あの書庫での一件から数日。
今日も今日とて、緋燕は瑛青宮の小さな膳房にて調理をしていた。
事件の翌日、朝餉で失態を犯した緋燕は咎められはしなかったものの、罰として例の本を読むように命じられていた。
青藍の言う通り、たしかに後宮についての描写は詳しく、自分も知らない宮城を知れるのは面白いと思った。文章にも難しい表現もなく、城下町出身の緋燕でもわかりやすい言葉で書かれていて無理なく読み終えた。
が、問題は物語の根幹である。
(まさかあんな内容だったとは……)
緋燕は鍋をかき混ぜる手を止めないように心がけながら、件の物語を振り返った。
皇帝の宦官の恋愛だと聞いていたが、あんな泥沼展開が繰り広げられるとは思ってもいなかったのだ。
(皇后とか侍女とかの僻みと、同僚からのいじめがひどすぎる)
後宮と言えばかつてあった国では皇后が側室の手足を切断し、人豚と恐れられた仕打ちを与えたこともある閉鎖された空間である。しかし城下町の平民にはやんごとなき身分の人々が一同に会するだけで絢爛豪華な世界を想像してしまうのだ。生々しいほどの憎悪を浴び、読み終えた日は案の定うなされた。
無事に皇帝と宦官が結ばれて幕を閉じていたのが救いだったが、あの物語の宦官が自分に似ていると言われたのは鳥肌が立ちそうなぐらい嫌悪を感じた。
(つまり、ああならないように青藍は忠告してくれたんだよね)
緋燕は自分の無知さを恥じてうなだれる。もちろん沸騰した鍋から視線は外さない。
(ていうか、あの博愛主義者のような陛下が私なんかに興味を持ってるわけなんてないのに)
蒼琳は国とたった一人、どちらかしか選べないような状況であれば間違いなく国を選ぶ。それは知り合って半年ばかりの、後宮に関心のない緋燕でもわかる。
だからこそ蒼琳は即位して間なしでも従者たちからの信頼が厚いのだ。あの物語のように国を捨てる顛末を迎えるはずもない。
(ともあれ、巻き込まれたくないし、陛下にはなるべく近づかないようにしよう)
青藍の忠告を「皇帝には関わらない方がいい」と解釈していた。もっとも、自分から蒼琳に近づいたことは一度たりとも無いことに彼女は気づいていないのだった。
元より、彼女はこの後宮であったとしても、城下町に住んでいた頃と同様に、親友のご飯を作り、くだらないことで笑い合えるささやかな日常を過ごしたいだけなのだ。叶うのならば身分も偽らず自由に生きていたいが、そこは重々承知している。
「さ、準備準備!」
軽く頬を叩くと、気を取り直して鍋に向き合う。
今日作っているのは明日の朝食ではなく、夜食である。
朝は包子のような片手でつまみながら公務を行える食事を出しているが、夜食となれば決まった献立もなく自由に作れる。
「夜も寒くなってきたし、今日は湯にしようかな」
出汁は取ったものの、味付けはどうしようか。緋燕は膳房にある食材を眺めながら腕を組む。
「温まる食材……温まる食材……」
ああでもないこうでもないと食材を取っては戻し、取っては戻す。緋燕の頭の中はすでに料理のことでいっぱいで、先程まで考えていたことなど頭の隅にも残っていなかった。
湯の具も作り終え、後は湯に入れるだけとなった。宮廷料理というよりは、青藍が好きな「廉廉」の料理に近いかもしれない。
(そういえば、此処に来てすぐもこうやって湯を作ったっけな)
紫微城に拉致……もとい黙って連れてこられた日、「廉廉」の味が恋しくて今にも暴れ出しそうな青藍に簡単に作れる湯を作った。
緋燕は「これよこれ!」と両頬を膨らませて食べる青藍を思い出してくすりと笑った。
上機嫌で鍋をかき混ぜていると、膳房の入り口から靴音が聞こえた。
「やぁ、緋燕」
上品な衣擦れの音とともに、蒼琳が今日も膳房へとやって来た。
書庫での一件以来、久しぶりに顔を合わせ、緋燕は一方的に気まずかった。
口の端がひきつるのを我慢し、笑顔を作って挨拶を交わした。
「……こんばんは。陛下」
ぎこちない緋燕を気にすることなく、蒼琳は彼女の元へと足を運ぶ。一歩一歩、沓音が近づいてくる度に緋燕の鼓動は早まっていった。
沓音がぴたりと止み、近くに気配が感じる。おそるおそる横目で隣を見やると、頭一つ分以上も高い蒼琳が背後から湯気の立つ鍋を覗き込んでいた。
「今日は汁物かい? 珍しいね」
「はい。きょ、今日は夜食なんです」
「夜食?」
首をかしげている蒼琳を視界の端に捉え、緋燕は小さくうなずいた。
「なんでも書き物があるとかなんとかで。今から食べるものがほしいと」
夜食を求められることは稀にあるものの、書物と言うのが緋燕の気になる点であった。
「今日の公務はすでに終わっているはずなのですが」と緋燕が言葉を続けると、やけに納得した様子で「……なるほど」と蒼琳は呟いた。
(陛下は何かご存知みたいだし、気にすることもないか)
考えるのを止め、緋燕は夜食作りに徹することにした。
しかし気になるのが隣の男である。邪魔をされている訳では無いが、如何せん距離が近く、肘を引けば確実に当たってしまう。
鍋から視線だけを移すと、蒼琳は何やら顎に手を添えて鍋の中を覗き込んでいた。そんな何気ない所作さえ、緋燕の心臓は大きく脈打つきっかけとなっていた。
「と、冬至も近いので餃子を入れようと思いまして」
意識しているのをごまかすようにまくしたてる。緋燕は竈の横へ待機させていた生の餃子に視線を向けた。
冬至には餃子入った湯を飲む習慣がある。宮廷以外にも広く知られており「廉廉」でもこの季節になると献立に餃子の湯が増えていた。餃子の湯は作り慣れた料理の一つだった。
「ほう……餃子か」
興味深そうに作りかけの具材を見やると、蒼琳はきょろきょろと忙しなく調理場を見回した。
「緋燕」
「は、はい!」
心なしかはずんだ様子の声に、嫌な予感を感じながらも顔を向ける。
案の定、目を輝かせた蒼琳が顔を覗き込んでいた。
「この餃子はもう鍋にいれてもいいのかな?」
そう言って指さしたのは竈の横に置いた餃子だった。
やってみたいと言わんばかりの期待のまなざしに、胸中では二人の緋燕が殴り合う。
子犬のようなうるうるとした瞳にときめく緋燕と、蒼琳に手伝わせてもいいか良心の緋燕が互角の戦いを繰り広げる。
「駄目かい?」
「いや、あの、えーっと……」
曲りなりにも彼は皇帝陛下である。そんな尊い人に料理などさせて良いのだろうか。良い訳がない。
駄目押しの一言で緋燕の良心が大きな一撃を食らい、そして……。
「す、少しだけですよ……」
押し負かされてしまった。
がっくりとうなだれる緋燕をよそに、初めての体験に勢いあまった蒼琳は強い力で引き寄せた。
「ありがとう、緋燕!」
「うえ、あ、へ、へい……か!」
思いきり抱き寄せられ、緋燕はすっぽりと蒼琳の腕の中に収まる。されるがままに緋燕は蒼琳の胸に飛び込んだ。もし緋燕が餃子を蒼琳に渡そうと皿を持っていたら全部台無しになっていたに違いない。それぐらいの勢いが蒼琳にはあった。
書庫の時とは違う、薄い布越しのぬくもりを感じ、緋燕の頭は容量を超えていた。
そんな緋燕を満足げに見下ろしていた蒼琳だったが、抱きすくめた体躯に違和感を覚えていた。
宦官は去勢されてから女性に近づくことがあるとは言え、まるっきり女性と同じような体になるはずがない。
緋燕の顔から更に視線を下げる。服の合わせから男に無いはずの谷間が見えていたのだ。
「緋燕、もしかして君は……」
不審そうな声色に、はっと我に返る。見上げると眉を潜めた蒼琳と視線がかち合った。
すぐに逸らされた視線の先を追いかけ、緋燕の頭から血の気が引いていく。
(しまった!)
急な青藍の命だったのでさらしを巻くのを忘れて膳房に来ていた。
慌てる緋燕に何かを気づいたのか、蒼琳は無意識に抱き寄せた腕に力を込めた。
「あ、あの! その……。えっと……」
言い訳を考えようとするも、何も思い浮かばない。ただただ、しどろもどろに意味のない言葉を紡いでいた。
腕の中で縮こまる緋燕が震えていることに気づき、蒼琳はそっと距離を取った。
「……何か理由があるんだね?」
首を縦に振ろうとしたが、寸でのところで止まった。
果たして青藍の居ないところで最大の秘密を話していいのだろうか。彼女の立場が不利になることはないのだろうか。渦巻く思考はまとまる気配は無く、黙り込むしかなかった。
(青藍はあんなに気をつけろって言ってくれていたのに)
近場で人の少ない時間とは言え、さらしも巻かずに膳房へ向かったのが軽率だった。緋燕はうつむきながらぐっと唇を噛み締め、己の失態を強く後悔した。
「妹妹はこのことを?」
「知ってます」
「そうか……」
顎に手を添え、蒼琳は湯の泡が膨れては割れる様子をぼんやりと見つめる。
小さく息を吐きだすと、緋燕に顔を向け、なだめるような声色で尋ねた。
「あの子の立場が悪くなるなんてことはないから、話してはくれないだろうか?」
おそるおそる顔を上げると、覗き込んでいた蒼琳と目が合う。眉をひそめて真摯に訴える表情に悪意は見られなかった。誠実な蒼琳の態度に、心なしか気が楽になった。
何度か口を開閉させると、唾を飲み込む。緋燕はわななく口を懸命に動かした。
「実は……」
自身が料理屋の娘であること、青藍と幼馴染であること、そして青藍から味が恋しいと言われて後宮に連れてこられたこと。
緋燕は後宮にやってきた経緯を簡単に話した。
話し終えると膳房は静まり返った。蒼琳が沈黙を貫く時間がやけに長く感じる。実際は数分も経っていないのだが、その間、緋燕は処刑台に登る心地であった。
「なるほど。これで辻褄があったよ」
ようやく蒼琳が口を開く。普段通り口調に、どっと疲労感が押し寄せた。ほっと胸を撫で下ろして蒼琳を見やると、彼もまた安堵の息を吐き出していた。心なしか表情が柔らかくなった蒼琳に、緋燕が尋ねる。
「……辻褄、ですか?」
「ああ。市井から来たはずなのに、宦官の手術を受けた記録が無かったんだ」
まさかそんな落とし穴があったなんて。他の後宮の人たちにも気づかれる可能性に気づき、緋燕の顔が再び青くなっていく。
ぎゅっと青琳の寝間着を掴んだ緋燕に気づくと、不安を吹き飛ばすように「あ、私以外気づいていないから大丈夫だよ。記録も適当に捏造したからね」とあっけからんと言いのけた。
(それはそれでいいんだろうか……)
性別を偽っている自分が言うのもなんだが、それこそ記録の捏造なんて簡単に行ってもいいものだろうか。
にっこりと笑う蒼琳を見上げながら、本人が良いのならば良いんだろうと緋燕は納得するしかなかった。
「あ、あの! し、下心などはございませんので、なにとぞ、追い出さないでもらえますか?」
自ら詰め寄り、緋燕は蒼琳に懇願する。
しどろもどろではあるが、視線を逸らすことなく蒼琳を見上げる姿には意思の強さが伺えた。
緋燕を落ち着かせるべく、青琳はそっと彼女の両肩に手を添える。
「もちろんさ。君の正体がばれないよう、私も協力する」
「え!?」
そこまでしてもらう義理はないのでは、と反論しようとするも、蒼琳の人差し指によってさえぎられた。
「その代わり」
蒼琳の言わんとすることがわからず、緋燕は首をかしげる。
「これからも緋燕の料理をつまみ食いさせてはもらえないだろうか?」
「……そんなことで、いいんですか?」
思わぬ提案にまばたきを繰り返した。自分の料理一つでどうにかなるのは安すぎて条件が見合わないのではないか。
不安げに見上げる緋燕を一瞥し、蒼琳は片目を瞑っていたずらげに微笑む。
「妹妹の胃袋を掴んだ君の料理、私もすっかり虜なのさ」
本当は私の専属料理人になってもらいたいぐらいだけどね。
そう言うと口を開けて大らかに蒼琳が笑った。
(この人でも大きな口を開けて笑うこともあるんだ)
緋燕は真面目で賢帝と名高い蒼琳の意外な一面を知り、目を丸くした。
その瞬間。自分の罪のことなど抜けおち、緋燕は目の前の男のことで頭がいっぱいになったのだ。
ほとんどの従者は蒼琳が背中を丸めて笑う姿も、少年のように瞳を輝かせる姿も知らない。すでに緋燕にしか見せない表情はたくさんあるのだが、彼女がそれに気づくはずもなく。
近い距離で見つめ合っていることに意識することも忘れ、ただただ、目の前の私的な蒼琳と公的な蒼琳の違いに関心していた。
(そういえば何か忘れてるような……)
なぜ自分が膳房に居るのか。自問すると、答えはすぐに導かれた。
「あっ! 鍋!」
火が付いたままの鍋を思い出し、蒼琳の胸を強く押した。突然のことでよろけた蒼琳から離れると、あっという間に湯のことで緋燕の頭がいっぱいになった。
煮詰まっていないか味見し終えると、蒼琳に「入れていいですよ」と合図する。
二人の距離は拳三個分程離れていたものの、すぐに隙間は無くなった。顔を輝かせた蒼琳は一つずつ真心こめて餃子を鍋に入れていく。狭い膳房で隣り合う後ろ姿は、互いにまんざらでもないように見えた。
今日も今日とて、緋燕は瑛青宮の小さな膳房にて調理をしていた。
事件の翌日、朝餉で失態を犯した緋燕は咎められはしなかったものの、罰として例の本を読むように命じられていた。
青藍の言う通り、たしかに後宮についての描写は詳しく、自分も知らない宮城を知れるのは面白いと思った。文章にも難しい表現もなく、城下町出身の緋燕でもわかりやすい言葉で書かれていて無理なく読み終えた。
が、問題は物語の根幹である。
(まさかあんな内容だったとは……)
緋燕は鍋をかき混ぜる手を止めないように心がけながら、件の物語を振り返った。
皇帝の宦官の恋愛だと聞いていたが、あんな泥沼展開が繰り広げられるとは思ってもいなかったのだ。
(皇后とか侍女とかの僻みと、同僚からのいじめがひどすぎる)
後宮と言えばかつてあった国では皇后が側室の手足を切断し、人豚と恐れられた仕打ちを与えたこともある閉鎖された空間である。しかし城下町の平民にはやんごとなき身分の人々が一同に会するだけで絢爛豪華な世界を想像してしまうのだ。生々しいほどの憎悪を浴び、読み終えた日は案の定うなされた。
無事に皇帝と宦官が結ばれて幕を閉じていたのが救いだったが、あの物語の宦官が自分に似ていると言われたのは鳥肌が立ちそうなぐらい嫌悪を感じた。
(つまり、ああならないように青藍は忠告してくれたんだよね)
緋燕は自分の無知さを恥じてうなだれる。もちろん沸騰した鍋から視線は外さない。
(ていうか、あの博愛主義者のような陛下が私なんかに興味を持ってるわけなんてないのに)
蒼琳は国とたった一人、どちらかしか選べないような状況であれば間違いなく国を選ぶ。それは知り合って半年ばかりの、後宮に関心のない緋燕でもわかる。
だからこそ蒼琳は即位して間なしでも従者たちからの信頼が厚いのだ。あの物語のように国を捨てる顛末を迎えるはずもない。
(ともあれ、巻き込まれたくないし、陛下にはなるべく近づかないようにしよう)
青藍の忠告を「皇帝には関わらない方がいい」と解釈していた。もっとも、自分から蒼琳に近づいたことは一度たりとも無いことに彼女は気づいていないのだった。
元より、彼女はこの後宮であったとしても、城下町に住んでいた頃と同様に、親友のご飯を作り、くだらないことで笑い合えるささやかな日常を過ごしたいだけなのだ。叶うのならば身分も偽らず自由に生きていたいが、そこは重々承知している。
「さ、準備準備!」
軽く頬を叩くと、気を取り直して鍋に向き合う。
今日作っているのは明日の朝食ではなく、夜食である。
朝は包子のような片手でつまみながら公務を行える食事を出しているが、夜食となれば決まった献立もなく自由に作れる。
「夜も寒くなってきたし、今日は湯にしようかな」
出汁は取ったものの、味付けはどうしようか。緋燕は膳房にある食材を眺めながら腕を組む。
「温まる食材……温まる食材……」
ああでもないこうでもないと食材を取っては戻し、取っては戻す。緋燕の頭の中はすでに料理のことでいっぱいで、先程まで考えていたことなど頭の隅にも残っていなかった。
湯の具も作り終え、後は湯に入れるだけとなった。宮廷料理というよりは、青藍が好きな「廉廉」の料理に近いかもしれない。
(そういえば、此処に来てすぐもこうやって湯を作ったっけな)
紫微城に拉致……もとい黙って連れてこられた日、「廉廉」の味が恋しくて今にも暴れ出しそうな青藍に簡単に作れる湯を作った。
緋燕は「これよこれ!」と両頬を膨らませて食べる青藍を思い出してくすりと笑った。
上機嫌で鍋をかき混ぜていると、膳房の入り口から靴音が聞こえた。
「やぁ、緋燕」
上品な衣擦れの音とともに、蒼琳が今日も膳房へとやって来た。
書庫での一件以来、久しぶりに顔を合わせ、緋燕は一方的に気まずかった。
口の端がひきつるのを我慢し、笑顔を作って挨拶を交わした。
「……こんばんは。陛下」
ぎこちない緋燕を気にすることなく、蒼琳は彼女の元へと足を運ぶ。一歩一歩、沓音が近づいてくる度に緋燕の鼓動は早まっていった。
沓音がぴたりと止み、近くに気配が感じる。おそるおそる横目で隣を見やると、頭一つ分以上も高い蒼琳が背後から湯気の立つ鍋を覗き込んでいた。
「今日は汁物かい? 珍しいね」
「はい。きょ、今日は夜食なんです」
「夜食?」
首をかしげている蒼琳を視界の端に捉え、緋燕は小さくうなずいた。
「なんでも書き物があるとかなんとかで。今から食べるものがほしいと」
夜食を求められることは稀にあるものの、書物と言うのが緋燕の気になる点であった。
「今日の公務はすでに終わっているはずなのですが」と緋燕が言葉を続けると、やけに納得した様子で「……なるほど」と蒼琳は呟いた。
(陛下は何かご存知みたいだし、気にすることもないか)
考えるのを止め、緋燕は夜食作りに徹することにした。
しかし気になるのが隣の男である。邪魔をされている訳では無いが、如何せん距離が近く、肘を引けば確実に当たってしまう。
鍋から視線だけを移すと、蒼琳は何やら顎に手を添えて鍋の中を覗き込んでいた。そんな何気ない所作さえ、緋燕の心臓は大きく脈打つきっかけとなっていた。
「と、冬至も近いので餃子を入れようと思いまして」
意識しているのをごまかすようにまくしたてる。緋燕は竈の横へ待機させていた生の餃子に視線を向けた。
冬至には餃子入った湯を飲む習慣がある。宮廷以外にも広く知られており「廉廉」でもこの季節になると献立に餃子の湯が増えていた。餃子の湯は作り慣れた料理の一つだった。
「ほう……餃子か」
興味深そうに作りかけの具材を見やると、蒼琳はきょろきょろと忙しなく調理場を見回した。
「緋燕」
「は、はい!」
心なしかはずんだ様子の声に、嫌な予感を感じながらも顔を向ける。
案の定、目を輝かせた蒼琳が顔を覗き込んでいた。
「この餃子はもう鍋にいれてもいいのかな?」
そう言って指さしたのは竈の横に置いた餃子だった。
やってみたいと言わんばかりの期待のまなざしに、胸中では二人の緋燕が殴り合う。
子犬のようなうるうるとした瞳にときめく緋燕と、蒼琳に手伝わせてもいいか良心の緋燕が互角の戦いを繰り広げる。
「駄目かい?」
「いや、あの、えーっと……」
曲りなりにも彼は皇帝陛下である。そんな尊い人に料理などさせて良いのだろうか。良い訳がない。
駄目押しの一言で緋燕の良心が大きな一撃を食らい、そして……。
「す、少しだけですよ……」
押し負かされてしまった。
がっくりとうなだれる緋燕をよそに、初めての体験に勢いあまった蒼琳は強い力で引き寄せた。
「ありがとう、緋燕!」
「うえ、あ、へ、へい……か!」
思いきり抱き寄せられ、緋燕はすっぽりと蒼琳の腕の中に収まる。されるがままに緋燕は蒼琳の胸に飛び込んだ。もし緋燕が餃子を蒼琳に渡そうと皿を持っていたら全部台無しになっていたに違いない。それぐらいの勢いが蒼琳にはあった。
書庫の時とは違う、薄い布越しのぬくもりを感じ、緋燕の頭は容量を超えていた。
そんな緋燕を満足げに見下ろしていた蒼琳だったが、抱きすくめた体躯に違和感を覚えていた。
宦官は去勢されてから女性に近づくことがあるとは言え、まるっきり女性と同じような体になるはずがない。
緋燕の顔から更に視線を下げる。服の合わせから男に無いはずの谷間が見えていたのだ。
「緋燕、もしかして君は……」
不審そうな声色に、はっと我に返る。見上げると眉を潜めた蒼琳と視線がかち合った。
すぐに逸らされた視線の先を追いかけ、緋燕の頭から血の気が引いていく。
(しまった!)
急な青藍の命だったのでさらしを巻くのを忘れて膳房に来ていた。
慌てる緋燕に何かを気づいたのか、蒼琳は無意識に抱き寄せた腕に力を込めた。
「あ、あの! その……。えっと……」
言い訳を考えようとするも、何も思い浮かばない。ただただ、しどろもどろに意味のない言葉を紡いでいた。
腕の中で縮こまる緋燕が震えていることに気づき、蒼琳はそっと距離を取った。
「……何か理由があるんだね?」
首を縦に振ろうとしたが、寸でのところで止まった。
果たして青藍の居ないところで最大の秘密を話していいのだろうか。彼女の立場が不利になることはないのだろうか。渦巻く思考はまとまる気配は無く、黙り込むしかなかった。
(青藍はあんなに気をつけろって言ってくれていたのに)
近場で人の少ない時間とは言え、さらしも巻かずに膳房へ向かったのが軽率だった。緋燕はうつむきながらぐっと唇を噛み締め、己の失態を強く後悔した。
「妹妹はこのことを?」
「知ってます」
「そうか……」
顎に手を添え、蒼琳は湯の泡が膨れては割れる様子をぼんやりと見つめる。
小さく息を吐きだすと、緋燕に顔を向け、なだめるような声色で尋ねた。
「あの子の立場が悪くなるなんてことはないから、話してはくれないだろうか?」
おそるおそる顔を上げると、覗き込んでいた蒼琳と目が合う。眉をひそめて真摯に訴える表情に悪意は見られなかった。誠実な蒼琳の態度に、心なしか気が楽になった。
何度か口を開閉させると、唾を飲み込む。緋燕はわななく口を懸命に動かした。
「実は……」
自身が料理屋の娘であること、青藍と幼馴染であること、そして青藍から味が恋しいと言われて後宮に連れてこられたこと。
緋燕は後宮にやってきた経緯を簡単に話した。
話し終えると膳房は静まり返った。蒼琳が沈黙を貫く時間がやけに長く感じる。実際は数分も経っていないのだが、その間、緋燕は処刑台に登る心地であった。
「なるほど。これで辻褄があったよ」
ようやく蒼琳が口を開く。普段通り口調に、どっと疲労感が押し寄せた。ほっと胸を撫で下ろして蒼琳を見やると、彼もまた安堵の息を吐き出していた。心なしか表情が柔らかくなった蒼琳に、緋燕が尋ねる。
「……辻褄、ですか?」
「ああ。市井から来たはずなのに、宦官の手術を受けた記録が無かったんだ」
まさかそんな落とし穴があったなんて。他の後宮の人たちにも気づかれる可能性に気づき、緋燕の顔が再び青くなっていく。
ぎゅっと青琳の寝間着を掴んだ緋燕に気づくと、不安を吹き飛ばすように「あ、私以外気づいていないから大丈夫だよ。記録も適当に捏造したからね」とあっけからんと言いのけた。
(それはそれでいいんだろうか……)
性別を偽っている自分が言うのもなんだが、それこそ記録の捏造なんて簡単に行ってもいいものだろうか。
にっこりと笑う蒼琳を見上げながら、本人が良いのならば良いんだろうと緋燕は納得するしかなかった。
「あ、あの! し、下心などはございませんので、なにとぞ、追い出さないでもらえますか?」
自ら詰め寄り、緋燕は蒼琳に懇願する。
しどろもどろではあるが、視線を逸らすことなく蒼琳を見上げる姿には意思の強さが伺えた。
緋燕を落ち着かせるべく、青琳はそっと彼女の両肩に手を添える。
「もちろんさ。君の正体がばれないよう、私も協力する」
「え!?」
そこまでしてもらう義理はないのでは、と反論しようとするも、蒼琳の人差し指によってさえぎられた。
「その代わり」
蒼琳の言わんとすることがわからず、緋燕は首をかしげる。
「これからも緋燕の料理をつまみ食いさせてはもらえないだろうか?」
「……そんなことで、いいんですか?」
思わぬ提案にまばたきを繰り返した。自分の料理一つでどうにかなるのは安すぎて条件が見合わないのではないか。
不安げに見上げる緋燕を一瞥し、蒼琳は片目を瞑っていたずらげに微笑む。
「妹妹の胃袋を掴んだ君の料理、私もすっかり虜なのさ」
本当は私の専属料理人になってもらいたいぐらいだけどね。
そう言うと口を開けて大らかに蒼琳が笑った。
(この人でも大きな口を開けて笑うこともあるんだ)
緋燕は真面目で賢帝と名高い蒼琳の意外な一面を知り、目を丸くした。
その瞬間。自分の罪のことなど抜けおち、緋燕は目の前の男のことで頭がいっぱいになったのだ。
ほとんどの従者は蒼琳が背中を丸めて笑う姿も、少年のように瞳を輝かせる姿も知らない。すでに緋燕にしか見せない表情はたくさんあるのだが、彼女がそれに気づくはずもなく。
近い距離で見つめ合っていることに意識することも忘れ、ただただ、目の前の私的な蒼琳と公的な蒼琳の違いに関心していた。
(そういえば何か忘れてるような……)
なぜ自分が膳房に居るのか。自問すると、答えはすぐに導かれた。
「あっ! 鍋!」
火が付いたままの鍋を思い出し、蒼琳の胸を強く押した。突然のことでよろけた蒼琳から離れると、あっという間に湯のことで緋燕の頭がいっぱいになった。
煮詰まっていないか味見し終えると、蒼琳に「入れていいですよ」と合図する。
二人の距離は拳三個分程離れていたものの、すぐに隙間は無くなった。顔を輝かせた蒼琳は一つずつ真心こめて餃子を鍋に入れていく。狭い膳房で隣り合う後ろ姿は、互いにまんざらでもないように見えた。