緋燕たちは騒動後、場所を瑛青宮に移した。ゆっくり話せるようにと青藍の私室の側にある応接間へと案内された。
 蒼琳に肩を借りながら椅子に腰を下ろすと、緋燕はようやく一段落つけた気がした。

「大丈夫かい?」
「は、はい」

 作り付けの小さな机越しに隣に座った蒼琳が背中をさする。
 皇帝陛下にこんなことをさせるなんて不敬だ、と頭では理解しているのだが、体が言うことを聞かなかった。

「すみません、まだ気持ちが追いつかなくて……」

 御薬院の宦官たちが連行され、青藍の爆弾発言を受けてからというもの、緋燕の頭は外界からの情報を遮断していた。

「あんな危ない目にあったんだ。当然だ」

 心配そうに顔を覗き込む蒼琳の長い髪がはらりと肩を流れ、部屋の奥で揺らめく燭台の灯りで透けて見えた。
 傍から見ればとても幻想的で、それこそ恋愛物語のような光景だろう。しかも相手は国で一番尊い人である。物語の読者であれば心ときめく場面になるはずだ。
 残念ながら当の本人は、どんなまばゆい光景よりも先程知った事実の方が頭の大部分を締めていた。

(あれは、陛下のための物語……)

 蒼琳そっちのけで延々と脳内で疑問が生まれては消えていく。
 末端の末端に居た宦官と偶然出会い、秘密の逢瀬を繰り返して距離を縮めて行く。秘密だった二人の関係が公となり、宦官を守るために皇帝と言う身分を捨てて結ばれる。身分よりも大切な誰かを選ぶ。望めば何人でも女人を侍らすことが出来る男が、自分を題材としたある意味王道の物語を書かせるなんて。

(しかも、よりによって筆者は妹?)

 見た目の良さで騙されそうになっているが、蒼琳はもしかしてむっつり助平なのだろうか。
 物語のことが気になりすぎて、どれだけ趣きのある光景であれ、緋燕にはちぐはぐに見えてしまう。
 なんなら自分が窮地に陥っていたことすら数日前のことに思えるほどの衝撃だった。

 しばらくして、緋燕が大きく息を吐き出す。背中をさすっていた蒼琳が彼女の顔を覗き込んだ。

「落ち着いたかい?」
「はい」

 ようやく口を開いた緋燕に、蒼琳は眉を下げて微笑んだ。
 なるべく刺激をしないよう、おだやかな口調で話す。

「許せないと思うけれど、彼らについては私の従者たちに任せてほしい」

 蒼琳は悪くないのだが、勝手に気まずくなっている。穏やかに笑う蒼琳を直視出来ず、そっと視線を逸らした。

 そっちも気になるが、今気になっているのはそこじゃない。
 思わず口からこぼれ出そうになったが、寸でのところで押しとどまった。

「あ、いや……その……それではなくて……」

 言い淀む緋燕を急かすことなく蒼琳は急かすことなく待ち続ける。
 口に出したいのだが、うまく言葉にすることが出来ない。しかし部屋に無言が訪れるのも気まずい。半ば自棄になった緋燕は、言葉を選ばずに尋ねた。

「あの本のこと、なんですけど」
「……そっちか」

 背中をさする手を止めると、羞恥がぶりかえしたのか正面を向いて両手で頭を抱えだした。顔は見えないが、時折「あー」や「んー」と言葉にならない声が漏れ出ている。
 緋燕は子供のような一面に目を丸くしていると、蒼琳は突然がばりと起き上がった。

「まぁ、そうだね。なぜ青藍があれを書いていたか気になるだろうね」

 最初は意気込んでいたものの、どんどん声が尻すぼみになっていく。途中で自信を失ったのか蒼琳は口元を手で覆うと、視線を彷徨わせていた。
 緋燕は落ち着きの無い蒼琳をどんな顔をして見ていればいいかわからず、ただただ瞬きを繰り返していた。

「あー……君に初めて出会った日、一目惚れしたと言ったらどうする?」
「んん?」

 どうしてそんな話になるんだろうか。
 突拍子もない蒼琳の言葉に、緋燕は首をひねった。

「青藍の宮で見かけた君に見惚れていたのを青藍に気づかれしまってね」

 苦い思い出だったのだろう。蒼琳は眉根を下げて苦笑した。
 どういう場面で二人がそのような話になったのかはわからないが、人の弱みにつけこもうとする青藍のしたり顔を、緋燕も安易に想像出来た。

「私を応援すると言いながら何故か『せめて物語の中ぐらい兄上を幸せにしてあげる』なんて言い始めたんだ」

 まさかあんな恋物語を綴るとは思わなかったけれど。
 言葉では否定しているものの、だらしなく緩んだ頬からして、あの物語は蒼琳にとってまんざらでもなかったらしい。

「今思うと私のことをからかっていたんだろうね。その時は君のことを男だと思っていたから藁にもすがる思いだった」

 うつむく緋燕の手を、大きな手のひらが包む。
 一度意識をしたことのある、緋燕の手より一回り以上も大きい手のひら。触れられたところからじんわりと熱を帯びていく。
 じっと繋がった手を見下ろしたあと、蒼琳は瞼を伏せた。

「……いや、もしかするとこんなことになる未来を私に警告していたのかもしれない」

 あの子は聡いからね、と自嘲する。
 そこまで思い詰める必要はないと思うのだが、彼の真面目な性格が律してしまうのだろうか。緋燕は蒼琳のうつむく姿を見つめながらそう思った。

「君にはみっともない姿ばかり見せてしまうな」

「これでも緋燕の前では格好いい自分を演じようと頑張っているんだけどね」と蒼琳は困ったように笑う。
 長いまつ毛が影を落とす様を場違いだと理解しつつ、やはり彫刻のようだと緋燕は思った。

「立場上、思いを告げるつもりはなかった」

 蒼琳は深呼吸を一つすると、緋燕に向き直った。意を決したのか食い入るようなまなざしで緋燕を見つめる。
 触れ合っていた両手を胸のあたりまで持ち上げられる。熱い手のひらから彼の緊張が伝わってくるような気がして、緋燕も息を呑んだ。

「でも、今回のようなことが今後また起きないとも言えないだろう?」
「そ、そうですね?」
「だから敢えて伝えるよ」

 蒼琳はそこまで言って言葉を区切る。緊迫する空気を察し、蒼琳が話し出すのをじっと待った。
 静寂が続く室内では、蝋燭の芯が燃えた音さえも聞こえてきそうだ。
 どれぐらい無音が続いたかわからないが、蒼琳の唾を飲み込む音が聞こえた。緋燕が見つめたまま待っていると、掴まれていた両手に力を入った。

「廉 緋燕。君が好きだ」

 緋燕の、時が止まった。
 目を見開いたまま動かない緋燕の手を握りしめたまま、蒼琳は椅子から立ち上がる。彼女の座る椅子の前に膝立ちをすると、言葉を続けた。

「もう性別を偽って、宦官として仕事をするのはやめてほしい。私の伴侶として正式に後宮へ迎え入れたいんだ」

 頭はぼんやりとしているのに、蒼琳の声だけはやたら鮮明に聞き取れていた。
 聞き流すことも出来ず、はっと我に返った緋燕は言い訳を必死に紡ごうとする。

「でも、私はそ……公主様の食事を作るために此処に居るので……。その、あの……」

 手を振りほどこうとするも全く動かない。すがるようにも見える蒼琳の目から逃れようとぎゅっと瞼を閉じた。

「では、今後も妹妹と私の食事を作ってはくれないか?」

 蒼琳は間髪入れずに「家族として、ね」と続けた。選択権は緋燕にあるはずなのに、力強い言葉の前では意味などなさなかった。否定する要因を探そうとしたところで、そもそも彼女の心は蒼琳に傾きかけていたのだ。
 緋燕はゆっくりと目を開けると。うつむいたまま「……はい」と小さくつぶやいた。意識をした異性にこれほど求められてうなずかないはずなどなかった。

「……っ! ありがとう!」

 嬉しさをこらえきれず、蒼琳は繋いでいた手を引き寄せた。椅子から立ち上がった緋燕は蒼琳の胸へと飛び込む。体の平衡が取れず、咄嗟に逞しい腕にすがりつこうと顔を上げる。目を細めた蒼琳と目があった。今まで見たどんな笑みよりも穏やかで慈しみの籠もった蒼琳の表情は、ほんの僅かな時間だったが緋燕の目にしっかりと焼き付いていた。気がつくと蒼琳の胸元に押し付けられており、目の前が真っ暗になっていた。

 初めて出会った日からつれない態度を取っていたにも関わらず、自分が思いに応えると子供のように喜ぶ姿に「すっかりほだされてしまったな」と緋燕は自嘲するしかなかった。これが惚れた弱みというやつなのだろうと納得せざるを得ない。

 頭一つ以上も身長差のある蒼琳に抱きすくめられる。背中が反って苦しいはずなのに、触れ合った部分から蒼琳の喜びが伝わってくるような気がして、緋燕の頬も自然と緩んだ。
 なんだかんだと言っても彼女も浮かれており、どさくさに紛れて正室として迎え入れられることには、まだ気づいていないようだった。

 恍惚とした表情で緋燕を見下ろす。肩に濃紺の髪が落ちる様子さえ緋燕の鼓動を高鳴らせる。

「緋燕」
「はい」
「愛しているよ」

 恥じらいもなく言ってのける蒼琳に、息が止まった。
 見つめ合うだけでも体温が心なしか高い気がするのに、このまま行くと全身の血液が沸騰してしまうのではないか。初めて浴びる異性からの好意に、緋燕の頭はいっぱいいっぱいだった。

(は、恥ずかしい!)

 蒼琳に答えたい気持ちはあるものの言葉がうまく出てこない。眉間にしわを寄せ、すがるような表情で見つめ返しても蒼琳はわざとらしく首をかしげて微笑むのみ。
 緋燕は両手を強く握りしめ、唇をわななかせながらも精一杯の言葉で思いを告げた。

「……私も、です」

 緋燕の返事を聞き、蒼琳がそっと頬に触れる。吸い込まれそうな鈍色の瞳が近づいてくると、さすがのはねっかえりである彼女も大人しく目を瞑るしかなかった。
 添えられていた大きな手が腰を引き寄せ、二人は密着する。目を閉じているからこそ緋燕の心臓は爆発してしまうのではないかと思うぐらいばくばくと脈打っていた。
 気配が目と鼻の先まで近づいている気がする。
 あと少しで唇が触れ合うと思った瞬間。部屋の入口側から「んんっ!」と咳払いが聞こえた。

「あ〜、お取り込み中失礼?」

 振り返ると花の透かしが入った扉にもたれかかった青藍が立っていた。

「せ、青藍!?」

 慌てて蒼琳から離れようとする緋燕に対し、青藍は片手を挙げ「あ、そのままで大丈夫」とあっけからんとしていた。
 兄と親友が親しい姿を目撃するなど、気まずくないはずがないと思うのだが、緋燕から見た彼女は全く動揺しているように見えなかった。

「二人のね、邪魔するつもりはなかったんだけどさ~」

 頭を掻きながら青藍は二人に近寄る。むしろその潔さに緋燕と蒼琳の方が目を丸くしていた。
 二人の前に立つと青藍は腹を押さえ、幼く見えるぐらい大きな口を開けて笑った。

「お腹減った!」

 場面が場面であれば大輪の花のような笑顔は万人の心を鷲掴みしただろう。
 残念ながら目の前の緋燕と蒼琳は瞬きを繰り返すだけで反応できずにいた。

「はっ! 私、青藍のご飯を取りに行ったんだった!」

 間を置くこときっちり三拍。
 我に返った緋燕は蒼琳の腕からするりと抜け出し、青藍の方へ駆け寄った。
 蒼琳は緋燕を盗られて悔しかったのか、少し不服そうな表情で気を許した関係の二人を見つめていた。

「ね〜、兄上もまだでしょ? 三人で食べましょ!」

 天真爛漫な妹は兄の方へ顔を向ける。「ついでにさっきの二人の話、取材させて〜!」と懇願した。
「えっ!?」と緋燕は声を上げたが、前半の「三人で食事」に意識をとられており後半の言葉には気づいていない。 
 
「わ、私が一緒は駄目でしょ!?」

 本来、従者の食事は言い方が悪いが皇族の残飯である。毎度毎度形式として食べきれないほどある宮廷料理を並べているが、実際は箸がつけていない料理も多いのだ。中には蒼琳や青藍のようにあえて口をつけない従者思いな主も居る。
 つまり、従者である緋燕が彼らと同じ机で夕飯を食べることはありえないのである。緋燕が全力で両手を振って拒絶するも、青藍は一度決めたらやる。逃げることなど出来なかった。

「未来の義姉上なんだし気にしない、気にしない!」

 詰め寄られて一歩下がろうとする緋燕の腕に自分のそれを絡める。上機嫌な青藍が「親友と同じ飯が食えないっていうの!?」と冗談を言う。昔はよく腕を組んで街中を駆け回っていた。後宮に入ってからはすっかりご無沙汰であったが。青藍なりの甘え方であることは十分理解しているが、緋燕としても皇族と同じ卓で飯を食べることを簡単にうなずくことは出来なかった。

「へ、陛下……!」

 友人としては嬉しいが、従者としては身分不相応。どう対処すれば良いかわからず、二人を見守っていた蒼琳へと助け舟を求める。
 緋燕の願いはむなしく、蒼琳はにっこりと微笑んで青藍の肩を持った。

「そうだね、せっかくだから三人で食べようか」

 蒼琳はそう言うと、緋燕の空いた手を握る。かちんこちんに固まった緋燕の様子にいたずら心が芽生えたのか、繋いでいた手を一度離し、指を絡めて繋ぎ直した。緋燕の反応を見て楽しんでいる姿は流石兄妹と言ったところか。笑顔がよく似ていた。
 後日、緋燕はこの夕飯のことを「人生で初めて味を感じないぐらい緊張した」と言っていたらしい。蒼琳の直球な甘い言葉や青藍に根掘り葉掘り話を喋らされ、翌日は疲れで熱を出したとか。


 それから数か月後。一人の宦官が後宮から姿を消し、入れ替わるように料理上手の皇后が立った。
 心底彼女を愛していた皇帝は、死ぬまで彼女の料理しか食べなかったと史書は伝えている。