昼下がりの瑛青宮にて、背もたれに背中を預けた青藍が仰向けのまま天井に向かって話しだした。
「最近、皇帝と宦官の物語が流行ってるの知ってる?」
「何それ」
瑛青宮は緋燕と青藍の二人きりゆえ、不機嫌を丸出しの低い声で答える。茶会用の茶葉を真剣に選んでいたところ、声をかけられたせいで集中力が切れてしまったのだ。
そもそも何故、緋燕は茶葉を選んでいるのか。ことの発端は青藍の気まぐれだった。
暇を持て余していた青藍は「たまには瑛青宮のみんなでお茶会しましょ!」と従者たちに世間話をしようと言い出したのだ。
今頃、他の侍女たちは準備のために右往左往しているのだろう。突然の思いつきに振り回される彼女たちを、経験がある緋燕は内心同情していた。
当の本人は親友が眉をしかめる姿を見慣れているせいか、帯に挟んでいた扇を取り出して指示棒のように扱っていた。
「まぁ、見なさい!」
眉をしかめる緋燕を手招きし、机に積まれた本の山から一番上にあった本を差し出した。
緋燕は手に持っていた茶葉の入れ物を置くと、渋々受け取った。
「『後宮宦官物語』ぃ?」
題名から中身の情報が何も読み取れない。安直な題名からは想像もできない無駄に装丁の施された本を見下ろし、緋燕は口元を歪ませた。
「そう! これが最近、後宮で流行ってるのよ!」
青藍はそう言うと、だらしなく座っていた肘置き付きの豪勢な椅子から立ち上がった。蒼琳よりも淡い青ねず色の髪がふわりと揺れた。
興奮した青藍が身振り手振りをしながら語りだした。彼女の熱気に気圧されることなく、緋燕はぱらぱらと本をめくる。
「元平民の男性が無実の罪で去勢されてしまって、ひょんなことから宮城で宮仕えすることになるのよ」
城下町で育ったと言えど、実家の料理屋には多種多様な客がやって来る。中には子供に文字を教えたがる稀有な学者も居り、緋燕と青藍は彼に文字を教わった。店の品書きを書くしか使うことが無かった読み書きも、ありがたいことに今となっては後宮でずいぶんと役立っている。難しい読み書きは出来ないが、今のところ不便を感じていない。
「ふぅん」と聞いているのか聞いていないのかわからない返事を返したものの、青藍の饒舌さは止まらなかった。
「で、皇帝に見初められて禁断の恋に落ちるっていう話」
「へぇ」
どんな身分であれ、身分違いの恋に憧れがあるのだろう。そのうえ、やんごとなき身分となった青藍はどちら側の登場人物の気持ちもわかるから尚更なのかもしれない。流行に敏感な彼女のことだ。しばらくすると熱も冷めるだろう。現に青藍が紹介した書物は山のように緋燕の部屋に積んである。
冷静な緋燕は読んでいるふりをしながら楽しそうに語る主へ適当に相槌を打っていた。
「後宮について詳しいから宮城の誰かが書いてるんじゃないかって言われてるの!」
「へぇ」
語り切った青藍は嬉々として緋燕に顔を向ける。しかし話を聞いていないと気づき、下唇を突き出して不貞腐れた。
「ちょっとー、話を聞いててなんか思うところないの?」
「いや、別に」
不満げな青藍の言葉も、あっけからんとはねのけた。それでもめげずに青藍は何かを言わせようと詰め寄った。
「境遇似てるな、とかは?」
「似てる? 私、男でも去勢済みでもないけど?」
瞬きをしながら首をかしげる様は心の底から何も感じていないのだと伝わった。
「……はぁ」
背もたれにもたれかかり、青藍は天井を見上げる。あからさまに残念がる様子を見て、流石に青藍が何かを伝えたいのだろうと気づいた。
「えっと、結局何が言いたいの?」
本から顔を上げ、上目遣いで尋ねる。青藍は「あ〜、もう!」と両手で肘置きを持ち、もう一度勢いよく立ち上がった。
閉じたままの扇を緋燕を向け、般若のような形相でまくしたてる。
「いい? あんたは私に城下町の料理屋から引き抜かれたの」
「うん」
「ぽっと出の宦官が皇妹の側近になったんだから、他の宦官が妬んでる可能性があるのよ? 分かる?」
「う、うん?」
腕を組んだ青藍は仁王像さながらに威圧を放つ。もはや諭すというより彼女からの忠告なのだが、当の本人は青藍の言いたいことがわからず、眉根をひそめて首をかしげるだけだった
「つまり、あんたが思ってるほど後宮の人間は優しくないってこと!」
話について行けていない緋燕を見下ろし、どかっと椅子に座ると足を組んで真顔になった。
「いい? 今が一番やばいのよ」
「な、何が?」
急に深刻な空気を纏う青藍に、緋燕は本を閉じて唾を飲み込んだ。
「何と言っても兄上がこの前『緋燕の料理の方が旨かったな』なんて言ったせいで、兄上付きの従者たちは阿鼻叫喚してる真っ最中なのよ」
青藍の朝餉を夜食として献上したことは、彼女は知っている。二人の秘事だったはずだが、いつの間にか青藍は当たり前のように「昨日は兄上と会ったの?」などと聞いてくるので、包み隠さず話すことにしていた。もっとも、先日のひき肉とにんにくの包子を食べさせたことだけは内緒のままであるが。
「この物語みたいに兄上の寵愛を一心にあんたが受けるんじゃないかって危惧している宦官も居るんだからね」
「え、ないない。宦官だよ? 男だよ? ……あ」
全力で否定すべく片手をぶんぶんと振っていたが、言い終えた瞬間にある事案を思い出してしまった。
ぎぎぎぎと壊れた歯車のようにゆっくり青藍を見やると無表情で遠くを見つめていた。
「そう。性別なんて関係なく手を出す権力者はいつの時代でもありえるんだから」
「ご、ごめん……」
蒼琳と青藍の父……つまり先々代の皇帝は男女問わず美しい人間を手中に収めたい欲を持っていた。仕事は有能なので宮中の従者たちも目をつぶっていたようだが、誰彼かまわず手を出した結果が、青藍の誕生である。お忍びで城下町へ視察をした際に出会った彼女には、もちろん後ろ盾もない。好色な先代の寵愛もすぐに次の相手へと移ろう。青藍の母は後宮での生活はさぞかし苦労をしたに違いない。
青藍が城下町で育った所以も知っている彼女にとって、この先自分もどのような苦労が待ち構えているのかと考えるのは自然なことだった。
ようやく己の立場に気づいた緋燕は顎に手を添えて思案する。床を見つめてじっと今後の身の振り方について考えていると、扉の近くが騒がしくなってきた。
緋燕は書物を青藍に返し、急いで茶葉を選ぼうと踵を返す。すれ違い際、慌てる緋燕に向かって青藍は小声でもう一度忠告した。
「従者たちからの妬みも、兄上からの好意も、どちらも念頭に置いておくように!」
「最近、皇帝と宦官の物語が流行ってるの知ってる?」
「何それ」
瑛青宮は緋燕と青藍の二人きりゆえ、不機嫌を丸出しの低い声で答える。茶会用の茶葉を真剣に選んでいたところ、声をかけられたせいで集中力が切れてしまったのだ。
そもそも何故、緋燕は茶葉を選んでいるのか。ことの発端は青藍の気まぐれだった。
暇を持て余していた青藍は「たまには瑛青宮のみんなでお茶会しましょ!」と従者たちに世間話をしようと言い出したのだ。
今頃、他の侍女たちは準備のために右往左往しているのだろう。突然の思いつきに振り回される彼女たちを、経験がある緋燕は内心同情していた。
当の本人は親友が眉をしかめる姿を見慣れているせいか、帯に挟んでいた扇を取り出して指示棒のように扱っていた。
「まぁ、見なさい!」
眉をしかめる緋燕を手招きし、机に積まれた本の山から一番上にあった本を差し出した。
緋燕は手に持っていた茶葉の入れ物を置くと、渋々受け取った。
「『後宮宦官物語』ぃ?」
題名から中身の情報が何も読み取れない。安直な題名からは想像もできない無駄に装丁の施された本を見下ろし、緋燕は口元を歪ませた。
「そう! これが最近、後宮で流行ってるのよ!」
青藍はそう言うと、だらしなく座っていた肘置き付きの豪勢な椅子から立ち上がった。蒼琳よりも淡い青ねず色の髪がふわりと揺れた。
興奮した青藍が身振り手振りをしながら語りだした。彼女の熱気に気圧されることなく、緋燕はぱらぱらと本をめくる。
「元平民の男性が無実の罪で去勢されてしまって、ひょんなことから宮城で宮仕えすることになるのよ」
城下町で育ったと言えど、実家の料理屋には多種多様な客がやって来る。中には子供に文字を教えたがる稀有な学者も居り、緋燕と青藍は彼に文字を教わった。店の品書きを書くしか使うことが無かった読み書きも、ありがたいことに今となっては後宮でずいぶんと役立っている。難しい読み書きは出来ないが、今のところ不便を感じていない。
「ふぅん」と聞いているのか聞いていないのかわからない返事を返したものの、青藍の饒舌さは止まらなかった。
「で、皇帝に見初められて禁断の恋に落ちるっていう話」
「へぇ」
どんな身分であれ、身分違いの恋に憧れがあるのだろう。そのうえ、やんごとなき身分となった青藍はどちら側の登場人物の気持ちもわかるから尚更なのかもしれない。流行に敏感な彼女のことだ。しばらくすると熱も冷めるだろう。現に青藍が紹介した書物は山のように緋燕の部屋に積んである。
冷静な緋燕は読んでいるふりをしながら楽しそうに語る主へ適当に相槌を打っていた。
「後宮について詳しいから宮城の誰かが書いてるんじゃないかって言われてるの!」
「へぇ」
語り切った青藍は嬉々として緋燕に顔を向ける。しかし話を聞いていないと気づき、下唇を突き出して不貞腐れた。
「ちょっとー、話を聞いててなんか思うところないの?」
「いや、別に」
不満げな青藍の言葉も、あっけからんとはねのけた。それでもめげずに青藍は何かを言わせようと詰め寄った。
「境遇似てるな、とかは?」
「似てる? 私、男でも去勢済みでもないけど?」
瞬きをしながら首をかしげる様は心の底から何も感じていないのだと伝わった。
「……はぁ」
背もたれにもたれかかり、青藍は天井を見上げる。あからさまに残念がる様子を見て、流石に青藍が何かを伝えたいのだろうと気づいた。
「えっと、結局何が言いたいの?」
本から顔を上げ、上目遣いで尋ねる。青藍は「あ〜、もう!」と両手で肘置きを持ち、もう一度勢いよく立ち上がった。
閉じたままの扇を緋燕を向け、般若のような形相でまくしたてる。
「いい? あんたは私に城下町の料理屋から引き抜かれたの」
「うん」
「ぽっと出の宦官が皇妹の側近になったんだから、他の宦官が妬んでる可能性があるのよ? 分かる?」
「う、うん?」
腕を組んだ青藍は仁王像さながらに威圧を放つ。もはや諭すというより彼女からの忠告なのだが、当の本人は青藍の言いたいことがわからず、眉根をひそめて首をかしげるだけだった
「つまり、あんたが思ってるほど後宮の人間は優しくないってこと!」
話について行けていない緋燕を見下ろし、どかっと椅子に座ると足を組んで真顔になった。
「いい? 今が一番やばいのよ」
「な、何が?」
急に深刻な空気を纏う青藍に、緋燕は本を閉じて唾を飲み込んだ。
「何と言っても兄上がこの前『緋燕の料理の方が旨かったな』なんて言ったせいで、兄上付きの従者たちは阿鼻叫喚してる真っ最中なのよ」
青藍の朝餉を夜食として献上したことは、彼女は知っている。二人の秘事だったはずだが、いつの間にか青藍は当たり前のように「昨日は兄上と会ったの?」などと聞いてくるので、包み隠さず話すことにしていた。もっとも、先日のひき肉とにんにくの包子を食べさせたことだけは内緒のままであるが。
「この物語みたいに兄上の寵愛を一心にあんたが受けるんじゃないかって危惧している宦官も居るんだからね」
「え、ないない。宦官だよ? 男だよ? ……あ」
全力で否定すべく片手をぶんぶんと振っていたが、言い終えた瞬間にある事案を思い出してしまった。
ぎぎぎぎと壊れた歯車のようにゆっくり青藍を見やると無表情で遠くを見つめていた。
「そう。性別なんて関係なく手を出す権力者はいつの時代でもありえるんだから」
「ご、ごめん……」
蒼琳と青藍の父……つまり先々代の皇帝は男女問わず美しい人間を手中に収めたい欲を持っていた。仕事は有能なので宮中の従者たちも目をつぶっていたようだが、誰彼かまわず手を出した結果が、青藍の誕生である。お忍びで城下町へ視察をした際に出会った彼女には、もちろん後ろ盾もない。好色な先代の寵愛もすぐに次の相手へと移ろう。青藍の母は後宮での生活はさぞかし苦労をしたに違いない。
青藍が城下町で育った所以も知っている彼女にとって、この先自分もどのような苦労が待ち構えているのかと考えるのは自然なことだった。
ようやく己の立場に気づいた緋燕は顎に手を添えて思案する。床を見つめてじっと今後の身の振り方について考えていると、扉の近くが騒がしくなってきた。
緋燕は書物を青藍に返し、急いで茶葉を選ぼうと踵を返す。すれ違い際、慌てる緋燕に向かって青藍は小声でもう一度忠告した。
「従者たちからの妬みも、兄上からの好意も、どちらも念頭に置いておくように!」