翠蘭はその後、憂炎の住まう紅玉宮にほど近い天青宮へと住まいを移された。ここには翠蘭以外の夫候補は住んで居らず、ほぼまるごと宮を与えられた形になる。
後宮の中でそのような待遇を受けるのは、四夫君だけであることを考えれば、これは異例の措置と言えた。
しかも、その宮に女帝姿の憂炎が足繁く通ってくるのだ。
こうなれば、もう翠蘭へ嫌がらせを行おうという気概のあるものはほとんどいない。直接嫌がらせに関わっていなかった宮官たちは、こぞって翠蘭の宮で働きたいと申し出てくるものばかりだ。
だが、翠蘭はそれを全て断っていた。
理由は簡単で、身の回りの世話をする宮官がいては、自身が女であることがばれる確率が高いからだ。それに、認めたくはないが、天佑に襲われかけたことがまだ尾を引いている。
周囲に男がよると、ぞっとしてしまって足が竦むのだ。
そもそも、自分のことは自分でできる。人がいれば、うっとうしいだけだ。
「まあ、おまえの好きなようにすると良い」
憂炎は部屋を訪れると、笑いながらそう言った。
自分の部屋ではないからか、彼は女帝としての装いをしている。それはもしかしたら、男に嫌悪感を示す翠蘭のためなのかも知れない。
それに思い至り、翠蘭の胸がきゅっと音を立てた。
(どうして、そんな風に優しくしてくれるの……?)
確かに彼は、翠蘭に「俺の子を産め」という。けれど本当は、それは翠蘭でなくてもいいはずだ。
密かに女性を引き入れて子を成すくらい、やってできないことはないだろう。
翠蘭が女だということがわかるまでは、おそらくはその路線で動いていたはずだ。
だが、その姿を想像して――翠蘭は咄嗟に「嫌だな」と思ってしまった。
(な、なによ……嫌って……)
「おい、翠蘭?」
「な、なによ!」
動揺しているところに声をかけられ、思わず大声を出してしまう。彼は面食らったような顔をして「いや……」と小さく呟いた。
「俺がいるというのに心ここにあらず、といった様子だからな。気になっただけだ」
「そんなこと……ない、わよ……」
言葉の軽さとは裏腹に、憂炎の目には翠蘭を心配する色が浮かんでいる。答える途中でそれに気付いてしまい、翠蘭の言葉尻はなんとなくふにゃふにゃと、弱いものになってしまった。
そのことに跡から気付いて、翠蘭の顔に血が上ぼる。
「ほんとに!なんでもないから!」
「ふうん……」
力の限り叫んで、翠蘭はふいっとそっぽを向いた。だが、心臓がどくんどくんと早鐘を打ち、顔の熱もなかなか冷めない。
そんな彼女の横顔を眺めながら、憂炎はにやにやと笑っていた。
そんな穏やかな日々を過ごし――翠蘭はいつしか、彼のために子を産むのも悪くないと、そんな風に考えるようにさえなっていた。
けれども、心にひっかかるのは弟、皓宇のことだ。
(あの時、確かにあいつらは「皇帝の命」と言っていた……)
けれど、憂炎はそんなものは知らないという。それに、病を得たのが死亡の半年前だとすれば、計算が合わなくなる。
おそらくは、他の誰かが皇帝の名を騙ったのだろう。そこまでは翠蘭にも予想がついた。
だが、そこからがわからない。皇帝に恩を売ろうとした誰かの仕業かとも考えられるが、朝廷のことに詳しくない翠蘭には推測することさえできなかった。
(せめて、後宮内の人間だけでもよく観察しておくんだった……)
なにしろ、四夫君のことすら「身分の高い婿」としか認識していなかった翠蘭だ。どこの家の出身か、くらいは知っていても、その家同士の関係まではまったくわからないのである。
憂炎に聞いてみようかと思うものの、ここ最近の彼は翠蘭の元に来てもどこか心ここにあらずといった様子で、なにか気がかりなことがあるようだ。
どうにか調べる方法がないか、と思っていた頃――翠蘭のもとに、こっそりと一通の手紙が届けられた。
そこにはこう書かれていた。
『おまえの知りたいことを知っている。そして、おまえの秘密も知っている』
そこには、続けて「翠蘭が皇帝の元を離れるのであれば、秘密は漏らさない。そして、知る限りの事を教えよう」という趣旨のことが記されていた。
「秘密……」
ごくり、と翠蘭の喉が鳴る。秘密というのはもちろん、翠蘭が本来は男後宮に入ることのできない、女だと言うことだろう。
しかも、それが他に知れ渡れば憂炎の正体にも繋がってしまう。
それは避けなければならない。
(なら、できることは一つだ――)
翠蘭は手紙をもう一度読み返すと、それに火をつけ隠滅した。それから、憂炎にひとことだけ、さよならを告げる手紙を残し――受け取った手紙の指示するとおりの場所へと向かった。
「暗いな……」
今は使われていない宮殿の端。その中にて――と書かれていたとおり、そっと扉を押して中に入る。わずかにかび臭い匂いがするところを見ると、かなり長いこと使われていないようだ。
一歩中に入ると、床板が軋んだ音を立てる。
「誰か……いるか……?」
あまり大きな声を出すのも憚られ、翠蘭は少し小さな声でそう言った。途端、背後の扉がバタン、と大きな音を立てて閉まる。
はっとして振り返ったときには遅かった。ごすっと鈍い音がして、腹に拳が入れられる。
「うっ……!」
思いも寄らぬ攻撃に、一瞬息が詰まる。そしてそのまま、彼女の意識は闇に呑まれていった。
後宮の中でそのような待遇を受けるのは、四夫君だけであることを考えれば、これは異例の措置と言えた。
しかも、その宮に女帝姿の憂炎が足繁く通ってくるのだ。
こうなれば、もう翠蘭へ嫌がらせを行おうという気概のあるものはほとんどいない。直接嫌がらせに関わっていなかった宮官たちは、こぞって翠蘭の宮で働きたいと申し出てくるものばかりだ。
だが、翠蘭はそれを全て断っていた。
理由は簡単で、身の回りの世話をする宮官がいては、自身が女であることがばれる確率が高いからだ。それに、認めたくはないが、天佑に襲われかけたことがまだ尾を引いている。
周囲に男がよると、ぞっとしてしまって足が竦むのだ。
そもそも、自分のことは自分でできる。人がいれば、うっとうしいだけだ。
「まあ、おまえの好きなようにすると良い」
憂炎は部屋を訪れると、笑いながらそう言った。
自分の部屋ではないからか、彼は女帝としての装いをしている。それはもしかしたら、男に嫌悪感を示す翠蘭のためなのかも知れない。
それに思い至り、翠蘭の胸がきゅっと音を立てた。
(どうして、そんな風に優しくしてくれるの……?)
確かに彼は、翠蘭に「俺の子を産め」という。けれど本当は、それは翠蘭でなくてもいいはずだ。
密かに女性を引き入れて子を成すくらい、やってできないことはないだろう。
翠蘭が女だということがわかるまでは、おそらくはその路線で動いていたはずだ。
だが、その姿を想像して――翠蘭は咄嗟に「嫌だな」と思ってしまった。
(な、なによ……嫌って……)
「おい、翠蘭?」
「な、なによ!」
動揺しているところに声をかけられ、思わず大声を出してしまう。彼は面食らったような顔をして「いや……」と小さく呟いた。
「俺がいるというのに心ここにあらず、といった様子だからな。気になっただけだ」
「そんなこと……ない、わよ……」
言葉の軽さとは裏腹に、憂炎の目には翠蘭を心配する色が浮かんでいる。答える途中でそれに気付いてしまい、翠蘭の言葉尻はなんとなくふにゃふにゃと、弱いものになってしまった。
そのことに跡から気付いて、翠蘭の顔に血が上ぼる。
「ほんとに!なんでもないから!」
「ふうん……」
力の限り叫んで、翠蘭はふいっとそっぽを向いた。だが、心臓がどくんどくんと早鐘を打ち、顔の熱もなかなか冷めない。
そんな彼女の横顔を眺めながら、憂炎はにやにやと笑っていた。
そんな穏やかな日々を過ごし――翠蘭はいつしか、彼のために子を産むのも悪くないと、そんな風に考えるようにさえなっていた。
けれども、心にひっかかるのは弟、皓宇のことだ。
(あの時、確かにあいつらは「皇帝の命」と言っていた……)
けれど、憂炎はそんなものは知らないという。それに、病を得たのが死亡の半年前だとすれば、計算が合わなくなる。
おそらくは、他の誰かが皇帝の名を騙ったのだろう。そこまでは翠蘭にも予想がついた。
だが、そこからがわからない。皇帝に恩を売ろうとした誰かの仕業かとも考えられるが、朝廷のことに詳しくない翠蘭には推測することさえできなかった。
(せめて、後宮内の人間だけでもよく観察しておくんだった……)
なにしろ、四夫君のことすら「身分の高い婿」としか認識していなかった翠蘭だ。どこの家の出身か、くらいは知っていても、その家同士の関係まではまったくわからないのである。
憂炎に聞いてみようかと思うものの、ここ最近の彼は翠蘭の元に来てもどこか心ここにあらずといった様子で、なにか気がかりなことがあるようだ。
どうにか調べる方法がないか、と思っていた頃――翠蘭のもとに、こっそりと一通の手紙が届けられた。
そこにはこう書かれていた。
『おまえの知りたいことを知っている。そして、おまえの秘密も知っている』
そこには、続けて「翠蘭が皇帝の元を離れるのであれば、秘密は漏らさない。そして、知る限りの事を教えよう」という趣旨のことが記されていた。
「秘密……」
ごくり、と翠蘭の喉が鳴る。秘密というのはもちろん、翠蘭が本来は男後宮に入ることのできない、女だと言うことだろう。
しかも、それが他に知れ渡れば憂炎の正体にも繋がってしまう。
それは避けなければならない。
(なら、できることは一つだ――)
翠蘭は手紙をもう一度読み返すと、それに火をつけ隠滅した。それから、憂炎にひとことだけ、さよならを告げる手紙を残し――受け取った手紙の指示するとおりの場所へと向かった。
「暗いな……」
今は使われていない宮殿の端。その中にて――と書かれていたとおり、そっと扉を押して中に入る。わずかにかび臭い匂いがするところを見ると、かなり長いこと使われていないようだ。
一歩中に入ると、床板が軋んだ音を立てる。
「誰か……いるか……?」
あまり大きな声を出すのも憚られ、翠蘭は少し小さな声でそう言った。途端、背後の扉がバタン、と大きな音を立てて閉まる。
はっとして振り返ったときには遅かった。ごすっと鈍い音がして、腹に拳が入れられる。
「うっ……!」
思いも寄らぬ攻撃に、一瞬息が詰まる。そしてそのまま、彼女の意識は闇に呑まれていった。