皇子と侍従の距離が急速に近づいた夜、もとい白怜(はくれい)帝国にとって重大な一歩が果たされた夜が明けたとき、二人はけたたましい蛙の鳴き声で目を覚ました。
 後宮だからといって夜明けの知らせが蛙の鳴き声であるはずはなく、異変を感じた供の兵士たちが二人の部屋の戸を叩く頃には、二人はもう身支度を整えて待っていた。
怜倫(れいりん)皇子! 外に異様な大きさの蛙がいます!」
「もう来たか」
 怜倫皇子はため息をついて、早朝に清心(せいしん)を自分の宮に戻す策が消えたことを残念がった。いくら唐柿(とまと)の聖女ならぬ清心改め祥姫(しょうひめ)に引き寄せられて来ることを予想していたとはいえ、さすが相手はお化け蛙、順番待ちも遠慮もしてくれないらしい。
 祥姫はぴしりと背筋を伸ばして告げる。
「唐柿を携えて私が参りましょう」
「待て、祥姫。言うとは思っていたが」
 出勤のように出陣しようとした祥姫を止めて、怜倫皇子はそんな部下を誰より理解している上司としてさらっと打ち返した。
「昔から有事のときに一騎打ちするのは王の子の役目なんだ」
「殿下、恐れながら時代は変わりました。今は私たち文官武官がたくさんいます」
「それはそうかもしれんが、好きな姫君にいいところを見せたいのは常識でな」
 怜倫皇子は本音をこぼしてしまってから、顔を引き締めて断言した。
「祥姫、君に命じる。聖なる唐柿を選んでくれ。それを私がお化け蛙の口に投げ込む」
 こうして古くからの皇子の使命と少しばかりの下心に後押しされて、怜倫皇子がお化け蛙退治に挑むこととなった。
 急ぎ兵士たちによって運び込まれた祥家の大量の唐柿を前に、祥姫は唐柿の選定作業を行う。
「唐柿の選定には自信を持っていますが、聖なる唐柿はいかなる基準で選びましょうか……」
 筆頭侍従として数々の難題に挑んできた祥姫でも、建国のときの聖なる唐柿を文献から辿ることはできていなかった。文献では「果物」とだけ記載されていたので、本当に唐柿かどうかもまだ確証はない。
 ただ酸を吐く蛙がいては姫君たちを危険にさらすことになり、しびれを切らして女王蛙がここを離れたら蛙事変はいつまでも終わらない。時間は少なく、祥姫の肩に乗せられた責任も重く、祥姫は唐柿を前に固い顔で沈黙していた。
「どちらかだと思うんだ」
 ふと怜倫皇子が隣に立って、気楽な調子で祥姫に話しかけた。
「一番まずい唐柿か、一番おいしい唐柿か。誰でも唐柿を選ぶ基準はそうなんじゃないか?」
 祥姫はぱっと顔を上げたが、まだ不安を浮かべた目で怜倫皇子を見た。怜倫皇子はその不安ごと受け止めて言う。
「祥姫がいいと思う唐柿でいい。伝説のとおりにいかなくてもいい。今は文官武官がたくさんいるように、君一人で立ち向かわなくていい」
 朗らかに笑った怜倫皇子に、祥姫はようやく肩の力を抜くことができた。何でも一人でやらなくていい。大君の言葉と、怜倫皇子の声が重なって聞こえた。
 祥姫はうなずいて心を決めると、一つの唐柿を選んだ。美味しそうに赤く熟れた唐柿を怜倫皇子に手渡すと、彼はそうだろうなというように笑った。
 怜倫皇子は兵士たちを伴って門に向かう。合図と共に門は開かれ、果たしてお化け蛙がその姿を現した。
 祥姫は犬ほどの大きさと思っていたが、今は鹿ほどの大きさに膨れていた。いかにも毒々しいまだら模様の体躯、赤く血走った目が見る者を恐れさせて、兵士たちも一目見て息を呑んだ。
 怜倫皇子は敬意を払うように一礼した。災いの神は時々形を変えて世に現れるという。古い伝説の中に登場する守護天人も、神が形を変えるものに槍を向けるときは敬意を払うべしと言っていた。
 ただ今向き合う蛙の腹部の大量の卵が世に放たれたとき、蛙事変はさらに災いをもたらすと伝えていた。反射的に兵士たちが後ずさって槍を構えたとき、怜倫皇子は一人軽装で走った。
 女王蛙はしゃがれた鳴き声を上げるなり、先頭にいた怜倫皇子に襲い掛かった。女王蛙の濁った目と怜倫皇子の漆黒の瞳が合う。
 宮の中から出してもらえなかった祥姫も、思わず震えて目を閉じかけたときだった。
「……神よ、受け取ってください。これが一番おいしい唐柿です」
 女王蛙が真っ赤な口を開いた瞬間に、怜倫皇子はそれより赤い唐柿をそこに投げ込んだ。
 発光と発酵が同時に起こったように、女王蛙は光の中でうごめいた。悲鳴というよりは低くうなるような声を上げて、じろりと怜倫皇子を見た気がした。
 ぽん、ぽんと女王蛙は弾んで、地に着くたびにその体は小さくなり、やがて普通の蛙の大きさに戻っていた。
 平和に終わった一日の終わりのような鳴き声を響かせて、蛙はけろりと畑に帰っていった。



 新たな伝説となった蛙事変の終息後の秋の頃、怜倫皇子と祥姫はまだ正式な婚儀を挙げられていなかった。
「入っていいか?」
 夕刻、怜倫皇子が祥姫の宮の部屋を訪ねたとき、中で迷うような気配はしたものの、一応返事をもらって立ち入った。
「……いいですよ、笑ってくださって。着たことがないんです」
 怜倫皇子が目をまたたかせた先には、天女のような青い衣に身を包んだ祥姫の姿があった。
 今も筆頭侍従として仕えている祥姫は、一番基本の地味な紺の文官服しか着たことがなかった。それはそれでそそるという昨今の後援隊(ふぁんくらぶ)の声を、怜倫皇子は聞かない振りをしながら苛立たしく耳にしていた。
「い、いや。とてもよく似合う。いいからこっちに来てくれ」
 祥姫のちょっと恥ずかしそうな表情と、案外女性らしい体の線と、白い華やいだ刺繍が一緒になると……怜倫皇子はどうして今までこれを着せてみなかったのかと、不審な仕草で目を逸らしながら思った。
「似合わないですよ。こんな格好で宴なんて」
 今夜、怜倫は初めて婚約者として宴に祥姫を連れて行って、そこで正式な婚儀の日取りを発表しようと思っている。怜倫皇子はむずかゆそうな祥姫の声に、彼もまたむずかゆいような照れを押し殺して笑った。
 早く公に二人の仲を認めさせたいと思っているが、別に周りで二人の仲に反対している者はいない。父も兄も仕官たちもなぜまだ結ばれていないのか不思議がっているくらいで、後宮の熱狂的な後援隊はこの際放っておけばいいだろう。
 ただ一つ、祥姫が受け入れてくれるかだけが、怜倫皇子の踏み込めない理由だった。けれどそれを乗り越える方法を、そろそろ二人は知り始めている。
「できるさ」
 怜倫皇子は安心させるように祥姫を腕の中に収めて言った。
「一緒に宴に行ったり、二人でおいしいものを食べたり、唐柿(とまと)畑にお忍びに行こう」
 誰より大事な人だから、誰より時間をかけてお互いを知っていけばいい。怜倫皇子はそう思っている。
 祥姫ははにかんで、次第に笑顔になりながら怜倫皇子を見上げた。
 昔からの物語のように口づけを交わした二人は、今日も少しずつ夫婦に近づいている。