「ところで幽鬼とはどのような姿をしているのか?」
「報告を聞かれていないのですか?」
「皆、俺に気を遣ってかはっきり述べない」

(確かに幽鬼の姿を帝の耳には入れにくいかもしれないけれど、それ以前に思い出したくないのかも知れない)

 見慣れた蓮華ですら、それは決して気分の良い者ではない。
 
「幽鬼は大抵死んだ時の姿で出てきます。幽鬼になるほどですから、無念や恨みを持っているものも多く、その場合死に方もむごい場合が多いです。毒を飲まされ口から血を流したり、腹を刺され臓物をたらしたり……やはり私一人で行きましょうか?」

 紫空が黙り込んだので、蓮華なりに気を遣ってみたが返ってきた答えは予想外のもの。

「お前はそれと今まで一人で対峙してきたのか。……頑張ったな」

 蓮華はその言葉にはっと息を飲んだ。
 手は自ずと胸にあてられる。

 祖父が死んでから蓮華は常に一人だった。父親は幽鬼から離れたところで様子を見るだけで蓮華を助けようともしない。それなのに失敗すると叱責と体罰が待っている。

 どんなに悍ましい姿であろうと、時には襲われて命の危険を感じても、泣きながら一人でやるしかなかった。怖くないはずがない。幽鬼の憎悪に飲まれそうになるたび震える身体で祓ってきたのだ。時には幽鬼より厄介なものとも対峙しなくてはいけない。

 それなのに。

(お父様は私を褒めてくれたことなど一度もなかった)

 良くやった、ありがとう、頑張ったな。
 どんな言葉でもいい。もし口にしてくれていればそれがどれほど心の支えとなったか。

 しかし、自分に祓う能力がない父は蓮華を妬み、女であることを蔑んだ。

(駄目、こんなところで泣いては)

 いつの間にか滲んだ涙をさりげなく指で掬う。紫空はその姿を目の端で留めるだけ何も言わなかった。ただ、手を繋ぎ井戸までの道をゆっくりと歩く。

「あの……」

 幽鬼はまだ出て来る気配はない。それなら今のうちに、と気になることを聞いてみる。

「幽鬼を祓うまで後宮を開けないと聞きましたが、幽鬼がでるのは西区だけ。これだけ宮が空いているなら、いっそ西区を空にして他の区に妃賓を集めることをなさらないのはどうしてですか?」
「それは無理だ。各区は従一品が責任者となる。西区に淑妃が住むことは決定事項。西区だけ閉ざすことはできない」

(なるほど、それなら悠長なことは言っていられないか)

 帝が幽鬼祓いについてくるのも納得できる。後宮が開かなければいろいろ不都合もあるのだろう。

「紫空様が安心して後宮に渡れるよう尽力を致します」
「別に後宮など開かなくてもよいのだがな」

 まるでうんざりだ、とでと言いたそうな口調に蓮華は首を傾げる。その顔を見て紫空はますます眉を下げる。

「お前は男全てが女好きだと思っているのか?」
「父がそうですから。祓い屋の血脈を絶やさぬよう数多の妾と励んでおります」
「俺は心通じる者が一人いれば良い」

 意外だとばかりに目をパチクリする蓮華に、紫空は唇の端を上げて聞く。

「お前はどうだ?」
「私ですか?」

 問われたことにまず驚いた。男としてどう答えるべきかと考えたが、すぐに正直に答えればよいか、と思った。

「私も慕い慕われる方一人と連れ添いたいです」
「気が合うな」

 手提灯の頼りない灯りの中、ふわりと笑ったその顔は甘露のように蓮華の心に染み入ってきた。普段は冷たく見える口元も柔らかい。

(それでなくても美丈夫なのにそんな風に笑われては……)

 心臓がもたない、と思った。

 その時だ。

 湿った夏の夜気が、じわりと重みを増す。
 纏わり付く不穏な空気に紫空はじっとりと汗ばみ始めた。
 しかし蓮華だけが何も変わらない。いや、先程より落ち着いてさえいる。

 さらりと紫空の手を振り解くと、切れ長の瞳を鋭くして周りを見渡した。
 
 すると先程まで誰もいなかった井戸の傍に、喉から血を流した女現れた。


 土気色をした顔に、洞のような窪んだ感情のない目、髪は乱れ幾束か頬に張り付いている。着ている(くん)衫襦(ひとえ)は喉から流れる血で赤く染まり、その血は足元の土まで赤く変えていく。

「あなたは……何がしたいの?」

 紫空が顔色を青くする中、蓮華は凛として幽鬼と向き合う。まるでそれが幽鬼ではなく一人の人間であるかのように。

 すると幽鬼は枯れ枝のような指で井戸を指差した。声が出ないのは喉を刺されているからだろうか。ひたすらじとりと見るばかりでそこから動こうとしない。

 蓮華が一歩前に進んだ。
 次の瞬間、幽鬼はまるで逃げ去るようにサッと煙のように姿を消し、あたりは再び湿った夏の夜気に包まれた。

「……行っちゃいましたね」
「祓ったのか?」
「いいえ。逃げられました。もとよりすぐに祓うのが無理な場合の方が多いのですが」

 すぐに祓えない、という言葉に紫空は訝しむような目線を蓮華に向ける。

「なぜ直ぐに祓えない」
「正確に言えば、祓うだけなら今すぐできます。ですが、それにより元凶を見落とすことがあるのです。それが取り返しのつかないことに繋がる場合もあるので、まずは幽鬼がどうしてここに出るのかを調べる必要があります」
 
 蓮華は幾つかの知りたいことを告げると、明日の朝すぐに手配するとこともなげに紫空は答えた。