落ちてしまった意識の中で、清心(せいしん)は一年前の夢を見ていた。
 窓の外は快晴で、寝台に横たわる皇后大君(たいくん)がまもなく息を引き取ると聞かされていなければ、みんなこぞって出かけるような夏の日だった。
「言い残すことが思い浮かばないなぁ」
 元は北方の女王だった大君は、その在位の間そうであったようにおおらかに、楽観的に笑った。
「清心みたいな優秀な子もいっぱい登用したし、たぶん白怜(はくれい)帝国は大丈夫だろ」
「そんな……陛下のお導きがないのに、これから私はどうしたら」
 むしろ何日も眠らず看病していた清心の方が、今にも倒れそうだった。
 清心にとって大君から受けた恩は計り知れない。清心の実家を行幸した際、「いいね! 君、帝都に来ちゃいな」と軽やかに誘ってくれた大君がいなければ、清心は辺境で唐柿(とまと)の栽培をして一生を終えていたはずだった。
 大君は青ざめた清心の頬を我が子にするようになでて、そうだなぁと思案すると、傍らに立つ息子の怜倫(れいりん)をちらと見た。
「清心、何でも一人でやらなくて大丈夫。第一それじゃモテないね。……いやごめん、モテなくていいや」
 息子が恨めしそうな目をしたのに気づいて、大君は途中でもやっと言葉を濁した。
 大君は目を閉じると、楽しみにしている夢を見るように表情を和らげた。
「ああ。あっちでも、唐柿に囲まれて清心が手を振ってる……」
 果たして大君は息を引き取り、清心は涙と共に大君を見送った。
 頬を拭われる感覚で目を覚ますと、枕元に怜倫皇子が座って清心を見下ろしていた。窓の外はすでに日が落ちて暑さも静まり、過ぎた時を知らせる。
 怜倫皇子は目覚めた清心に気づいて、自分が怪我を負ったように眉を寄せて問いかけた。
「お化け蛙の酸を大量に被ったんだ。痛むか?」
 清心は掛布の下の自分の体が裸であることに気づいて慌てたが、身じろぎすると突っ張るような感覚がして喉の奥に悲鳴を飲み込んだ。
「い、痛みは大して」
「無理をするな。子どもが少し足の先に被っただけでも、意識を失うくらいの痛みだと聞くぞ」
 それを大量に被ったというのだから、今自分の体はどんな酷い状態になっているのだろうと清心は心配になった。
 ところがそろそろと掛布の下を確かめると、腹部に跡はあったものの、それは酸を被ったような傷には見えなかった。
 清心は首を傾げて言う。
「もうカサブタになって治りかけているようです」
「それは私も見た」
 つまりは裸を見られたということで、清心は息を呑んだ。
 清心はがばりと起き上がって頭を下げる。
「……男と偽ってお仕えして、大変申し訳ありません!」
「最初から知っていたからいい」
「え?」
 きょとんとして清心がまばたきをすると、怜倫皇子はくすぐったそうに笑って言った。
「初めて会ったときから、赤い頬に口づけたいと思っていた」
 清心は言葉の意味を一瞬理解できなかったのに、顔は勝手に真っ赤になった。怜倫はそんな清心に喉を鳴らして笑って、清心は慌てて話題を変える。
「そ、それより今はお化け蛙です。不穏な蛙の被害は出ていませんか?」
 照れくささに仕事の話をしようとした清心に、怜倫皇子は一応応じてくれた。
「出たようだな、女王蛙が。建国の頃にも現れたというが、そのときどうやって退治したかは知っているか?」
「もちろんです」
 清心は歴史科目には自信を持っているが、それとは別に蛙事変の担当者として当然その事例は調べていた。
「伝説の聖女がお化け蛙をおびき寄せ、王が聖女にもらった果物をお化け蛙の口に放り込んだ。するとたちまち普通の蛙に戻ったという」
「そう。先刻、兄上が予言を受けた。どうやら君はその聖女の生まれ変わりらしい」
「……えっ!」
 清心が言葉に詰まると、怜倫皇子は難しい顔で続けた。
「お化け蛙は警戒心が強いのに、今日はまっすぐ君に向かって襲い掛かってきた。しかも酸を被ったのに君の体はあっという間に治りつつある。おそらくお化け蛙が引き寄せられているのは……」
 怜倫皇子が言わんとしていることを察して、清心は一息だけ黙った。いやまさかと疑ってみようとしたが、疑う余地はかけらもなかった。
「唐柿ですね」
「唐柿しかない」
 清心の体は必ず一日一個唐柿を摂取し、血肉の中に唐柿が生きている。それがお化け蛙をおびき寄せたに違いなかった。
「それなら話は早い。今夜にでも、もう一度私がお化け蛙をおびき寄せて……」
「だめだ。君はすぐに私の宮に帰るんだ」
 嬉々として起き上がろうとした清心に、怜倫皇子は厳しく言い放った。
「殿下」
「だめだ」
 清心がいつものように進言を口にしようとして、きつく抱きすくめられる。
「君が泣いたり痛い思いをするくらいなら、私だけ残って蛙退治をする。頼む、清心」
 体を通して聞いた声が震えていて、清心は少しの間一年前に帰っていた。
 大君が亡くなったとき、清心は酷く泣いた。怜倫は泣かなかったが、泣いている清心を腕に抱いて震える声で言った。
 泣かないでくれ。自分の悲しみを飲み込むのは慣れている。でも清心が泣いていたら、どうにも泣きたくなるんだ。そう言って、いつまでも背を撫でていた。
 そのとき清心は、この人は確かに王の子だと思った。けれどそれだけでもなく、誰かに特別に思いをかけてしまう一人の男の人だ。
「清心?」
 清心が背中に腕を回してぎゅっと怜倫を抱きしめ返すと、慣れないものだから恥ずかしかった。
 私がこんなことしたって皇子は喜ばないよね。自己嫌悪になりながら体を離そうとした清心に、怜倫が言う。
「……ところで、今夜は一年ごしの婚儀の日だ」
 怜倫は笑って、やり返すみたいに清心を引き寄せて唇を重ねる。
「え、あ、あの」
「私の妃、祥姫(しょうひめ)。怪我をした体に無理は強いないが、隣で眠るくらいはいいだろう?」
 慌てた清心の言葉は、五年の思いがあふれ出した怜倫には聞き入れられなかった。
 夏の宵、灯りが吹き消された後の小さな部屋で、白怜帝国の未来が少し動いたことはまだ誰も知らないのだった。