朱華国の男後宮 ~男装して潜入したら、女装皇帝に寵愛されました~

「仇の子など、産むつもりはない!」
「仇なぁ……」

 ようやく混乱から脱し、翠蘭は美帆――いや、憂炎を()めつけながらそう断言した。だが、憂炎は首を傾げ、まったく心当たりのないという顔をしている。
 そんな彼女、いや彼に向かって、翠蘭は歯ぎしりして詰め寄った。

「楊皓宇の名に聞き覚えはないのか、おまえの母親のために死んだ……私の、弟の名だ……!」
「いや、そうは言うが……」

 ふむ、と顎をさすり、憂炎は記憶を探るように遠くを見る目をした。その瞳の奥に、少しだけ哀しみの影を見つけ、翠蘭の心がきゅっと音を立てる。
 その影に、自分と同じ色を見つけたからだ。
(違う……私の方が、ずっとずっと……苦しかった……)
 だからこそ、復讐を決意して生きてきた。それなのに、それが今、揺らぎを見せ始めている。
 気弱な気持ちを振り払うように頭を振って、翠蘭は目に力を込めた。

「思い出せたか……!?」
「いや……母が伏せってからは俺がずっと傍に付いていたが……年齢は、おまえと同じなんだよな?」
「ああ、双子の弟だからな」

 翠蘭が頷くと、憂炎はやはり、というように首を横に振った。

「いや、やはり該当の人物は記憶にないな……そもそも母は、病を得てから急速に病状が悪化して、半年も経たぬうちに亡くなった」
「そんなはずは……だって、皓宇が連れて行かれたのは、先帝が亡くなる一年も前で……」

 ふむ、ともう一度顎をさすり、憂炎が呟く。

「では、こうしよう……おまえの言う、弟のこと。それを俺が調べてやる。そうすれば俺を信用して、俺の子を産んでくれるな?」
「は、はあ!?」

 どうしてそうなるのか全く分からない。翠蘭は首を振ったが、憂炎はとりあわなかった。

「なんだ、では皇帝を害しようとした罪で、なにもわからないまま死罪になる方が良いのか?」
「そ、そんなことをしたら、おまえが本当は男だとばらすぞ……!」
「皇帝である俺の言葉と、一回の宮官であるおまえの言葉、どちらが信じられると思う?」

 にやりと笑った憂炎の言葉に、翠蘭はぐっと言葉を呑み込んだ。当然、それは憂炎の言葉に決まっている。
 くそ、と小さく呟くと、彼は勝ち誇ったようにこう告げた。

「決まりだな。それじゃあ……えっと……おまえ、名はなんと言うんだ」
「名……?」
「ああ、いつまでも弟の名で呼ぶのもおかしいだろう。名は何という」
「……翠蘭。楊翠蘭だ」
「翠蘭、か。よい名前だな」

 そこで初めて、憂炎はにこりと微笑みを浮かべて見せた。初めて見せた邪気のないその表情に、胸がどきんと大きな音を立てる。
(び、美人の笑顔は……心臓に悪いな……)
 大きく息を吸い込んで、吐いて。なんとか鼓動を落ち着けようとする翠蘭に向かって、憂炎はその笑顔のまま言った。

「では翠蘭、明日から毎晩俺の部屋に来るように」



 翌日、翠蘭は寝不足の目をこすりながら尚食局へと向かった。
 皇帝の寵を受けたからと言って、今日から「夫でござい」という顔ができるわけではない。仕事は仕事、やらなければならないのだ。
(だから、夜あいつのところに行くなんて……)
 小さくため息をついて、眉根を寄せる。
 行かないとつっぱねることはできるだろうが、皇帝の意向に逆らえば刑罰を受けることになる。悪くすれば冷宮送りになって、死んでしまうかも知れない。
(そうなったら、皓宇のことを知ることができない……)
 それは嫌だ――翠蘭は強くそう思った。自分さえ彼の言うことを聞けば、皓宇の、父と母の本当の仇がみつかるかもしれない。そうであるならば、彼に従うのが得策だろう。
 ――内心では、それが言い訳に過ぎないことはわかっている。
(だって……)
 小さく胸の中で呟いて、翠蘭はふるふると首を横に振った。彼の目の奥にあった哀しみの色――それがどうにも気になってしまう。
 けれど、それを認めることは、今の翠蘭にはできなかった。

「おはようございます」
「おは……おやおや、これはこれは……皓宇さまじゃありませんか」

 尚食の扉をあけると、そこにいたのは周子涵(シュウ ズーハン)という名の青年だった。位は翠蘭の一つ上、才人に除されている。
 尚食の担当ではあるが、これまでに一度として尚食局を訪れたことなどない人物だ。
 慌てて翠蘭が礼を取ると、彼は嫌な笑みを浮かべながらこう言った。

「陛下の閨に侍った夫なのですから、今日はお休みになっていても良いのでは?それとも、役立たずで追い出されたのですか?」
「は、はあ……?」

 あまりにも下世話な内容に、翠蘭の脳が理解を拒んだようだった。何を言われているのか分からず怪訝そうな顔をしてしまったが、それが子涵には自分を馬鹿にしているように見えたらしい。
 きっと眦をつり上げると、忌々しそうに吐き捨てた。

「はん……皇帝の寵をかさにきて、俺などとはまともに会話する気もないと言うことか?偉そうに……!」
「そ、そのようなことは……」

 なにか分からないが、なんだか嫌みっぽい物言いをしたかと思えば今度は怒り出す。なにがどうなっているのか分からないが、とりあえず宥めようと手を伸ばすと、それをぱしりとはたかれた。

「調子に乗っているんじゃないぞ……!」
「い、いえ、ですから……」

 なにも調子になど乗っていない。そう続けようとしたところで、間に割って入った声があった。

「なんです、どうしました、周才人?楊がなにかしましたか」
「……天佑」

 声の主は、同じ尚食の同僚、天佑であった。その姿を見た途端、子涵は忌々しげに舌打ちし、荒い足音を立てて尚食局を出て行った。
 後ろ姿を見送った天佑が、はあ、と大きなため息を漏らす。

「悪い、なんか……助かった」
「いや、いいってことよ……これからは、ああいうのが増えるかもしれん。気をつけろよ」

 天佑の言葉に、翠蘭はこくりと頷いた。昨夜から衝撃続きですっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、ここは男後宮――女帝のための、夫候補たちの集まりだ。
 誰もが皇帝の閨に侍り、その寵愛を我が物にしたいと願っている場所。
 その中で、自分はかれらより頭一つ飛び抜けた存在となった。
(もう……!)
 望んだ地位ではないが、目的のためには必要なこと。そう思い、我慢するしかない。
 幸い、周囲には敵ばかりではなく、天佑のように味方をしてくれる者もいるようだ。ほっと息を吐き出して、翠蘭は「ありがとう」と答えた。
 ――それから半月後。
 夜、いつものように宦官に導かれ、翠蘭は憂炎の部屋への路を歩いていた。迎えに来るのは、いつも同じ宦官だ。本人はほとんど口をきかないし、名乗りもしないのだが、憂炎が呼んでいたので名前だけはかろうじて知っている。肖燗流(シャオ カンルー)という名の青年で、年の頃はおそらく憂炎と同じくらいと推察された。
 どうやら、彼は憂炎の信頼厚い宦官らしい。従者として常に傍にいるらしく、こうして翠蘭を迎えに行かされるのは少々不服のようだ。
今夜もまた無言のままの彼の後を追いながら、翠蘭は肩をすくめた。

「で?なにか進展は?」
「おまえは、毎晩そればかりだな……」

 部屋に入るなりそう問いかけた翠蘭に、憂炎はわざとらしいため息をついた。そんなに直ぐには調べはつかん、と肩をすくめながら、寝そべっていた榻から半身を起こす。
 ここに座れ、と手招きされて、翠蘭は仕方なく近寄ると、そこに腰を下ろした。で、と口を開いたところに、彼が手にしていたものを押し込まれる。

「む、ぐ……っ」

憂炎の元へ来るようになってから、時折彼はこういった悪戯じみた態度をとることがある。ただ、これまでにおかしなものを口に入れられたことはないので、おそらくこれも大丈夫だろう。
だが、それでも突然のことに翠蘭は眉間に皺を寄せると、念のため恐る恐る舌の上に載せた。なんだか甘酸っぱい味がする。ゆっくりと歯を立てると、少し弾力がありつつも、すぐにつぶせるほど柔らかい。続いてぷちぷちとした感覚があり、翠蘭は初めての感触に目を瞬かせた。

「なんです、これ……」
「無花果、食べたことないのか?」

 そう言った彼の手元には、翠蘭の口に放り込んだのと同じ実がある。それを少し指先で弄んでから、彼はおもむろにその実を割って見せた。外から見たのとは違い、中は赤く熟していて、なんだか少し気味が悪い。
 そう感じたのが顔に出たのか、憂炎はくすりと笑うと指で摘まんだそれを、今度は自分
の口に放り込んだ。

「なかなか、甘みが良く出ていてうまいな」

 目を細め、満足げに頷いた憂炎がもう半分を口に入れる。その指先をなんとなく見つめていた翠蘭は、その後彼が浮かべた笑みにどきりとして、慌ててそこから目を逸らした。
 どうにもいけない。ここのところ、こうしてうやむやのうちに二人でただゆっくりと過ごすだけの日々が続いている。
(なんで、毎日来いなんて……)
 よく考えれば、意味の無い行動だ。けれど、迎えが来れば翠蘭は大人しく彼の元へ来てしまう。
 それは、彼の目に自分と同じ家族を亡くした哀しみを見てしまったせいかもしれない。

「翠蘭?」

 ぼんやりとしていたせいだろう。気付けば憂炎が、ほんのわずか心配そうな色を滲ませてこちらを見ている。
 こんなに他人に感情を悟られやすくて、よくぞ皇帝などという地位にいられるものだ。きっと昼間は相当気を張っているのだろう。
 そう思って苦笑を浮かべると、彼はむっとしたように唇をとがらせ、手を伸ばして翠蘭の頭をぐしゃぐしゃにした。

「おい、やめろ……っ」
「ふん、俺といるというのに何を考えていた?」

 口先ではまるで暴君じみたことをいいながら、その実彼の行動は気を惹きたい子どものそれと変わらないような気がする。
(これが、彼の本来の姿なんだろうな……)
 ふと憂炎の姿に弟の姿が重なって、翠蘭は自然と手を伸ばし彼の髪に触れた。さらさらとした手触りのそれは、少し冷たくて、滑らかで心地が良い。

「なにをする……」

 そう言いながらも、憂炎は翠蘭の手をはね除けることなく受け入れた。それがなんだか可愛く思えて、思わず唇に笑みが浮かぶ。
 その様子を見た憂炎が、一瞬目を見張ったことには気付かなかった。

 その晩は、まだ早いうちに彼の元を辞し、翠蘭は与えられた部屋に戻った。部屋の前で送ってくれた宦官の肖と別れ、扉を押して中へとはいる。
 その途端、なんともいえない異臭が鼻をついた。

「またか……」

 はあ、とため息をつくと、翠蘭は慣れた様子で掃除用具を取り出し、床を綺麗に清めていく。それから窓を開け、空気を入れ替えた。
 こうした、異臭を放つ何かを部屋にぶちまけられるのは、これが初めてではない。むしろ、これは嫌がらせとしては初歩の初歩、といったところだ。
 憂炎に貰った衣が引き裂かれていたこともあれば、直接足をかけて転ばされたこともある。そういった地味な嫌がらせは、ここ半月の間にかなりの頻度で起きていた。

「今日は早く戻ったから、ないかと思っていたんだけれど……」

 窓枠に手をついてぼんやりと外を眺めながら、翠蘭はそう独りごちた。どうやら今日の相手は、ずいぶんと早いうちに仕込みをしていったらしい。
 いまだ手狭な室住まいの翠蘭であるから、隣にも人が住んでいるというのに大胆なことだ。しかもその隣人である天佑は、表立って翠蘭をかばってくれる数少ない人間でもある。
 体格も良く、顔の広い彼は周囲から一目置かれている。おまけに、翠蘭は詳しくないのだが彼はもっと位の高い夫候補のなかに親戚がいるらしい。
その天佑に見つかれば、いかに翠蘭相手の嫌がらせであっても、宮正による懲罰を受ける可能性はあった。

「よくやるよ……」

 はあ、とため息をこぼし、翠蘭は窓を閉めようと手を伸ばした。と、そこへ扉を叩く音がする。
 こんな夜も更けた時刻に、ひとの室を訪ねてくるとは珍しい。もしかしたら、ほかに嫌がらせをしようとしている者だろうか。
 警戒し、息を詰めた翠蘭の耳に、外から少し小声で名前を呼ぶ男の声が聞こえてきた。
「皓宇、戻っているのか」
「……天佑?」

 そう尋ねてきた声の主は、先ほど脳裏に浮かんだ男、隣人の天佑であった。ただ、彼がそのように翠蘭の部屋を尋ねてくるのは珍しい。
(しかもこんなに時間に……?なにかあったのかな……?)
 何の疑いもなく、翠蘭は部屋の扉を開けた。しかし、驚いたことにそこにいたのは天佑だけではない。他にも顔を見たことのある男が二人ほど、その後ろに立っている。
 外は、月が出ていて少し明るいが、逆にそのせいで彼らの表情が陰り、うっすらと恐ろしさを感じさせる。
 どくん、と心臓が嫌な音を立てた。

「え、なに……どうし……」
「悪いな、皓宇」

 翠蘭の声を遮るようにして、天佑は彼女の腕を掴むと、押し入るようにして室内へと入ってきた。強引に押されてよろけそうになった翠蘭を片手で支え、にやりと笑みを浮かべる。
 それに続くようにして、後ろにいた男二人も中へと入ってきた。
 本能的に怖れを感じ、つかまれた腕を振り払おうとした翠蘭だったが、さすがに周囲から一目置かれるほど体格の良い天佑相手では、まったくといっていいほど歯が立たない。

「どっ……どうして……」
「悪いな、俺もこんなことはしたくはないんだが」

 そう言いながらも、天佑の視線は舐めるように翠蘭の身体をなぞる。その視線の悍ましさにぞっとして、ひやりと背筋が冷たくなった。
 そのおびえを感じ取ったのか、彼の口元に残忍な笑みが浮かぶ。

「どうしても、おまえを使い物にならないようにしてやれ、と仰せの方がいてな」
「使い物って……っ」
「なに、ここじゃ珍しくもない。男同士の交合も、悪くないぜ」
「お、男同士って……なんだよ、それっ……!」

 そんなものがあること自体、翠蘭にとっては知識の外だ。だが、それでも自分の実が危ういと言うことだけは間違いなくわかる。
 しかも――翠蘭は本当は女なのだ。裸にされてしまえば、それが露見してしまう。
(まずい……!)
 なんとしてでも逃げなければ。そう思うが、手足に思ったように力が入らない。
 天佑だけでなく、他の二人も加わって押さえつけられれば、翠蘭に勝ち目などあるはずもなかった。
 下卑た笑いを浮かべた彼らの手が、袍の襟元をくつろげ、脱がせようとしてくる。その手が触れる感触が気持ち悪くて、翠蘭の目に涙が浮かんだ。
(やだ……やだっ……!)

「なんだこいつ、サラシなんか巻いてやがる」
「っは、どうしたこれは……女みてえに細っこい肩だな」

 すっと肌を撫でられて、怖気が立つ。叫び声を上げたくても、声が出ない。そもそも、翠蘭が叫んだところで、この後宮内で翠蘭を助けてくれる人などいるはずもない。
(信じてたのに……っ)
 敵だらけになった後宮の中で、唯一信じられると思っていた相手。その相手が今、翠蘭を襲っている。その事実に目の前が真っ暗になる。
(いやだ、こんなの……っ、だってまだ、目的を果たせていないのに……っ)
 もし自分がこの後宮を去る――もしくは死ぬときは、家族の復讐を果たしてから。そう心に決めていたというのに。こんなところでその道が潰えてしまうなんて、そんなこと……!

「く、うっ……」

 しかし、現実は非情だ。いくらあがいてみても、彼らの腕からは逃れられない。
 いよいよ、サラシに指をかけられ、翠蘭はぎゅっと目を閉じた。それを取られてしまえば、すぐに翠蘭が女だと言うことは露見する。そうなれば、このまま身を穢されるだけに飽き足らず、性別を偽った罪で処罰されることは免れない。おそらくは、死罪となるだろう。
 いや、それだけではない。
 はっとして、翠蘭は目を見開いた。そうだ、そうなると――憂炎はどうなる。翠蘭を毎晩呼び、褥を供にしていると思われているのに、自分が女だとばれれば彼にもまた疑いの目が向けられるのではないだろうか。
(憂炎……!)
 心の中で強くその名を呼んだとき、ひゅっと風の鳴るような――鳥が羽ばたくときのような――そんな音が翠蘭の耳を打った。
 続いて、自分にのしかかっていた天佑が、ふっと視界から消え去る。え、と思ったときには、ひえっという叫び声と、それから何かを殴るような音が辺りに響いた。
 何が起きたのか分からず、翠蘭は困惑して震える身体をゆっくりと起こす。
 すると、ばんと開け放った扉から、天佑をはじめとした男たちが慌てたように逃げ出していく後ろ姿が見えた。
 呆然とその姿を見送っていると、背後から声をかけられる。

「大丈夫か、翠蘭……!」

 そこに聞こえてきたのは、先ほど別れたはずの憂炎の声だった。はっとして振り返れば、そこには男の格好をした憂炎が、はあはあと息を乱して立っている。
 脱いだ上着を翠蘭の肩にかけると、彼はちっと一つ舌打ちし、もう遠く逃げた男たちの姿を睨みつけた。

「ど……どうして……」
「俺のところに落とし物をしていたから、届けに……いや、そんなことより、おまえは大丈夫か……怪我なんかはしていないか?」

 そう問いかけられ、翠蘭は自分の身体を見おろした。特に痛い箇所はないと思っていたが、押さえつけられていた腕には指の跡が残っている。この分だと、もしかしたら明日にはあざになっているかも知れない。そう思ったとき、憂炎がそっと指を伸ばし、その跡をなぞった。

「すまない、もう少し早く来ていれば……」
「ううん……ありがとう。あ、憂炎こそその指、怪我している。ちょっと見せて」

 おそらく、天佑たちを殴ったときに痛めたのだろう。少しすり切れて血の滲むそこに手をかざし、翠蘭は目を閉じて意識を集中させた。ほわっと目の奥に柔らかな光が浮かび、それがどんどん広がってゆくのが感じられる。

「お、おい……?」

 憂炎の戸惑う声がしたが、翠蘭はそのまま集中し続けた。やがて手のひらにほんのりと感じていた熱がなくなると同時に、指の辺りにずきりと痛みが走る。
(結構痛いな、これ……)
 彼に気付かれないうちに、とすっと手を引っ込めようとした翠蘭だったが、すっと目を細めた彼に逆に捕まって、その手にある傷を見られてしまう。

「さっきまではなかっただろう……これは、俺の傷か……」

 言い当てられて、翠蘭は俯いた。彼に治癒の力のことは話したが、それがどういったものかまでは教えていない。

「その力、癒やす代わりに自分に傷を移すんだな?」

 翠蘭が頷くと、憂炎はそっと手を伸ばし、こちらの反応を確かめるようにしながら柔らかく抱きしめた。

「ということは――それを、自分の力で癒やすことはできないんだな?」

 それは、質問という形を取ってはいたが、ただの確認に過ぎなかった。彼の中ではもう、そういうものだと理解をしてしまっている。
 翠蘭は唇を噛み、頷いた。

「ほんの少し、症状は軽くはなるし、一応治癒力も普通の人よりは高い。けれど、死に至るほどの傷や病は、癒やしきることはできない……」

 口にすると、脳裏に父の最後の姿が蘇った。あの時、翠蘭は必死に癒やしの力を使ったが、完全に癒やすことはできなかった。それが、父の死を暗示していると知りながらも、どうしても力を使うことを止められなくて――。
 ぽたり、と水滴がこぼれ落ち、彼のかけてくれた上着を濡らす。それが自分の目からこぼれ落ちる涙だと理解するまで、しばらくの時間がかかった。
 自覚すると同時に、ぶわりと涙があふれ出し、どんどんと流れ出してゆく。

「うっ……うわあ……っ」
「よしよし……我慢するな……」

 こうして泣くのは、いつぶりだろう。父が死んだときも、母が死んだときも――皓宇の死を知らされたときも、泣くことなどなかった。できなかったのに。
 わんわんと声をあげて泣く翠蘭の背を優しく撫でながら、憂炎は彼女が落ち着くまでずっとそうしていてくれた。
 翠蘭はその後、憂炎の住まう紅玉宮にほど近い天青宮へと住まいを移された。ここには翠蘭以外の夫候補は住んで居らず、ほぼまるごと宮を与えられた形になる。
 後宮の中でそのような待遇を受けるのは、四夫君だけであることを考えれば、これは異例の措置と言えた。
 しかも、その宮に女帝姿の憂炎が足繁く通ってくるのだ。
 こうなれば、もう翠蘭へ嫌がらせを行おうという気概のあるものはほとんどいない。直接嫌がらせに関わっていなかった宮官たちは、こぞって翠蘭の宮で働きたいと申し出てくるものばかりだ。
 だが、翠蘭はそれを全て断っていた。
 理由は簡単で、身の回りの世話をする宮官がいては、自身が女であることがばれる確率が高いからだ。それに、認めたくはないが、天佑に襲われかけたことがまだ尾を引いている。
 周囲に男がよると、ぞっとしてしまって足が竦むのだ。
 そもそも、自分のことは自分でできる。人がいれば、うっとうしいだけだ。

「まあ、おまえの好きなようにすると良い」

 憂炎は部屋を訪れると、笑いながらそう言った。
 自分の部屋ではないからか、彼は女帝としての装いをしている。それはもしかしたら、男に嫌悪感を示す翠蘭のためなのかも知れない。
 それに思い至り、翠蘭の胸がきゅっと音を立てた。
(どうして、そんな風に優しくしてくれるの……?)
 確かに彼は、翠蘭に「俺の子を産め」という。けれど本当は、それは翠蘭でなくてもいいはずだ。
 密かに女性を引き入れて子を成すくらい、やってできないことはないだろう。
 翠蘭が女だということがわかるまでは、おそらくはその路線で動いていたはずだ。
 だが、その姿を想像して――翠蘭は咄嗟に「嫌だな」と思ってしまった。
(な、なによ……嫌って……)

「おい、翠蘭?」
「な、なによ!」

 動揺しているところに声をかけられ、思わず大声を出してしまう。彼は面食らったような顔をして「いや……」と小さく呟いた。

「俺がいるというのに心ここにあらず、といった様子だからな。気になっただけだ」
「そんなこと……ない、わよ……」

 言葉の軽さとは裏腹に、憂炎の目には翠蘭を心配する色が浮かんでいる。答える途中でそれに気付いてしまい、翠蘭の言葉尻はなんとなくふにゃふにゃと、弱いものになってしまった。
 そのことに跡から気付いて、翠蘭の顔に血が上ぼる。

「ほんとに!なんでもないから!」
「ふうん……」

 力の限り叫んで、翠蘭はふいっとそっぽを向いた。だが、心臓がどくんどくんと早鐘を打ち、顔の熱もなかなか冷めない。
 そんな彼女の横顔を眺めながら、憂炎はにやにやと笑っていた。


 そんな穏やかな日々を過ごし――翠蘭はいつしか、彼のために子を産むのも悪くないと、そんな風に考えるようにさえなっていた。
 けれども、心にひっかかるのは弟、皓宇のことだ。
(あの時、確かにあいつらは「皇帝の命」と言っていた……)
 けれど、憂炎はそんなものは知らないという。それに、病を得たのが死亡の半年前だとすれば、計算が合わなくなる。
 おそらくは、他の誰かが皇帝の名を騙ったのだろう。そこまでは翠蘭にも予想がついた。
 だが、そこからがわからない。皇帝に恩を売ろうとした誰かの仕業かとも考えられるが、朝廷のことに詳しくない翠蘭には推測することさえできなかった。
(せめて、後宮内の人間だけでもよく観察しておくんだった……)
 なにしろ、四夫君のことすら「身分の高い婿」としか認識していなかった翠蘭だ。どこの家の出身か、くらいは知っていても、その家同士の関係まではまったくわからないのである。
 憂炎に聞いてみようかと思うものの、ここ最近の彼は翠蘭の元に来てもどこか心ここにあらずといった様子で、なにか気がかりなことがあるようだ。
 どうにか調べる方法がないか、と思っていた頃――翠蘭のもとに、こっそりと一通の手紙が届けられた。
 そこにはこう書かれていた。

『おまえの知りたいことを知っている。そして、おまえの秘密も知っている』

 そこには、続けて「翠蘭が皇帝の元を離れるのであれば、秘密は漏らさない。そして、知る限りの事を教えよう」という趣旨のことが記されていた。

「秘密……」

 ごくり、と翠蘭の喉が鳴る。秘密というのはもちろん、翠蘭が本来は男後宮に入ることのできない、女だと言うことだろう。
 しかも、それが他に知れ渡れば憂炎の正体にも繋がってしまう。
 それは避けなければならない。
(なら、できることは一つだ――)
 翠蘭は手紙をもう一度読み返すと、それに火をつけ隠滅した。それから、憂炎にひとことだけ、さよならを告げる手紙を残し――受け取った手紙の指示するとおりの場所へと向かった。

「暗いな……」

 今は使われていない宮殿の端。その中にて――と書かれていたとおり、そっと扉を押して中に入る。わずかにかび臭い匂いがするところを見ると、かなり長いこと使われていないようだ。
 一歩中に入ると、床板が軋んだ音を立てる。

「誰か……いるか……?」

 あまり大きな声を出すのも憚られ、翠蘭は少し小さな声でそう言った。途端、背後の扉がバタン、と大きな音を立てて閉まる。
 はっとして振り返ったときには遅かった。ごすっと鈍い音がして、腹に拳が入れられる。

「うっ……!」

 思いも寄らぬ攻撃に、一瞬息が詰まる。そしてそのまま、彼女の意識は闇に呑まれていった。
「翠蘭、翠蘭……!?」

 夕刻、天青宮を訪れた憂炎は、もぬけの殻の室内を見て顔色をなくした。慌てて他の部屋も覗いて見るも、いつもならば直ぐに感じ取れる彼女の気配がまるでない。
 いつもの部屋に戻ると、机のうえに折りたたまれた紙が置いてあることに気が付いた。
 はっとして広げると、そこには翠蘭の文字で、別れの言葉が認められている。
(くそ……どこへ……っ)
 ちりちりと首筋が熱くなってくる。そこには、憂炎が男の身でありながらこの国の次代皇帝となるため、女として育てられるに至る理由となるものが存在していた。
 朱雀の徴――この朱華国の建国神話にある、守護神獣の徴だ。
 代々女性にしか顕われないと言われていたこの徴が、なぜ男である自分に顕われたのかはわからない。ただ今は――どうしてかこの徴さえあれば、自分の片翼のところへいける。そんな確信が頭を支配していた。
 そして、それは間違いなく――彼女のことだ。
(翠蘭……!)
  その姿を脳裏に思い浮かべ、まるで炎のように熱く感じる徴に身を委ねる。そうすると、憂炎の身体は光に包まれ、それが消えたときにはその場から姿を消していた。



「さて……」

 その頃、捕らえられた翠蘭は、縄を打たれ床に転がされていた。おかしな縛り方をされたのか、腕が痛いだけではなく、そこが埃まみれなせいで、息を吸うたびに咳き込んでしまう。そのせいで、翠蘭はぜえはあと肩で息をし、さらには目が痛くて涙がぽろぽろとこぼれてしまっていた。
 その姿を見おろして、ふんと鼻を鳴らしたのは壮年の男性だ。まるで見覚えはないが、なんだか嫌な目つきをした男だということだけは分かる。

「まったく、陛下はこんなちんくしゃのどこがお気に召したのか……うちの息子の袍がよほど……」

 とん、とつま先で肩口を蹴りつけられ、痛みに顔をゆがめる。だが男は口元をゆがめると、吐き捨てるように言った。

「おまえたちの一族は、癒やしの力が使えるのだろう?怪我をしたところで、たいしたことはあるまい――そう、以前にも言ったというのに」
「……以前にも?」

 男の言葉を聞きとがめ、翠蘭は目線を彼へと向けた。翠蘭を縛り上げ、自由を奪ったことで何もできないと侮ったのか、男は得意げに笑うと口を開く。
 その内容は、翠蘭にとってまさに求めていた情報そのものだった。

「以前にも、おまえと同じように癒やしの力を使える少年を捕まえたのだがな……なに、力を使うのを嫌がるから、少し痛めつけてやったら――馬鹿なことに、それでも力を使わずに衰弱死してしまったのさ」

 本当に、馬鹿なやつだ。そう嘲るように付け加えた男に、翠蘭は怒りの籠もった視線を向けた。
(こいつが……!)
 怒りで心が震える。ぎりりと睨みつけると、男はその態度が気に入らないのか、もう一度足を振り上げた。
 今度は先ほどよりも強く蹴りつけるつもりだ――そう分かっていたが、視線は逸らさない。
 その足が振り下ろされそうになったその時――翠蘭の目の前に、光の塊が現われた。そのまぶしさに一瞬目を閉じた直後――「うわぁっ」という情けない悲鳴が聞こえる。

「おまえは……宋尚書……?っ、す、翠蘭……っ」
「え、ゆ……憂炎……?」

 恐る恐る目を開くと、そこにいたのは麗しい女帝の姿をした憂炎だった。憂炎は翠蘭の姿に気が付くと、急いで駆け寄り助け起こす。
 彼が現われたことでほっと気が緩んだのか、翠蘭の身体から力が抜ける。くったりと彼に寄りかかり、ほっと息を吐き出した。

「な、なぜ……なぜ陛下がここに……!?」
「おまえこそ、どうして翠蘭を――!」
「憂炎、こいつよ……こいつが、皓宇を攫った犯人なの……!」

 翠蘭が必死に訴えると、憂炎はチッと舌打ちし、男――宋尚書を睨みつけた。

「先日の、後宮内で翠――皓宇を襲わせたのも、宋貴婿の命によるものと調べがついたところだ。親子揃って良くも……!」
「へ、陛下……!」

 憂炎が怒りに燃える目を向けると、その背後に炎の影が揺らめく。それに怖れを成したのか、腰を抜かした宋はへたり込むと叩頭して釈明を始めた。

「ち、違うのです……私は、その……癒やしの異能を持つ者を、陛下に捧げようと……!それがその者だとは知らなかったのです……」
「う、うそよ……!先ほど、私のことを一族の生き残りだと知っていた……!」

 翠蘭の言葉に、憂炎はますます眦をつり上げ、宋を睨みつける。まるで視線で射殺しでもしそうなほどに強い怒りに触れ、怖れを成した彼は震えながら命乞いをした。

「お、お助けください……お助けを……っ」
「……どうする、翠蘭。こいつがおまえの仇だというのなら……ここで」

 手にかけても良い、とはっきりと口にしたわけではない。だが、翠蘭には彼の言いたいことが分かった。
 どうしてか、先ほどから彼との間に強い絆を感じる。おそらく、彼の方もだろう。
(わかってる……)
 翠蘭は小さく首を振ると、口を開いた。

「司法の手に委ねます。全てをつまびらかにして、公正な裁きを」
「ん……聞こえたか、宋尚書。この裁きは公の場で、だ。逃げても俺にはわかるからな……覚悟して待てよ」
「はっ……」

 宋は頭を地面にこすりつけ、震えながら頷いた。
「終わったな……」

 あれから数ヶ月。
 宋尚書や宋貴婿のしでかしたことは、余罪もひっくるめ全て明るみに出ることとなり、二人には死罪が言い渡された。なにしろ、皇帝の名を騙った罪もある。これでようやく、全てが終わったのだ。
 怒濤のような毎日を過ごしていた翠蘭も、憂炎も、ほっと一息ついた――そんな日のことである。
 憂炎は、久しぶりに翠蘭を自分の部屋へと招いていた。

「さて、なにはともあれ……これでおまえとの約束は守ったことになるな?今度はおまえが約束を果たす番だ」

 憂炎の言葉に、翠蘭は少しむっとしたように唇を尖らせた。

「でもあれは、ほとんど宋尚書の自爆みたいなものじゃないですか」
「いいや、でもその後の裁きがスムーズに終わったのは、俺が証拠固めをしていたからだ」

 確かに、彼の言うとおりではある。
 今回、宋が焦って翠蘭をおびき寄せたこと。焦燥感を勝手に募らせていた翠蘭が動いてしまったことで、捕縛が早まりはしたが、遅かれ早かれ宋は捕まる運命にあったのだ。
 そのために、憂炎が忙しくしていたことも分かっている翠蘭は、少しだけ目を伏せ、小さな声で言った。

「……じゃ、考えておくと言うことで……」
「はあ?そんなもの認められるか?そもそも、おまえは俺の『片翼』だ。それを認められたから、こうして元の姿にも戻れたんだろうが」

 そう言う憂炎は、確かにいつもの女装姿ではない。実を言えば、翠蘭もいつもの男装ではなく、女性の衣装を身に着けていた。
 すっかり馴染んだ男物の袍に比べ、動きづいらい事この上ない。だが、そんな翠蘭を見る憂炎の目つきが優しく、眩しそうですらあるから気分が良くなってしまう。

「それは、そうなんだけど……でも……」
「でももかかしもない。約束だろうが……!」

 憂炎が焦ったようにそう言うのを、翠蘭はくすくすと笑いながら見ていた。
(全く、いつの間にそんな風に思ってくれていたのか……)
 絶対に、ただ都合の良いだけの存在だと思っていたのに。片翼と呼んでくれる――いや、片翼という存在にしてくれるほど、自分のことを思ってくれていたとは。
 朱雀の片翼というのは、建国神話に顕われる神獣のつがいのこと。そして、女性にのみ代々受け継がれてきた朱雀の徴が男子に顕われるのは、神獣朱雀の再来を意味する。
 二人が揃ったことで、これから朱華国はますます発展するだろう――というのが、古い文献を研究している古老の言葉であった。
 それが判明してから、憂炎がずっともの言いたげにしていたことも、それを今日決意を固めて口にしたのも――二人の間に芽生えた絆を通じて、伝わってきている。
(もしかすると、憂炎は緊張しすぎて気付いていないのかしら)
 翠蘭だって、彼の事を特別に思っている。だから、彼の子を産む、ということもやぶさかではない。
 けれど、それを直ぐに口にするのはなんだか照れくさいし――こうして、翠蘭のことを求めてくれる彼の姿を、もう少し見ていたい。
 だが――どうやら、翠蘭よりも憂炎のほうが一枚上手であるようだ。

「なあ、翠蘭……」

 ぞくり、と背筋にしびれが走るような甘い声音で、憂炎に名を呼ばれ、翠蘭は身体をびくりと跳ねさせた。はっと気付いたときには、もう彼の腕に囲われている。
 耳元にかかる吐息の熱さと、抱きしめる腕の力強さ。それにくらくらしてしまい、心臓がどきどきと早鐘を打った。

「俺の子を、産め」
「ま、まっ……!」

 耳元でそう囁かれて、翠蘭の顔に火が灯る。慌てて逃げだそうとしたが、力で彼に敵うわけもない。
 真っ赤になった顔を見られたくない一心で、翠蘭は彼の胸元に顔を埋めると――こくり、と小さく頷いたのだった。

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