引っ越しの荷物が全て運び出され、荷物やゴミも全て処理を終えた部屋の中に二人で立ってみる。
「終わりましたねぇ」
そう呟いた私の肩を、その人は優しくたたいてくれた。
「そうだなぁ。3年半だけだったのに、こんなに荷物整理が大変だと思わなかった」
「この私がニューヨークに来て、一緒に暮らせたんですよね。夢みたいですけど。大変なこともあったけど、いい経験でした」
「ありがとうな、結花……。いろいろ苦労もさせちまって」
「ううん。私こそ、先生のお仕事の大切なときに、ご迷惑をかけてしまうことになりました」
隣に立っている「先生」は、そんな私の頭をぽんぽんと叩いた。これはもうずっと変わらない。
「いいんだ。仕事は俺がいなくてもどうにかなるし、代わりもいる。結花は一人しかいないんだ。そっちの方が俺には大事だ」
もう、こういう台詞をさらりと言ってしまう旦那さまだから、職場でも愛妻家で有名だったって。
「陽人さん、鍵はどうするんですか?」
「もうすぐ小池が取りに来てくれる。車も一緒にこのあと返しちゃうから、今夜は空港前のホテルだ。しかし、今からだと確かにそれも暇だな……」
「最後までお世話になっちゃいますね。あの……、ホテルにチェックインしたら、地下鉄でダウンタウンに戻りませんか?」
「お、その顔は何か思いついた顔だな?」
陽人さんは笑っている。
「いいよ。その代わり無理しちゃダメだぞ?」
「はい、今日もいつものぺたんこ靴です。それに、まだ大丈夫ですよ」
もう一度、お家の中を見て回った。本当に何も残っていない。
二人で毎晩寄り添って休んだベッドも今朝運び出されてしまっていた。
「結花……?」
「いっぱい、いろんな事がありましたね」
「そうだな。結花が来てくれて、あっという間だった気がする。結花が初めてここに入って来たシーンは忘れられない」
初めてこの部屋に来たのは、3年前のクリスマス直前。一緒に飾りつけをして、そして私に生涯のお願いを誓ってくれた。
「あのツリー、日本で飾れますかね?」
「そのためにわざとこっちにしては小さいのを買ったんだ。今年も頼むぞ?」
「はい。また頑張ります」
陽人さんが私の髪をくしゃくしゃにかき回したときにドアベルの音がした。
「小島先生! お迎えにきました!」
「すぐ行く。結花……、いいかい?」
「はい」
私は部屋の扉を閉めて、陽人さんの後に続いた。私たちのお迎えに陽人さんの職場の後輩になる小池さんが来てくれていた。
二人のキャリーケースを持って玄関を閉める。
「じゃぁ、これで部屋と車は返すぞ」
「受け取りました。では空港までお送りします」
「空港前にいつも使ってるホテルがあるだろ、そこで降ろしてくれないか? どうせフライトは明日だ。ホテルから空港までの移動は自分たちで頼んでおくよ」
「分かりました」
小池さんの運転で、私たちは二人で後部座席に並ぶ。
「小島先生は結局3年半ですか?」
「そうだね。本当は去年の秋で任期切れてたんだけどなぁ」
「先生のクラスは人気ありましたし。みんな残念がってます」
「こればかりは仕方ない。仕事も大事だが、妻のことを考えると帰してやりたかったんだ。その代わり横浜校で専門クラスを受け持つ条件になったけどな」
陽人さんが私の手を握ってくれた。
「職場のみんな、先生の奥様が羨ましいと言ってます。こんな若くて可愛い奥さんにどうやって知り合えたのかとか、どうやったら先生にそこまで大事にしてもらえるかとかです」
小池さんの質問に陽人さんは笑った。
「それは言えないなぁ。でも、俺は結花へのプロポーズは必死だったぞ?」
「そうだったんですか? 小島先生ならさらっと出来てしまいそうなイメージですが」
信号待ちで振り返って私を見る小池さん。
「はい。その瞬間は嬉しくて泣いちゃいました」
「いいなぁ。俺もそういう出会いがしたいです。奥様みたいな美少女をどうやって射止めたのか知りたいですよ」
「あのなぁ……」
「いつか、小池さんにもチャンスがありますよ」
そう返しながら内心思ってしまう。
私たちのはきっと特別だよ。だって、本当なら禁じられた恋心から始まったのだからね。
それを知っているのは、本当に数少ない、そして信頼している人たちだけだもの。
通勤時間が終わってしまえば、ニューヨークの道の渋滞も酷くはない。1時間を予定していたけれど、それよりも早く目的地にした空港前のホテルに到着していた。
「これから授業なのに悪かったね。帰国したらいつでも遊びに来てくれよ」
「そのときにはまたお世話になります」
小池さんは私たちが使っていた車に乗って帰って行った。
これで私たちが持っているのは自分たちの身の回りの荷物だけ。滞在者というより旅行者みたい。
まだホテルのチェックイン時間には早かったけれど、予約を入れていたおかげで荷物は先にお部屋に入れておいてくれるという。
手続きを済ませてしまい、渡されたカードキーは午後4時から使えると説明してもらった。
貴重品と本当に身の回りの品が入った、先生はウエストポーチ、私は小さなリュックだけを持って、空港行きのシャトルバスに乗せてもらう。
ダウンタウンに向かうには、明日も乗ることになるシャトルバスで一度空港に行き、そこから電車に乗った方が早い。
1時間後、私たちは二人で3年の間に何度も歩き回った街に到着していた。
「もうすぐ昼か。腹減ったな。なにか買ってセントラルパークで食うか」
「賛成です」
途中のサンドイッチ屋さんで二人分と飲み物を買って再び歩き出す。
頭の中に地図は入っているから、二人で手をつないで最後のニューヨーカー気分を味わうことにした。
次にここに来るのはいつだろう。
そして、そのときは何人で来られるのだろう。
「懐かしいなぁ。最初の頃は地図を見ながらでも迷っちまったのに、それが嘘みたいだ」
「お巡りさんにも聞きましたよね」
当時はまだたどたどしい英語で、よくこの街を歩いていたものだと思うよ。
「陽人さん、ごめんなさい。昨日までお仕事でお疲れなのにお願いしてしまって」
「気にするな。俺も結花に用意を全部押しつけちまっていたからな。結花がいてくれて助かったよ」
「そのくらいしか、私が出来ることないですから」
ベンチに座って、一緒に包みを開く。
「やっぱり、私にはサンドイッチって特別なんですよね」
「そうか?」
「だって、私が初めて先生に作ったお弁当でしたから」
「そうだな。あのメニューは結花そのものだったな。シンプルで素朴なのにあれだけ美味いのを作れて、笑った顔は可愛くて、泣くとボロボロだし。絶対に他の奴に取られたくないし、守ってやらなきゃと思った。だから、ちょっとフライングしちまったがな」
「その真ん中あたりって褒めてます?」
「泣いたところも結花の魅力だ」
私と陽人さんが初めて気持ちを確かめ合った日、初めてのデートに眠れなくて、夜が明ける数時間前からサンドイッチをメインにしたお弁当を作った。
それを二人で食べ終わった後、陽人さんは私にお付き合いを申し込んでくれたよ。
それ以来、いろいろなお弁当を作ってきたけれど、あの時のクラブサンドは作っていない。あのメニューは私の中で特別なものだから。
「フライングなんかじゃなかったです。今でもあの時のことははっきり覚えてますから」
「そうだよな。本当に遅すぎたくらいだ。いろんな人に迷惑かけたな。佐伯とは今でも連絡取り合ってるのか?」
「もちろんです。ちぃちゃんには帰国のことは一番最初に伝えました」
「そうか、本当にいい友達を作れたよな。それだけでも結花の成長だ」
陽人さんは、今でも「高校2年生で私の担任の先生だった」あの頃と同じように頷いてくれた。
そう、これが他の人の前では話せない、私たち夫婦の出会いの秘密なの。
「本当!?」
お昼休み、あたしは授業時間に受信していたメールを見るためにスマートフォンを取り出して思わず叫んだ。
周りの学生たちがこちらを見ているけれど、いまのあたしには些細で気にするような事じゃない。
こんな中途半端な時間に連絡をよこすのはあの子しかいない。
仕方ない。なんせ相手はニューヨークに在住だ。日本との時差だって14時間ある。
ほぼ昼と夜が逆転してしまうから、リアルタイムにメッセージを交換できるSNSアプリを使うより、じっくりと時間をかけて読み書きができるメールでのやり取りの方が多い。
でも、こちらが平日だと分かっている時は送ってこないのに、何か緊急のことがあったのか……。
授業中に着信のバイブが鳴って、早く昼休み時間になれと時計を急かして、ようやく講義時間が終わって鞄のポケットから取り出した。
「やった! 大ニュースだよこれ!」
教室を飛び出して、キャンパスを学食に走った。
「和人! 大事件!」
学食の入り口で待っていてくれた彼の前に着き、これだけを叫んで両手を膝について息を整える。
1月の終わりで本当は寒いんだけど、コートも前を閉じずにそのまま走ってきた。
「千佳、どうしたんだよ。そんなに慌てて?」
あたし佐伯千佳と斉藤和人とは、高校1年の終わりから付き合いだして、もうすぐ丸5年になる。
それでも高校時代はあたしたちの関係は親どころか、たった一人にしか知られていなかった。
大学に入ってから交際を発表。
今ではお互いの両親からも、この二人はそのうちに結婚するのだろうと言われているし、昨年のアパートの契約更新を期に、下宿代の節約を大義名分に同居も許してもらえている。
和人が大盛りのカツカレー、あたしがスパゲティ・ナポリタンをそれぞれのお盆に載せて、窓際の席に並んで座った。
「そんなに慌ててどうしたんだ?」
いまだ落ち着かないあたしを見て、和人も何か一大事が起きていると理解したらしい。食事に手を着ける前に聞いてくれた。
「あのね、結花が帰ってくるの! 先生も一緒に!」
「マジか?!」
その瞬間、和人も目の色を変えた。
そう、「結花と先生」。
この言葉はあたしたち二人には絶対に忘れられない。そして、たったこの一言で和人の頭の中にもあたしが興奮している理由の全てが理解出来たようだ。
「どうやってそれが分かった?」
「だって、これ読んだら、結花が嘘ついているようにみえる? 結花はこんな嘘つかないよ」
あたしは、さっきメッセージが到着したばかりのスマートフォンを和人に渡した。
・・・・・
ちぃちゃんへ
こんばんは。って言っても日本はもうすぐお昼だよね。こんな時間にごめんね。
今日はちょっと大事なお話が決まったので、急いでお知らせすることにしました。
ちぃちゃんにもいろいろ迷惑とか心配かけちゃったけれど、もうすぐそれも終わりになるよ。
さっき、お仕事から帰ってきた陽人さんからお話をもらいました。
今度の春休みを目処に、私たち二人とも帰国します。
まだ詳しいことは決まっていないから、これからやらなくちゃならないこともいっぱいある。
でも、またちぃちゃんや和人くん、茜音さんや菜都実さんたちに会えるのが本当に楽しみ。
また詳しいことが決まったら、少しずつお知らせするよ。
帰ったら、また仲良くしてね。
小島結花より
・・・・・
「偽物じゃなさそうだな」
「うん、それはあたしも確認した」
まず第一に、あたしのことを「ちぃちゃん」と呼ぶこと。
小学6年生の時に初めて、一番親しげに呼んでくれた。あれから何年も経つけれど、この呼び方は今でも彼女一人だけ。
もう一つ、メールのタイムスタンプは昨日の夜になっているけれど、日本時刻のJSTではなくて、アメリカ東部時刻のESTになっていること。
これが決め手で、スマートフォンのアプリレベルで誤魔化すことは難しい。
つまり、約半日遅れた時差のニューヨークにいる結花が本当についさっき送信してくれた第一報なんだと確信できた。
その日の午後の授業は頭に入らなかった。それでも今月後半には後期試験もあるから、必死にノートだけは録ったけれど、頭の中はもう昼間のメールの事でいっぱいだった。
「お待たせ!」
いつもどおり、校門のところで待ち合わせをしていた和人と合流する。あたしが文系、和人が理系だから、一緒の教室で授業を受けられたのは1年生の一般教養の授業くらいだった。授業のカリキュラムも全然違う。
それでも、この大学は一部の学部や施設を除いて同じ広大なキャンパスに集約されているから有り難い。
こうやって一緒に登下校できるメリットは、お互いに一人暮らしを始めた頃から十分に利用させてもらっている。
「いやぁ、それにしても、もう3年になっちゃうんだ」
「そう、先生はそれに半年長いけどね。結花頑張ったなぁ」
今日は金曜日で、冷蔵庫も空っぽに近い。週末は和人もレポートがあったり、あたしもアルバイトを入れていたりする。
金曜日は二人とも4限で終わるから、学校帰りにスーパーで買い物をするのが定例になっている。
二人分だから当然一人暮らしをしていた頃に比べて量や種類も多くなる。
それでも、大きな声じゃ言えないけれど……、こうやってプレ新婚さんごっこのような時間は嫌いじゃない。
まだ真冬というこの時期、スーパーを出れば外は真っ暗だ。
空を見上げると東の空にオリオン座が見えた。空がそれだけ澄んでいるということだ。今夜も冷えそうだな……。
和人が2つ、あたしが1つ品物でいっぱいのエコバッグをぶら下げて、住宅街の街灯に照らされた道を歩いた。
「先にお風呂入ってて。あたしごはん作っちゃうよ」
「悪いね」
一人で住んでいたときには、お互いもっと学校から近い場所だった。でも昨年の今頃、いざ同居となったとき、二人で探したのは、学生のアパート街からは少し離れた部屋だった。
築15年、2LDKの部屋で月々のお家賃6万円。それでも鉄筋コンクリートの建物できちんと手入れもされていた。
リビングルームとダイニングは共有スペースとして、残りの二部屋はそれぞれの個室にしてある。寝るときも別々だ。
「学校から遠いから体冷えちゃうよなぁ。自分たちで選んだんだけどさ」
「まぁねぇ。でもあんまり近いと寝坊もしやすいし」
学校から約2キロと離れてしまって、逆に駅の方が近い。
『遠い方がうるさい連中来ないもんな』
そんなふうにお互いに話していた。
大学同級生の男女が同じ部屋に同居するだけでも、ネタにされてしまいそうな環境かもしれないから、学校近くは避けた。
もちろん、親も認めているのだから後ろめたい事ではない。
引っ越した後に和人とあたしの両親がそれぞれ様子を見に来て、シェアハウス並みの部屋の徹底した分離ぶりに安心だと笑って帰ったほどだ。
だけど、それだけではなかった。こんな閑静な住宅街のファミリー向け物件を選んだのは、お互いにその先を既に見据えているから。
ここに住み続けるかはまた別の話だけど、シミュレーションしておくにはちょうどいい時間だから。
都心に出るにも電車1本で行ける。適度に自然も残っていて、近所には去年の夏に和人と二人で花火をした児童公園もある。
このまま単位も順調に落とさずにいけば、来年の春には自分たちも大学を卒業する。
就職するのか、それとも卒業した後は和人を支える生活に入るのか。はたまたその中間になるのか。そのあたりが確定しないと就職活動だって方向が定まらない。
こんなことを去年の春先から考え込むようになってしまった。こうして同居を始めてからはその思いが更に強くなった。
時間があまりないけれど、寒かったから何か体が暖まる物が食べたい。ごはんを炊きながら考える。
レトルト食品の入った戸棚を見て、麻婆豆腐の素があったからそれでいこう。挽き肉を炒めて、お豆腐をさいの目切りにして調味料と手早く和える。
お味噌汁用のお豆腐を使ってしまったので、乾燥わかめを水で戻して、玉ねぎと中華スープのもとで味を付ける。
正直、私の親友に比べれば情けないほどの手抜きだ。それでも和人にすれば、一人暮らしの頃から一気に食事の質がレベルアップしたということ。一体どういう物を食べていたのよ……。
あたしのアルバイトの時や、授業の関係で和人が先に帰るときは、作っておいてくれるときもあるから、難しいことを考えなくてもいいように、レトルト食品も多くストックしてあるのだけれど。
「そうかぁ、もう3年も経っちゃうんだなぁ」
お風呂から上がってきた和人とテーブルを挟んで食事にする。
「和人は結花のことあんまり知らなかったんでしょ?」
「あの騒ぎまではね。千佳に教えてもらって、そんな同級生がいたんだって気がついた。学級委員だったのに目立たなかったしなぁ」
「うん、結花はそういう子だったから」
結花。そうだよね。小学校の頃から目立たない女の子だったんだ……。
<出会いの小6>
あたし、佐伯千佳にとって、原田結花ちゃんは親友であり戦友であり、そして妹といってもいい関係だった。
あたしたち二人が出会ったのは、もう10年前になる。小6で父親の転勤都合で引っ越してきた初めての土地。
小学校6年生ともなると、1年生からずっと一緒のチームなんてのもいるから、教室内にはある程度のグループ分けが出来ている。
そんな環境に突然転校してきても、なかなか親しい友達が出来ることもないだろうと思っていたし、中学になるまでは我慢だとさえ思っていた。
「佐伯さん、学級委員の原田結花です。よろしくお願いします」
緊張でカチカチの自己紹介が終わって、一番最初に声をかけてくれたのが、横の席に座っていた結花ちゃんだった。
名札のところに付いている委員のバッジでそれは分かる。
でも彼女はあたしの知る限り、これまで経験したり想像してきた学級委員のイメージを根底からひっくり返した。
「6年生で引っ越しと転校なんて、大変だったよね。中学生になるのを待ってというならよく聞くけど……」
なんだろう、このふんわりと柔らかく包まれるような感覚は。
高学年の学級委員ともなると、それなりに中途半端なリーダーシップとやらを発揮して、自分に従わせるような場合も多く見てきた。
このクラスの学級委員長である結花ちゃんは誰に対しても絶対にそんな素振りを見せなかった。
「原田さん! チョークなくなってるよ!」
「はぁい。すぐ持ってくるね。ごめんなさい」
休み時間、黒板に落書きしている大柄な女子グループから言われても、結花ちゃんは嫌な顔ひとつせず、廊下のチョーク置き場から新品を持ってきて彼女たちに渡し、さらに授業用にセットしていく。
チョークを何本も持ってくれば手だけでなく服だって汚れてしまう。
その服装だって、他の子とは違う。
小学生では汚れることが前提だから、ふつうの日はお洒落に着せてこない家庭が多い中で、彼女はアイボリーのブラウスにリボンタイ。焦げ茶色のアーガイルチェックのカーディガンと、グレーの膝丈キュロットスカート。あたしから見れば良家のお嬢さまスタイルだ。
クラスの誰を並べてみても、間違いなく結花ちゃんの方が年上に見えるだろう。
「平気。チョークの粉なんてすぐに取れるから心配しないで?」
穏やかな顔で袖口の粉を取っている様子を見ていたあたしは、何故か怒りすら湧いてしまった。
「なんで?」
「だって、クラス委員の仕事だし。鈴木さんたちに言われたら断れないよ」
それを見ていた同じクラスの子に聞いても、「いつものこと」という感じで肩をすくめてしまった。
「マジか……」
もやもやとした物が心の中に湧いている中、チョークの粉の処理を終わった結花ちゃんがハンカチをスカートにしまっている。
「忘れちゃってた。失敗失敗」
「委員じゃないと取って来れないの?」
席に座った結花ちゃんに質問をしてみる。
「そんなことないよ、気づいた人誰でもいいんだよ」
やっぱりそんなことはどこにも書かれていないじゃないか。
そんな。6年生の学級委員ともなれば、みんなの代表としていろいろと役目を果たしてくれているってことなのに。授業で先生が使う分ならまだしも、自分たちの落書きのために命令するなんて。
「だったら自分で持ってくればいいのに……」
「ううん、これが私のお仕事だもん」
「いまどき、本の中に出てくるような子が本当にいるんだ」が、彼女に対するあたしの第一印象だった。
数日が過ぎて、あたしもクラス内の人間関係構図が徐々に見えてきた。
この年頃は、往々にして女子の方が男子よりも強い。女子の方が成長が早いから、そのクラスで一番権力というか発言権を持つのが女子だなんてことも珍しいことじゃない。
先日、結花ちゃんにチョークを持ってくるように命令した女子グループと、休み時間ともなれば外に出てサッカーに飛び出していく男子グループがそれぞれのトップにいる。
次に多数派なのが、それぞれの塾や家が近い、ずっとクラスが一緒だったなどの「何となく」グループ。それが複数あって、お互いに何となく繋がっているようなそうでないような。数はいるけど、だからといって何かの力になっているわけではない、いわゆる浮動組。
そして、驚いたことに結花ちゃんはそのどれにも属していないことだった。
他にも数人いる一匹狼派。こう書けばかっこいいけれど、彼女の場合は違った。
あたしと同じように昨年の転校生で、性格は非常におとなしい。同時に誰かに転嫁したり相談して協力を求めることが苦手……というより、自分で抱え込んでしまう。
あっという間に便利屋扱いになってしまい、クラス委員も立候補ではなく、押しつけられてしまったというのが数日間で見えてきた実情のようだった。
「いいんだよ。最後に私がOKしたんだし」
「でも……」
「千佳ちゃん、ありがとうね。優しいんだね」
放課後、宿題で提出した授業のノートを職員室に一人で運んでいく結花ちゃん。
教室から出るときもドアを自分で開けて出て行く。誰も手伝おうという気はないのか。
「結花ちゃん待って!」
慌てて追いかけ、途中から半分ずつに分けて一緒に職員室へ持って行った。
「千佳ちゃん……、私と一緒にいると目を付けられちゃうし、お友達も出来なくなっちゃうよ?」
職員室からの帰り。教室のある4階まで階段をゆっくりと登りながら、彼女は伏せ目がちに忠告してくれた。
ちがう、それは結花ちゃんの本心じゃない。これまでの経験から、自分に近寄らない方がいいと言ってくれているのだろう。
「結花ちゃん、あたしが結花ちゃんの友達になってもいい?」
「えっ?」
彼女の手を持って、階段の踊り場に立ち止まる。
「で、でも。きっと大変だよ……?」
「あたし、小学校では一人だって覚悟してた。結花ちゃんが嫌ならやめておくけど」
「ううん、ありがとう……」
教室ではあんなに何を言われても顔色ひとつ変えなかった結花ちゃんが、ポロポロと涙を流したんだ。
そうだったんだよね。一人でいつも我慢していたんだよ。
「結花ちゃん、一緒に帰ろうよ」
「……うん」
この日、一緒に手をつないで帰った時から、なにを言われても彼女と二人三脚で歩いていこうと思った。
小学生のうちはあくまで入り口。中学、高校と進んでいっても交友関係が続くのが本物の友達だといえると思っている。
結花ちゃんとはずっと友達……。いや、それ以上の関係になれそうだって思ったそのときの直感はあとで正しいことが証明されている。
あの日の夕焼けは今でもあたしは忘れていない……。
転校生のあたしが数日で結花とコンビを作ったことは、クラスではよほど意外に映ったらしい。
特に結花のことを呼びつけては難癖を付けたり、用事を言いつけていた輩としては、あたしがいることでやり難くなったらしい。
「ちぃちゃん、いつもありがとう」
「なんもしてないって」
実際に友達として付き合いだしてみると、結花は想像以上にいい子……、いや本当にお嬢さまだった。
誰に対しても優しいし、普段の教室では見ることが出来ない笑顔は、同性のあたしが見ても可愛い。
目も二重でぱっちりしているし、髪の毛も背中まで伸ばして、リボンで留めている。
性格だって、洋服と同じように本当に同級生かと思うくらい中身は大人びている。きっと、これまでに受けた仕打ちで悟ってしまったこともあるのかもしれない。
それでも結花は、決して特筆するべく目立つ子ではない。勉強は秀才とまでは行かないそこそこのライン。体育は見た目どおりに不得意科目。
そして何よりも友達作りが苦手だった。大きくなってからの表現で言えば、生きることに不器用とでも言うのだろうか。
それでも、学級委員という役目を精いっぱい果たしている。
そんな結花の学校生活サポートにあたしが入った。
結花が自分では言い返せないことを代弁してやる。わざと高い枝に引っ掛けたボールだって、あたしが木登りして取ってきた。
その積み重ねが、その時に結花に向けられてしまうなんて……。あたしは今でも許していない。
卒業を間近に控えた時期。授業でドッジボールをしていた時間のこと。
当然のように真っ先に狙われてしまう結花。あたしの後ろに回るように打ち合わせてあったのだけど、どうしても庇いきれないこともある。
あたしがボールを相手方に投げ返したとき、勢い余って足をもつらせて転んでしまったときだ。
「しまった!」
「ちぃちゃん大丈夫?」
「原田を狙え!」
「結花逃げて! 来ちゃダメ!」
とっさに、あたしに手を差し出した結花に声を掛ける。
あの瞬間のことはこれだけ時間が経ってもあたしの頭で再生できる。
完全に無防備となった結花の背中に、至近距離から力任せに投げられたボールが直撃して、上に跳ね上がったそれは、バランスを崩して顎が持ち上がった彼女の後頭部に当たった。
受け身を取ることもできないまま、顔面から音を立てて地面にたたきつけられた。
動かない……。いつだって何をされても立ち上がる結花が動かない。
目を閉じたまま、唇の端から赤い血が細く垂れている。
「結花!」
「原田! 救急車を呼べ!」
先生の声がする。
「結花、しっかりして。起きて結花!」
突然の状況にだんだん騒然としてくる。養護の先生も飛び出してきた。
その後の授業のことなんか知らない。
初めて乗った救急車は、ずっと結花の手を握っていた。
顔の傷を手当てしてもらって、頭の検査に回されるのを、あたしは病院の廊下で見ていることしかできなかった。
「先生、結花が……」
「大丈夫。大丈夫だから」
落ち着かせてくれて、話してくれたんだ。
今回のことは、事の取り方によっては傷害事件になると。
「あの近さで、原田さんが倒れるほどの力を入れて投げる必要はないわ。鈴木さんが原田さんを怪我させたという事実は変わらない。原田さんのお母さんは確か弁護士さんよ……。これまで見て見ぬ振りをしていた職員室も同罪だわ」
そういえば、救急車だけでなくてパトカーも来ていた。校庭を写している防犯カメラを見に来たって。
顔にガーゼを当てられ、頭には包帯も巻かれている。その白いすき間から結花の瞳に光が戻ったのは、夕方になってから……。
「結花ぁ!」
「ちぃちゃん……」
ずっと握っていた結花の手に力が戻って握り返してくれた。
「よかったよぉ、ずっとこのままだったらと思って……」
ずっと夢の中にいたようだったと話してくれた。
救急車の音と、あたしの声はずっと聞こえていたけれど、返事をどうやってすればいいか分からなくなっていて、申し訳ないと思っていたことも。
それ以来、あたしは心に決めた。
『結花を守ろう』と。
あの瞬間、結花は自分が犠牲になることを十分に分かった上で、あたしに怪我がないかを心配して来てくれた。
結果、大事になってはしまったけれど、あたしに最後までボールは当たっていない。ドッジボールのルールで言えば、あたしは最後まで内野の枠の中。
結花はそれが出来るんだ。本当の意味で「強い」というのはそういうことなんじゃないか。
この一件で、授業時間でのドッジボールは当面自粛となった。
同時に、最後にあのボールを至近距離で投げつけた鈴木とその取り巻きは、警察の事情聴取だけでなく、これまでの数々の問題行為が表に出されて、厳重処分を受けることになった。
「じゃあ、あたし片付けとお風呂に入って寝るね」
「おぅ、じゃあ俺はレポートでもやるかぁ」
食事も終わって、あたしは食器の片づけと洗濯に取りかかる。
概ね2週間に一度、和人は実験レポートを抱えるので、その週の金曜日はこの時間から部屋にこもることが多い。
そこで調べたりないものがあると土曜日に図書館での調べ物に行ってしまう。
「冷えるから、風邪ひかないでね」
「千佳もな」
「うん、ありがとう」
邪魔をしないように、リビングのテレビと照明を消してキッチンだけの明かりにした。
和人の部屋でパソコンを立ち上げる音がする。この部屋を借りたとき、唯一の問題だったのが、古い物件だったために十分なインターネット環境が入っていなかったこと。
この部屋を契約したときに、電話は携帯が2台あることから固定電話は見送ったし、学生二人というまだ半人前のあたしたちが電話や光ケーブルなどの工事契約をするわけにもいかない。
そうかと言ってスマートフォンで全てをこなすわけにはいかない。そんなときには流石に理系の和人だった。
窓際に固定式のWi-Fiルーターを置いてくれて、この問題をあっという間に解決してくれた。マンションの1部屋で、特に動画を毎日観ることもないあたしたちの使い方なら十分に用が足りる。
二人分の部屋代を半分近くに減らすことが出来ていたから、その費用も賄えた。
お皿を洗いながら去年の春を思い出す。
お互いの両親から二人で同居の許可をもらった後のことだ。お部屋を決めて、和人の名前で契約もしてもらった。
いざ荷物を運ぼうとそれぞれの持ち物を確認したときに、和人の部屋からは机と本棚、小さなコタツくらいしか荷物がなかった。
「もー、どういう生活していたのよ?」
「だって必要ないし?」
彼が借りていた部屋が1口コンロに小型冷蔵庫付きの物件だったこと。目の前にコンビニやコインランドリーなどの便利な設備があったから、何も買う必要がなかったという。テレビだってパソコンで補っていたし。
「どうりで、いつもあたしの部屋に遊びに来ていたわけだねぇ」
「何もない割には散らかっていたからな」
さすがに女のあたしが下着までコインランドリーというわけにいかないし、食費の節約のためには自炊が一番効くから、洗濯機や少し大きめの冷蔵庫やレンジも買ってあった。
狭い部屋に勉強机を持って来ることも出来なかったから、リサイクルショップで買ったあたしの部屋の二人用のダイニングテーブルを食卓兼用にして転用した。
テレビも今の部屋は端子がリビングにしかなかったから、あたしが持っていた物を提供した。
その前に和人が持ってきたコタツを座卓兼用で置いた。こんな感じで、それぞれが持っていたものを持ち寄ったから、新しく買い足した出費は大きくなかった。
あたしがこの部屋に来て買ったのは、自分の部屋に置く折りたたみテーブルと座椅子くらいだ。
「もう1年経っちゃうんだなぁ」
食器を片付けて、テーブルの上を拭く。ダイニングの明かりも消してパジャマを取りに自分の部屋に戻って衣装ケースをあけた。
かごの中に入っている二人分の洗濯物を確認しながら洗濯機に入れていく。
当然和人の物もある。最初に下着などを見たときにドキドキしてしまったのもずいぶん昔のことだ。それは彼だって同じだったと思う。
ボディーソープとシャンプーをシャワーで洗い流してバスタブに浸かった。
ファミリー向けの部屋だから、追い焚き保温の機能も付いている。比較的長いバスタイムのあたしには有り難い。
お湯の中で体をストレッチしてみる。一応、体のラインもチェックはしている。
相変わらず胸のサイズは変わらないのに、少し気を抜くと他のところに余分なお肉が付いてしまうなんて失敗は何度もしているからだ。
みんなの前で大きな声では言えないけど、和人と一緒にお風呂に入ることもある。
狭いバスタブに二人は厳しい。その代わりにどちらかが体を洗っている間に、もう一人が温まっているというやり方で、その間に交わされる他愛ない会話が好きだから。
そうでなくても、これだけ近くで暮らして1年。お互いに一人暮らしをしていたときは何とかごまかせた変化だって、今ではすぐに分かってしまう。
どちらの親だって分かっていると思う。大学生にもなって一緒に暮らしているあたしたちに『何もない』はずがないということくらい。
当時に知られていたら怒られたかもしれないけど、彼と初めての経験をしたのは高校3年生の1学期だ……。
そう、あの当時、あたしは少し荒れていたんだ。
突っ張っていたわけじゃない。
原因は大親友を救えなかったこと。
悲しくて情けなくて……。
「結花……」
あんな辛い思いはしたくないし、あの子にさせちゃいけなかったのに。
いけない。涙が溢れそうになって、それを拭き取った。
パジャマに着替えてバスタオルと洗剤を洗濯機に入れてタイマーをセットした。これで明日の朝に起きたときには干すだけになっているはず。
最後に、扉の隙間から光が漏れている和人の部屋をノックして覗いてみる。
「もぉ、風邪ひいちゃうよ」
パソコンはつけっぱなしで、その横にノートと専門書を開いたまま、机に突っ伏して寝ている。
毛布を背中からそっとかける。きっと夜中に起きてから続きをやるんだろうな。
「大学生は遊んでいられる」。誰かしら言う人もいるだろう。
実際にそういう子たちがいるのも事実かもしれない。でも和人を見ている限り、それが全てでないことはあたしが十分に知っている。
あたし自身だって、介護関係のコースを選んでいるけれど、授業を真面目に受けて課題を処理していれば1日はあっという間に終わってしまう。
理系で実験レポートを抱える和人はもっときついはずだ。
だから和人は定期のアルバイトを持っていない。少ない仕送りの中から部屋代を出してくれているお礼に、光熱費や食費はあたしの仕送りとアルバイト代から賄っている。
それでも二部屋よりは安くなるし、将来に向けた貯金もしようと一緒に住み始めたんだ。
残っていたごはんをおにぎりにしてラップでくるんだ。それを栄養ドリンクと一緒に置いて、『無理しないでね』とメモを残す。
「おやすみなさい」
そっとドアを閉めて自分の部屋に戻り、マットレスと布団を敷いて時計をみる。
10時半か。結花はもう起きたかな。
机の上に2枚入りのフォトスタンドを置いてある。1枚は和人とデートで撮ってもらったもの。そして、もう一枚は……。
真っ青な空と、白壁のチャペルの前。純白のドレスの花嫁とその隣に立つ花婿の二人を囲んだ写真。あたしも和人もその中にいる。
もう3年前に写したものだ。
「結花ぁ、春休みじゃ遅いよ。早く帰ってきてよぉ……」
写真のなか、あたしの隣で幸せそうに微笑むウェディングドレスの親友に声をかける。
あたしの漠然とした不安も、彼女なら昔と変わらず柔らかく受け止めてくれるだろう。
彼女の笑顔は、想像を絶するほどの絶望感と、何度となく枯れるほどの涙の日々を諦めずに一歩一歩進み続けたからこそのもの。
結花自身が最後に取り戻せたものだから……。