「これからお嬢様として生活をしていただく際の注意点をご説明いたします」


黒木さんは車のハンドルを握りながら声色一つ変えずに説明をし始めた。


「このことを知っているのは私と御縁ホールディングスの代表、すなわちお嬢様のお父様だけです。
今後は大野様のことをお嬢様とお呼びいたします。
名前を名乗る際は、御縁マリアと名乗ってください。それともう一つ……」


ブレーキと共に黒木さんはバッグミラー越しにこう話した。


「この事は決して誰にも知られてはいけません。万が一誰かに知られてしまえばただでは済まされないでしょう。社長も私もそしてあなたも」


ミラー越しに映るその目は狂気のような眼差しだった。


「そこまでする必要あったんですか。マリアさんがいなくなったって公表することはできなかったんですか」


「御縁ホールディングスは国内でもトップクラスの最大手企業です。
お客様の様々な個人情報を管理しておりますしセキュリティ対策も万全です。
それなのに身内のことで騒ぎになったらお客様の信用問題にも関わってきます。
事件性があるならまだしも、家出でマスコミなどの騒ぎになるのは……
もしもそのようなことになれば、株価の暴落。顧客の新規獲得に影響を及ぼす可能性があります。
何より、お嬢様はあなたと同じ年の高校生です。
騒ぎになれば、お嬢様の写真も出回ってしまうでしょう。
世間に晒されるのはお嬢様自身も望んではないでしょうから」


「そんなに会社が大事なんですか。マリアさんよりも?」


「あなたも痛いほど分かるでしょう。お金が大事なことは。会社が無ければお嬢様も生きてはいけないのです」


それはそうかもしれない。でも、お金よりも大事なものはある。私は、そう思うから。


「大企業ならお金は腐るほどあるでしょう。経営が悪くなったとしてもそんなのたかが知れてる程度でしょ。
今よりいい生活ができなくても少し我慢すれば……」


「腐るほどですか」


黒木さんは私の発言を嘲笑うかのように鼻で笑った。


「なにがおかしいんですか」


真面目に答えているだけなのに馬鹿にした様なその態度にカチンときた。


「腐るほどなんてありませんよ。代表は必要最低限しか手元に残しません。残りの稼いだ分は寄付されてますから」


お金持ちは嫌いだった。
上流階級の人達は私たち庶民を馬鹿にして何不自由なく裕福に暮らしている。
私たちは金銭的に余裕がない中で、高い税金を払って暮らしているっていうのに。
でも、御縁ホールディングスの社長は少し私のイメージと違っていた。



「君が娘の代わりの……」


「初めまして。大野 柚子花と申します」


緊張しながら挨拶をした私に社長はいきなり頭を下げた。


「すまない。こんなことを頼んで。本当に申し訳ない」


「いえ……その代わりに卒業させてもらえることになっているので……」


優しそうな人だった。
こんことをするような人にはまるで見えなかった。
経営者って怖いイメージだったけど、この人がお父さんだったらいいなと思えるようなそんな人だった。
だからといって、この人を好きにはなれないけど。


「あの、黒木さん、どうしてマリアさんは家出なんかしたんですか?事件性は本当にないんですか?」


最初からずっと気になっていた。
マリアさんがいなくなった理由が家出と聞いた時思った。たとえ家出だったとしてもその後事件に巻き込まれた可能性だってある。
それなのに、家出と断定するのはあまりに安易な考えだと。


「事件性はありません。自宅に設置されていた防犯カメラには確かにお嬢様が出ていく姿が写っておりました。それと、お嬢様の部屋にこれが」


見せられたのはメモ紙だった。
綺麗な字で書かれたそのメモには、「少し遠くへ行ってきます。探さないでください」と記されていた。


「遠くへって一体どこですか?」


「それが分からないんです。連絡も尽きませんし」


「分からないって。目星もついてないんですか?それじゃ、探しようがないじゃないですか。
そもそも、なんで家出なんかしたんですか?こんなに立派ないい家に住んでいるのに」


想像はしていたけど、想像以上に立派な家だった。
お屋敷みたいな、いかにも金持ちが住んでいそうなそんな家だった。
私には分からなかった。こんなにいい家に住んでいるのに自ら家出を選ぶなんて。


「家出の理由は見当がついております。恐らく、婚約者のことではないかと」


「婚約者?」


「お嬢様には、結婚をお約束された方がいます。生まれた時からその方と結婚することは決まっておりました」


「政略結婚ってことですか?」


「はい。ですがお嬢様はどうしてもその方との結婚を拒まれておりました。
そのことで代表とも何度か言い争ってるのを私も目にしております」


「マリアさんはどうしてその人と結婚したくないんですか?」


「好きになれないからです。好きではない人と一生を共にすることはできないと仰っておりました」


それは、確かにそうだ。
いくら親が決めた相手だからといえ、好きでもない人と一緒に暮らすのは苦痛でしかない。
結婚したらきっと子どもとかそういうことも考えないといけなくなるだろうし。


「それと、お嬢様は別の方に恋をしておりましたから」


「別の方……?」


「お嬢様はピアノを習っておりまして、そこの先生と交際しております」


え……。それって、婚約者がいながら別の男の人と付き合ってるってこと?


「お二人の交際は勿論認められません。お嬢様はまだ未成年ですから青少年育成法に該当しますし」


「じゃ、マリアさんは先生のところに行っているとか?先生がマリアさんをかくまっているとか……」


「それも考えましたが、どうもそうではなさそうで。先生の方から連絡があったんです。レッスンに来ないけど何かあったのかと」


「そんなの、疑われないようにわざと連絡したってこともありますよね」


「それはありえないでしょう。
ピアノは一日でも弾かなければ指がなまります。だから、先生は『体調が悪くても少しでもピアノに触らせるように』と毎日連絡がきます。
そこまでするでしょうか?お嬢様がすぐそばにいるのに、毎日連絡なんてしてくるでしょうか」


「じゃ、どうして?家出して先生と一緒にいるならまだしも先生のところにも行かずに一体家出に何のメリットがあるんですか?」


「これは、私の憶測でしかありませんが恐らくこう考えたのではないでしょうか。
好きな人と一緒にいられないのなら、いっそ一人の方がいいと」


マリアさんは強い人なんだと思った。
会ったこともないし、写真で見ただけでどんな人かも知らない。
それでも、そこまで強い意志を持てるなんて私にはそんなものないから。
マリアさんのその行動が私には少し羨ましくもあった。



「あの……話変わるんですけど、私、ピアノ弾けませんよ。
レッスン行けばマリアさんじゃないってすぐバレるんじゃ……」



「それはもう手を打ってあります。実際、先生との交際を私も含め代表も知っております。
先生もお嬢様が来ない理由が”それ”なんだと考えているでしょうし。
ですから、別の講師の方にお願いしていると伝えました。
まぁなので、先生と会うことはないでしょう」


用意周到といえば聞こえはいいけど、そこまで徹底的にこの事実を隠して本当にそれでマリアさんは救われるのかな。
世間に自分のことを知られるのが嫌なのは私だってそう思う。でも、もし私がマリアさんの立場なら、自分の知らない誰かが私のふりをして生活しているその方が嫌だと思う。
ましてや、好きな人にまで誤解されるようなことをされるのは不本意だし。


次の日は朝から黒木さんの運転する車に乗せられた。
何処へ向かうのかも知らされず窓にはカーテンがかけられていた。
少しだけカーテンをよけて窓から見える景色を覗いた。
ビルが建ち並ぶ街の景色は私の知っている街並みではなかった。
都心に来たのだからビルがあって当たり前なのに、慣れない景色にようやく実感した。
私は、とんでもないところまで来てしまったのだと。



「ここは?」



「まずは、その髪をどうにかしないとですからね」


マリアさんには前髪があるけれど、今の私には前髪がない。
あとは、マリアさんはセミロングだけど私の髪はかなり長い。
マリアさんの髪型にしてもらうと今まで以上にそっくりになった。
髪もツヤツヤになっていて、自分が自分じゃないみたいだった。


マリアさんは服装も上品で綺麗目な服装が多いらしく洋服も買いに行った。
ブランドショップが並ぶこの道を歩いているだけで気分が上がった。
生まれて初めてブランド物を身につけた。
こんな日がくるなんて思ってもみなかった。
雑誌で可愛いなと思うことはあってもそう思うだけで、実際に手に取ることはなかった。
手に取ったところで買うことは不可能だったから。
でも、今は違うんだ。嬉しくて顔がにやけた。


「そちら、気に入りましたか?」


黒木さんに声をかけられ我に返った。


「あ、いや、別に……」


「これ、ください」


黒木さんは私の気持ちを察してくれたのか試着していた服を購入してくれた。
一通り買い物を終えると黒木さんは私に飲み物を奢ってくれた。


「明日からは学校に行きますので。不安なことはあるかと思いますが何かあれば私に連絡してください」


「どんなところなんですか?マリアさんが通っている学校って」


「私立の女子校です。いわゆるお嬢様学校ですかね」



「お嬢様か……」


思わずため息が漏れてしまった。
正直この環境に慣れる自信がない。黒木さんには申し訳ないけどやっていける自信を早くも無くしてしまった。


「お嬢様の代わりではありますけど、お嬢様になる必要はありませんから。
あなたらしく振舞えば大丈夫ですから」


黒木さんはそう言ってくれたけど、それは私を勇気づけるためで実際はマリアさんになりきる必要がある。
少しでも違和感があったら、勘がいい人には気づかれてしまうかもしれない。
上手くやらなきゃいけない。分かってる。大丈夫。上手くやれる。
そうやって、何度も、何度も言い聞かせた。
今は、そうすることしかできないから。
大丈夫。大丈夫。


その日、加奈からメッセージが届いていた。
加奈には「出発の日を言わなくてごめん。見送られると悲しくなるから」とだけ送っていた。
加奈のメッセージを開くのは怖かった。何が書いてあるのか想像できなかったから。
罵られる言葉が連ねられているのかな、それとも……
でも、加奈のメッセージは意外にもシンプルだった。


「大丈夫だよ。頑張ってね」


それだけか。いや、それ以上の言葉はむしろないか。
だけど、どうして言ってくれなかったの。と怒ってくれた方がなんかよかったかも。


マリアさんの部屋から見える月は今にも泣きだしそうでそれでも必死に光を放っていた。


その日の夜は眠れなかった。
色んなことが一気に襲い掛かってきて疲れていたはずなのに、全然眠れなかった。

いつのまにかカーテンから朝日が差しこんでいた。
黒木さんのノックをする音が聞こえる。
起きたくなかった。学校に行きたくない。
行きたくなくてもいかなきゃ。私は、顔を二回叩いて部屋の扉を開けた。

 
制服に着替えて鞄のチャックをしっかり閉めると黒木さんは車の扉を開けた。
車内は終始無言だった。
話す事がないというより、話す気力がなかった。
マリアさんは成績が良くて学年でも一、二を争う秀才なんだとか。
その上私は、学年で一、二を争う馬鹿。
マリアさんとのその差があればあるほど自分がどこまでも落ちこぼれだということを実感させられる。
顔が同じでもここまで違うと落ちこんでしまう。


「大丈夫ですか?」


黒木さんの大丈夫ですかに対する答えは一つしかない。


「大丈夫です……」


それ以外の言葉を言ったところで、慰めの言葉を言われるか論理だてて黒木さんの思想を語られるだけ。
それよりも一刻も早くマリアさんを見つけて欲しい。
心配なんてしなくていいから、マリアさんを見つけることだけに専念して欲しかった。


「黒木さん……ありがとうございます」

「何がですか?」

「私、全然ダメなのに。その、マリアさんにならなくていいって、私らしくいていいって言ってくれて……」

「礼を言うのはこちらのほうです。こんなことあなたにしか頼めませんからね」


黒木さんは優しかった。その優しさが今の私には厄介なもので、優しくされればされるほど心が痛んだ。
なんでも言える友達。辛いことがあったら聞いてくれる家族。
そういう存在って近くにいるときは気づけないのに、会えなくなる時間が長くなればなるほどその存在の大きさに気づく。
過ちを犯してまですべての人を裏切ることが本当に正しいことなのか。自問自答を繰り返すうちに目的地へと到着した。


車から降りるとそこに広がっていたのは、知らない世界だった。

車から生徒たちが降りてきて綺麗な校舎に入っていく。

「柚子!」

呼ばれて後ろを振り返る。でもそこに、加奈の姿はない。
思い出したら駄目だ。もう、柚子花じゃないんだから。
後ずさりして足が震える。

「お嬢様、大丈夫ですか?」

目を閉じて、呼吸を整える。

「大丈夫です!行ってきます!」

黒木さんから鞄を奪って私は強引に歩き始めた。
もう、後ろは振り返らない。
前だけを向く。前だけを向いて歩いて行く。そう決めたら。そう決めたんだ。


「マリアちゃん?元気になったのね!」


「う、うん……!心配かけてごめんね……!」


マリアさんってどんな人なんだろう。
友達は何人くらいいるんだろう。どんな風に振る舞ったらいいんだろう。
私、本当に何も知らない。マリアさんのこと。


「御機嫌よう。マリア」

「ご、御機嫌よう……」


御機嫌ようなんて、使う人いるんだ。
漫画の世界だけかと思ってた……


「心配したのよ。連絡何度もしたのに」

「ごめんなさい。スマホ壊れちゃって新しく変えたの」

「そうだったの?じゃ後で連絡先教えてね!」


そういえば、教室ってどこなんだろう。
席も分からないし。
黒木さんにちゃんと聞いておけばよかった。


「マリアちゃん?どうしたの?」


教室に進まない私を見て、別の生徒が声をかけてきた。


「あ、なんか久しぶりの学校で緊張しちゃって……」



「そっか。二週間くらい?休んでたもんね。ノート、マリアちゃんの分も全部とってあるから、あとで見せるね!」



「え、そうなの?」



「うん!マリアちゃんだけ授業遅れちゃうでしょ?」


マリアさんって愛されてるんだな。きっとマリアさんも優しい人なんだろうな。


「優しいんだね」


「え?普通だよ!どうしたの?なんか変なの。今日のマリアちゃん、マリアちゃんじゃないみたい!」


ドキリとした。ついマリアさんだということを忘れて感想を言ってしまった。


「ちょ、ちょっとお手洗いに……」


私はトイレに避難すると直ぐに黒木さんに電話をかけた。


「すいません、教室と席が分からなくて……」

「そうでしたよね。失礼いたしました」


黒木さんは丁寧に教えてくれた。
それと、友達のことも黒木さんが知っている限りで教えてくれた。
いつでも電話に出られるようにしておくとも言ってくれた。
心強かった。心強くて胸がまた締め付けられた。
黒木さんに頼れば頼るだけ罪悪感に苛まれた。


「マリア!お昼食べるでしょ?食堂でいい?」


食堂なんてあるんだ。購買とかじゃないんだ。庶民の学校とは何もかもが違っていた。


「マリアさ体調はもう平気なの?」

「うん……もう万全!」

「それなら良かった!そうそう、今度ねアパレルブランドの展示会観に行こうって話になってるんだけどマリアも行くわよね?」

「あー……うん……!」

展示会なんて勿論行ったことない。なんかここは、皆にとっての当たり前が私にとっては当たり前じゃない。
騒がしかった昼休みが秩序が保たれたこの学校では存在しない。
皆行儀よく、清らかで、無駄がない。空気清浄機みたいに汚いものが何一つ存在しない。
気持ちが悪かった。綺麗すぎて気持ちが悪い。


「マリア?顔色悪いけど大丈夫?」


抑えきれずトイレに駆け込んだ。嗚咽を漏らす自分が鏡に映し出される。
惨めな姿にまた繰り返す。
もう嫌こんなの。私、こんなんで本当にこれからやっていけるの?



「おかえりなさいませ。学校は大丈夫でしたか?」



車に乗り込んだ途端、靄がかかったように一気に視界が悪くなった。



「お嬢様、どうかされたのですか……?」


黒木さんにハンカチを差し出された。受け取ることができなかった。


「私……上手くできませんでした」


「そうですか」


「マリアさんみたいに完璧にできなかった……」


黒木さんは何も言わず車を走らせた。
かけられる言葉がないんだろう。こんな私には。


「つきました」


「ここは……?」


「お嬢様の母親のお墓です」


マリアさんのお母さんはマリアさんが小学生の頃に亡くなったそう。マリアさんも親を亡くした私と同じだった。


「お嬢様は強く見えて本当はとても弱いお方です。完璧に見えて本当は人一倍努力なさる方です。
お嬢様になる必要はないです。ただお嬢様として過ごしていただくそれだけで十分です。
似ているのかもしれませんね。あなたとお嬢様は」


「どこかですか?」


「自分を追い込みすぎるところとか」


最初はマリアさんはわがままな人だと思っていた。
だけど、今日マリアさんの友達に会ってマリアさんが愛されてることを知った。
マリアさんの友達には初めて会ったけど、マリアさんへの愛が伝わってきた。
だから思った。自分に課せられた使命を全うしたいと。


「お嬢様も切羽詰まった時、よくここにいらしてました。なんとなく会いたくなるのでしょうね」


なんとなくわかる。その気持ち。
私も受験の前とか大事なことがあると両親のお墓に行って手を合わせた。
なんとなく力が貰えるような気がして。


「黒木さん、マリアさんの友人関係詳しく教えてくれませんか」


黒木さんは「喜んで」と微笑んだ。




「まず、この方が真紀(まき)様。頼りになる姉御肌気質の方でご本人はモデルもされております。
お母さまは人気ファッションブランドSHIMA SATUKIの社長です。
この方は、莉佳子(りかこ)様。明るい性格でクラスでも人気者だそうです。ご両親は老舗の和菓子屋を経営しております」


「マリアさんの周りって凄い人達ばかりなんですね。マリアさんも凄い人ですけど」


「この学校に通われている方はそういう方達ばかりですから。だからといって気負いする必要はありませんよ。
家柄は立派かもしれませんが皆様普通の学生です。あなたと何ら変わらない普通の学生ですから」


私のことを思っての言葉だった。黒木さんはそう言ってくれる。
いつだって私のことを尊重してくれる。
どう見たって出来損ないなのは言うまでもないのに。
それなに黒木さんは「あなたはあなたらしく振舞えばいいのです」と言ってくれる。


「分かりました!明日はもう少しリラックスして関わってみます」


「それがいいでしょう」


少しずつ少しずつでいい。マリアさんとして生きていくのは容易なことではない。
それでも、マリアさんになった今、私がマリアさんとして生きていく今、ここにいない人のことを考えても仕方がない。
きっと分かり合えるはず。同級生なんだから。


「それと今夜は、以前よりお話していた会社のセレモニーがございます。恐らく、そこに婚約者の誠人(まさと)様もいらっしゃいます。
お嬢様は誠人様のことは”誠人さん”と呼んでおります。年が三つ上ですのでお嬢様はいつも誠人さんとは敬語でお話されております。
あと、誠人様もお嬢様と同じくピアノを弾かれます。
もしかしたら音楽のお話になるかもしれませんが、適当に話を合わせておいてください。
誠人様はとても優しい方ですから安心して頂いて大丈夫かと思います」


いよいよ、婚約者とご対面か。
婚約者の話は少しだけ社長から聞いていた。
製薬会社、羽衣石《ういし》製薬の御曹司。
かなりのやり手社長でその総資産は御縁ホールディングスと並ぶとか。


セレモニーは沢山の招待客で賑わっていた。


「この度は御縁ホールディングスの三十周年記念式典にお集まりいただき誠にありがとうございます……」


社長の挨拶はこれまでの経営理念やこれからの会社としての目標などについて語られた。


「……最後にここまで会社を育ててくださった皆様にも感謝申し上げます。ではこれからの御縁ホールディングスの発展と皆様の健康を祈って乾杯!」


シャンパンの入ったグラスがキラキラと輝いていた。
勿論、未成年の私はオレンジジュースだったけど。


「マリアちゃん!久しぶり!」

「……あ、お久しぶりです」


この人が……
すぐにピンときた。綺麗な顔立ちで一際目立っていたその人がマリアさんの婚約者。


「やぁ、誠人くん今日はありがとう」

「御縁社長、この度はおめでとうございます」


誠人さんの笑顔は女性を虜にしてしまうようなアイドルみたいな笑顔だった。


「マリアちゃん、体調不良だったって聞いたけどもう大丈夫なの?」


「はい。もうすっかり元気になりました。ご迷惑おかけてしてすいませんでした」


「いや、迷惑なんてかけられてないよ。僕は何もしてないから。元気になってくれたなら良かったよ!」


俳優さんみたいに格好良かった。
スラッとしていて、目鼻立ちもはっきりしている。
陶器のような肌に優しい口調。
完璧すぎる。こんな人が婚約者だったら文句ないのに。
マリアさんはこの人ではなく別の人を好きになった。


「また、マリアちゃんの演奏聞きたいな」


「ピアノ……ですか?」


「うん!僕さマリアちゃんのピアノ好きなんだ!」


誠人さんは結婚相手だからこんなに優しくしてくれるのか、それともマリアさんのことが好きだからなのか。


「ありがとうございます……」


年上の彼。申し分ない地位と名誉。
こんな人が世の中に存在するんだ。
遠い世界の人。関わることなんて一生ない住む世界の違う人。
そんな人と今私は話をしている。
楽しそうに話すその姿はまるで無邪気に笑う子どものようで可愛らしいとさえ思えた。
マリアさんはどうして誠人さんじゃ駄目なんだろう。
先生を好きなったのは分かるけど、どうして誠人さんじゃ駄目なのだろう。


「聞いてる?マリアちゃん?」


「あ、はい!聞いてます!」


ここに来て初めて楽しいと思えた時間だった。


「じゃ、マリアちゃんまたね」

「はい!ありがとうございました!」



セレモニーは無事に終わり誠人さんに別れを告げると黒木さんの運転する車に乗った。



「誠人さんっていい人ですね」


車窓から見える夜景は都会の煌びやかな街並みを彩っていた。



「マリアさんが羨ましいです。あんな人と結婚できるなんて。
政略結婚だからどんな人なのか気になってたけど、あの人なら結婚してもいいと思います」


「そうですか」


「いけませんか?羨ましがるのは」


「いいえ。羨ましいと思うのは自由です。でも誠人様はお嬢様の婚約者です。
くれぐれも恋愛感情を抱かぬようお気をつけください」


「分かってますよ。そんなこと。私なんか釣り合うわけないですし」


顔が同じなだけ。たったそれだけ。
マリアさんが誠人さんをいらないって言うなら私が結婚したいくらいだった。
そうしたら、きっと生活に困ることもないし、あの人なら何を言っても許してくれそうだし。
恋愛感情なんかなくたっていいじゃん。
贅沢だよやっぱりマリアさんは。
こんなに好条件の人中々いないのに。
先生なんかよりずっといいと思うけど。先生って家出する価値のある人なのかな。
性格も良くて顔も良くて金持ちで。三拍子揃ってて誠人さんよりいい人っている?

「はぁ……マリアさんはいいなぁ」

家につくと思わずため息がでた。

分からない。マリアさんって一体何者なの?
学校ではあんなに皆から愛されていて、優しい人みたいなのに誠人さんのことは好きになれないって。
相性よさそうなのに。マリアさんと誠人さん。
きっと良い夫婦になれるのに。目に浮かぶ。二人の幸せそうな家庭が。
マリアさんが戻ってくるまで誠人さんにバレないように、関係を悪くしないように。
それが私の役目。それだけを考えよう。



「今日も、美味しいですわね」

真紀は食べ方も上品で、いかにもお嬢様って感じだった。
食事は美味しくて高級食材ばかりが使われていた。
だけど、手が進まない。おばあちゃんのご飯は何杯もおかわりできたのに。
おばあちゃんのご飯が食べたい。


「マリアちゃん、食欲ないの?」


莉佳子ちゃんは、子犬のような眼差しでこちらを見つめてきた。
そんな顔で見られたら笑顔を崩せなくなる。


「ううん、暫く体調崩してて胃が小さくなっちゃって……!」


「分かる分かる!長期間お休みしてると食欲戻るまで暫くかかるものね」


その日の放課後三人で展示会を観に行った。


「ねぇ!これマリアに似合うんじゃない?」


真紀が持ってきた服は私の好みの服ではなかったけど、「うん!こういうの好き!」と噓をついた。
マリアさんはこういう洋服をよく来ている。
黒木さんが用意した服はこういう服装ばかりだから。
清楚で清潔感のある服。お嬢様は皆そういう服を身にまとっている。
洋服すら自由がないのかな。お嬢様っていう身分があるからきっと変な格好はできないんだろうな。


「この後どうします?」

「そうですね、マリアはどこか行きたいところないの?」


え、私?
行きたいところって言っても、いつもならカフェ行ったりプリクラ取りに行ったりするけど、
マリアさんってこういう時どうするんだろう……
その時、黒木さんの言葉を思い出した。
そうだ。マリアさんになろうとしないで私らしくいていいんだ。

「じゃ、映画とかどう?」

二人は目を見合わせた。
発言を撤廃しようか、他の案を出そうかと考えているこの時間がとても長く感じた。

「うん!いいじゃない!」

「行きましょ行きましょ!」



私は安堵した。黒木さんの言う通りなのかもしれない。
二人も私と同じ学生なんだ。
気負いする必要はないと言っていたけど本当にそうだった。
映画館に着くと、ポップコーンを塩にするかキャラメルにするかで迷って、
結局ハーフにして三人でシェアした。
観たかった映画は全員一致で今話題の恋愛映画。
クライマックスでみせたイケメン俳優と朝ドラ女優の二人のキスシーンが最高だった。
友達との時間を過ごすなか、いつのまにか自分がマリアさんであることを忘れて楽しんでいた。


「あー!楽しかったー!」

「珍しいね!マリアがそんなに楽しんでるの」

「え!……あ、そ、そうでしたね!……」


思わずはしゃいでしまった。やってしまったと思うと共に恥ずかしさがこみあげてきた。


「じゃぁね!また来週!」

「うん!またね!」


こうやって手を振って別れるのがなんだか懐かしかった。
行きも帰りも車通学で、楽ではあるけど友達と他愛もない話をしたり待ち合わせをする楽しみは無くなった。
ここに来る前は、送迎付きなんていい生活と思っていたけど案外そうとも限らなかった。
ここの生活は確かに便利だし、楽だし、優雅で不満は何もない。だけど、とてもつまらない。
こんないい生活ができているのに、そう思ってしまうのは贅沢なのかもしれないけど。


「おかえりなさい。遅かったですね」


「すいません。黒木さんに連絡した方が良かったですよね……」


「いえ、大丈夫ですよ。今日はご友人と出かけることは知っておりましたから」


物わかりのいい執事さんだ。
そういえば、ずっと気になっていたことがある。


「黒木さんって、どうして執事になったんですか?」


黒木さんは執事になるために生まれてきたといっても過言ではないほど、執事としては素晴らしかった。
それは、素人の私から見ても分かることだった。


「私は元々、保育士になりたかったんです」

「え、保育士ってあの保育園とかにいる先生のことですか?」

「えぇ……他にあれば教えていただきたいですが……」


黒木さんは、困惑した表情を浮かばせた。


「すいません。あまりにも予想外の回答だったので……」


「私は大学生の時ベビーシッターのアルバイトをしていたんです。その頃代表と出会いまして。
当時は代表が社長だとは知らずにお嬢様のシッターをしておりましたら執事にならないかと声をかけてくださったのがきっかけです」


「じゃ、保育士さんの夢は諦めちゃったんですか?」


「諦めたというのは少し御幣があります。保育士にもなりたかったのは事実です。ですが、新たな夢を見つけたというのが正しいですかね」


新たな夢か。


「お嬢様はないのですか?将来の夢とか」


無いと言えば噓になる。でもそれは昔の夢で今は本気で目指そうとは思っていない。


「小さい頃は調理師になることが夢だったんですけど、今は目指してないですね」

「調理師ですか。どうして今は目指してないのですか?」

「無理ですもん。頭悪いし。専門学校行くにしてもお金ないし。奨学金借りたところで返せるかも分からないし」

「そうですか。でも、なぜ調理師になりたいと?」


それは、おばちゃんの存在が大きかった。


「おばちゃんに、早く楽させてあげたいんです。安心してもらいたいんです。おばちゃんの家に初めて行ったとき、ご飯が美味しくてその時子どもながらに思ったんです。
大人になったら今度は私がおばちゃんを喜ばせたいって。うちはお金もなかったから外食もあまり行けなくて。
だから、美味しい食事をお金のこととか何も心配しないでお腹いっぱい食べさせてあげたいんです」


「素敵な理由ですね」


「まぁ、ただの理想論ですけどね」


「いいじゃないですか。理想論でも。理想が無ければ夢を叶えることもできないですからね」


黒木さんが注ぐ紅茶は香りがとても良くて高級感漂う味がした。
夢なんて誰かに語ったことなかったけど、黒木さんは私の夢を笑ったり馬鹿にすることなく聞いてくれた。
上流階級の人たちって凡人のことを見下しているって勝手に思っていたけど、そうじゃないのかもしれないと少しだけ思った。

「こんな格好しなきゃ駄目ですか?」


濁り一つない真っ白なワンピースに、ハーフアップにした結び目には真っ赤なコーデュロイ素材のリボンが付いていた。
それは、いかにもお嬢様という恰好だった。


「誠人様にお会いになるのですから、服装は気合いをいれないと!」


黒木さんは真顔でふざけ混じりに言うものだから、その表情と言い方が相まっていなくて鳥肌が立った。


婚約者の誠人さんとは月に一度、こうして会食をするそうだ。
私たちでいうところの、デートだ。

黒木さんの言う通り、デートはおしゃれをしていきたい。
でも、流石にこの格好は恥ずかしすぎる。


「マリアさんって誠人さんの前では甘えたりとかするんですかね?」


黒木さんは珍しくむせるような咳をした。


「知りませんよ、そんなの……誠人さんとの話はされませんから」


誠人さんの話はしないんだ。
やっぱり別に好きな人がいるとそうなるのかな。それとも……


鹿威しの音が、一定の速さで鳴り響くこの店は風情溢れる場所だった。
食事をするだけと聞いていたから、どこかのファミレスか少しお洒落なレストランくらいに考えていたけど、その考えは浅はかだった。


「ではお嬢様、いってらっしゃいませ。」


「えっ!黒木さん、部屋まで来てくれないんですか?」


「はい。ここからは、お二人でごゆっくりなさって下さい。」


ゆっくりなんてできるはずがないけど仕方がない。
心の準備ができないまま、私はお店の扉を開けた。

中に入ると仲居さんらしき人に部屋まで案内された。
部屋まで続く廊下はとても長く感じた。心臓の音が聞こえそうで咳払いをしながら誤魔化した。


「では、開けますね」


私は深く息を吸った。セレモニーで会ったばかりではあったけど、こうして二人きりで会うのは初めてで。
難しい政治や経済の話とかされたらどうしようとか。ありとあらゆる心配事が頭の中を駆け巡った。


「久しぶり。マリアちゃん!」


襖を開けるとあの、優しい笑顔が飛び込んできた。
その笑顔を見ると途端にほっとする。


「お、お久しぶりです……」


私は緊張が隠しきれていなかった。面と向かって彼の顔をみると毛穴一つない綺麗な肌をしていた。
どうしたらそんなに綺麗になれるのだろう。なんの化粧水使ってるのかな。洗顔はやっぱり泡なのかな。
そんなくだらないことを考えていると、誠人さんからマリアさんの話をされた。


「そういえば、この間の対談の記事読んだよ。
感動したよ。やっぱり凄いね。マリアちゃんは」



記事?なんの話か分からないけれど、マリアさんって、そんな事もしてるんだ。
ここはとりあえず話を合わせておこう。


「あ、ありがとうございます……」


私は緊張を誤魔化すように食事を口いっぱいに含んだ。


「ん、これ、美味しい……」


それは今まで食べたことのない味だった。
繊細で奥深くて。美味しいと一言で表すのには失礼にあたるほどのクオリティーだった。


「なんか、今日のマリアちゃんさ……」


この後言われる言葉はもしかして……私は息をのんだ。


「やけに、素直だね」


びっくりした。バレたかと思った。


「ほら、マリアちゃんいつもあまり感想言ってくれないから。
今日は口にあったかなーってちょっと不安になるんだよね」


「もしかして、ここも誠人さんが?」

「うん!勿論!マリアちゃんに喜んで欲しいからね!」


どこまでもいい人だこの人は。
マリアさんは幸せだろうな。こんな人が傍にいてくれるんだから。


「あ、そうだ!
今度また、リサイタルをやる事になったんだ。良かったら聴きに来て」



そう言って渡されたパンフレットには、誠人さんがピアノを弾いている写真が載っていた。
そういえば、誠人さんもピアノを弾けるって黒木さんが言っていたっけ。


こんなにかっこよくて、ピアノも弾けたらすごいモテるんだろな。
うちの学校にいたら学年いや、学校一のモテ男に違いない。


「ありがとうございます!是非、行きたいです!」



「本当!?ありがとう!
マリアちゃん、最近は日程が合わなくて中々、来てもらえてなかったから嬉しいよ」


誠人さんって、本当にマリアさんの事が好きなんだな。
彼を見ていれば分かる。私の反応がいい時だけ凄く嬉しそうに笑う。
マリアさんは凄く愛されている。それなのに、マリアさんは誠人さんのこと……

なんだか申し訳なくなった。

誠人さんが本当に来て欲しいのは、私じゃなくてマリアさん。
マリアさんが本当に好きなのは誠人さんじゃなくて先生。

私が誠人さんと仲良くすればするほど、マリアさんの気持ちを無視しているみたいで。
だけど、仲良くしなければ誠人さんを悲しませてしまう。
どうしたら……


「どうした?食べないの?」


私の箸が止まっていることに気づいた誠人さんが心配そうに私を見つめてきた。



優しくて包容力があって気遣いができて。素敵な人だった。

気を遣わなくて済むし彼と過ごす時間はあっという間で、いつも楽しい。
なんていうか、初めて会う人みたいじゃない。それくらい、私は彼との時間を楽しんでいた。


「リサイタルって、何弾くんですか?」


聞いても分からないけど、とりあえず話の話題がなかったので聞いてみた。


「今回は、パッヘルベルのカノンを弾こうと思ってるんだ!」


カノン。あーなんか聞いたことある。
音楽に全く精通していない私でも知っている曲だった。


「有名な曲ですね!」

「今回は音楽関係以外の人も聴きに来るから馴染みのある曲にしようと思ってね!」


誠人さんのピアノか。楽しみだけど不安もある。
私がマリアさんとして聴きに行くのだから知り合いの人とか、音楽関係の人もいるかもしれない。
純粋に誠人さんのピアノだけを聴きに行くことはできない。




「それじゃ、またね」



「はい!ありがとうございました」


誠人さんにお礼を言って黒木さんの運転する車に乗りこんだ。
誠人さんは、車が見えなくなるまで見送ってくれた。


そういう気配りも出来るなんて。世の中の男全員に学んでほしい。




「どうでしたか。お食事は」


「とても美味しかったです」


「そうですか。良かったですね」


「実は、誠人さんからリサイタルに誘われたんですけど……行ってもいいですか?」


恐る恐る訊いてみた。行ってはいけないと言われるのは分かっていたけどもしかしたらと願いを込めた。


「いいと思いますよ。誠人さんも喜ばれると思いますし」


私の不安も虚しく、黒木さんはあっさり承諾した。


「いいんですか?私、マリアさんじゃないし。聴きに行ったらいけないのかと思ってました」


「それでも、少なくとも誠人様はあなたのことをお嬢様だと思ってますから」


それは複雑だった。
黒木さんの言葉が皮肉っぽく聞こえてしまった。

悪気があったわけじゃないと思うけど、誠人さんが私をマリアさんだと思っているとそうはっきり言われると、分かっていてもしんどかった。


「誠人さんって、マリアさんのこと本気で好きですよね。
政略結婚とか無視しても本気でマリアさんに恋してると思います」


「それは、ご本人にしか分かりませんが」


「分かるんです。マリアさんと話してる誠人さん本当に嬉しそうで。
私のことマリアさんだと思ってる誠人さんは本当に幸せそうで。
最低だなって思います。誠人さんのことを騙している私は最低ですよね」


「騙していると思わなければいいのではないですか。あくまで、今いないお嬢様に代わって会っていると思えば気が楽になりませんか」


楽になんてなるわけないでしょ。
誠人さんと一緒に居ればいるほど、マリアさんへの想いが伝わってくるのに。
そんな風に思えたらとっくにそうしてる。そう思えないから悩んでいるのに。
楽観的な黒木さんがたまに羨ましく感じる。
私もそんな風に割り切れたらもっと楽に生きられたのかな。


「でも、ほんっと良いですわよね。マリアの婚約者」


真紀はそう言ってマリアさんの婚約者を羨ましがった。


「でも真紀ちゃんもマリアちゃんも、婚約者がいて羨ましい。
私なんて、縁談で婚約者決めるから誰になるか分からいもの」


莉佳子ちゃんは、決まった婚約者がいないらしく二十歳になったら縁談をして決めるそうだった。



「でも、お相手をご自分で決められるのは、幸せな事じゃない?」



真紀の言葉に莉佳子ちゃんは不服そうだった。
皆んな色々あるんだな。

勝手なイメージだけど、お嬢様っていったら、いつもオホホホホホとか言って笑って悩みなんて大した事はないと思ってた。
キャビアがいいとか、フォアグラがいいとかそんなわがまま言って暮らしているんだと思ってた。つい最近までは。




「あれ?莉佳子ちゃん、お迎えまだ来ないの?」



「あ、ええ……」


なんとなく、いつもと違う感じがした。



「良かったら家まで乗っていったら?私の家確か莉佳子ちゃんの通り道だったと思うし!」


老舗の和菓子屋を経営しているって言っていたから場所はなんとなくだけど大体分かる。


「でも……迷惑じゃ……」

「迷惑だなんてそんな。友達じゃない!」


莉佳子ちゃんは不思議そうに私を見た。


「友達?」


「え、、違うの……?」


また私、墓穴を掘ってしまった?
莉佳子ちゃんの反応がおかしい。


「友達って思ってくれてたんだって嬉しかっただけ」


「どういうこと?」


「ここの学校に通ってる人は皆、会社の大きさとか親の給料とかそういうのでマウント取り合うじゃない?
私たちは違うけど。割とそういうの多いじゃない。だから、あまり信用はしてないの。友達っていうそういう存在を」


言いたいことは理解できた。
私も同じだから。加奈のこと信頼してるし信用してるけど結局は単なる友達で最後は助けてくれない。
そういう存在。だから、莉佳子ちゃんの言葉は確かにと思ってしまった。


「マリアちゃんが友達でしょ?って言ってくれたから本当のこと言うけど私、多分もうすぐ退学になる」


それは衝撃的な発言だった。退学は私にとって今最も重大な問題だから。
それが、彼女にも起こっていたなんて。

「退学ってどういうこと?」


「うちの会社、経営上手くいってないの。だからここの学費もう払えそうにないんだ」


莉佳子ちゃんの会社は老舗の和菓子屋を経営している。私も聞いたことがある有名な和菓子屋だ。
高級な和菓子屋だから買いには行ったことはないけど、バイト先で前に辞めていった人が餞別の品として置いていってくれたことがあった。
その時初めて食べたけど、どら焼きが凄く美味しかったのを覚えている。
そのお店が経営不振だなんて信じられない。


「和菓子屋の経営が上手くいっていないというのは、ここ最近耳には入ってきていました」


黒木さんはいつものように優雅に紅茶を淹れていた。


「どうして言ってくれなかったんですか!そんな大事な話!」

「言ったところで、どうにもできないでしょう」


そうかもしれないけど。だからって、放っておくことはできない。
私のように単位が足りないとかならまだしもそうじゃないなら余計に。


「お嬢様の話では確か、莉佳子様は科学がお好きだったとか。将来はその科学の知識を生かしてただ美味しいだけじゃない。
美容や健康を考えた和菓子を作るのが夢だと仰っておりました。残念ですね。ここにいたらその夢も叶えられたかもしれないのに」

まるで他人事のように言う黒木さんは情けのかけらもなかった。


「そんな言い方……黒木さん冷たいです」

「仕方ないじゃありませんか。何もできないのですから。諦めるしかないですよ」

「諦めるって、友達を見捨てろってことですか?」

「違います。変に期待させるだけ期待させて、結局なにもできないなら何もしない方がいいということです」


正論のように聞こえるけど、それってつまりこういうことでしょ。


「結局、金ですか。お金がなきゃ夢を追うことも学校すら満足に通えないんですか?」

「少し飛躍し過ぎですが今通われている学校は、お金が必要ってことですね」


飛躍し過ぎ?どこがよ。結局最後は金なんだ。
ここにきてお金に困ることも無かったから忘れていたけど、塾に通うにもお金が必要で、進学するにもお金が必要で、生きていくってお金が必要で。
だから、お金がない人はやりたいこともできず大人しく生きていくしかない。私のように。

「もういいです。私一人でなんとかします」

「なんとかって、何をするおつもりですか?」

「黒木さんには関係ないでしょ。もう放っておいてください」


私はそう言うと家を飛び出した。
向かった先は婚約者である誠人さんの家だった。


「珍しいね。マリアちゃんの方から会いに来てくれるなんて」


誠人さんは少し驚いていたけど快く招き入れてくれた。
実際、マリアさんから誠人さんに会いに行くことはなかったのだろう。
マリアさんには心に決めた相手がいてその人に会いによく出かけていたと黒木さんも言っていたし。


「すいません。突然押しかけて……私の友人が今、少し大変なことになっていて……」


私は誠人さんに莉佳子ちゃんのことを話した。
誠人さんは頷きながら真剣に聞いてくれていた。その眼差しに吸い込まれそうになるほどだった。
こんなに真剣に聞いてくれるなんて、黒木さんとは大違いだった。


「なるほど。マリアちゃんの気持ちも分かるけど、今回は仕方ないね」

「誠人さんまで、諦めろって言うんですか?」

「マリアちゃんは友達思い出し、助けたいって気持ちも分かるし僕もそう思う。
でも、学費をちゃんと払ってる生徒さんもいるでしょ?
それなのに、彼女だけ払えないから払わなくてもいいって言うのは、ちょっとどうかなと思う。
もし、どうしても彼女を学校に残したいならマリアちゃんが彼女の分の学費も払うしかないんじゃないかな。
でも、そんなことしたら彼女だって学校には居づらくなってしまうと思うけどな」

言い方は違えど、誠人さんの答えもお金で解決するしかないってことだった。
こういう世界で生きている人達は皆こうなのかな。
まぁ、今までお金でなんでも解決してきたからそういう考えになってもおかしくはないけど。


「でも、あのお店結構好きだったんだけどな。なくなっちゃうのかな……」


誠人さんも好きだったんだ。あのお店の経営が悪くなればなるほど悲しむ人が増えていく。
そんなこと絶対にしたくない。


「でもさ、マリアちゃんは優しいんだね。友達のためにそこまで考えられるなんてすごいよ」


「少し分かるんです。莉佳子ちゃんの気持ち。
莉佳子ちゃんもいつか美容とか健康とかを考えた和菓子を作るのが夢なんですって。
私も料理が好きだから、誰かの為に何かを作って喜んでもらいたいって気持ち。分かるんです。
その夢を叶えられない辛さも分かるんです」


「マリアちゃんって料理するの?」


背筋が凍った。今、完全にマリアさんだってこと忘れて自分の話をしていた。
弁解しようにも言ってしまったことは取り消せない。
頭をフル回転させてどうにか怪しまれない策を考えた。


「あ、えーっと、その……、ほんとたまにです。最近ハマってて……」


「そうなんだ!マリアちゃんピアノ弾くから怪我しないように料理とかはしないって前に言ってたからさ。
最近始めたんだ!今度作ってよ!マリアちゃんの料理食べてみたい!」


「え、あ、でも、大したもの作れないですし……やめたほうが……」


無理だよ!だって物凄く庶民的な味だもん。料理だって庶民が食べる料理だし。とてもじゃないけど誠人さんには振舞えない。
絶対バレる。作った途端絶対バレる。


「大丈夫だよ、実を言うとさ大した料理はあんまり好きじゃないんだ。
これ、内緒ね。僕がこの世で一番好きな料理はファミレスのチーズが中に入ってるハンバーグなんだ!」


噓でしょ。ついそう言ってしまいそうになった。
誠人さんクラスの人がファミレスの料理が好きなんて、信じられない。
しかも、私もあのハンバーグ好きなんだよね。


「誠人さんもファミレスとか行くんですね……」

「内緒ね。言ったら怒られちゃうから」

「はい。分かりました……!二人だけの秘密ですね」


誠人さんが私と近いものがあると知れて嬉しかった。
マリアさんの知らない誠人さんを知れたのも嬉しかった。


そして、私にはもう一つ突破しなければならない難所があった。


「マリア、なに、この点数……」

「マリアちゃん熱でもあるんじゃない?保健室、いや救急車呼ぶ?」

「大袈裟だよ。今回、ちょっと勉強さぼちゃってさ……」


というか、元々馬鹿なんだって。マリアさんじゃないからさ。
そう。私はここに来て早々、中間テストを受ける羽目になった。
そこでは勿論テストの点数は悪く、学年トップだった成績は一気に下落した。
まぁ、一位から最下位まで落ち込めば流石に皆驚くよね。
誤魔化せてないかもだけど、なんとか誤魔化して今日のところは事なきを終えた。



「はぁー、お金持ちの学校もテストはあるんですね」


勢い良くソファーに腰を下ろした。身なりを変えても頭の良さだけは変わらなかった。


「まぁ、学校ですからね。それより、なんですかこれは」


黒木さんが生贄のように掴んでいたのは、私が作ったチラシだった。


「勝手に見たんですか?」

「そこに置きっぱなしになっていたので。配るおつもりじゃないでしょうね」


黒木さんの目はいつも以上に怖かった。


「配るつもりですよ。私は誰かさんと違って友達を見捨てるようなことしないですから」

「おやめになった方がいいと思いますけど」

どうして黒木さんがそこまで止めるのか分からなかった。
私はただ、莉佳子ちゃんを助けたいだけなのに。

「黒木さんには分からないんですよ。お金がない人の気持ちが」

「お金がある、ない関係ないと思いますけどね。お金があっても人生上手くいかないことはあります」


そんなの、お金持ちの言い分でしょ。お金がないのとあるのとじゃ悩みの大きさが違う。
出来ることもできない。限られることが増える。莉佳子ちゃんにだけはそんな思いをさせたくない。
こっち側の人間にはしたくない。


「とにかく、それ返してください!」

「後悔しますよ」

「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃないですか!」


黒木さんはため息をつきながら、百枚ほどあるチラシを私に手渡した。


「こんなことする暇があるなら、勉強した方がいいと思いますけどね」

「黒木さんって……うざい先生みたいですね」


私は黒木さんからむしり取るようにしてチラシを奪った。


「美味しい和菓子ですよ!良かったら買っていきませんか!」


翌日私は莉佳子ちゃんのお店のチラシを配った。
一人でも多くの人が買ってくれれば、莉佳子ちゃんのお店もまた今まで通りに……


「ちょっと!何してるの?」


「あ、莉佳子ちゃん!これ配って少しでもお客さん増えればいいなと思って!」


莉佳子ちゃんは物凄い剣幕で私を睨んだ。


「やめてよ」


どうして、そんなに怒っているのか分からなかった。
私は、莉佳子ちゃんのことを思って……


「こんことして、見世物にでもするつもり?」

「そんなつもりじゃ……」

「こんことされたらまるで、私のお店が上手くいってないって世間に公表してるみたいじゃない!」


なんで。どうして。そうなるの?莉佳子ちゃんの為を思って、莉佳子ちゃんの為にやったことなのに。


「だって、和菓子作るの夢なんでしょ?学校にだって残りたいって思ってるんじゃないの?」

「思ってるよ。でも、こんなこと頼んでない。そりゃ今まで通りに暮らせたらそれに越したことないよ。
だけど、もう無理だって分かってるから」

「諦めるの?」

「諦めるんじゃない。覚悟決めたの」

莉佳子ちゃんは、私からチラシを奪い取ると「二度とこんなことしないで」と捨て台詞のようにして私の前から姿を消した。
それから、彼女が学校に来ることは二度となかった。