不寝番以外はほとんど眠りについた夜更け。浥国(ゆうこく)の首都・洛陽(らくよう)にある紫微城(しびじょう)の一角、瑛青宮(えいせいきゅう)では皇妹付きの従者・廉 緋燕(れんひえん)が一人、小さな膳房で朝餉の仕込みをしていた。
 広い宮城内は薄暗く、昼間の賑わいなど見当もつかないほど伽藍としている。時折、城壁の傍で焚かれた松明の音さえも聞こえるほど静まり返っていた。
 こつ、こつ。日干し煉瓦で造られた宮城の廊下を、誰かが歩いている。沓音と隠さないあたり、盗人が侵入したとも考えにくい。だとすれば衛士か、もしくは……。
 緋燕がある男の顔を思い浮かべた時。背後にある膳房の出入口から名前を呼ばれた。

「こんばんは、緋燕」

 聞きなれた低い声。緋燕は包子の皮を包む手を止めずに振り返った。想像通り、廊下の暗がりから美男が顔を覗かせていた。

「こんばんは、陛下。また来られたのですか?」
「夜更けにこんないい匂いを嗅いでしまったら腹も空いてしまうよ」

 寝間着に低い位置で髪を結いあげた男は、服の上からでもわかるほど体躯がよく、薄暗い中でも目鼻立ちがしっかりしているのがよくわかった。
 調理場に置かれた灯りでかろうじて見える表情は悪気など寸分も持ち合わせていない。笑みを浮かべ、上機嫌な男の姿を見つめ、緋燕は目を細めた。

(この人はどれだけあしらってもやって来るなぁ)

 下唇を無意識に突き出した表情はあからさまに彼を歓迎していないのだが、男は笑顔を絶やすことなく見つめ返していた。
 決して彼が苦手だから邪見にしているわけではない。自分のような従者が気軽に話せるような身分の人ではないのだ。なので出来ればあまり同じ空間に居たくないだけである。
 とは言え、このまま放っておけば彼は出入口の前から梃子でも動かないだろう。これでは埒が明かない。

「仕方ないですね」

 包み終わった包子を皿の上に置き、緋燕は大きなため息をついた。
 片目だけ器用に開き、男の様子を伺う。すでに彼の体は前のめりで、許しを得ればいつでも中に入れる態勢であった。
 今日も根負けしてしまった。
 悔しさを心に秘めながらも、緋燕は「どうぞ」と膳房の中へと促した。

「話が早くて助かるよ」

 言うまでもなく彼こそが後宮に唯一入ることが許された男、浥国皇帝・楊蒼琳(ようそうりん)である。
 先の皇帝である父の血を受け継ぎ、若干二十歳で即位して数年。今や名君として国内に名を轟かせつつあった。

 そんな正しい君主として名高い彼だが、この通り、妹の宮の宦官には邪見に扱われていた。
 普段であれば顔色一つ変えることなく淡々と話を進める彼だが、今の姿と言えば、上機嫌で勝手知ったる膳房の奥へと進んでいく。
 嫌々承諾したことを隠す素振りもない緋燕を全く気にかけず、隅にある質素な椅子へと着席する。この小さな作り付けの机と椅子が、いつの間にか蒼琳の定位置となっていた。
 机に本を置くと、目ざとく緋燕が尋ねる。

「今日も夜中に読書ですか?」
「夜しか自分の時間が取れないからね、大目に見てほしいよ」
「くれぐれも倒れないでくださいね」

 肩をすくめる蒼琳を見やると、緋燕は高い位置で結い上げた亜麻色の髪を揺らして大袈裟にため息をついた。
 体は資本。いつものことではあるが、この人は皇帝としての自覚が軽薄なのかと心配になる。

「ああ、お気遣いありがとう」

 つれない素振りと労いの言葉がちぐはぐであるものの、蒼琳には真意が伝わっているのか笑みを絶やさない。もしこの場に他の従者の居れば、緋燕の態度は間違いなく非難されているだろう。むしろ皇帝と二人きりで夜を過ごしていたなどとあられもない疑いをかけられてしまうかもしれない。
 緋燕としてはそうなりたくないので、蒼琳が皇帝だと知った今、自分の従者を頼れと何度も言っているが効果はない。

 紫微城内には御膳房と呼ばれる皇帝と皇后の食事を作る大きな膳房以外にも大小さまざまな膳房がある。正確な数は把握出来ていないと言われるほどだ。そして、この小さな膳房は皇妹の宮・瑛青宮に付随するものである。
 にも関わらず、何故蒼琳はわざわざこの膳房に訪れているのか。それは瑛青宮が彼の通う書庫と公務を行う景心殿の間に存在しているからであった。

 二人は今日と同じような夜中に、この膳房で初めて顔を合わせた。
 蒼琳は書庫にて読書をしている内に時間を忘れてしまい、従者を呼び出すのも憚れていた時。自室に帰る最中、腹のすく匂いに釣られてこの膳房に足を運んだことだった。
 その日は緋燕が後宮にやって来て二日と経っておらず、蒼琳のことを知らないまま接してしまった。彼女は失態だと思っているが、気兼ねなく話す相手も少ない蒼琳にとって、心の落ち着く時間となったらしい。以降、夜中に腹がすくと必ず緋燕を頼るようになった。

 緋燕は背中に感じる蒼琳の視線を気にせず、包み終えた包子を蒸籠へと入れていく。そしてまた並べた皮と餡を手に取ると、慣れた手付きで包子を作り上げていった。
 手を動かしつつ、頭では蒼琳にどの料理を渡そうか悩んでいると、小さいため息が聞こえた。緋燕が振り返ると、いつの間にか持って来た本を読んでいた。伏せ目がちな目元は心なしかげっそりしている気がする。緋燕は包子を包む手を止め、蒼琳に声をかけた。

「今日は特にお疲れですか?」

 普段は緋燕から話かけることがないせいか、蒼琳は弾かれたように顔を上げるなり目を丸くした。しかし、すぐに平静を取り戻して苦笑した。

「まあね。ちょっと雇用のことで古参の臣下たちと揉めてしまってね」
「お疲れ様です」

 皇帝の公務は従者が想像するより忙しいと聞く。従者に慕われている名君であっても揉め事もあれば疲れもするのだな。
 答えるだけ答えるとまた書物に視線を落とした蒼琳を見下ろし、緋燕は思った。
 決して彼のことを超人と思っていたわけではないが、人間らしい様を見たような気がした。
 ともあれ、話をしたおかげで何を出すか決まったので彼女にとってもありがたいことだった。

「じゃあ今日はいつもより精のつきそうなものをおすそ分けしますね」

 蒼琳から調理台へと向き直り、作り終えた包子の入った蒸籠に蓋をした。

「せ、精のつく!?」

 すると背後で椅子の足が鳴った。横目で蒼琳を見やると、何故か胸に手を当て、背もたれからずり落ちていた。心なしか血色が良くなっているように思えた。一体何にどぎまぎしているのか、緋燕には皆目検討もつかなかった。

 よほど疲れているのか、もしくは眠くて判断が鈍っているのだろう。早めに夜食を食べて眠ってもらうしかない。
 緋燕は手早く未使用の蒸籠を取り出すと、皿の上で待機させていた別の包子を移し始めた。

「はい。睡眠不足と疲労回復に効く食材が入ったものです」
「ああ、そういう……」

 緋燕がそう言うと、声のはりが消えた。背中で聞いていた緋燕には残念がっているようにも感じた。疲れているせいか、感情がうまく制御できないのかもしれない。挙動のおかしい蒼琳に心の中でもう一度「お疲れ様です」とつぶやいた。

「蒸し終わるまでもう少し待ってくださいね」
「ありがとう」

 夜食の蒸籠の準備を終え、蒼琳を一瞥した。書物から顔を上げた蒼琳が礼を言うと、緋燕はまた包子を包む作業に戻った。しばらく緋燕の作業を見守っていたが、彼もまた読みかけの本に視線を移した。