白怜(はくれい)帝国の夏といえば連日宴、とにかく宴だが、現在の清心(せいしん)怜倫(れいりん)皇子は公式行事として後宮を巡回中である。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。よく眠れたか」
 目的地まで越えるべき山谷は一つもなく、朝食を取って一刻ほどで東の祥姫(しょうひめ)宮に到着、後は集まった姫君方に蛙慰問をこなして婚儀を挙げるだけだ。
 待ちに待った皇子妃との婚儀の前に、こんな事務的な公式行事でどうするのか。怜倫は一瞬清心に文句をつけたくなった。
 いや、怜倫を思って最小限の行程を組んでくれた清心を恨むところではない。懐の小さい自分を反省していたところで、怜倫は清心が眉を寄せたことに気づいた。
「どうした」
「その……実家の唐柿(とまと)畑がお化け蛙に食い荒らされる夢を見ました」
 清心は苦笑いして、少しやつれた様子で目を伏せた。
「可笑しいですね。蛙は唐柿を食べません。それにうちの唐柿はもう収穫が終わったと聞きました」
 それは清心にしては珍しく気弱な声音で、憂いを帯びた紅葉色の瞳がどこか儚げだった。
 言っているのは唐柿のことで、全然儚くない現実的な夢だったが、怜倫にはそれは寝起きゆえに清心が打ち明けた本音にも思えた。
 清心は融通が利かなそうに見えて、結局怜倫に従ってしまう。怜倫が清心を蛙事変の担当者にしたのも、夏の間、自分の側を離れて清心に実家に帰ってほしくないからと気づいているのかはわからないが、結局今年も彼は帰らなかったのだ。
 自分は侍従という立場を崩さず、清心は怜倫から衣装の一つも受け取ったことがなかった。十二歳から働きづめで、宴にも出かけたためしがない。その彼を確実に喜ばせてやれるのはきっと実家の家族と唐柿畑に違いないのだが、清心のいない毎日を想像するだけで気分が暗くなる自分では、その数日間の許しが出せなかった。
「……悪いな。君には唐柿の栽培よりやってほしい仕事があるものだから」
 けれど怜倫は、どうにかして事を前に進めてきた。差し当たって昨日、清心の手を取れたのは密かな喜びだった。
「今夜は祥姫との婚儀だ。それは譲れない」
 まだ目に見えない山谷がある気がするが、とにかく蛙慰問のときに祥姫と婚儀を成すのは決まりなのだ。怜倫の両親に至っては婚儀で初対面して仲良く暮らしていたわけで、後宮入りして一年も後に婚儀を成すのは遅すぎるくらいだ。
「今年の夏は、お化け蛙に忙殺させて悪かったな。今夜から私たちは家族も同然だ。……さ、朝餉に行こう」
 怜倫は笑って朝食の席に清心を促したが、清心が本当に困っているときは言葉も出なくなることはまだ知らなかった。
 白い光が窓から差し込む中、碧成君(へきせいくん)が手配した食卓にはまだ朝露に濡れている果物が並べられていた。昨日の酒席で疲れた胃をいたわるように、温かなお茶も次々と注がれる。
 碧成君は兄の労わりと臣下の礼儀正しさを持ってたずねる。
「殿下、我が宮での一夜はいかがでしたか」
「愉快で快適な一夜でした。心より礼を述べたいと思います」
 碧成君と怜倫皇子が談笑するのも、清心は上の空で聞いていた。
 頭にのしかかるのは「結婚」、自分には遠いと思って考えたこともなかったその通過儀礼だ。
 男の弟を婚儀に臨ませるわけにはいかないのだから、自分が代わるしかない。元々怜倫が後宮に召した「祥姫」は自分なのだから、これは自分が果たすべき義務だ。
 清心は現在唯一の女性文官だが、一応試験は女性も受けることができるので、性別を偽って仕官となったのはそれほど責められないだろう。
 だが男として仕えていた清心が婚儀の場にいたら、ずっとだましていたと怜倫皇子に嫌われてしまうのでは?
 ちらと壁際から怜倫皇子をうかがう。五年間ほとんど昼夜を問わず一緒に過ごした人、清心が生涯を賭してお仕えすると決めた大切なお方。一日の仕事を終えて、一人になったときに思い浮かべると……心の中がもぞもぞとしてくるのは、弟にも伝えたことがないけれど。
「……殿下、お待ちください」
 怜倫皇子が食卓の唐柿に手を伸ばした時、清心はとっさに止めていた。
 言葉をやめて振り向いた怜倫と碧成君、その前で清心は泣くのをこらえるような声で言っていた。
 どうしたと、怜倫皇子が優しい声で問いかけて顔をのぞきこむ。半分仕事の時間で、清心はこんな風に自分のことで頭がいっぱいになっているのが情けなかった。
 清心は首を横に振って、仕事をしなさいと自分に言い聞かせる。できるでしょう、五年間そうしてきたのだからと心で繰り返すと、胸に詰まった感情が少し落ち着いた。
 ごくりと息を呑んで、清心は言葉を告げる。
「碧成君にも無礼を承知で申し上げます。この唐柿は殿下に差し上げられません」
「まさか」
 さっと碧成君が顔色を変えて唐柿の皿を引き寄せる。すぐさま切り分けると、彼は頭を下げて詫びた。
「殿下、私の失態です。これは殿下にお出ししてはいけない食事でした」
「どういうことだ、清心?」
 怜倫皇子が毒を疑って席を立ちかけると、清心は進言の口調で言った。
「これは収穫の早すぎる唐柿なのです。酸味と灰汁(あく)が強すぎて、弱った胃腸を直撃し、時に腹痛を起こす。それはそれで問題ですが、最大の問題は……」
 碧成君と清心は辺境の食事を熟知した者同士目線を交わし合って、力強くうなずきあう。
「……食べたのを後悔するくらいに不味いということです」
 怜倫は息をついて席に掛けなおすと、力が抜けたように言った。
「毒ではないんだな。ならいい」
「よくありません。唐柿が不味いなんて許せない」
 唐柿の一大産地、祥家の子息として、清心は首を横に振る。
 自信を持ってお届けできる美味しい唐柿が、収穫の時期を間違ったがために食卓で嫌われるという悲劇を何度も見てきた。仕方がないのですよ、雨とか暑さとかいろいろありましてねという実家の使用人たちの苦い顔が頭をよぎる。
 ある日、待てばいいのにとぼやいた清心に、そういう気の長い人ばかりじゃないんだよと弟が答えた。恋と同じで、つい気持ちが急ぐときもあるんだと、笑って付け加えた。ま、結婚は決断も必要らしいけどね、とも。
 結婚……私が? 今更ながらそれは今夜なのだと思って、清心は激しくうろたえていた。
 窓の外でけろりと蛙が鳴いている早朝、清心の心はすでに後宮の最奥へ飛んでいた。