私は、その場にいる事が出来ず、
ロビーに走って逃げた。
胸の奥がひしめき合うように、私の心は砕け散りそうだった。
大切な人が大切な人を想って弾く曲。
嬉しいはずなのにこんなに喜ばしいことはないはずなのに。
心の底から喜べない自分がいた。
どんなに望んでいたことか。誠人さんを想っていたことか。
でも、やっぱり…
やっぱり私は、誠人さんを好きでいることは出来ない。
あてもなく歩いて、私は小さな公園に辿り着いた。
子ども達の楽しそうな声が響き渡る。
ブランコに腰かけた。
いつぶりだろうか。ブランコなんて乗るのは。
あの頃は、ブランコ程楽しい乗り物はないと思っていた。
いつからか、私は大人になってそして愛することを知った。
好きって気持ちだけでは生きていけないということも。
そして、愛することが時に残酷だってことを。
「マリアちゃん…」
彼の声がした。気のせいかとも思ったけど確かに彼はそこにいて、私の前に立っていた。
ここには不釣り合いな真っ白な姿で。
私はマリアさんじゃないのに、呼ばれたのが私だと分かった。
「お久しぶりです……」
私は、 ブランコから立ち上がって挨拶をした。
あの日から誠人さんを忘れた日は一度もなかった。
一度だってなかった。
「聴きに来てくれてたんだね。ありがとう」
何も答えられなかった。何も返すことができなかった。
誠人さんを傷つけたのに変わりがなくて。
それなのに誠人さんはいつも優しかった。
今だってそうだった。だから、私は誠人さんが分からない。
分からないけど、誠人さんが今も笑っていてくれていることに安堵した。
「そのキーホルダー、付けてくれてるんだね」
私はとっさに手で隠した。
誠人さんは私の鞄についていた"ブルースター"のキーホルダーを見て、そう呟いた。
私がマリアさんとしての役目を終えたあの日、
見送りにこられないからと誠人さんが最後にくれた、キーホルダー。
本当は凄く大事にしている。
でも、そんなことを言えるはずもなかった。
「あの曲さ……君のために作った曲なんだ」
誠人さんはブランコに乗りながらぼそっと言った。
私がどんな反応をするか様子を見るように黙って下を見つめていた。
「どうしてですか?私は、貴方を騙して傷つけたんですよ」
そして、好きになった。勝手に好きになった。
「君がいなくなってから、君のことばかり考えてた。
最初は許せないってそう思ってた。でも、毎日毎日君がいない生活がこんなにも退屈でこんなにもつまらなくて、こんなにも……苦しいとは思わなくて。
君のこと忘れられなかった。好きになってたんだ」
「でも、私は誠人さんには釣り合わないから。
私、全然清楚じゃないし、
頭も悪いし、貧乏だし。
田舎育ちの田舎暮らし。
誠人さんとは、住む世界が違いすぎます」
「どうして?
君が僕とは釣り合わないって、そんな事誰が決めたの?
君はマリアちゃんの代わりを、
確かにしていたかもしれない。でも、
君だったから、僕は好きになったんだ」
私もなんて口が裂けても言えなかった。
だから代わりに、「ありがとう」とだけ言った。
「ねぇ、また、会えるよね?」
誠人さんはこんな私を好きだと言ってくれて、こんな私の為に曲まで作ってくれた。
大切な人をこれ以上、傷つけたくなかった。
だから、今から言うことは本心じゃなかったとしても正しいことだと思うんだ。
「もう、会えないですよ。もう会うことは無いです」
笑顔で言った。最高の笑顔でそう言った。
「せめて、名前だけでも教えてくれない?」
そういえば、言ってなかった。
誠人さんの中で私はマリアさんのまま。
私はずっとそう思ってくれていても良かった。
「柚子花です。大野 柚子花」
「素敵な名前だね」
誠人さんは、あの日と同じように太陽みたいに笑った。
これからは、それぞれの道で生きていく。
それが、私達にとっての正しい道だから。
本当なら会うはずもなかった私達。
そして、いたずらにも会ってしまって、
私達はお互い惹かれていった。
でもそれは、
許されない恋で、許されない罪だった。
彼の幸せを心から祈った。
なのに、どうして涙が出るのだろう。
私はブルースターに祈りを込めた。
あれから10年が経った。
私は、無事に専門学校を卒業し調理師として小さな飲食店で働いている。
今は、自分で考案したメニューも提供できるほどになった。
調理師は大変なこともあるけど、毎日充実した生活を送れている。
「大野さん、またお客様が作った料理人に挨拶したいって」
「分かりました。すぐ行きます」
私の料理を美味しいと言ってくれて、
お礼をしたいと言ってくれるお客様がたまにいる。
今回も満足して頂いたようだった。
厨房の扉を開けて私はお客様の席へと向かう。
「今回の料理を担当させていただきました大野です」
私は目を疑った。そこにいたのは……
「君は……」
誠人さんだった。
私は、あのオムライスの日のことを思い出した。
あの日、誠人さんが美味しいと言ってくれなかったら調理師になる夢を諦めていた。
「夢、叶えたんだね」
「はい。誠人さんも」
誠人さんは、会社の社長になって大きな成功を収めた。
羽石製薬から新薬が開発され治療薬として大きな貢献をもたらし、
国内のみならず海外でもその影響は大きなものとなっていた。
「とっても美味しかったです。是非とも家で料理人として働いてくれないかな」
「えっと、それはつまり……」
「凄いよ君!誠人の専属料理人ってことだよ!」
誠人さんと同席していた人にそう言われた。
私は、少し考えた後顔をあげてこう言った。
「はい。喜んで!」
偽りは、もうこりごり。
彼を好きでいる気持ちに、偽るのはもう辞めた。
それに今回は本当の私を認めてくれたのだから。
料理人としての私を。誰の代わりでもない。ありのままの私を。
「ありがとう」
誠人さんはワインが入ったグラスを口にした。
偽りの私としてではなく本物の私としての人生が今始まろうとしていた。
END