「ねぇ、見て!やっぱちょー可愛くない?」


指差す先には、ティーンの中で今最も人気を誇るモデルが写っていた。
雑誌が置かれた机を中心に、こうして需要のない話をするのが私たちの日課だ。


「でも、やっぱ、あのドラマに出てる人が好きだわー」


「えー、あれのどこがいいの?」


「かっこいいじゃん!ったく、分かってないなー」


そんな他愛もない会話を楽しむ友人の話を私は笑いながら聞いていた。
実を言うと、私はそれどころではない。


「それより、柚子(ゆず)、本当に平気なの?」


「えっ!何が?」


「単位!さっき担任と話してるの聞いたけど、卒業、危ういんでしょ?」


「あぁ、まぁね……」


ページを捲る手が止まった。友人たちの視線が一気に私へと集まる。


雑誌の中のモデルは吞気に笑顔でこちらを見ていた。


グループを取り仕切る友人が机に両腕をつかせてこう言った。


「柚子、ほんとにヤバくない?」


やばいのは、重々承知している。

今年の四月で私は高校三年生になった。


今までは、だらだら過ぎていく時間の中で平穏な学校生活を送っていた。
焦りを覚えたのは、高二の夏。
先生から散々忠告はされていた。


私は、自分でも驚くほど頭が悪い。
どれくらい悪いか例えるとするなら、
授業中寝ていたとしてもそのクラスに私がいる限り学年最下位になる事はないだろう。


そして今日、担任から告げられたのはたった一言。
「卒業は見込めない」それだけだ。


でも私には、どうしても卒業しなくてはならない理由がある。


私の両親は私が幼い頃に他界し、今は祖母と二人で暮らしている。


そんな、おばあちゃん子に育てられた私は、この歳になるまでずっと甘えてきた。

だからこれ以上おばあちゃんの世話にならないように就職して、自立して、おばあちゃんを楽にさせてあげたかった。
これ以上、祖母の年金と親の保険金だけでやりくりしていくのは正直きつい。

いくら馬鹿な私でも、それくらいは分かっていた。


だから、なんとしても卒業をするしかないのだ。
とは言っても、解決策なんてそうそう見つかりそうになかった。


「じゃぁね!また明日!」


いつものように手を振って私達のグループはそれぞれの方向へと散らばっていった。



唯一、私と帰る方向が一緒なのは小学校の頃からの親友で人一倍お節介焼きの加奈(かな)


「加奈、今日暇?」


私達の間で、暇?と聞くときは、寄り道して帰ろうの合図だった。


小さなカフェに入るとカウンター席に腰掛け、加奈はメニューを開きながら軽く口を開いた。



「で?今日は何の相談?」



加奈は本当に察しがいい。
彼氏の相談、友達の相談、バイトの相談。加奈には、数え切れないほどの相談をしてきた。



「うん。さっき教室で言ってた事なんだけど……」



「卒業、危ういって話?あれ、本当なの?」


加奈は、どうやらその話を信じていなかったらしい。
実際その話を持ち出してきたのは、加奈ではない別の友人だったから。


「それが、本当なんだよね。」


「どうすんのよ。卒業、何としてもしなくちゃなんでしょ?」



「だけどさ、私、勉強苦手なの知ってるでしょ。この学校に入学したのだってさ……」


この話をすると少し長くなるのだけれど、私がこの学校えお受験したのは加奈と同じ学校に行きたかったから。という安易な理由。



でも、加奈は赤点なんて一度も取ったことがない、いわゆる頭のいい奴。


それに比べて私は、むしろ赤点じゃないのが奇跡と言われるほどの馬鹿。 



こんなに馬鹿なのに、なぜ進級できたかというと私の学校の制度のおかげだった。
私の学校は単位制で三年間で必要な単位を取得すれば卒業出来る制度の学校だからだ。

ただ私はそれに甘えて、一、二年と全く勉強をしてこなかった。

こんな私が加奈と一緒の高校に行く事自体、間違いだったのだと今は思う。


自分のレベルにあった所に受験していれば、こんな事にはならなかったはず。
今更、そんなたられば話をしたところで何にもならないけど。


「勉強苦手なのは分かるけど、勉強するしか卒業の道は無いんだよ?」


加奈の正論がグサグサと心に突き刺さる。
言いたいことは間違ってないし、分かるけど。勉強してできるようになるならとっくに勉強していた。
どんなに勉強してもできない苦しみはきっと加奈には分からない。


「そうだけど。正直、厳しいんだよね。授業にも、全然ついていけてないし。先生から自主退学も勧められてるしさ」


「退学って。それ、かなりやばいじゃん。バイト、少し減らしたら?」


「それは無理。
おばあちゃんの年金と私のバイト代と、あと、親が残してくれたお金で今は何とか生活できてるけどその貯金だっていつ尽きるか」


「大変なのはわかるけど、せめてテスト期間中だけでもさ。
じゃないと、後々取り返しつかなくなるよ!卒業出来なかったら、もう後は無いんだから」


確かに加奈の言う通りだってことは分かっていた。誰が聞いてもそう言うだろう。
でも、そんな簡単じゃない。生活費の心配もあったけど、どこかでバイトを言い訳にしている自分もいた。
バイトをしているから勉強する時間が無かった。そういえばそれが言い訳になる。言い訳したところで何もメリットはないのだけど。
バイトを減らして勉強の時間に費やしたとしても、それでも、卒業できなかったら。自分の馬鹿さ加減に落ち込むのは目に見えていた。



丁度頼んでいたドリンクが、私達の席へと運ばれてきた。
加奈はストローをさして一気に吸い込んだ。



加奈は、どんな時も完璧で私なんかとは比べものにならない。
だけどたまに、そんな加奈が遠くに感じる事がある。


何で、私なんかと仲良くしているのか。
こんな事、考えている事自体おかしいのかもしれない。
でも、どこかで加奈と自分を比べてしまう。


そんな自分にたまに嫌気がさす。



加奈に言われた通りバイト減らしてもらえるように頼もう。
そう決意したばかりなのにバイト先に着いたら足がすくんだ。


大野(おおの)さん、申し訳ないんだけど来週少しシフト増やしてもいいかな」


店長からの頼みは嬉しかった。
頼られることが嬉しかった。
先生からも、友達からも頼られることなんてないから。
馬鹿とか言われてため息とかつかれるだけ。
「柚子ってほんとアホだよね」って笑ってくれる友達がいるから私のポジションは保たれていた。
こんなに頭が悪い私の傍にいてくれて感謝はしてる。してるけど、多分私がいなくなったところで別に大したことないのが本音。

だけど、バイト先の店長だけは違っていた。
いつも頼りにしてくれて、「ありがとう」って言ってくれて。
だから私ももっと頑張りたい。もっと力になりたい。


「大野さんほんとにいつも助かるよ!大野さんいないとうちはまわらないからね」


店長は嬉しそうにシフト表を書き換えていた。
あぁ。終わった。また断れなかった。
断れるわけないよ。断れないよ。
だってここが、唯一私の存在意義を見いだせる場所だから。



「ただいま……」



家に帰ると、おばあちゃんの作る煮物の煮えた良い匂いがした。



「お帰り、柚子ちゃん。ご飯できてるよ」


おばあちゃんの優しい笑顔に心が痛んだ。


「おばあちゃん、あのね……」


言葉が詰まる。
言わなきゃいけない。卒業できないかもしれないって。
だけど、おばあちゃんのあの笑顔が曇るその瞬間を見たくなくて……

私の両親は私が幼い頃に他界した。
父は私が生まれて直ぐに事故にあった。
母はそんな父を追うようにしばらくして病気が発覚して亡くなった。


私がおばあちゃんの家に来たのは小学生の時。
それまで養護施設で育てられていたんだけど、おばあちゃんが私を引き取ってくれた。

柚子花(ゆずか)。私の名前の由来は母が柚子の花が好きだったかららしい。
おばあちゃんから聞いた話で直接両親から聞いたわけではないから定かではないのだけど。
柚子の花言葉には「健康美」とか「汚れなき人」って意味があるらしくて、
元々体の弱かった母が健康に育って欲しい。そして、綺麗な心を持てる人になって欲しいって願いが込められているんだとか。
おばあちゃんは、私の事を"ゆずちゃん"と呼ぶ。なんでかは分からないけど、初めておばあちゃんの家に来たその日からそう呼ばれていた。

そのせいか、友達からは"ゆず"と呼ばれている。

両親がいなくて寂しいこともあったけど、おばあちゃんは色んな所に連れて行ってくれて色んな事を教えてくれた。

おばあちゃんは私の親代わりでもあり、唯一の家族。

そんなおばあちゃんの作る料理は、いつも美味しくて、私にとってのおふくろの味。
ふわっと香るだしの旨味が口いっぱいに広がる。


「私……卒業できないかもしれない……」


おばあちゃんの顔は怖くてみれなかった。
脂が分離した煮物に視線を落としておばあちゃんの言葉を待った。
静寂に包まれた居間は息が詰まるほどだった。


「そっか。残念だね」


そう言われてゆっくり顔を上げると、その表情はいつもの優しい笑顔のおばあちゃんのままだった。


「それだけ?怒らないの?」


「どうして?怒らなきゃならないの?」


「だって、私バイトばっかりして遊んでばっかで勉強サボってたから卒業できないんだよ」


威張って言えることじゃなかったけどおばあちゃんの反応があまりに予想外のもので、私はついそんなことを言ってしまった。

そんな私におばあちゃんは箸を置いてこう言った。


「怒れないよ。だって柚子ちゃんがずっと頑張ってきたのおばあちゃん知ってるから」


おばあちゃんのしわだらけの笑顔が私の瞳に飛び込んできて目頭が熱くなった。


「柚子ちゃんは、両親がいなくて辛いこともあったはずなのに、いつも明るく行ってきます!ただいま!って笑顔でいくてくれた。
おばあちゃんね、それだけで嬉しかったんだよ。おばあちゃんの方が元気貰って生きる糧になってたんだ。
高校受験の時だって、お友達は皆塾に通ってたのに家は通わせてあげられなくても文句一つ言わず努力してた。
生活費稼ぐためにどんなに疲れていても学校終わってからバイト頑張ってくれていたの知ってるから。
柚子ちゃんに怒ることなんて何もないよ。卒業できなくてもなんとかなるよ、きっとね」


そんなふうに言わないでよ。もっと怒られると思ってたのに。
どうしてそんなに優しいの?
おばあちゃんはいつだってそうだった。
どんなにダメダメでも「よく頑張ったね」って言ってくれた。
落ち込むことがあっても、おばあちゃんに抱きしめられると肩から荷が下りるみたいになって、
明日も頑張ろうって思えて。
だから、今だって。

情けなくて悔しくて、勝手に涙が溢れだした。

おばあちゃんに甘えることしかできない自分が嫌で嫌で仕方がなかった。


「ごめんね」

口から出たと思えばそんな言葉しか出なかった。


「柚子ちゃん、泣かないで」


おばあちゃんはまた優しく笑った。



「ありがとうございました。またお越しくださいませ」


あの日からずっと考えていた。卒後できなくてもいいとおばあちゃんは言ってくれたけど、それじゃ駄目だってことは自分が一番分かっていた。
でも、だからってバイトを休むこともなく今日もこうしてお金を稼ぐ日々。
私の本業はここじゃないのに。


「大野さん、お疲れ!上がっていいよ!」


店長の声にハッとして時計に目をやった。
時間はどんな時も正確で決して狂うことはない。
六十秒経てば数字が一つ増える。乱れることがないなんて羨ましい。


「店長、高校生じゃなくなってもここで雇ってくれますか?将来正社員とかなれますか?」


どうしてそんなこと言ってしまったのか。店長を困らせてしまうことは分かっていたのに。
案の定、店長は眉をひそめながら、「まぁ、うちも経営いいわけじゃないからね、正社員は正直難しいかもね」
いつも頼りにしてくれるのは、バイトとしてよく働いてくれるからってだけ。
結局会社にとって都合の良い存在でしかない。あんなに頼りにしてくれていても、正社員になれるかはまた別の話で、そういうのって情とかじゃどうにもならないんだと思う。

ましてや、私が中退者だったら尚更なんだろう。

こうして今日もバイトを減らしてもらうことを言えないまま中間テストを迎えようとしていた。


「バイト休めそうなの?」


いつものカフェで加奈から訊かれた。
今日はなんとなくその話になる気がしていた。


「うん、なんとか!うちの店長割と融通きくからさ!」


なんとなく噓をついてしまった。
そう言わないとまた責められる気がしたから。


「そっか!良かったじゃん!」


加奈の嬉しそうな顔を見るたび、罪悪感に苛まれる。
私には分からない。どうしてそんなに喜べるのか。
バイト減らして勉強に専念したところで卒業できる保証なんてどこにもない。
加奈はいつだってそう。いつだってそうだった。
いわゆる一般的な人生を正解とし、そうでない人生は間違いみたいに言う。
でも、加奈のいう人生がいつも正しいとも限らない。そう思いたかった。そうでもしないとやっていけないから。


「頑張ろうね!」


頑張ろうか。
頑張ろうなんて言わないで。頑張るのはいつだって私だけなんだから。
加奈のことは好きだし、大事な友達。
だから、こうやって一緒にカフェにも行くし相談もする。
一緒にばかやって楽しくて。ずっと友達でいられたらって心からそう思う。
それでも、私と加奈の生きてる世界は違って見える。
本当はバイトなんかしなくても困らない生活がしてみたい。
何不自由なく暮らしてみたい。
加奈といるとそんなことを考えてしまって
加奈のことを羨ましく思うことがある。


夜道を一人歩いていた。
上に視線をやると綺麗な満月が光っていた。
立ち止まって、暫く月を眺めた。
罪悪感。未来への不安。今の自分が嫌い。
勉強だって言い訳せずに全力でやればいいのに。
加奈のことだって自分のことを棚に上げて言い訳してるだけ。


「あの……」


月に夢中になっていた私に近づいてきたその影はスーツに身をまとった壮年の男だった。
私は身構えて「なんですか・・・・・・」と答えた。



「私こういうものでして・・・・・・」


差し出された名刺には”黒木(くろき) 啓二(けいじ)”と書かれていた。
名前の左上には”執事”の文字。


誰かの執事なのだろうか。
今までの記憶を巡らせたが、やっぱり黒木なんて人思いつかない。
身に覚えのないその男はこう続けた。


「実はあなた様にお願いがありまして……お嬢様の代わりになってくださいませんか」



何を言われてるのか理解ができなかった。
何か人違いをしているのか。それとも新手の詐欺かなにか。
でも、その男の表情は真剣そのものだった。
決してふざけているようには見えなかった。



「えっと……すいません、よく分からないんですけど、お嬢様って誰ですか?」



御縁(みえにし)ホールディングスのご令嬢の御縁 マリアです」


御縁ホールディングスってなんか聞いたことある。
確か超一流企業だったような……
でも、だとしたらなんでそんな大企業の人が私に?やっぱり怪しい。


「ここだけの話、お嬢様は先月から行方が分からなくなっております。簡潔にご説明しますと家出をされまして。
近々、会社の三十周年セレモニーがございます。会社にとっても大事な場ですのでお嬢様にもいていただかなくては困るのです。
そこで、あなたにお嬢様の代わりをしていただけないかとお願いに参りました。
勿論、無料(タダ)でとは言いません。先ほど、ご友人の方と話されているのを耳にしたのですが、卒業ができないとか。
もし、お嬢様の代わりをしてくださるのなら私共が責任をもってあなたの卒業をお約束致します」


その男の話はにわかにも信じがたい内容だった。だけど、卒業というワードが今の私には無視できなかった。



「そんな話、信用できるわけないじゃないですか!そもそもなんで私なんですか?お嬢様の代わりってそんなのすぐばれるに決まってます。
それに、卒業約束するって一体どうやって?替え玉でもしてテスト受けさせるんですか?そもそもよく分からないあなたの話を鵜吞みにはできません」


私の言葉に男は顔色一つ変えずに話を続けた。


「おっしゃるとおりです。こんな話信じられないのは当然のことです。
ただ、お嬢様の代わりはあなたでなければ務まりません。理由はたったひとつ。顔がそっくりだからです」



その写真に写っていたのは煌びやかな衣装を身にまとった私そっくりの別人だった。



「卒業の件は交換留学制度を利用します。実際に海外には行きませんがお嬢様として過ごしている間は海外に留学していることにします……」



「ちょっと待ってください!留学ってセレモニーに出るだけじゃないんですか?そんなに長い間なりすますんですか!?」



「お嬢様が見つかるまでは。私共も全力探しております。
留学中に取得した単位が在籍している学校に還元される制度になっておりますため、成績が良ければ必ず卒業できます。
成績表等はこちらで準備させていただきますのでご心配にはおよびません」


出来すぎた話だった。それに留学って。加奈とも会えなくなるしおばあちゃんとも。
そんなの絶対に嫌。そんな話に乗るほど私は馬鹿じゃない。



「要するに留学したていにして、留学中の成績が良かったと証明できれば高校を卒業できるってことですか?
そんな虫のいい話で私を騙せるとでも思いました?」


強気な態度に出た私の手は震えていた。


「そうですよね。分かりました。お時間取らせてしまって申し訳ございませんでした」


男はそう言うとあっさりと引き下がってしまった。
なんだったんだ一体。
肩の力が一気に抜けた。


家につくと、私は直ぐにスマホで検索をかけた。


御縁ホールディングス。
総資産千兆三千九百七十億円!?
日本では群を抜くトップ企業だった。

コマーシャルで目にすることはあったけど、そんなに凄い企業だったとは。


「御縁ホールディングス?あー聞いたことある!確か有名な企業だよね?」

私の友人もここの企業のことは知っているみたいだった。

「何やってる企業なんだっけ?」

「色々やってるみたいだよ。証券とか不動産とか、製薬会社とかもやってるんだー。子会社とかもあるみたいだし相当稼いでるねこの企業」


そうなんだ……そんな会社の人が……もし昨日の人が本物だとしたら……


「でも、なんでいきなりそんな会社の話?」

「あ、あー知り合いがねその企業で働いててさ……」

「えーいいなぁー、知り合いって?ねぇー紹介してよー!」


黒木。この男の人が御縁ホールディングスのお嬢様の執事。まさかまさかね。


「盛り上がってるとこ悪いんだけど、大野ちょっといいか?」


昼下がりの午後、担任に呼び出されるのは決まってあの話だ。
私は覚悟を決めて職員室に向かった。


「大野、正直言いにくいんだが……」


「卒業できないんですよね」


覚悟はしていた。



「次の中間ですべての教科平均点以上を取れば一旦は大丈夫だけどな」


全部の教科平均点なんて無理だ。
それに、今回の中間でよくてもまた期末で点数が悪ければ……


「前にも話したと思うが自主退学なら今から通信制の学校にも通えると思うし、先生も大野の進路一緒に考えるから……」


もういいよ。そんな話聞きたくない。
要は、退学処分にしたくないから自主退学しろってことでしょ。
テストまで粘ってもいいけど、私の学力じゃどうせ受けたって無駄なのが分かってるから。
だったら、決断は早い方がいいってそういうことでしょ。


職員室から出ると加奈が心配そうにこちらを見つめていた。


「柚子、大丈夫?」


「退学進められちゃった。やっぱ学校側も庇いきれないんだね」


笑いながら答えた。笑ってないと涙が出てしまいそうだったから。
こんなこと泣きながらなんて言えないから。



「でも、中間で成績良かったら残れるんでしょ?」


「成績良かったらって、全部の教科で平均点以上だよ?無理だよそんなの無謀だよ」


「でも諦めたら……」


「諦めろって言われてるじゃん。学校からはもう!」


「じゃ、退学するの?」


そんなこと聞かないでよ。答えなんて一つしかないことわかるじゃん。


「加奈はいいよね。所詮他人事だもんね」


頑張れ、頑張ろう。そうやって言うだけ。
私の人生一生面倒見てくれるわけじゃないのに。
簡単に諦めるなとか、大丈夫とか。もううんざり。
心配してくれるの嬉しいよ。でも、心配するだけ。それ以外何もしてくれない。
何もできないのが当たり前なのは分かってるけど、それならいっそ何も言わないでほしい。
分かったようなふりして、親身になんてならないでほしい。

私は電話をかけた。


「あの、まだ見つかってませんか?」


呼び出されたのは加奈とよく行く若者が集うカフェだった。


「お待ちしておりました」



呼び出されたのは加奈とよく行く若者が集うカフェだった。


「私、お嬢様の代わりやります。そのかわり卒後本当にできるんですよね」


「はい。勿論お約束します」


「どうすればいいんですか」


「こちらの書類を学校に提出してください。受理されましたらいよいよお嬢様としての生活が始まります。
こちらも時間がありません。直ぐに出発できるよう荷物をまとめておいてください。
出発当日は最寄りの駅までお迎えに上がります。この事はご家族ご友人にも一切話してはいけません。くれぐれもご内密にお願い致します。
もしこの事実が明るみに出た場合、卒業はできなくなりますので」


淡々と話す口調はまるで世間話をしているかのように緊張感がなかった。

契約書とかはなく単なる口約束で本当に信じていいのかと何度も思った。
でももう、引き返せない。
引き返したところで退学する現実は変わらない。
いっそ大きな賭けに出て人生が変えられるなら。


その日の夜はあまり眠れなかった。
加奈とのこともあったし、これからのことへの不安も。
おばあちゃんを騙すことも。私は我ながら最低だと思う。
周りの人たちをこんなにも巻き込んでおいて、いけないことだと分かっていて自分の保身のためにこんなこと。
窓から見える月はあの時見た月とは全然違う形をしていた。


「おはよう。柚子ちゃん、今日は早いのね」


おばあちゃんの顔を見たらやっぱり言いたくないと思ってしまった。


「おばあちゃん、話があるの」


おばあちゃんは改まった話だと察したように、水道の水を止めて席に着いた。


「あのね、私留学したいの」


胸が苦しくて、おばあちゃんの目を真っ直ぐ見るのは怖かった。
許してもらえるわけない。どうやって説得したらいいかそればかりが頭を巡らせた。


「驚いたけど……柚子ちゃんが決めたことならおばあちゃん全力で応援する」


「え、それだけ?」


「他に言ってほしいことあった?」


「いや、そうじゃなくて絶対反対されると思ってたから」


そうだった。おばあちゃんは私に反対したことなんてなかった。
むしろ、どんな時も肯定してくれていつも見方でいてくれた。


「私は柚子ちゃんじゃないからね。柚子ちゃんの人生は柚子ちゃん自信が決めたらいいと思う。
それがもし間違った決断だったとしてもきっとそれは人生の糧になるはずだから。
迷ってるなら相談に乗るけど、もう決めたことなんでしょ?」


「うん」



おばちゃんはそれを聞くと、「よし!」と言ってまた台所に戻った。



「ごめんね、おばあちゃん」その言葉は聞こえてないようだった。聞こえなくて良かった。


学校へと向かう道のりはいつもと同じはずなのにいつもと違って見えた。
今ならまだ引き返せる。学校の前で足が止まった。
いや、引き返せない。もう後戻りはしない。
息を吸って吐いた。一歩踏み出す足ってこんなに重かったけ。

職員室の扉を二回ノックして、昨日、黒木さんから受け取った書類を担任の先生に提出した。



「大野、本気なのか?」



先生の反応は予想通りだった。



「知り合いがそういうのに詳しくて。向こうで単位取れたら卒業できるんですよね」


「まぁ、そうだけどな。けど、思ってるより大変だそ。大野は英語もなぁ……」


「分かってます。でも挑戦したいんです。お願いします」


先生に頭を下げる日が来るなんて思ってもいなかった。
頭を下げたら顔を上げるのがこんなに怖いこともしらなかった。


「そこまで言うならやってみてもいいけど」


「ほんとうですか!ありがとうございます!」


卒業が確約されたわけじゃないのに、凄く嬉しかった。
あの人の言うことを全て鵜吞みにしているわけじゃない。
少しは信じているけど卒後できるなんて噓かもしれない。
そう思っていてもこのままじゃ駄目だと気付いたから。


「柚子、どういうこと」


曇った表情でこちらを見つめてくる加奈の目は腹立ちのようにも見える。


「ごめん。もうこれしか方法がなかったの」


「留学って。そんなのそれこそ無謀だよ。なんで言ってくれなかったの?どうして相談してくれなかったの?
なんで一人で決めちゃうの?私たち親友でしょ?」


親友。親友だって思ってくれてるなら応援して欲しかったよ。
親友ってそういう時応援してくれるんじゃないの。でも、加奈はそういう人だった。


「親友だから言えなかったんだよ。親友だから加奈は反対したでしょ?加奈は現実主義だから」


「当たり前だよ。留学するってどういうことか分かってる?授業も日常会話も全部英語なんだよ。
ホームステイ先の家族とだってコミュニケーションとれるの?いじめられるかもしれないんだよ。そういうの、全部分かってるの?」


「分かってるよ!そんなの分かってる!じゃ加奈は、退学しろって言いたいの?」


「違うよ!真面目に勉強すればいいじゃん!どうして逃げるの?現実から目をそむけたって何も変わらない。
自分が変わろうとしなきゃ何も変わらないよ!」


正論で返ってくる言葉は何も聞こえなくて、耳を塞ぎたくなって、耳が痛くて。
加奈のこと好きだけど大好きだけど、今は何も言わないでほしい。もうこれ以上何も聞きたくない。何も言わないで。
これ以上聞いてたら加奈のこと……


「勉強すればっていっつも簡単に言うよね。勉強しないんじゃない。できないの。
加奈には分からないよ。勉強できない人の気持ちなんて。いつも成績優秀で、卒後できないかもなんて今まで一度も思ったことないでしょ。
それが、どれだけ辛いことか。加奈には分からない。分かってなんてほしくない!」


ほんとうは分かってほしかった。全部分かってほしかった。
加奈には分かってほしかった。



「だったら、もう勝手にしたら。それなら最初からそうすれば良かったじゃん。いちいち相談なんかしてこないでよ」


突き放された瞬間だった。
加奈は何も間違ったことは言ってない。
私のことを思って言ってくれていたことだった。
自分に自信がなくて共感してくれる人を求めていてそれを加奈に押し付けていただけ。
大事な人こそ大切にしなきゃいけないのに。失われるのは一瞬だった。


グループでいる時はお互い何事も無かったように接した。
出発を来週に控えた私はグループの友人たちにいつ言い出そうかとタイミングを伺っていた。


「柚子、話あるんでしょ」


加奈は私に冷たい視線を向けている。
言わずにいなくなるなんて許さないって言われてるみたいだった。


「実はさ……」


話終わった後、皆んなの顔を見渡した。
驚いて何も言葉が出ないような顔をしていた。


「ごめん」


この場にいられなくなって私は席を外した。
どこへ向かうつもりでもなかったけど、気がつくと屋上へと向かっていた。
追いかけてくる人なんて一人もいなかった。
友達なんてそんなもの。それが友達。
分かっていた。分かっていたつもりだった。
なのに、どうして。
涙が止まらなかった。
授業開始のチャイムが鳴って廊下から人が消えていく。
こんなはずじゃなかった。私の人生こんなはずじゃなかったのに。
屋上の扉は案の定鍵が閉まっていて入ることはできなかった。
階段に腰を下ろした。
静かだった。鼻を啜る音だけが響いていた。

とりあえず保健室で休むことにしたけど、
熱なんてなくて、「体調戻ったら教室戻りなさい」と先生に言われた。
仮病だってことはバレていたけど、なんかもうどうでも良かった。
結局、六時間目の授業まで教室に戻ることはなかった。
保健室を出るとそこにいたのは加奈だった。


「柚子、鞄持ってきたよ。一緒に帰ろ」


その光景にまた、涙が溢れ出した。


「柚子、どうしたの?大丈夫?」


心配されるのが辛くて痛くて情けなくて。


「ごめん、大丈夫」


そう答えるのが精一杯だった。

加奈には全部お見通しだった。
私が保健室にいることも一人で泣いていたことも。


「さっきはごめんね。あんな言い方して……」


「加奈が謝ることじゃないよ。私こそ加奈に酷いこと言ってごめん」


加奈は私の少し前を歩いてこちらに振り返った。


「向こうでも頑張ってね!」


言って欲しかったはずの言葉だったのに、
全然嬉しくなかった。
応援して欲しいって思っていたはずなのに。


「加奈!」


先行く加奈を呼び止めた。


「戻ってきたらさ、またカフェ行こうね!」


加奈は大きく頷きながら悲しそうに笑った。



バイト先にも辞めることを伝えた。
店長に辞めることを伝えるのは勇気が必要だったけど、案外あっさりしていて「そっか。残念だけど仕方ないね」と言われた。
頼りにされていたと思っていたから、もっと引き止められたり困らせたりすると思っていたけどそういうのは無かった。
そんなものなのかもしれないけど、結構頑張って仕事してたんだけどな。シフトだって無理言われても出てたんだけどな。




「柚子ちゃんおかえり」


家に帰るとおばちゃんの作るお味噌汁の香りがした。
おばちゃんのしわだらけの笑顔を見たら、離れたくないと思ってしまった。


「おばあちゃん……」


泣いたってどうしようもないのに。全部自分が悪い。
こうなったのだって勉強しなかったから。そうじゃなきゃこんな選択しなくて済んだ。
自分がいけないってわかってるのに、ここにいたいと思ってしまう自分がいた。


「柚子ちゃん……行きたくないなら行かなくてもいいのよ。卒業のこと気にしてるならおばちゃん大丈夫だから」


いっそのこと叱ってほしかった。叱られたら叱られたで辛いけど、こうやって優しくされるのも辛かった。
そんな風に言われたら甘えてしまいそうだから。
自分で自分をまたあまやかしてしまいそうだから。


「ううん。大丈夫。違うから……そうじゃないから」


おばあちゃんは私の背中を優しくさすってくれた。ゆっくりと静かに。


出発の前日、黒木さんからの電話をうけた。



「出発の準備は順調に進んでおられますか?」

「はい……」

「明日はひとけの多い昼間は避けたいので、夜駅までお迎えに上がります。八時でよろしいですか?」

「はい……」

「この事は誰にも話していませんね?」

「はい……」

「では明日駅でお待ちしております。お気を付けて」


電話は一方的に切られた。
持ち物とか気を付けた方がいいこととか、聞きたいことは沢山あったのに。
でも、持ち物も気を付けることもないか。
向こうは一流企業のお嬢様なんだから。
困ったことがあったら執事が対応してくれて、欲しいものはなんでも揃っていて不自由なんてない。
それなのに、なんで家出なんか。
家出なんかしなければ、私はここにいられた。でも、家出なんかしなければ私は卒業できなかった。
不幸中の幸いなのか。それとも幸いなのかな。



家で食べる最後の夕食は私が好きなハンバーグだった。
初めてこの家に来た日もおばあちゃんがハンバーグを作ってくれた。
おばあちゃんのハンバーグは和風味で大根おろしが乗っている。
脂っぽい食事が苦手なおばあちゃんが私の為だけに作ってくれるハンバーグ。


「美味しい?」


「うん!凄く美味しい」


最後の晩酌ってこんな気持ちなんだ。
もっと悲しくなるかと思っていたけど、それよりも今この最後の時間を楽しみたいと思った。


「おばあちゃんはさ、
私がやりたい事だから反対はしないって言ってくれたけど、
もし、私がやりたい事じゃ無くても、おばあちゃん賛成してくれた?」


おばあちゃんは、少し考えたあと私の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。


「そうね……でも、柚子ちゃんが納得して、
決めた事じゃなかったとしても、そうするって決めたのは柚子ちゃん自身でしょ?」


その通りだった。
身代わりになる事を引き受ける事にしたのは、結局自分の意志なんだ。
勉強をするって選択肢もできたはず。退学するって選択肢だってあった。
それでも、身代わりになることを選択した。


「おばあちゃん、私しっかりやってくる」


決意表明だった。
決して誇れることはしていないけど、皆を騙して最低だと思う。
取り返しのつかないことをしてしまったと思う。
もし、この事が学校にバレたら退学どころじゃ済まされないと思う。
それでも私はもう一人の私としてこれから生きていく。


ここまできたんだ。

なんとしても、成功させよう。自分自身の胸にそう強く誓った。


夕食を食べ終わって待ち合わせまでは少し時間があった。

なんとなく中学の頃のアルバムを見返した。
加奈と一緒に写ってる写真ばかりだった。
思い出は一生残り続けるのに、どうして忘れてしまったのかな。
こんなにいつも傍にいてくれていたこと。
加奈のこと一度でも悪く思ってしまったこと、今さら後悔した。
もっと、ちゃんと向き合えばよかった。
見栄を張らずにもっとちゃんと打ち明ければよかった。
そしたら、なにか変わっていたかもしれなかった。
いつも見方でいてくれて、そういえば受験の時もそうだった。
加奈も受験で大変なのに「一緒に受かろう」って言って塾に通えない私のために一緒に勉強してくれた。
毎日毎日、来る日も来る日も。
自分の為じゃない。私のために加奈は勉強を教えてくれた。
先生さえしてくれなかったことを見返りなんて求めずに。
どうして忘れてしまっていたのだろう。一緒にいていつの間にかそれが当たり前になって。
羨ましいって思うようになって。
加奈はどんなことがあっても私の味方で私の隣にいてくれた。
思い返せばいつも私のことばっかりで加奈の悩み聞いてあげたことなかったな。
この間だって結局最後は加奈が折れてくれた。言いたいこと沢山あったはずなのに。応援してくれた。


留学する日よりも前に学校には休みをもらっていて、
出発の日は伝えたらいけない約束だから加奈にも伝えられなかった。
先生にも出発の日は別日を伝えていた。

だから勿論、見送りなんて誰もいない。
来られても別れがつらくなるだけだから、それはそれで困るんだけどね。

夜道を歩くのはバイト帰りで慣れているはずなのに、今日は少し違っていた。
足が震える。顔がこわばる。
空を見上げたら、今日は月が見えなかった。


「お久しぶりです」


黒木さんは前に会った時と変わらず淡々としていた。
この人には不安とかないのだろうか。
動じないというか、感情がないというか。
一流企業のお嬢様の執事だけある。それくらいじゃないときっと務まらないのだろう。
私とは住む世界の違う人。この人のもとで私はこれから生活していくのか。


「どうか、しましたか?」


黒木さんは首をかしげながらこちらをみた。


「あの、一つだけ確認したいことが……」


「なんでしょうか?」


「私は頭も悪いし、育ちもいいとは言えません。
そんな私がほんとうにマリアさんの代わりなんて務まるのでしょうか」


私の顔は不安でいっぱいな顔をしていたに違いない。
鞄を握りしめて黒木さんの言葉を待っている時間が最も耐え難い時間だった。


「それはあなた次第です。こんな言い方をするのは少々乱暴かもしれませんが代わりなんていくらでもいます。
バイトも友達も……親も。代わりになろうと思えばなることはできます。ただ、務まるかどうかは別の話です。
そして、お嬢様の代わりになれるのはあなただけです。あなたしかいません。
それを務まるかと聞かれたら、正直それは分かりません。あなたがどれだけそこに努めようと思えるかどうかですから」


ぐうの音も出ない。
ほんとにそうだ。その通りだ。
結局、自分次第でどうにでもなる。言い方を変えれば自分次第でどうにでもなれない。
黒木さんの言葉は今までの私を物語っているみたいだった。


「これから、よろしくお願いします」


こうして、私の偽りの人生が幕を開けた。