冬になったモノクロの世界の中で、呼吸の音だけが響き渡る。今にも崩れそうなこの世界を、私は必死に支えていた。
 私の世界はモノクロだ。もしかしたら、心もモノクロになっているのかもしれない。
 世界から本当に大切な”碧”が消えたその日の午後に、私の世界は灰色になった。
 ”碧”はいつも優しくて、私のことを見守ってくれていた。世界が滅びたとしても、ずっと一緒にいられると思っていたし、”碧”が私の世界から消えるはずがないと信じ切っていた。そんな夢みたいな話を、自分の胸で温めていた。
 私の世界が灰色になってから、SNSで絶対に泣くと話題になっている映画を見ても、心が動かされると噂の絵画を見ても、何も感じられなくなっていた。
 いつも私は考える。例えば、”碧”が帰ってきたとする。そうしたら、私の世界には色が戻ってくるのだろうか。博物館に行っても、美術館に行っても、映画館に行っても、みんなと同じように感動を味わうことができるようになるのだろうか。
 意味のない自問自答を、灰色の中で今日も繰り返していた。

 気がつけば私は、灰色のクリスマスローズ畑の真ん中にいた。見渡す限りクリスマスローズに埋め尽くされた世界の真ん中がぽっかり空いていて、そこに私は立っている。目の前には、小屋が建っていた。私の目線の先に一本だけ、人がギリギリ通れるくらいの細い道が続いていた。
「ここ、どこ?」
 見たことないクリスマスローズ畑を見渡しながら、私は一本道に向かって足を進める。
 ふと私の後ろで足音がして、驚きのあまり尻もちをついてしまった。振り向くと、見覚えのある輪郭が私の視線を捉えた。
「―――碧(あお)?」
 かすれた声が出る。目の前に立つ碧を見上げながら、私は世界に彩りが戻ってきていることを感じた。彩りが戻ってくるとより碧の輪郭がよりはっきりしてきて、私は思わず立ち上がる。私より頭一つ分くらい高い身長に、ほっそりとした体型。私には見覚えしかなかった。
「久しぶり、結絵(ゆえ)」
 懐かしい声が頭に響いて、私は一年ぶりに感動を味わった。この感情を抱いて改めて、私は碧が大切な存在なのだと実感する。
「碧!・・・久しぶり!」
 優しい笑顔を浮かべた碧が、私を手招きする。そこまで走っていくと、唐突に碧が言った。
「あのさ、話さない?久しぶりに会えたし」
 なぜか少しだけ切ない瞳を私に向けて、碧は聞いてくる。その瞳が何を意味しているのかを知りたかったけれど、私は気づかないふりをして大きくうなずいた。
 碧は私の返事を聞くと、その場で体育座りをしたから私もその隣に座ると、確かに碧の空気を感じ取れた。
「ねえあのさ、このクリスマスローズ畑ってどうしてあると思う?」
「え?・・・なんでだろうね?」
 含みのある碧の言い方が気になって、私は少しだけ詮索してみる。
「もしかして、碧がなにか知ってる?この場所の秘密」
「しっ、てるのかなー?でも、この場所の秘密をバラしたら今すぐに戻らないと・・・あ」
 慌てて口を塞いだ碧の表情はなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。けれど私は笑っていることを知られたくなかったから、強がってもう一度詮索してみせる。
「ほらー!碧知ってるんじゃん!この場所の秘密!・・・で?その中身は?教えて教えて!」
 前のめりになって詮索しても、詮索すればするほど碧が口を閉ざすものだから私は諦めて前を向く。私がクリスマスローズを眺めていると、隣から碧の深いため息が聞こえてきた。
「この場所の秘密、話したら今すぐ戻らないといけないんだよ」
「戻るってどこに?」
「それは言えない、けど・・・」
 碧の表情が少しだけ曇る。碧の周りが、まるでこれ以上は聞くな、とでも言うような空気になっている。少しでも空気を変えたい一心で、私は懐かしい思い出を投げかけてみた。
「そういえばさ、三年くらい前かな?キャンプ行ったの、覚えてる?」
「覚えてる覚えてる!めちゃくちゃ大雨だったやつだよね?テントが浸水しかけたやつ!」
 さっきの曇り空から一転、雲一つない無邪気な笑顔が碧の顔いっぱいに広がる。その笑顔は、私に幸せを感じさせてくれた。
「そうそう!なんか朝起きたら荷物がめちゃくちゃ濡れてて何!?みたいな!」
「しかもその日雨の予報じゃなかったから僕らめちゃくちゃ混乱して、みんなで慌ててテント片付けて」
「なんならお父さんたちも混乱してたよね。雨降ったことに」
「しかもその前に一緒に行った場所で晴れた日なんて全然なかったから、絶対僕らの中に雨男か雨女いるって騒いで!」
「そしたら結局私のお父さんが雨男だったからね。それでやっと私達が旅行に行ったときに絶対一日は雨が降ってる理由がわかったもん」
 碧と一緒にいると、特に意識しなくても言葉が出てくる。今までたくさんの時間をともに過ごして、色々なことをともに体験してきたからこその特権だ。それなのに碧は、まだキャンプの話をしていた。その様子は、もはや一人で語っているだけに見えてしまう。思わず笑ってしまうと、碧が不思議そうにこっちを向いてきた。
「どしたの?」
「ううん、あまりにもずっと一人で喋ってるものだからおかしくって」
 言うと、碧は少し不服そうに眉をひそめている。その様子がまたおかしくて、今度は本気で笑ってしまった。
「笑うなよ。僕はこの時間を満喫してるんだから。大体、僕のこと笑うくらいだったら自分から話題提供してよね」
「ごめんごめん。じゃあ、そうだなあ・・・」
 必死に考えたはいいものの全く話題が見つからず、今度は私が笑われる羽目になった。碧と同じような反応を返すと再び同じような反応が返ってきて、「デジャブ?」と二人して爆笑した。話している間にも私の彩りはどんどん戻っていって、いつの間にか世界は元通りになっていた。それどころか、彩りを失う前より輝いた世界にいるような気がする。お互い話が途切れることはなく、明日も来週も来月も、ずっとずっと何かを話し合えると思っていた。
 けれど、その時間は突然やってくる。

 あっという間に時間が過ぎて、色彩豊かなクリスマスローズ畑も夕焼けに包まれていた。
 碧の家族と私の家族と合同で遊園地に行った話。近所の川の河川敷で遊んでいたら蛇が出てきて二人で走って逃げた話。とにかく勉強が嫌いな碧に、私が教科書の内容をひたすら叩き込んでいた話。碧もその一つ一つに笑って反応してくれていたけれど、私が次に吐いた言葉に、碧は笑顔を引っ込めて再び切ない瞳を私に向けた。
「またやりたいなー。地獄の勉強会」
 突然の表情の変化に驚いていると、碧が「この世界のこと、なんだけど―――」と話を切り出した。
「実は、僕達がいるこの場所は、夢の中なんだ」
「―――え?」
 あまりの衝撃に何も答えられずにいると、碧がもう一回、同じことを繰り返した。さらにその先に、「多分これで、こういうふうに話せるのは最後になると思う」とも。
「―――あの何言ってるの?」
 思わず聞き返さずにはいられなかった。
「―――ごめん。急に言われてもわかんないよね。僕に説明させて」
「う、ん」
 碧の表情を見て断らないわけにはいかず、私は力なくうなずいた。碧は少しほっとしたように息をついてから説明を始めた。
「まず最初から説明させて。僕は今、病院にいる」
「―――は?」
「一年前、僕が結絵の前から消えた日の午後に交通事故に遭って今も病院にいる」
「じゃあ今ここにいるのは、幽体離脱してる碧、ってこと・・・で合ってる?」
「平たく言ったらそういうことにはなるけど―――」
「じゃあ、今ここで会えてる理由は?」
 私が聞くと、碧は下唇を噛んでそのままうつむいてしまった。けれど、私は碧にこの世界の謎と碧と今会えているという謎を解決するためにも、質問することしかできなかった。
「ここで会えてる理由は、僕が起きたら、僕の死んだ親友が冥界の司令官みたいな人からの指示で目の前に突然現れて、それで、あと少しでお前は目が覚める、とかなんとか言い出して、それでよくわからないこと言い出して・・・」
「だから何言ってるの?よくわからないことってどんなこと?」
「なんかその、世界の彩りがどうとか記憶がどうとか、そんな感じのこと・・・」
 それから碧から聞いた話は衝撃的なものだった。
 夢の中で私に会えば彩りは戻ってくるけれどお互いがお互いの存在を忘れ、そもそもいなかったことになるとか、会わなければ彩りが戻らずお互いの世界は灰色のままだが、お互いの存在は忘れずに済むだとか、現実なのか非現実なのかよくわからない話をたくさん聞かされた。
 そして私が何より驚いたのは、灰色の世界の話だ。私が灰色の世界で暮らし始めたのは碧が消えたその日の午後。碧は、ちょうどその時間に事故に遭っていた。碧曰く、灰色の世界になる原因は大事な人が突然会えなくなった瞬間で、碧は事故に遭うまで、大切な親友を突然失ったことが原因で灰色の世界で暮らしていたそうだ。
「それって―――」
「うん。たぶんだけど、大切な人を突然失った人はみんな灰色の世界で暮らすことになっているんだと思う。それが誰のせいかはわからないけどね」
「そっか―――。それで、碧と会えるのは今日で最後なんだよね」
 碧も目を伏せてうなずいた。私はもう一度、「そっか」と答える。
「ごめん。本当は最初に言うべきだったと思うんだけど、結絵の顔を見るとどうしても言えなくて」
 碧の表情が、さっきよりももっと暗くなる。気がつけば私の目には膜が張っていた。それでも、私は碧に元気になってほしくて、少しだけ強がってみせる。
「ううん、大丈夫!私は碧にとっての大切な存在なんだから、碧が記憶から消えても元気にやっていけるから!」
 そっと暖かい碧の手が、私の手を握った。
「ありがとう」
 ふと碧を見ると、頬が涙でぐしょぐしょになっていた。その横顔は太陽に照らされてとても輝いていて、碧の瞳は遠くを見つめていた。碧が私の手を握る力を少し強くする。私もぎゅっとその手を握りしめた。
「ほんっとうにありがとう。こんな僕がこんな事を言っても大切な存在でいてくれて、僕の記憶や結絵の記憶が世界から消えても、それでも僕を認めてくれて」
 碧の発言から、別れの時間が近いことが予測できた。涙が収まりきらなくなり、私は嗚咽を漏らしながらひたすら言葉を紡いでいく。
「そんなことない。私は碧のことを、ずっとずっと、絶対に―――忘れてしまっても、消えてしまっても、ずっとずっと想ってる。だから、そんなことで自分を追い詰めたりしないで。それに、きっとまた、世界のどこかで碧と会えるから。そしたらまたたくさん話そう。新しい思い出をたくさん作っていこう!ね!」
 私が言うと、碧はさらに涙を流しながら何度も「ごめんね」と言っていた。私は震える手で、碧の背中をひたすら擦る。碧は何度も咳き込みながら、やっと最後の言葉を言った。
「これからもずっと一緒。だから―――。だから、これからもずっと、お互い大切な存在で居続けるから―――。だから、今までありがとう。本当に、本当に―――」
 その言葉に私が泣き続けていると、気がつけば碧はいなくなっていた。
 碧がいなくなった途端に、冷風が私を包み込む。私は、逃げ込むように小屋に入った。
 そして、小屋の中にあった紙と鉛筆を持った。