私がマリアさんの代わりになってから半年が経った。この生活にも大分慣れた。

マリアさんは同い年とは思えないほどしっかりしていて、凄い人なんだということも分かった。
だらしがない体たらくな私とは違って、マリアさんの振る舞いや態度は見習うことが多かった。
茶道や着付け等、趣味特技は多岐にわたり、なかでもピアノが一番の特技だそうで。

ただ、未だにマリアさんの捜索は極秘でされており、今日に至るまでめぼしい情報は見つかっていない。


もうひとつの課題は、婚約者。
私はマリアさんの婚約者に恋愛感情を抱いてしまった。
厄介なことに、マリアさんは別の男性に恋愛感情を抱いていて、
婚約者の方はマリアさんに本気で恋をしていた。
マリアさんの立場からすると、婚約者を好きになること自体おかしな話。
だから、誠人さんと会うときは気持ちがバレないよう、無駄な接触は控えるように気を付けていた。



「マリア、聞いてるの?」


真紀さんの甲高い声で、私は現実に引き戻された。


「あ、ごめんなさい!えっと…なんでしたっけ?」



「ピアノのコンサート!マリアも出るんでしょ?」


ピアノのコンサート?なんだそれ?


「毎回この時期になると定期演奏会開催してるじゃない。誠人さんも出られるみたいだし」


演奏会か。まぁ私には関係ないでしょ。ピアノ弾けないし。
黒木さんがいつもみたいになんとかしてくれるでしょ。


「何をおっしゃているのですか。今年も、お嬢様は参加しますよ」



「いやいやいやいや、私、ピアノ弾けませんよ?」


本当にこの人大丈夫か?と思った。
私をコンサートに参加させようだなんて、無茶苦茶だ。



「お嬢様が出演なされなければ、誠人様にもご迷惑をおかけする事になりますし。一応、メンツもありますし。それと、今回の演奏会のテーマが"連弾"なんです」



「連弾?って何ですか?」


「一台のピアノを二人で演奏する事です」



まさかそれって…



「誠人様とお嬢様で一緒にピアノを弾いていただきます」




「いや、ちょっと待って!なんで断らなかったんですか!
無理ですよ!私ピアノ弾いた事も無いですし!ましてや、誠人さんとなんて…」



弾けないのも問題あるけど、
私がここまで拒むのは、それだけじゃ無い。黒木さんだって分かっているはず。



「大丈夫ですよ。優秀な指導者をご用意しておりますから」

大丈夫の理由になってない。
でも黒木さんは最初からこうするつもりだったってことだ。


それから、ピアノの特訓は始まった。


学校で、なんとなく音楽の授業は受けていたけど、
楽譜なんて、ろくに読めた試しがない。


とりあえず適当に皆んなと声を合わせて歌えば、大体それらしい歌になる。


だから、ピアノの楽譜を渡された時、黒い点が沢山あって目が狂いそうだった。


まずは、五線譜に書かれた音符を読む事から始まった。


次に、ト音記号とヘ音記号の違いも教えられた。


ト音記号は、メロディーとなる事が多い方で、右手で弾くことが多い。
ヘ音記号は、伴奏の役割をしている事が多い方で、左手で弾くことが多い。
という、曖昧な覚え方ではあったけど、なんとなく理解はできた。


一番難しいのは、やっぱり弾くということ。

片手だけなら頑張れる。
でも、両手を合わせるとなると何がなんだか。


朝から晩まで、毎日、毎日、毎日、毎日。
練習、練習、練習、練習の繰り返し。
寝る暇もないくらい、練習をさせられた。

これも、マリアさんになるための修行か。そう割り切らないとやっていられなかった。


「曲目は戦場のメリークリスマスです」


戦場のメリークリスマス。確か、映画の主題歌になった曲。

聞いてみたけど、中々難しそうな曲だった。

定期演奏会は丁度クリスマスの時期にやるらしく、それまでに出演者は完璧に仕上げてくるそう。
私は半年かけてこれを完成させることになった。
ただ、半年の間にはマリアさんを見つけると黒木さんも言っていたから、本番で誠人さんと演奏することは無いに等しい。
それでも、練習で誠人さんと一緒にピアノが弾けるのはほんの少しだけ嬉しかった。


初めてピアノと向き合って分かったのは、意外にもピアノは奥深いということ。

ただ、譜面通りに弾ければいいということではないらしく、
強弱、音質、響き、そして、その曲に感情を乗せて音色を奏でなくてはいけない。


その全てが揃った時、初めて曲は完成するそう。


確かに、誠人さんのピアノを聴いた時、ただ弾いている曲には聞こえなかった。


誠人さんの曲に込めた思いや感情が、音色と一緒に溢れ出していた。

聞いている人をあそこまで惹きつけられる演奏。誠人さんの言葉が音色に乗って届いてきた。
私も届けられるのかな。


練習に明け暮れていたある日、誠人さんと会う日がやって来た。



最近は、お互い忙しく、
中々予定が合う日がなかったもので誠人さんと会うのは、あのリサイタル以来だった。

でも、電話はしていた。本当の恋人みたいだったけど、本当の恋人ではない。
分かっているからこそ、電話は三十分って決めていたし深入りしないように気を付けていた。


「私さ、行きたいところがあるんですけど……」

「どこ?」

「星、観に行きたいんです」

「星?」

「今の時期じゃ、難しいですかね……」

「確かに冬の方が見えるって聞くけど、夏でも天気が良ければ見えるんじゃないかな。
僕も見てみたいな。星。いつも会う時は食事が多かったからたまにはそういうのもいいね」


星が観たかったのは、向こうに住んでいたころよく見ていたから。
恋しくなったというのが正直なところで、星を見ると世界は広くて自分の悩みがちっぽけに思える。
だから、何かに悩んだり壁にぶち当たった時はつい空を見上げてしまう。


「黒木さんは、星とか興味あるんですか?」

黒木さんとの会話は車内が多い。家にいる時は黒木さんは何かと忙しそうにしていて話す雰囲気ではない。
黒木さんの運転はいつも穏やかで安心できる。
窓にはカーテンが掛かっているから、私はそのカーテンをいつも開けて外の景色を眺める。
開けたままになっているはずのカーテンは、次に乗るときは閉められていた。
でも、最近は私が座る方の座席だけカーテンが開いている。
黒木さんはそのことについては何も言わないから、私も何も言わない。

「昔、一度だけお嬢様と観に行ったことがあります」

「へぇー、何の星観たんですか?」

「確か、それは双子座流星群だったかと」


双子座流星群。冬に観える星で、「しぶんぎ」、「ペルセウス」に並ぶ三大流星群のひとつ。
母が好きだった星だ。

「いいですね。私、星が好きなんです」

「えぇ。そうみたいですね。今回の天体観測もあなた様からの提案だったととか」


黒木さんと話していると落ち着くけど、この時間が永遠に続くわけじゃない。
こうやって話せるのもマリアさんが帰ってくるまでの間だけ。

なんだかんだ、黒木さんに頼ることが多くなった私は寂しさを覚え始めていた。


「では、私はここでお待ちしております」

「ありがとうございました」


私は長い運転をしてくれた黒木さんにお礼を言った。
歩きながら黒木さんのことを考えていた。
いつも私のお世話をしてくれている黒木さんは自分の時間があるのだろうか。
リフレッシュとかちゃんとできているのかな。

私は黒木さんの方を振り返った。

「黒木さんも良かったら一緒にどうですか?天体観測」

でも、その答えはやっぱり黒木さんだなと思える返答だった。

「いえ、私は結構です。お二人でゆっくりなさってください」


黒木さんは私が見えなくなるまで見届けてくれていた。
至れり尽くせりだなとつくづく思う。


夜空は綺麗に星が輝いていた。
誠人さんの姿が遠くの方へ見えて、私は少し小走りになった。

「誠人さん!」

私の声に気がついたようで、誠人さんは振り返った。
右手を上へと伸ばした腕は左右に大きく揺れていた。

暗くてあまり分からなかったけど、誠人さんのところだけはスポットライトが当たったみたいに明るく見えた。



「久しぶりだね。元気だった?」

「はい!凄く元気でした!」

私は分かりやすくにやけていたと思う。
誠人さんの顔を見ると少し照れくさくて顔が赤らんでしまった。



「ねぇ、夏の大三角形ってあれかな?」

「んー、あっちじゃないですか?」



二人寝転んで見る夜空はなんの三角形でも良かった。
ただ、こうして星を眺められているだけで幸せだった。

誠人さんは見とれるように空を見つめていた。


「どう?ピアノの練習は進んでる?」


「はい、ぼちぼちってところです」


「そっか。でもマリアちゃん譜読み早いから、楽勝でしょ?」


「そんなことないですよ!誠人さんだってこの間のピアノ凄い素敵だったから足を引っ張らないか不安ですよ」


そんなことを言ったけど、きっと本番は私じゃなくて本当のマリアさんが弾くことになると思うから。私の心配なんて不要だった。


「なんか、最近マリアちゃん変わったよね」


私は動揺した。誠人さんも気づいていたんだ。マリアさんとは何かどこか違うって。
喜べるようなことじゃないのに、マリアさんとの違いに気づいているのは嬉しかった。


「今までは正直、マリアちゃんが何を考えているのか分からなくて、
どう話したら良いのかも手探りで分からなかったんだ」


そうだったんだ。誠人さんもマリアさんとの距離を伺っていたんだ。
誠人さんは何でもパーフェクトにこなすイメージだったからその発言は意外だった。


「でも、今は違う。今のマリアちゃんとは自然に話せるんだ。飾らなくていいしありのままの自分でいいんだって思える。
僕は、今のマリアちゃんの方が好きだな。君とずっと一緒に居たいって初めてそう思えたかもしれない」


今の方がいいなんて言わないで。そんなこと言ったらマリアさんじゃいられなくなるから。
私も好きだと言いたかった。ずっと一緒にいられるならそうしたかった。
でも、それは、どんなに祈ってもどんなに願っても叶わないことだから。


「でも、本当楽しみだな。
マリアちゃんとまたこうして一緒に弾けるなんて」


きっと誠人さんの脳裏に浮かんでいるのは、私じゃなくてマリアさんの姿。


今日は、真実を打ち明けようと決めてきた。
黒木さんにも誰にも話していない。自分一人で決めてきた。
そんなことをしたら、どうなるか。想像くらいついた。
この家にもいられなくなるし、もしかしたら大きなニュースになるかもしれない。
それでも、これ以上黙っているのはできなかった。


「誠人さん……、私、誠人さんに隠していることがあるんです……」


誠人さんの目は美しくて澄んだ目をしていた。

言葉が上手く出てこない。言わなきゃと思えば思うだけ誠人さんの顔をみれない。


「言いたくないなら、言わなくてもいいよ」


木漏れ日のような優しい声に私は誠人さんの方を思わず見つめた。


「秘密の一つや二つあってもいいと思うんだ。
結婚するからって家族になるからって、全てを打ち明ける必要はないよ。
マリアちゃんが話たくなった時に僕はその話をしっかり聞くから」

まるで私の気持ちが見透かされているみたいだった。
誠人さんはいつも欲しい言葉をくれて、いつも救ってくれる。

「誠人さん、優しいですよね」

「マリアちゃんだからね。マリアちゃんだからこんなこと言えるんだと思う」


マリアさんだから。マリアさんだからか。
左目から流れた涙は誠人さんには見えなかった。


「あ!流れ星!」


誠人さんは空を指差して言った。


どうか、このまま。どうか、このままで。
流れ落ちる涙と共に流れ落ちる星へ叶わぬ願いを私は不本意にも祈ってしまった。




「寒いのにありがとうございました」


「ううん。こちらこそ。なんかこういうのもたまにはいいね。また来ようね」


またがないことを知らない誠人さんは嬉しそうだった。


私はやつれた顔で車に乗った。


「なにか、ありました?」

泣いたから化粧も落ちていた。黒木さんはそういう細かいところにも気づく。


「なにも。なにもなかったです……いつもの誠人さんで相変わらず優しかったです」


本当に何もなかった。ただただ幸せな時間だった。
本当のことも結局は言えずじまいで、私は何をしに行ったのか。


「それは良かったですね」


良くない。全然良くないよ。
うるさいくらいに星がきれいで、今までの悩みとかどうでも良くなるくらい、それくらい誠人さんんとの時間はどうしようもないくらい幸せだった。
また来たいと思えるほどだった。


私はカーテンを閉めた。輝いている星を見ると思い出してしまうから。

今日のことは心の中にしまっておこう。大切な思い出として。




家に着くと一心不乱に私はピアノを弾き続けた。


頭に浮かんでくるのは、誠人さんの事だけ。


どうしてこんなに悲しくなるのか、
何度忘れようと思っても、頭をよぎるのは、誠人さんのこと。



一音一音、響く音が、私の胸に刺さってくる。



こんなに苦しい演奏があるのだろうか。
感情を込めれば込めるほど、彼を好きになっていく。
その想いを、必死で押し殺しているのに…



「もうお休みになった方が……」


私の顔はぐちゃぐちゃだった。いつの間にか泣いていた。


「こんなんじゃ、駄目ですね、私……」


「まだ始められたばかりですから弾けなくて当然です。そんなに焦らなくても……」


「違います。この感情のまま弾くのは、駄目だから……」


「どうしてですか?感情がこもっていて素晴らしかったですよ」


「だってこの想いは、誠人さんには決して届いてはいけない想いだから……」


マリアさんが戻ってくるまでは、それまでは、隠し通す。絶対に。




私のピアノはみるみるうちに上達していき、いよいよ冬を迎えてしまった。それなのに、マリアさんの居所はまだつかめていない。


「ほんとうに、帰ってくるんですか。ずっとこのままなんてこと……」


考えても解決しないことは考えてもしょうがないと言うけれど、
考えないなんて出来なくて。また、考えてしまう。
悪い方向に考えてしまうのは良くないと分かっている。それでも、
もうあれから一年が経とうとしているというのに見つかっていないのが事実。


「そうならない為にも、全力で捜索にあたっています。ですが、もし万が一見つからなかったら今年までお嬢様として務めていただけますか」

「来年はどうするんですか?」

「流石に来年もあなたに代わりをやって頂くことはできません。なのでその時は世間に事実公表しようと思います」

「行方不明だって言うんですか?」

「はい。望ましくありませんがそうなったら仕方ありません。そのようにならないことを信じましょう」

信じるって……黒木さんがそんな不確かなことを言ったのは初めてだった。
黒木さんも焦っているんだ。私には見せないように平然としているけど内心はきっと……


そしてついに、誠人さんと初めてピアノを合わせる日を迎えた。


連弾は、"プリモ"と"セコンド"に分かれて演奏をする。

プリモとは、右側に座って高い音を演奏する奏者の事。
セコンドは、左側に座って伴奏を演奏する伴奏者の事。


今回私は、プリモ担当でメロディーを演奏する事になり、誠人さんはセコンドを担当することになった。


幸いな事に、ペダルはセコンドの担当なので私は手だけに集中すれば良い。



「それじゃ、始めるよ。」


鍵盤に置いた手が震えていた。練習とはいえ、いつもと違う空気感に緊張が抑えられない。


「大丈夫。ゆっくりでいいから」


その言葉で私は深呼吸をして、心を落ち着かせた。

お互いアイコンタクトをして、息を吸った。

最初は私から始まる。高音の粒を一つ一つ丁寧に弾いていく。
後から追うように誠人さんの旋律が始まる。

私の音と誠人さんの音が重なりあった。


鳥肌が立った。一人で弾いていた時とは全然違う。

こうして、響きあう音色に私の指は止まらなかった。


初めて感じる感触。初めて聞こえる鼓動。


心地よいこの旋律が、私の心にすっと染み渡っていく。


夢ではないかと思うほど心地よい音色だった。

誠人さんの音をよく聞いて、ハーモニーを奏でている。
私が弾いてるんだ。マリアさんじゃない。今隣でこの旋律を奏でているのは紛れもない私なんだ。

力強い和音で曲調が一変する。それでも止まることなく鳴り続けるこのメロディー。

私たちは確かにこの瞬間一つになっていた。



最後の余韻を残して、私達は鍵盤から手を離した。

身体の力が一気に抜けて、椅子の背にもたれた。


「マリアちゃんさ……」

誠人さんはじっとこちらを見つめてきた。

「ごめん、何でもない」

「え、なにかあるなら言ってください!私、どこか間違ってました?」

私は焦って楽譜をめくった。どこ?どこが間違ってた?誠人さんには迷惑かけられないのに……

「譜面通り弾けてたよ」

誠人さんは何かを言いたそうだった。何かがおかしかった。

「今日はここまでにしよう」

「でも、まだ一回しか合わせてないですよ。もう少しお互い考えとか……」

「ごめん、今日は疲れちゃって。大丈夫だよ、あとはお互い自主練習で」


誠人さんはピアノの蓋を閉じた。

私はもっと一緒にやりたかったのに。どうして……
今日の誠人さんは明らかにいつもの誠人さんと違っていた。

何かしてしまったのだろうか。演奏が気に食わなかったとか。


「どうでした?誠人様との連弾は」

「私は凄く感動したんですけど、誠人さんは、いまいち反応が悪くて……」

「そうですか。まぁ、考えすぎですよ。誠人様もストイックな方ですからそういう時もありますよ」


そうなのだろうか。そんな感じではないように見えたけど。
なにか、言いたげだったし。それに……


「なんか今日の誠人さんは楽しそうじゃなかったんです。マリアさんと会っている時の誠人さんは顔が緩んでいて、いつも幸せそうなのに……」


「お疲れだったのでしょう。演奏会を控えていてピアノの練習や会社のことも色々お忙しんでしょう。次期社長ですから」


次期社長になる人と一緒にピアノを弾くのか。今さらながら、私は凄いところにいるんだと実感した。


「楽しみですか?誠人様との演奏は」


「え……」


「あなたさえ良ければ、お嬢様が戻ってきても弾いて頂けないかと勝手ながら思っておりまして……」


「黒木さん、らしくないですね」


「一番近くで見ておりましたから。練習に励む姿。無駄にはしたくないんです」


黒木さん、変わったな。
初めて会った時はとっつきにくくて、色々悩んだこともあったけど、今や私の一番の味方。


「無駄にはならないと思います。この時間があったから音楽の素晴らしさを知ることができましたし。
演奏会までには、マリアさんきっと見つかりますよ。そしたら私の任務もようやく終わりますね!」


寂しいようなでも、清々しいような。そんな気分だった。

早く終わってほしいと思っていたはずなのに、今は少しだけ終わってほしくないと思っていた。

このまま、マリアさんとして生きるのも……そう思ったりもした。

ありえないけど、ありえないことをしていたから。そんな未来もあるのかなと考えていた。


月が笑っていた。私も笑い返した。
こうやって窓から見える月に沢山助けられたことを思い出した。

もう少しあと少し頑張ろう。マリアさんとして最後までやり切ろう。

たとえ、偽りだったとしても……








本番当日。

誠人さんとのリハーサルが行われた。

誠人さんはいつもの誠人さんだった。明るい笑顔で私の方をみて笑った。


「本番、絶対成功させようね!」


私は大きく頷いた。本番まで結局マリアさんは見つからなかった。
でも、ここまでバレずに来られた。最後の最後、誠人さんとの連弾という素敵な思い出さえもできた。
楽しもう。今日はマリアさんのこととか全部忘れて思いっきり楽しもう!



会場には、沢山のお客さんで席が埋まっていた。
やっぱり緊張するな。


「一緒に頑張ろう」


誠人さんは私の肩を優しく叩いて微笑みかけた。


開演のブザーが鳴って、ざわついていた会場は一気に静まり返った。


私たちの出番はまさかのトリだった。
出演者たちの演奏はどれも優越つけがたい素晴らしい演奏ばかりだった。

プレッシャーが押し寄せる中、私たちの出番がやってきた。


誠人さんは、私の方を見て一度だけ頷いた。私も、頷いた。


二人で舞台袖から出ていく。
スポットライトが眩しくて、舞台から見える景色は想像を絶するものだった。
沢山の拍手と共に私たちは一礼した。


椅子に座った瞬間、頭が真っ白になった。

誠人さんは、こんな舞台に一人だったんだ。
なのに、あんなに堂々としていた。
それだけじゃなく、お客さん全員を魅了していた。


私に、そんな演奏できるのかな。急に不安が押し寄せて手が震えて鍵盤を触れない。

中々始まらない演奏に会場がざわつくのが聞こえる。

どうしよう、どうしたら……パニックで息が乱れた。


すると、誠人さんの手が私の手に触れた。


「大丈夫、君は一人じゃない。僕がついてるから」


そうだった。私は一人じゃないんだ。誠人さんっていう最高のパートナーがついているんだ。


「二人で一緒に、奏でよう。最高の音楽を」



私は、目を閉じた。

ここに来て、色々あった。
辛いこと、楽しいこと、そして、人を好きになったこと。
それも全部いい思い出。

大丈夫。誠人さんと一緒なら。

私は鍵盤に手を置いた。


そして、曲が始まった。

戦場のメリークリスマスは雨粒のような美しい音色から始まる。

誠人さんの優しい音が心地よく重なる。

楽しい。私は素直にそう思った。

前に、誠人さんが言っていた。


「この曲は、苦しみも悲しみも、そして喜びも。
全てが無駄じゃ無いと教えてくれる曲なんだ」


その意味が、今は分かる気がする。

この舞台に立って、
生きていて無駄な事なんて一つもないのかもしれない。


いつのまにか私は、
緊張なんか忘れて、この時間を楽しんでいた。


交わることの無い私達のように、
交わる事の無い音達が、混ざり合って響きわたるこの音色が、言葉では言えないこの想いが、指から溢れ出している。


私達は、顔を見合わせて自然と笑顔が溢れた。

ありがとう。誠人さん。

私は、この曲に感謝の気持ちを込めた。誠人さんもそれに答えるように心地よい旋律を響かせてくれた。



やりきった。最後までやりきった。


その瞬間、拍手とともに大歓声が沸き起こった。


客席に目を向けると会場はスタンディングオベーションに包まれていた。

誠人さんと顔を見合わせて嬉しそうに笑った。


皆んなにも、ちゃんと想いが伝わったんだ。


嬉しくて涙がこぼれた。

悲しい涙は今まで沢山あったけど、
この涙はそんなものとは比べられないくらい、大事な涙だった。



演奏会の後は、パーティーが開かれた。


「お嬢様、お疲れ様です。素晴らしい演奏でした」

「ありがとうございます。黒木さんのおかげです」


黒木さんは謙遜していたけど、演奏会が成功したのは間違いなく黒木さんのおかげだった。
ここまで支えてくれた黒木さんの。


「あれ、そういえば誠人様は?」


会場に誠人さんの姿がないのに気づいたのは、パーティーが始まって暫くしてからだった。


「ちょっと探してきます」


私は、誠人さんを探しに行った。

バルコニーに出ると夜の月明かりが、差し込んでいた。


綺麗……私は誠人さんと一緒に観たあの夜空を思い出していた。
もう二度とあんな幸せな時間は訪れないと思っていたけど、今日も本当に幸せな一日だった。


視線を下に向けると遠い視線に誠人さんの姿があった。



「こんな所にいらしたんですね。パーティー、もう始まってますよ?」


私がそう声をかけると、誠人さんは私の方を振り返った。


「マリアちゃん……」


「はい?」


誠人さんは切ない表情で私を見つめていた。
どうしたんだろう。こんな表情をする誠人さんを初めて見た。


「どうか、されましたか?」


首をかしげる私に、誠人さんは表情一つ変えなかった。
嫌な予感がして、心臓がキュッとなった。


誠人さんは、私に近づいてきて息をのんだ。ただならぬ雰囲気が伝わってきて私も身構える。




「正直に答えてほしい。一体、君は誰なの?」