後宮に住まう姫たちは必ずしも皇帝の妃だけではなく、皇族の姫や皇族の縁者など多種多様で、家柄も育った地方も違う。
幸い、今の皇帝は朗らかな人柄で、皇族の家族仲もよく、それに影響されてか後宮の姫君方もほどほどの距離感でのんびり暮らしていた。
そんな彼女らの共通の楽しみは、皇家にまつわる恋愛模様もとい妄想である。
「聞いた? 昨夜は怜倫皇子と碧成君、清心侍従がひとつ屋根の下でお休みになったそうよ!」
「そんなっ……清心侍従を巡って三角関係?」
帝都の民は誤解しているが、昨今の後宮の姫君方は寵を巡って夜ごと枕を涙で濡らしているのではなく、噂の美童を巡った妄想に舌鼓を打っている。
「祥姫様はこの関係性、どうお考えかしら?」
「そうね……続刊をお待ちになって?」
「きゃ! よろしいのですの!?」
その中心にいるのは清心とそっくりの容姿、けれど正反対の趣味趣向を持つ祥姫である。
世継ぎである怜倫皇子は祥姫以外の妃をめとらないと公言していて、後宮に彼女と対立する側室もいなかった。それもあってか、祥姫は一種独特な立場で優雅に暮らしていた。
祥姫はそのあでやかなる長い黒髪を垂らし、紅葉色の瞳でおっとりと微笑んでみせる。
「もちろんですわ。蛙のせいで読みあい会も延期になっておりましたもの」
姫君方とて、蛙のせいで庭に出れないのは致し方ない。そうではなく、そろそろ待ちに待った新刊の流通時期なのに、集まって夜通し妄想話ができないのは大変な不満だったのだ。
「祥姫様、いっそ清心侍従に今夜の婚儀をお任せになっては?」
「ふふ……」
扇の下で姫君たちが不吉な妄想を口にしていた頃、皇族の訪れを告げる使者がやって来た。
回廊の向こうにちらと見えた一行、護衛に囲まれたひときわ長身の青年はもちろん怜倫皇子だとわかった。ただ後宮に皇子がいるのは別段普通のことなので、そのことはそんなに気に留めなかった。
しかしその一行の中に、一人だけ様子の違う来訪者がいた。一見すると少女のようで、ひときわ小柄な体に華奢な手足をしていた。少年にしては髪が長いようで、帽子からこぼれた黒髪が見えていた。
近づくとわかる、線の細さと紅葉色の瞳。姫君方にお話できる立場ではないとめったに後宮には入ってこない美童の姿をみとめて、姫君たちは黄色い歓声を上げていた。
「……清心侍従よ!」
姫君たちは一気に色めき立って、ばたばたと支度を整えた。さすがに着替える時間はないとすぐに気づいたが、あたふたと椅子を並べ替えてお迎えの準備をする。
「ああ、鉄板だってわかってるけど、主従っていうのは尊いわね……」
「噂通り祥姫様にそっくりで」
「しっ! こっちにいらっしゃるわ!」
怜倫皇子が後宮の主である皇姉殿下に声をかけると、彼女は訳知り顔で扇を振った。姫君方は合図を受けると、表面上はうやうやしく頭を垂れる。
武官の中から清心侍従が一歩前に出てきた。帽子を外すと、少女のような豊かな黒髪が流れ出た。
清心侍従は腰を折って一礼すると、凛とした声で切り出す。
「私は怜倫殿下の筆頭侍従の祥清心。みなさん、今年は特に暑い中、お化け蛙に悩まされていらっしゃるとお聞きし、ご心労をお察しします」
流れるような言葉と身にまとう気迫はさすがというべきだが、姫君方は退屈していただけでご心労に耐えていたわけではなかった。むしろ美童と評判の清心侍従をこの目に焼き付けて、今後の創作に花を咲かせようと心を熱くしていた。
「今日は、後宮のお化け蛙の視察も行いますが、その前にお渡しするものがあります。……ここへ」
清心侍従が振り向くと、護衛らしい兵士たちが木箱を持って清心の横に立った。清心は木箱のふたを開けて、何かを一つ取り出す。
「急で予算がつかなかったので、私の実家の作物で恐縮ですが、みなさんで召し上がってください」
「これは……!」
姫君たちが息を呑んだ先には、ほのかな少女の赤い頬を思わせる唐柿があった。
唐柿は必ずしも大きくとも美味しいとは限らず、赤く熟したように見えても酸味が強いこともあるが、祥家の唐柿は違う。他の産地の唐柿に比べて小さめで、色も真っ赤ではないが、癖になる甘酸っぱさを持っている。
祥姫果。白怜帝国の者なら誰もが一度は食べたことがある唐柿は、ちょっときつめのところがいいと評判の祥姫の名前で勝手に呼ばれている。
「しばらく唐柿煮込みには困らないくらいは持ってきました」
その唐柿を恥ずかしそうに差し出した清心侍従、その初々しい可愛らしさに姫君たちは震えた。
代表で唐柿を受け取った皇姉殿下はほっこりして言った。
「ありがとう。お母さまの墓前にそなえようかしら」
「恐れながらすぐにお召し上がりください、殿下。血肉になってもらうのが生産者の願いですから」
畏れ多そうに唐柿農家の誇りを口にした清心、そのまっすぐさが尊いと密かに思う姫君たちだった。
お茶を飲み始めた姫君たちは、扇の下で少し目を赤くしながら言った。
「うふふ……。私、今夜は祥姫果を生で食べてしまいますの」
「なんですって!? とんでもない、祥姫果は私のものですわ!」
「あなた、祥姫果の真の甘さを知らないでしょう?」
この暑いのに笑いさざめく姫君たちを、怜倫皇子は若いなと目を細めて見守っていた。
「どうされました?」
唐柿の引継ぎを終えて怜倫皇子の隣に戻ってきた清心は、首を傾げて上司に問いかける。
怜倫皇子はふっと笑って言う。
「大したことじゃない。唐柿の名称をどう変えようか考えていたところだ」
「は……。唐柿は美味しければ名称はいかなるものでもよろしいかと」
真面目に応じてから、清心はふと気になっていたことをたずねた。
「それより、こういった機会こそお気に召した姫を選ばれては……」
姫君たちはそれぞれの立場で後宮入りしているが、次期皇帝の怜倫皇子の世継ぎは重要で、怜倫皇子が望めばいくらでも好きな姫君を夜伽に召すことができる。
姫君はみんなきれいで、自分みたいな小僧とは全然違うもの。なんとなく清心が下を向くと、怜倫はまばたきをして苦笑した。
「今夜、その気遣いは要らないと伝えるよ」
「え?」
清心の瞳が揺れたのを見て取って、怜倫皇子は少し考えたようだった。
「……行こう。君はまだ実際にお化け蛙を見たことはないと言っていたな」
先に歩き出した怜倫皇子に清心は慌ててうなずいて、後に続く。
蛙事変で問題になっているお化け蛙は、一時に大量に発生して畑に襲来し、軍隊のように整然とどこかに去っていくのだという。後宮でもその都度お化け蛙が産みつけていった卵を取り除いてはいるが、見たところ庭にお化け蛙の姿はなかった。
清心は皇子の半歩後ろに控えながら言う。
「お化け蛙には女王蜂ならぬ女王蛙がいるようなのです。それを駆除しない限りは、蛙事変は終息しないでしょう」
清心はこの夏、文官たちと事細かに検討を重ねて、後宮に問題の根源である女王蛙が生息しているという事実までは突き止めた。ただお化け蛙は襲来から撤収までの時間が非常に短く、蛙の捕獲に慣れている兵士たちを投入しても、未だ女王蛙の駆除には至っていなかった。
「女王蛙をおびき寄せる方法さえあれば……」
清心は怜倫皇子の背中に言いかけて、はっと息を呑んだ。
振り向いた柱の陰、何かがこちらを見ていた。犬ほどの大きさがあるのに、巧みに水路の音を利用して足音を隠して、こちらに近づいている。
清心はまるでへびに睨まれた蛙のように動けなかった。「それ」には知性があって、清心の怯えを舌なめずりして食べている気がした。
引きずるような身じろぎは一瞬で、黒い影が清心の視界を覆った。
「皇子、危ない!」
清心は怜倫皇子を突き飛ばしてその場に立ちすくむ。
襲来したものの姿を目で捉える前に、意識を失っていた。
幸い、今の皇帝は朗らかな人柄で、皇族の家族仲もよく、それに影響されてか後宮の姫君方もほどほどの距離感でのんびり暮らしていた。
そんな彼女らの共通の楽しみは、皇家にまつわる恋愛模様もとい妄想である。
「聞いた? 昨夜は怜倫皇子と碧成君、清心侍従がひとつ屋根の下でお休みになったそうよ!」
「そんなっ……清心侍従を巡って三角関係?」
帝都の民は誤解しているが、昨今の後宮の姫君方は寵を巡って夜ごと枕を涙で濡らしているのではなく、噂の美童を巡った妄想に舌鼓を打っている。
「祥姫様はこの関係性、どうお考えかしら?」
「そうね……続刊をお待ちになって?」
「きゃ! よろしいのですの!?」
その中心にいるのは清心とそっくりの容姿、けれど正反対の趣味趣向を持つ祥姫である。
世継ぎである怜倫皇子は祥姫以外の妃をめとらないと公言していて、後宮に彼女と対立する側室もいなかった。それもあってか、祥姫は一種独特な立場で優雅に暮らしていた。
祥姫はそのあでやかなる長い黒髪を垂らし、紅葉色の瞳でおっとりと微笑んでみせる。
「もちろんですわ。蛙のせいで読みあい会も延期になっておりましたもの」
姫君方とて、蛙のせいで庭に出れないのは致し方ない。そうではなく、そろそろ待ちに待った新刊の流通時期なのに、集まって夜通し妄想話ができないのは大変な不満だったのだ。
「祥姫様、いっそ清心侍従に今夜の婚儀をお任せになっては?」
「ふふ……」
扇の下で姫君たちが不吉な妄想を口にしていた頃、皇族の訪れを告げる使者がやって来た。
回廊の向こうにちらと見えた一行、護衛に囲まれたひときわ長身の青年はもちろん怜倫皇子だとわかった。ただ後宮に皇子がいるのは別段普通のことなので、そのことはそんなに気に留めなかった。
しかしその一行の中に、一人だけ様子の違う来訪者がいた。一見すると少女のようで、ひときわ小柄な体に華奢な手足をしていた。少年にしては髪が長いようで、帽子からこぼれた黒髪が見えていた。
近づくとわかる、線の細さと紅葉色の瞳。姫君方にお話できる立場ではないとめったに後宮には入ってこない美童の姿をみとめて、姫君たちは黄色い歓声を上げていた。
「……清心侍従よ!」
姫君たちは一気に色めき立って、ばたばたと支度を整えた。さすがに着替える時間はないとすぐに気づいたが、あたふたと椅子を並べ替えてお迎えの準備をする。
「ああ、鉄板だってわかってるけど、主従っていうのは尊いわね……」
「噂通り祥姫様にそっくりで」
「しっ! こっちにいらっしゃるわ!」
怜倫皇子が後宮の主である皇姉殿下に声をかけると、彼女は訳知り顔で扇を振った。姫君方は合図を受けると、表面上はうやうやしく頭を垂れる。
武官の中から清心侍従が一歩前に出てきた。帽子を外すと、少女のような豊かな黒髪が流れ出た。
清心侍従は腰を折って一礼すると、凛とした声で切り出す。
「私は怜倫殿下の筆頭侍従の祥清心。みなさん、今年は特に暑い中、お化け蛙に悩まされていらっしゃるとお聞きし、ご心労をお察しします」
流れるような言葉と身にまとう気迫はさすがというべきだが、姫君方は退屈していただけでご心労に耐えていたわけではなかった。むしろ美童と評判の清心侍従をこの目に焼き付けて、今後の創作に花を咲かせようと心を熱くしていた。
「今日は、後宮のお化け蛙の視察も行いますが、その前にお渡しするものがあります。……ここへ」
清心侍従が振り向くと、護衛らしい兵士たちが木箱を持って清心の横に立った。清心は木箱のふたを開けて、何かを一つ取り出す。
「急で予算がつかなかったので、私の実家の作物で恐縮ですが、みなさんで召し上がってください」
「これは……!」
姫君たちが息を呑んだ先には、ほのかな少女の赤い頬を思わせる唐柿があった。
唐柿は必ずしも大きくとも美味しいとは限らず、赤く熟したように見えても酸味が強いこともあるが、祥家の唐柿は違う。他の産地の唐柿に比べて小さめで、色も真っ赤ではないが、癖になる甘酸っぱさを持っている。
祥姫果。白怜帝国の者なら誰もが一度は食べたことがある唐柿は、ちょっときつめのところがいいと評判の祥姫の名前で勝手に呼ばれている。
「しばらく唐柿煮込みには困らないくらいは持ってきました」
その唐柿を恥ずかしそうに差し出した清心侍従、その初々しい可愛らしさに姫君たちは震えた。
代表で唐柿を受け取った皇姉殿下はほっこりして言った。
「ありがとう。お母さまの墓前にそなえようかしら」
「恐れながらすぐにお召し上がりください、殿下。血肉になってもらうのが生産者の願いですから」
畏れ多そうに唐柿農家の誇りを口にした清心、そのまっすぐさが尊いと密かに思う姫君たちだった。
お茶を飲み始めた姫君たちは、扇の下で少し目を赤くしながら言った。
「うふふ……。私、今夜は祥姫果を生で食べてしまいますの」
「なんですって!? とんでもない、祥姫果は私のものですわ!」
「あなた、祥姫果の真の甘さを知らないでしょう?」
この暑いのに笑いさざめく姫君たちを、怜倫皇子は若いなと目を細めて見守っていた。
「どうされました?」
唐柿の引継ぎを終えて怜倫皇子の隣に戻ってきた清心は、首を傾げて上司に問いかける。
怜倫皇子はふっと笑って言う。
「大したことじゃない。唐柿の名称をどう変えようか考えていたところだ」
「は……。唐柿は美味しければ名称はいかなるものでもよろしいかと」
真面目に応じてから、清心はふと気になっていたことをたずねた。
「それより、こういった機会こそお気に召した姫を選ばれては……」
姫君たちはそれぞれの立場で後宮入りしているが、次期皇帝の怜倫皇子の世継ぎは重要で、怜倫皇子が望めばいくらでも好きな姫君を夜伽に召すことができる。
姫君はみんなきれいで、自分みたいな小僧とは全然違うもの。なんとなく清心が下を向くと、怜倫はまばたきをして苦笑した。
「今夜、その気遣いは要らないと伝えるよ」
「え?」
清心の瞳が揺れたのを見て取って、怜倫皇子は少し考えたようだった。
「……行こう。君はまだ実際にお化け蛙を見たことはないと言っていたな」
先に歩き出した怜倫皇子に清心は慌ててうなずいて、後に続く。
蛙事変で問題になっているお化け蛙は、一時に大量に発生して畑に襲来し、軍隊のように整然とどこかに去っていくのだという。後宮でもその都度お化け蛙が産みつけていった卵を取り除いてはいるが、見たところ庭にお化け蛙の姿はなかった。
清心は皇子の半歩後ろに控えながら言う。
「お化け蛙には女王蜂ならぬ女王蛙がいるようなのです。それを駆除しない限りは、蛙事変は終息しないでしょう」
清心はこの夏、文官たちと事細かに検討を重ねて、後宮に問題の根源である女王蛙が生息しているという事実までは突き止めた。ただお化け蛙は襲来から撤収までの時間が非常に短く、蛙の捕獲に慣れている兵士たちを投入しても、未だ女王蛙の駆除には至っていなかった。
「女王蛙をおびき寄せる方法さえあれば……」
清心は怜倫皇子の背中に言いかけて、はっと息を呑んだ。
振り向いた柱の陰、何かがこちらを見ていた。犬ほどの大きさがあるのに、巧みに水路の音を利用して足音を隠して、こちらに近づいている。
清心はまるでへびに睨まれた蛙のように動けなかった。「それ」には知性があって、清心の怯えを舌なめずりして食べている気がした。
引きずるような身じろぎは一瞬で、黒い影が清心の視界を覆った。
「皇子、危ない!」
清心は怜倫皇子を突き飛ばしてその場に立ちすくむ。
襲来したものの姿を目で捉える前に、意識を失っていた。