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 夜、蓮華は夕餉を食べたあと湯浴みをしたいと願い出た。
 身を清めたあと、持ってきた風呂敷から祓い屋の衣を取り出す。

 夜の闇に溶け込むような、真っ黒な袍には白檀の香を燻らせている。髪は迷ったけれど、いつものように垂らすことにした。簪も歩揺(ほよう)つけていない。

 風呂敷に包んでいた箱子を取り出し蓋を開ける。中には数枚の紙と硯と筆。部屋の隅にある卓に座ると筆を取り、祓いの陣を書いて行く。まず円を書きそれを九等分し、内側にもう一つ円を書く。
 もう一度筆に墨を吸わせ、祓いの古文言を書く。祓う者の名前、なぜ幽鬼になったか。心残りは何か。それらに合った相応しい文字を選び祓いの言葉と結び付ける。

 ただ祓うだけでは幽鬼は浄土に行けない。この世ではない場所にただ追い祓うだけ。
 害をなす悪鬼ならばそれも仕方ないが、幽鬼になるからには必ず理由がある。そしてその理由は思いもよらない事実に繋がることもある。今回のように。

 だから蓮華は祖父から安易に祓うなと教わった。事実を見つけろ、その元凶を探せと。
 それは幽鬼のためでもあるし、今を生きている人のためにもなる。



「では始めましょう」

 日付が変わる頃、蓮華たちは再び白柚宮に赴いた。
 真っ黒な法衣に身を包んだ蓮華の手には筒状に丸めた紙が一枚。垂らしただけの髪が闇夜に溶け込むように風にたなびく。
 紫空はこれまでと違うその凛とした佇まいに思わず息を飲んだ。

 漆黒の袍に濡羽のような黒髪、対して白く透き通るような肌。凡な顔立ちはずが今は目を惹きつけられる。

「紫空様?」

 名を呼ばれはっとしたような顔をすると、紫空は蓮華に向かって手を出す。

「転ぶといけない」
「……ありがとうございます」

 蓮華は戸惑いながらもその手を借り、二人は井戸に向かって歩き始めた。

 紫空は持っていた手提灯で、できるだけ蓮華の足元を照らす。男が着るような法衣を纏っているだけなのに、香り立つような色香と、それに反する透明感が奇妙に同居している。今までと違うのは衣だけなのに、どうしてこうも変わるのかと不思議な思いで蓮華を見た。

 井戸が見える位置まで来ると、蓮華はここで待つように紫空に言い、一人で歩き始めた。
 井戸までくると、白い手で淵に触れを静かに目を閉じる。

 夜気が重みをまし木々がざわめく。
 紫空の肌がにわかに泡立つと同時に蓮華が呟いた。

「来た」

 振り返るとそこにゆらゆらと揺れる半透明の幽鬼の姿があった。風にゆれる柳の枝のように頼りなく、左右に揺れる身体がゆっくりと近づいて来る。喉から流れる鮮血はよく見れば今も滴り落ちている。

「江期様」

 蓮華がその名を呼べば幽鬼はぴたりと動きを止めた。

「もう心配ない。この井戸は誰にも使わせない」

 涼やかな蓮華の声が夜の静寂に溶け込むように響く。
 どこか心地よくさえ聞こえるその声に聞き入る様に江期は動かない。

 蓮華は丸めていた紙を広げると、それを自分の胸の前で江期に見えるよう広げーー手を離した。
 しかし、手から離れたその紙は土の上に落ちることもなく、ただふわふわとその場に浮遊している。風に吹かれているわけではない。宙に浮かんでいるのだ。

「あなたはこの宮を守っていたのですね。もう誰も死なないように」

 幽鬼ーー江期がぎこちない動作で頷いた。

「正三品に召し上げられた江期様には祝いの品が幾つか届いた。でもその中にまるで紛れ込むように送り主の分からない青い石があった」

 最後に蓮華がした問いは

 青い石を静瑠宮(せいるぐう)で見なかったか、というもの。

 侍女から召し上げられた江期のもとには、果たしてどんな女なのかと興味本位で多くの妃賓が訪れた。祝いの品と称しと思惑のこもった品も持ってきたが、少ない侍女では対応しきれず誰から贈られたのか分からない品が数個あったらしい。その内の一つが青い石だったと言う。
 
「貴女が井戸に落ちる前日、雪が徳妃様のもとに行くのを衣久は見たと言う。そしてそのことを貴女に伝えたとも」

 心なしか幽鬼が頷いたように見える。
 
「おそらく、以前から不審に思っていた雪の行動に貴女は何か企みをしているのではないかと考えた。そしてその夜、雪が青い石持って静瑠宮(せいるぐう)出る姿を見て貴女はその後ろをつけることにした」

 蓮華は井戸の方へ向きを変えると、その縁に手を置く。少し身を乗り出し井戸の中を見ているようだが、月が雲に隠れた今、真っ暗な水面さえ見えないだろう。その姿勢のまま話始めた蓮華の声が井戸の中で木霊する。

「雪は手にしていた青い石を井戸に放りこもうとしていた。それを見た貴女は全てを察した。その石は毒で、雪は井戸水を害そうとしている。青い石を貴女が持っていたことを何人もの妃賓が知っているので自分がその犯人に仕立て上げられると。
 青い石が見つかれば貴女を陥れることが出来るし、見つけられなければ淑妃様を害することができる。どちらにしても徳妃様には都合がよかった」
「……井戸の水は白柚宮(はくゆぐう)にいる皆が飲む」

 初めて幽鬼が話た。
 幽鬼の声は、震えるようにか細く、二声が重なってくぐもるように聞こえた。
 明らかにこの世の物ではないその声に紫空は思わず一歩後ずさる。
 しかし、蓮華は動じることなく幽鬼と対峙する。
 宙に浮かぶ紙に手をかざすと、書かれた文字が赤く揺らぎ始めた。初めは円の中央から、そしてまるで炎が広がるように外側へと広がっていく。

 それに従うように幽鬼の姿が変わっていく。首から流れていた血が、すっと薄まり消え喉の傷が塞がった。血で張り付いていた黒髪もサラリと肩に流れる。
 
「淑妃様は私が召し上げられた時も喜んでくださり、妃賓となったあとも気にかけてくれました。心の準備もなく妃嬪となった私にとってそれはどれほど心強かったことか……。だから私は雪が石を井戸に入れるのを見て、身を呈してでも防がなくてはと思った」

 争った足跡があったのだから、もみ合いとなったのだろう。
 そして逆上した雪は手にしていた石で江期の頭を殴った。

「女の力で石で殴られた程度では、まず即死はしない。もちろん打ちどころが悪ければ話は別でしょうが、貴女は生きていた。雪は焦った。言い渡された命令を失敗するわけにはいかないと石は投げ入れたけれど、足元に蹲っている貴女をどうすべきか悩んだのでしょう」

 生かしておけば全て話されるのは必須。そうなれば選択しは一つしかない。雪は江期の喉に短剣を突き刺した。

「ところで貴女はあの石が何か知っているの?」

 蓮華の問いに江期は首を振る。

「石の名は『胆礬(たんばん)』、鉱物の一種よ。銅鉱山の坑道の天井に鍾乳石と同じような塊を形成したものや、内壁から霜柱状の結晶が成長したものがある。青く澄んだその色はとても綺麗だけれど、猛毒で水に溶けやすい性質をもつ。坑道の天井からポタポタ垂れる水滴は鉱夫の衣服をボロボロにするほどで、当然のことながら口にしてはいけない」

 江期はそこまで知らなかっただろう。
 ただ、徳妃との密会、不審な行動、水を害しようとしていることから、青い石が毒と推測しただけ。

「淑妃様が亡くなられたのは、この井戸水を最も使われていたからでしょう。悪阻で碌に食べ物が取れなかった淑妃様は、それでもお腹の子供の為にと、医官に言われた通り水だけはしっかりと摂られた。言い換えれば、毒の水しか摂取されていなかった。それだけではなく、淑妃様は井戸の水を使って湯浴みもされていました。湯に浸かればその蒸気が口に入る」

 淑妃以外は水を沸かし身体を拭く程度。しかも、幽鬼が出てからはその井戸水すら使っていなかった。

「貴女が幽鬼となって井戸に出続けたのは、恨みからではない。白柚宮に住む人達に井戸水を使わせたくなかったからね。そして今もなお幽鬼としてここにあり続けるのは、そのことを伝えるため。もう、二度とこの井戸を使わせないよう貴女はここにいる」
 
 瞬時、江期が真っ白に光った。冬の日差しよりも弱い柔らかい光が霧のようになり、次いでそれが少しずつ薄れていく。

 紫空は目を見張った。霧の中から現れたのはおどろおどろしい幽鬼ではなく、淡く黄色のジュクンを着た妃賓の姿。髪は耳の後ろで二束に丸く纏められ簪をさしたその姿は、はかなげで楚々とした佳人だった。

「もう大丈夫。この井戸は埋めて使わせない。だからあなたは浄土に行きなさい」

 慈愛に満ちた蓮華の声。蓮華は浮かぶ紙に翳していた手を握る。すると、文字の形をした火の勢いが強まり、紙を覆いつくした。。赤い炎はあっという間に紙を焼き灰とする。
 その灰は蓮華が右手を頭上に掲げると舞い上がる様に空に散り、江期を取り囲み浮遊し始めた。

「ありがとう、教えてくれて」

 灰が姿を変える。黒と灰色が混ざった色が白い花弁となったかと思うと、今度はその先端が紫色に染まっていく。

「蓮の花びら?」

 紫空は知らずと声を出していた。

 百枚以上の蓮の花びらが江期を取り囲み舞い踊る。その中心にいる江期の顔がほっとしたように柔らかな笑みをたたえた。
 そして舞い散る花びらが速度を上げその姿が見えなくなった瞬間

ーー弾けるようにすべてが消えた。

 残されたのは漆黒の闇。濁った空気も炎と一緒に霧散したようだ。

「終わりました」

 晴れ晴れとした顔で紫空に顔を向けた蓮華の黒髪を、夜風が撫でる。
 月明かりを受け凛と佇むその姿を、紫空は言葉を無くしただ見つめていた。