえ、そんな……結果的に良かったと思っております。警備隊ではみなと気が合って。いやなことも。なにもなく」

 そこで、言葉が止まった。
 うそだ。……これも。

 私が女だとわかった途端――。

 ……涙が。
 みっともないのに、泣きたくなんかないのに。
 目から、勝手にこぼれ落ちてきた。

『ちょっと、高雅帝国のえらいひと! ひめをいじめないでくれる?』
「ちがうよ、小炎。いじめられているわけじゃないよ」

 皇帝は、手を伸ばそうとして……。
 でも、なにかをためらうように、引っ込めた。

「……事情は、大体わかった。話をしてくれて、ありがとう、灯然。いま聞いた話は、俺の心だけに収めておく。そして灯然の不都合のないようにする」
「しかし。私は。陛下を謀る、大罪を――」
「構わない。……むしろ嬉しく思っているほどなのだから」
「え……?」
「いや……なんでもない。これからも俺に仕えてくれ、灯然」
「陛下さえ、よろしければ……もちろんです」

 皇帝は、柔らかく、笑った。



 ――なぜ皇帝は、私を許してくれたのだろう?
 それも、私の秘密を守ってくれるとおっしゃって――。

 油断していたら、雷雷の練習刀の切っ先が私の胸元を捕らえる。
 身体の均衡を崩して、私は尻餅をついてしまった。

「勝負あり!」

 審判が旗を揚げる。
 私たちの試合を見ていた警備隊員たちが、どよめいた。

 今日は、警備隊での練習試合。
 朝餉を終えてから、すぐに始まる。

 夜は葉葉と雷雷と出勤時間を分担して、睡眠時間が取れるようにした。
 皇帝にもその旨は伝えてある。

 対戦相手だった雷雷は、驚いているようだった。
 そして、私にびしりと練習刀の先を向けてくる。

「おい! 灯然。力が入ってないぞ。ぼんやりしやがって」
「ご、ごめん……」
「まったくだ! 灯然にこんなにあっけなく勝つなんて、おかしい! さてはおまえ……」

 びくりと、肩が持ち上がる。

「朝食を食べすぎただろう!」
「……うん、まあ、そうかも?」

 よかった。雷雷が、鈍いやつで。
 食べすぎって。昨日の小炎の話じゃあるまいし……。

 勝利した雷雷は、続けて他の者と勝負する。
 観客席に座って、水筒から水を飲んでいると、葉葉がやってきた。

「様子が変だね。灯然。まさか本当に、飯を食いすぎたわけではないだろう?」
「……あー、やっぱりわかる?」
「俺はあいつほど鈍くないから……。警備隊でも随一の実力の灯然に、雷雷が勝つなんて。あいつが一番びっくりしてるんじゃない?」
「あはは、そうかも……」

 良い天気だ。
 すっきりとした青空。気持ちの良い風が吹く。

 葉葉は、まわりを見渡した後、小さな声で言う。

「まあ、俺たちは、捕虜上がりだから仕方ないんだけどさ」

 何のことか、言われなくともわかった。
 ――皇帝の警備をしていることだ。

「やっぱり、灯然はおかしい。すごく強いし、出世頭だって言われてたじゃないか。それがなんで、急に呪われた皇帝の警備なんてさせられて――」
「……故郷、東のほうだっけ。ふたりは」
「う、うん。そうだけど。それがどうした――」
「いや……やっぱり、異国で暮らすのには苦労があるなって。僕もさ」

 私は、笑いながら自分の金髪を指さす。

「これだから」
「でも灯然自身は、高雅帝国で育ったんだろう? これまでも勤めていて、何も問題なかったはずだ。それなのに――」

 友人の想いが、素直に、ありがたい。
 どう受け止めればいいか、考えていると――。

「おまえら、聞け、聞け!」

 ふいに響きわたったのは、隊長の声。

 私の心は、一気に冷える。
 ……ああ。いやだ。
 あのひとの声は――聞きたくない。

 隊長が駆けてくる。二十歳過ぎの、若き隊長。
 良いひとだと。思っていたんだ。……女だって露見するまでは。

 女だと知った途端。
 私に、手を出してこようとして……。

 ……こちらも、腕を掴んで、掴み倒して。
 喉に刃物を当てたから、まあまあ、不愉快な思いをしたのはお互い様かもしれないけれど。
 まあ……あそこで力の差を見せておいたから、結局手も出されなかったし左遷で済んだ、というのは実際あるだろう。
 あの隊長。意外と、臆病だったのだ。

 ……べつに、もういい、けれど。
 私のほうも。性別を偽っている身だし。

 だけども――なるべく顔を見たくないのは、本当だった。

「皇帝陛下が来られるぞ! 準備しろ!」
「えっ、皇帝陛下?」

 葉葉は珍しく、大きな声でそう言った。

「陛下がここにいらしたことなんて、ないのにね。先代の時代から……」

 葉葉の言う通りだ。
 ……本当に。
 皇帝……どうして?



「たまには視察でも、と思っただけだ。……天気も良く、比較的、暖かい日であったしな」

 警備隊総出の出迎えの後。
 皇帝は最初にそう断って、あとは即席の来賓席で、試合をずっと見ていた。
 相変わらず、蓑虫のような白布をまとっていたけれど――彼が椅子に座っているという、ただそれだけで新鮮だった。

 普段はない緊張感に、隊全体が包まれる。
 隊長や小隊長たちが、皇帝の相手をしている。

 私は皇帝が気になって気になって仕方がなかった。

 練習試合は、至極単純な決まりで行っている。
 即ち、勝利すればその場に残り、負ければ最後の順番に並び直す。
 参加する隊員の人数が多いので。ある程度順番を頭に入れておいて、順番が近づくまでは観客席で見るのが通例だった。

 雷雷は私の少し前の順番だ。
 私に勝った後、わりとすぐに負けてしまったみたいだけれど、いまはまた立ち続けて頑張っている。

「実力、出してね」

 葉葉に見送られて、私は小さく拳を持ち上げた。

 皇帝にお辞儀をしてから、勝負の場に立つ。
 彼は、無表情のようでいて、よく見ると楽しそうな――ちょっといたずらっぽい瞳で、私を見て、少し目を細めた。
 ……あ。それって。もしかして――笑顔?

「おう。灯然。また来たか」
「ん。よろしく」

 緊張する隊員ばかりのなか、雷雷はいつも通り。

「腹の調子は戻ったか?」
「だ、だから、食べ過ぎじゃないってば……」

 雷雷!
 よりによってどうして、皇帝が観てるのに、そんな話――。
 しかもいつも通り、声が大きい!

「食べすぎじゃないなら、あれか? 恋煩いか?」
「……ふえっ?」

 なんてこと言うの、もう、本当に、雷雷!

「なんだよ、変な声出しやがってさ……図星か?」
「や、違う、違う違う違う。恋煩いって。相手もいないし僕」
「それくらいしか思いつかないものでな」

 雷雷は胸を張る……すごく誇らしげに。

「相手はどんな女性なんだ? 勝ったら教えてもらおうか」
「――だから、違うってば!」
「女性の長い髪に顔をうずめたいんだろう?」
「そ、それは……!」
「はじめ!」

 皇帝の前であまりにいつも通りな雷雷……審判も、まずいと思ったのか、号令をかけた。

 雷雷が斬りかかってくるけれど――すぐに、私は勝ってしまった。
 思い切り刀を振ると、すぐに雷雷に当たって……。
 おお、さすが灯然、と場はどよめいたけれど――かえって、恥ずかしい。

 ちらり、と皇帝をうかがい見る。
 皇帝は目を細め、扇で口元を隠していた――笑って、いるのかな、あれはもしかして、本当に?

 たいして力も使っていないはずなのに、顔が火照って、動機が激しくて、ふわふわした。

 そして、昼餉の時間。

「灯然。皇帝がお呼びだ」

 隊長がむすっと呼びに来る。
 私は来賓席に向かい、決まり通りに、皇帝の足下に跪く。

「参りました。灯然でございます」
「顔を上げて、立つがよい」

 私が立つと、皇帝は、そばに寄るように手招く。
 近くに寄ると、不意打ちのように――。

「髪の長い者が好きなのか?」
「い、いや、それは。話を合わせようとしただけで」
「そうか。女性が好き、というわけではないのか? いや。それならそれで、結構なことなのだが」
「え、えっと……ちがいます。男性として……好きな女性の趣味の話をするときには、こう、何か適当なことを言って話を合わせないと……」
「そうか、そうか。……安心した」

 皇帝の髪は白銀で、光を反射してきらめいている――長い髪が。

「……女性だけじゃなくて。へ、陛下も。髪が、長いですよね……」
「でも、俺の髪はまっすぐで、ふわっとはしていない」
「い、いえ。それが……良いと思います」
「……そうか?」

 それは、本当の気持ちだった。
 まっすぐで。きれいな、髪の毛だから……。

 ……適当に、ふわっとした長い髪の女性が好きなんて、言わなければよかったかもしれない。

 皇帝はなぜか、私が男友達と話を合わせるために「髪がふわっと長い女性が好き」と言ったことがお気に召したようで……。
 しばらく、夜警に行くたびにからかわれるのだった。

「灯然は、髪がふわっと長い女性が好きなんだよな?」
「だ、だからそれは、話を合わせただけです!」

 出会ったときには想像もできなかった、いたずらっぽい面、小さく、だけども心から楽しそうに笑う面。

 皇帝との、そんな日常が、いつのまにか穏やかすぎて。
 彼が、なぜ呪われた皇帝と呼ばれているのか――もしかしたら私は、あまり真剣に考えなくなってしまっていたのかもしれない。



 夜警を務め始めて、ひと月が経とうとした日。
 花陽妃が訪れた。

 二人は相変わらず、十尺以上の距離を保ちながらも、楽しそうに話をしている。
 今日も皇帝にお土産があるらしい。側仕えが持ってきてくれるとのことだった。

「灯然は、髪がふわふわで長い女性が好きで、しかもその髪の毛に顔をうずめてみたいんだそうだ。昼の警備担当の、雷雷という者から聞き出した」

 雷雷……いつの間に……。

「まあ。灯然さんったら……では、わたくしの髪などいかが? 結構長くて、ふわふわよ。なんて、妃の身で、陛下に怒られてしまうわね」

 くすくす、と花陽妃は笑う。

「お恥ずかしい限りです……」

 私はそう言うしかできない……。
 建前の言葉と心の声が、完全に一致している。

「灯然さんは、魅力的ですもの。きっとすぐに髪が長くてふわふわの女性とお付き合いできるわ。いいわね、若いって。未来があるわ」
「花陽妃様も、まだ十七であらせられるではありませんか」

 すると花陽妃は、首を振った。
 ふわふわの髪が、煌びやかな髪飾りとともに揺れる。

「いいえ。そういうことではないのよ。わたくしは六つで後宮に来て……そして……だから、ひとよりも老けるのが早かったのね、きっと」
「……そのようなことは」
「あら、お菓子が来たわよ」

 しずしずと、側仕えが皿を持ってくる。

 ありがとう、と花陽妃は言った。普段通りだ。まったくもって。……普段通りの、優しくて明るい花陽妃のままだ。
 信じられない気持ちで、私は皿を、凝視した。

 ……毒だ。
 普通の人間には、わからないのかもしれないけれど――普通の人間よりずっと鼻のきく私には、わかる。

「……では、すまないが、灯然」

 皇帝は、気がついていない。
 花陽妃が毒など持ってくることありえないと、当たり前のように信頼して――ごくごくいつも通りに、私に毒味を頼んでいるだけだ。それでも、心底すまなそうに。

 私のように鼻がきくわけではないのだろう。獣のあやかしでもなければ、ここまで鼻がきかないのも、道理だ。 

 でも――この毒を、皇帝に呑ませようということは。
 そうか……そういうこと、だったのか。

 花陽妃が、どうしてこんなことをしているのか。それは、わからないけれど――。

「……灯然さん? どうなさったの?」
「――毒です」

 私の顔は、真っ青になっていたかもしれない。
 だけど。私は。せめて。
 皇帝の夜警として。

 立ったまま、まっすぐに――皇帝に不届きを行おうとしている者を、見据えた。

「……あら。なにをおっしゃっているの、灯然さんったら。まだ口にもしていないのに」
「……香りで……わかります」
「なにか変な臭いがする?」

 花陽妃は側仕えの者たちに尋ねる。
 彼女たちは訝しそうに、そして大仰に、否定する。

「あやかし殺しの、毒です。ほとんどのあやかしは、異能を持っております。そしてその異能の多くが、地水火風に関係したもの。この薬は地水火風に作用し、その力を奪うのみならず、元素を腐らせ、体中に巡らせる。そして……命を奪います」
「お詳しいのね」
「……薬を購入する機会が多かったもので」

 兄弟同然の狼たちのために、私は獣医が城下町に薬を売りに来ると、いつも買いに行った。
 それも本当だけれども。

 月下国の生き残りを恨む人たちが、この薬を使って。
 妹のように可愛がっている狼が、殺されかけたことも、あるから。

「でも……まさか高雅帝国の、しかも天子の宮に。あやかしが入り込んでいるなんてこと、ないでしょう? だから、大丈夫でしょう。陛下も灯然さんも、死ぬことなんて絶対にないわ。……そうですわよね? 陛下」
「……もう……やめてくれ」

 ……寒い。
 最初は、気のせいかと思った――でも、たぶん。……違う。気のせいではない。

 みるみるうちに、寒くなってくる。
 この冷え方は――。

「……とんでもないことをしてくれたわね、あなた」

 花陽妃は。
 優しくて明るい仮面を、脱ぎ捨てて――鋭く、私を睨みつけた。

 花陽妃は立ち上がり、腕を伸ばして、側仕えたちに言う。

「作戦を変更するわよ。いますぐ陛下を天へとお連れしましょう」

 側仕えたちは一斉に、懐から武器を出した。
 それは――異国で発明されたという、火薬を詰めて発射する、黒々と光る武器だった。

「……灯然。花陽。逃げてくれ。まただ……また、凍らせてしまう」
「……やはり呪われた血が消えることはありませんのね。陛下。可哀想なおひと……いま、わたくしが救って差し上げますからね」

 撃ちなさい、と花陽妃が言う。
 弾が一斉に――。

 ――仕方が、ない。
 私の正体が。花陽妃様たちにも、わかられてしまうけれども。

 背に腹は、代えられない。

「――失礼いたします」

 私は懐の剣を取り出し――念を込めて、一気に振り下ろした。
 灯火のような色の炎が剣に宿り、あたりに満ちて、弾と火薬の炎をすべて吸収した。

 剣を構える。
 肩で息をして。
 全身に、炎を纏いながら。

「……まさか。炎狼の術」
「……はい」
「まだいたのね。月下国の生き残り。……目が紅いわ。よくも謀ってくれたわね」
「術を使うときのみ、紅くなるものでして」
「……忌々しい。穢らわしいあやかしが……」

 花陽妃は、自身の身体を抱いた。
 唇が真っ青になっている。
 私は自分の炎に包まれているから、寒さは感じないけれど――花陽妃も側仕えの者たちも、ひどく寒そうだ。このままでは……彼女たちの命が危ないかもしれない。

 私は皇帝を振り返った。
 皇帝を中心に……すさまじい冷気が発されている。

「――陛下。あなたは、もしや……雪の一族でありましょうか」
「……もう隠しても仕方がない。その通りだ」

 と、いうことは――永雪(えいせつ)国の血を引いているはずだ。

 十五年前に滅ぼされた、雪の一族の国、永雪国。
 雪女と呼ばれる君主が頂点となって治めるその国とは、月下国とも親しく交流があったという。

 母君や年上の狼たちからも、よく話を聞いていた。
 雪の一族は。とても強い雪氷の力を持っていて。彼らの力は、尊敬に値するもので。

 ただ彼らは、力が強すぎるゆえに、基本的には雪山でしか生きられない。
 感情が昂ぶると、彼らの身体からはすさまじい冷気が表出される。

 それは私たちが、楽しいと笑う、悲しいと泣くのと同じで。
 自分の意志で制御できないものなのだ、と。

「……灯然はすごいな……半妖でありながら、完全に、力を使いこなしている。俺には……無理だ……。俺も、半妖なんだ。だから力を抑えられないのだと……思っていたのだが……」

 皇帝は、白布を必死にたぐり寄せている――。

 私はそのとき、理解した。
 ああ、そうだったのか。
 近寄らないでくれと言ったのも。自身を毛布で覆っていたのも。
 すべては。もし、雪氷の力を発揮してしまったときのために――。

「雪の一族は、そもそも力が非常に強く……陛下もまた、非常に強い氷の力を持っているだけかと」
「……止められないんだ……悲しいと。怒りを覚えてしまうと。凍らせてしまうんだ。だから、人から離れて生きてきた。だが……花陽だけは……ともにいて、穏やかな気持ちだったから。悲しさも怒りも感じなかったから。それなのに――」

 花陽妃は、震えながら跪いた。

「……陛下。わたくしを殺してくださいませ。お怒りを、お納めになってくださいませ。そしてどうか。宮の外までは凍らせないでくださいませ。そしてどうかお願いです……退位されて……あやかしの世界へ、お帰りになって……」

 花陽妃は涙をこぼすが――その涙さえ、すぐに凍る。

「高雅帝国は人間の国です――あやかしに渡すわけには、なりません。陛下、お痛ましいこと、あなたが雪女の胎からお生まれになってさえいなければ……」
「……抑えられない……」

 ……皇帝の、哀しい怒りが。
 この場を――どんどん凍らせている。

「……花陽様。このままでは本当に、死んでしまわれます」
「話しかけないで。穢らわしい炎狼め」

 花陽妃は私を睨みつけて、不敵に笑ってみせた。
 どうやら、この方は思っていたより――芯のある御方だったらしい。

「駄目だ……花陽を殺すわけには……もうだれひとり、凍らせるわけには――」
「……陛下。一言、ご命令いただけないでしょうか」

 私は、ほんとうは誰よりも心優しい蒼氷臥陛下を、振り仰いだ。
 皇帝を殺そうとした妃。
 彼女を助けるためには、皇帝の言葉が必要――。

「花陽妃様を助けろ、と」
「……花陽を、助けてくれ、灯然!」
「かしこまりました」

 私は、剣に力を込める。
 そして炎狼の力を解放する、賢狼の一族秘伝の呪文を唱えて――。

「――灯火よ、舞い上がって!」

 剣の切先を天に向けると、人を焼かない炎――灯火と炎狼たちが呼ぶ炎が、皇帝の部屋を、満たした。

 大きな灯火は。
 皇帝も、花陽妃も、側仕えの女性たちも、すべてを包む。
 氷は、さらさらと――清流のように、ほどけ始める。

 夜の透雅殿に。
 新月の、かすかな明かりとともに――雪解けが、やってくるのだった。



 雪が解けたとはいえ、まだ冷たい床に。
 花陽妃は跪いて、罪を認めた。

 彼女は、高雅帝国の伝統をとても大事に思っているのだという――それは、彼女の生家である安家の教えでもあり、あやかしを嫌った先帝の教えでもあった。

「それなのに。まさか。氷臥様が、雪女の子であったなどと……許しがたく」

 花陽がそれを知ったのは――公的には伏せられているが、宮中でいまだに囁かれ続けている、ある事件。

 とある、暖かい春の日のこと。
 当時まだ八歳であった皇子、蒼氷臥が、同じく八歳であり、親しく付き合っていた花陽妃をかばった。
 あまりにも幼いのと同時に、安家は、皇家に継ぐと言われるあまりにも高い位。そして、あちらこちらで恨みを買っていた家でもあるのだという。
 花陽妃は軽んじられ、後宮の妃たちに虐められ始めていた。

「幼い頃から、穏やかで、怒らない御方でしたから。そのときに……初めて……」

 蒼氷臥は、花陽妃をかばって怒り――しかし、その後は蒼氷臥自身にも予想ができなかった。
 みるみるうちに、庭が凍って。

 あたりは一面、雪で覆われたという。

「春でしたから。幸い、みな命は無事で……ですが、後遺症を負ってお勤めができなくなった妃嬪も、おりました。……別に彼女たちのことはわたくし、どうでもよいのですけれど」

 この国のために。
 人間がつくった、人間の国である、高雅帝国に――あやかしの血が一滴たりとも混ざってはならない。
 花陽はそう考えたのだという。

 皇子であるうちは、まだ、猶予があったとしても――皇帝となっていよいよ、……殺さなくてはならない、と。

「いてはならない御方を、手にかけるのも。妃の勤めです」

 そのようなことはありません、と。
 思ったけれど。……簡単には、言葉にできなくて。
 それが正しいのかは、わからないけれど。私はただ――肯定でも否定でもなく、頷いた。

「……花陽。もうひとつ、聞かせてほしい。病になったり、辞めていったり、行方不明になった警備の者たちは、どうして――」
「警備を手薄にしたかったからです。病の者は、毒を盛りました。軽い毒です。命に別状はないでしょう。辞めた者は、勘の良い者ばかりでした。陛下の様子がおかしいと。下手すれば、雪の一族の事実に行き当たってしまいそうな者は、……わたくしの力、……安家の力を使って、弱みを握り……去っていただきました」
「行方不明の者は」
「……閉じ込めております。より、真実に近づいてしまった者たちです」
「全員……生きているのか」
「……ええ。今のところは」

 皇帝は、花陽妃から行方不明者たちの居場所を聞き出した。
 それは都の外れの、普段は誰も立ち入らないような廃墟だった。

 ……殺すことも、できたはずだけれど。
 殺さなかったのは――情けだったのだろうか。

「動いたのは……側仕えの者たちだな」

 側仕えの彼女たちは、けっして顔を上げない。

「幸い、死者も出ていない。俺としては、やはり……為したことを知っても、花陽の罰したくはない。側仕えの者たちも、花陽から命令をされて従っただけだろう……。しかし……既に被害者が出ている。そして彼らが知っている、となれば……」

 皇帝としては。
 皇帝を殺そうとした者の命は、当然に。……奪わなくてはならない。
 たとえ、幼なじみであっても。殺したくない相手でもあっても。妃から命令されて従わざるを得なかっただけの者たちであっても。

 万一、真実を知るのが皇帝や私だけであれば、心に収めて黙っておくこともできたかもしれないけれど――既に、花陽妃が犯人だと知ってしまっている被害者がいる。
 かばうのも、難しいだろう。……極刑にしないと、なのだろう。

 それが、高雅帝国の、伝統だから。

 だけども――私が育った月下国では、違った。

「……陛下。差し出がましいかもしれませんが。花陽妃様のこと。この私に、任せてはいただけませんか。この国からは、いったん追放させていただきます。ですが、殺しはせず、生かして……いずれは再会できる道を」
「そんなこと――できるのか」
「我が月下国の伝統です。敵を、味方にすること。罰は与えても殺さないこと」
「……それが、もしできるなら、そうしてもらいたい」
「かしこまりました。花陽妃様。……失礼いたします」

 花陽妃様は、ぼんやりと私を睨むかのような顔をしたけれど、抵抗はしなかった。
 私は、花陽妃様の手を取り、血が出るほど噛みつく――花陽妃様は小さく声を上げたけれど、……逃げなかった。

 傷口から。
 灯火を載せた息を、吹き込む。

 他の側仕えの女性たちにも、そうした。

 そして、離れて、しばし待つ。

「……な、なにをなさったの」

 脅える花陽妃たちを、大きくなった灯火が包んで――。
 あとに残ったのは、狼のすがたになった花陽妃たちだった。

 まだ状況が受け入れきれていないのだろう。
 呆然としたり、互いにきょろきょろと顔を見合わせている。

「炎狼の炎を、お身体に入れさせていただきました。ご存じかもしれませんが、あやかしが仲間を増やす方法は、ふたつございます。ひとつは人間のように、子を生むこと。もうひとつが、もとは仲間ではなかった相手に、元素を注入すること」
『……いやよ、あやかしになるなんて。これから……こんなすがたで、生きていけっていうの?』
「私はその姿で生まれたかったです」

 それは、本音だった。
 私の場合は生まれつき炎の力を持っていて、だからなのか、炎を注入しても、どう頑張っても狼の姿にはなれなかった。
 炎狼の子であることは、間違いなくて。炎狼の力も持っているし、嗅覚も鋭いし、炎狼のみんなや、他のあやかしと話もできる。
 だけども――ついに、姿を狼にできることは、なかったから。

 いずれは母君に、変身の術を教わるつもりだったけれど――その母君も、もういない。
 そして、変身の術はとても珍しくて、教えてくれそうな者にはついぞ出会えていない。

「それに。一生そのまま、ということは、いたしません。これも月下国の伝統で、短くて一年、どんなに長くても七年です。その間、私たちの一族と一緒に過ごして、色んな仕事を担っていただきます。……私も定期的に様子を見に参ります」
『いつかは……人間に、戻してくれるの?』
「もちろんです。信じられないようでしたら、これから来る私の仲間に聞いてみてください。どんな大罪人でも、七年を超えたことはございません」

 私の耳は、仲間の狼が――おそらく小炎が来る音を、掴んでいた。
 そして、案の定すぐに。
 小炎が、ひらりと部屋に入ってきた。

『ひめ! すごい妖力を感じたから急いで来てみたら。何があったの?』
『……なんてこと。狼が、しゃべるなんて』

 花陽妃の言葉に、小炎が彼女のほうを向く。

『えっ、何言ってんの? そっちも同族なのに――って、なんだあ。炎をもらって狼になっただけのやつか』
『見ただけでわかるの?』
『気配が、そうだもん』

 ぱたぱたと、小炎は尻尾を振っていた。

『なんかよくわかんないけど、けんか? ひめ、ちゃんと、なかなおりした?』
『うん。けんかしたけど、なかなおりして、……しばらく、仲間になってもらうことになったよ。だから、このひとたち。とりあえず、引き取ってくれない?』
『いいよお。ほかでもない、ひめの頼みだもん。賢狼様の国の掟は、灯蘭(とうらん)ひめさまにあって健在だねえ。よし、ついてきて、新しい仲間たち』

 狼のすがたになった花陽妃たちは、戸惑っていたけれど――。

「花陽。遠くないうち、灯然と一緒に、俺も会いに行く。だから……いまは、炎狼たちとともに行って、生きることを優先してくれないか」

 花陽妃は、一歩、二歩、とゆっくり踏み出して。
 振り向いて、皇帝を見上げた。

『もう……わたくしの言葉も伝わらなくなってしまった。わたくしが。昔、あなたをお慕い申していたことは。本当だったのよ。……雪のあやかしなどでなかったらこの気持ちはかなったのにと、何度、思ったことか。もう、ずっと昔のことですけどもね。……好きでした、ありがとう。……灯然さんも。ありがとう』

 そして、側仕えの者たちとともに――小炎を先頭に、ひらりと、月の明るい夜へと消えていった。

 皇帝は、困ったように頭に手を当てた。

「……俺は、わかる。あやかしの言葉なら、炎狼のものでも……」
「案外、知られていないのかもしれませんね。同族同士でなくとも、元素の力を持つあやかし同士であれば言葉が通じるということ……」

 最後の最後に、好きだったと言われた皇帝は――いろんな想いを噛み締めるかのように、花陽妃様たちの去っていった闇を見つめていた。

「……灯然。これからも、花陽たちのことを頼んでいいか」
「もちろんです。ともに、花陽妃様たちを見守りましょう」

 それは、私の偽らざる本音だった。



 そして、ここからは。
 私が、普段通りの警備隊員、灯然に戻って。

「さあ。廃墟に囚われたままの行方不明の方々を、助けに参りましょう」

 そう言って、皇帝の隣を歩いて外に出ていくまでに起こった、ふたりだけのできごと。

 花陽妃様の見送りをしていた皇帝は――。
 しばらく経って。あろうことか、私に深々と頭を下げた。

「灯然。本当に、ありがとう」
「いえいえ、そんな……おやめください、お顔を上げてください。私は陛下に頭を下げられるような身分ではありません」

 皇帝は頭を上げた、けれど。

「もとは、月下国の姫君だったのだろう。そうであれば、本来、身分は対等だったかもしれない。いまごろ月下国の君主になっていたのかもしれないのだから」
「いえ、そんな……昔の話ですから」
「月下国は、敵を生かす。そんな伝統を、持っていたんだな。……高雅帝国に対しても、そうだったのか」
「……はい。高雅帝国すべては、とても無理でも。兵は一人も殺さず、仲間にして、いずれは国に帰すように、と。……実際に戦ってみたら、そんなことを言っていられる実力差ではありませんでしたので。結局、仲間にできたのは、小暖という少年兵ひとりでしたが……」
「……そうか。我が国の者を、助けてくれたのだな。それなのに、父上は……あやかしの国を、片端から滅ぼして……」

 皇帝は、うつむいた。

「もともと、あやかしが好きな方ではなかったが。……俺のせいかもしれないんだ。俺の母があやかしだと、知らなかったらしい。騙された、と。……父上は、母上のことをひどく軽蔑していて、そして、あやかしをひどく憎悪していたが、それはどこか……愛情の証明にも見えた」

 そして皇帝は、顔を上げた。

「父上の心で何が起こっていたのかは、もう、知りようがないな。事実として……父上が、あやかしの国を滅ぼしたのは事実だ。……月下国も。灯然の国を。本当に……申し訳ない。灯然の父君も――ともに、探せたら良いと思っている」

 皇帝がまた、頭を下げて。
 それと同時に、周囲がが冷たくなってくる――。
 ほんとうの、悲しみを。彼が。……感じてくれていることが、わかる。

「……ありがとう、ございます。お父様のことも。……陛下は、ずっと。人とかかわらないことで、まわりの人を守ってきたのですね」
「毛布で身体を覆っても、限界がある。抑えられればいいのだが、それもできない――」
「……もし、陛下がお望みであれば、ですが……」

 私は、ためらいながらも――やはりと思って、口にした。

「陛下のなかに存在する雪氷の元素を、少しずつ、私の炎で溶かすことができます。元素は、元素に作用します。氷であれば、あるいは――私の炎が溶かせるかもしれません。陛下の雪の一族のお力を弱くすることになってしまいますが……」
「……それがいい。残すにしても、そうだな……涼しくて爽やかな風のような、その程度まで、弱めたい」
「……いいですね。気持ちの良い、初夏の風のようで。……差し出がましいですが。陛下のお力は、母上からのたまもの。少しでも、お力を残していただきたく思っています」
「……そうだな。灯然。頼む。俺の氷を、溶かしてくれないか」
「かしこまりました。そのためには、ただ」
「ただ?」

 私は、言いよどんだ。

「……定期的な、肌のふれあいが必要となります」
「と、いうのは……」
「こう……直に、ふれあって。畏れながら。抱き締め合う、といいますか……」
「それは……いいのか。灯然は」
「……私は、その、もちろん、構いません」

 私がそう言った途端。
 皇帝は、近づいてきて、やわらかく――私を、抱き締めた。

 ……それはとても愛おしそうな抱き方で。

 ……皇帝は。
 静かで、さらさらで……温度は冷たいのだけれど、どこかあたたかい。
 雪に香りがあるならば、きっとこんな香りだろう。
 甘くて。清々しくて。それでいてどこか、……しっとりと、優しい。

「……いやではないか」
「い、いやでは……ないです」
「……灯蘭」
「……え」
「本当の名前は、灯蘭、と言うのか。先ほど、小炎が言っていた」
「……は、はい。月下灯蘭――と申します」
「……あなたらしい。とても……良い名前だな」
「ありがとう……ございます」

 灯火をまとっているから、という以上に。
 身体が、熱くなる。

「……このようにすると。雪氷を、溶かすことができます」
「……あたたかい。これが、狼炎の力か。俺の雪氷が、灯蘭の力で、解けているのか」
「はい……」
「とても、美しい」

 皇帝は、私のそばで言う。

「とても美しい雪解けだ」

 実際、ほんとうに。
 皇帝……氷臥さまと私の、運命の関係の、始まりは――。
 とても、とても美しい雪解けだった。