もうすぐ、”その日”が終わる。
 僕は部屋に戻った。部屋では海里が待っていて、優しい声で「おかえり」と言ってくれた。僕の涙で腫れた目を見たときには、結絵と同じように背中を擦ってくれた。その優しさに、僕は再び涙を流す。
「もう、後悔はないか?」
 海里が僕に聞いた。僕は少しだけ考えてしまう。後悔がないといえば嘘になる。けれど、後悔しかないかと問われればそれも違う。お互いの記憶が消えてしまうことには後悔しかないけれど、でも最後に、こうして結絵と会えたことは良かったことなのではないかと思う。もちろん、これからの人生で二人が会話することがない可能性だってある。もしかしたら、これから出会うこともないかもしれない。けれど、きっとまた、世界のどこかで会えるという結絵の言葉を信じて、僕は大きくうなずいた。
「―――うん、大丈夫。あとは戻るだけだね、向こうの世界に」
 声を出した途端に思いがこみ上げてきて、語尾が震えてしまった。僕が袖で必死に涙を拭っていると、海里が「これ使えよ」と言ってハンカチを差し出してきた。僕はさらに震えた声でなんとかお礼を伝える。
「ありがとう。なんか、僕、迷惑かけっぱなしだよね・・・」
 海里が驚いた顔で僕を見つめている。僕は笑ってもう一度、ありがとう、と呟いた。海里は照れたようで、少しだけ頬を赤らめながら僕の背中を叩く。
「っ早く寝ろ!ベッドに戻れ!」
「わかった」
 海里の照れている姿が可愛くて、必死に堪えていた笑いがついにこぼれてしまった。
「笑うな!お前が寝たら、お前はこれからも生きていけるんだ」
「わかったって。わかったからさー」
 僕は爆笑しながらベッドに座り、深い溜め息をつく。
「最後に確認していい?」
「うん」
「僕が目をつぶったら、結絵に関するすべての記憶が消えて、でも、色彩豊かな世界で暮らせるんだよね」
「そう」
 淡々とした話し方の中に込められた優しさと、今までの感謝に対して、僕はきっと最後の”ありがとう”を言った。
「ありがとう。今まで作ってきた結絵との思い出は消えてしまうけれど、僕は結絵との時間を一生忘れない。記憶が消えても、忘れない。忘れてしまっても、心の奥底で覚えてるから。もちろん、この海里と過ごした時間だって忘れない。絶対に、絶対に、絶対に」
 泣き声が聞こえるからどうしたのかと思ったら、海里が泣いていた。
「―――今日のこと、忘れてもいいよ」
 海里の言葉が、僕の頭の中をこだまする。僕は意味もわからず、次の言葉を待ち続けた。海里はしゃくりあげながら、止まらない想いを口にしていく。
「俺のことも忘れたっていい。俺が死んでから碧はずっと俺のことで泣いたり悩んだりしてくれていたけれど、俺は碧が俺のせいで泣いているのが悲しかった。悲しかったし悔しかったし、俺が生きてたらって、俺が生きてたら今も笑い合えてたのかなって思うと虚しかった。俺は、碧に笑っててほしかった。俺が最初っから存在しなかったら、こんな事にならなかったのにって思った。だから、俺のこと忘れたっていいけど、せめて笑っててほしい。俺は碧みたいに向こうの世界に戻ることはできないけれど、碧が笑っててくれたら俺だって嬉しいからさ」
 この言葉を聞いた時、いつもだったら僕はそのままうなずいていたと思う。けれどなぜか、その時の僕はうなずけなかった。それどころか、どこからか湧いてくる怒りを抑えきれなかった。
「忘れられるわけないって」
 僕の声が世界に響いた。海里は顔を上げて、僕の顔をじっと見つめる。
「え?」
「たくさん遊んで、話して、笑い合っていたのに急にいなくなった海里の事を忘れろだなんて、そんなの無茶だよ。今までどんだけたくさんの思い出を作ってきたのに、そんなの忘れろって海里は言ってんの?ふざけんなよ!」
 僕の声が裏返った。けれど、それくらい必死に伝えた僕の言葉はしっかりと、海里の心に届いていたようだ。こぼれ落ちる海里の涙につられて、僕まで涙してしまった。
「僕だって、僕だって何回も、僕の人生に海里が最初っからいなかったらって思ったよ。海里がいなかったら僕はこんな思いをしなくても済んだんじゃないか、とか、海里と関わりを持たなかったら良かったんじゃないか、とか、散々考えたよ。でも―――それでも僕は海里が好きだったから、好きだったから・・・!好きだったから、なのに、そんな海里のこと簡単に忘れられるわけないだろ・・・っ!」
 きっとこれで、僕が海里の前で話すのは最後になる。次に海里と話すのは、僕がおじいちゃんになって消えるときだろう。だから僕は、今度こそ最後の”ありがとう”をすべての思いを込めて伝える。
「海里―――ありがとう」
 きっと、二人の頬を伝う涙は輝いていただろう。
 僕は目を閉じる。結絵や海里との思い出が、フラッシュバックのように脳内に浮かび、そして消えた。