清心(せいしん)の滞りない手配のおかげで、怜倫(れいりん)皇子は軽やかに片付いた執務状況のもと、蛙慰問を始める手はずとなった。
 皇子というのは供たちへの気遣いも当然しなければいけない立場で、もちろん清心だけに気を配るわけにはいかないものだが、特に小柄で華奢な清心をこの真夏に廟巡りさせるのを実は心配していた。
「今年が特に暑いのはわかっているだろう。体調が悪いときはすぐに伝えるように。こっそり休憩していても構わない」
「ご心配なく。私は辺境育ちですので」
 清心はそう言うが、彼は怜倫が止めないと直立不動でずっと待機する生真面目な侍従だ。だから当初、怜倫の名代として後宮中を回らせるのは反対したのだった。
 一方、怜倫皇子が言いづらそうに暑さのことを告げるたび、考えを巡らせるのは清心の職業病だった。
 今日は、口うるさいと思われるのを承知で清心が怜倫皇子に進言するいつもの逆だ。自分の立てた計画に不備があったのではと不安になった。
 清心が供たちを見回すと、仕官服である重く厚い衣装をまとっているためか、まだ一刻ほどですでに疲れが見え始めていた。小さな町ほどもある後宮を一日で回るのは、配慮が足らなかったかもしれない。
「申し訳ありません。早急に対応します」
 清心が物事をまっすぐ進めるわりに皇宮という複雑な世界でやって来れたのは、方向転換も早いからなのだった。すぐさま手紙をしたためると、伝書鳩に託して北の方角に飛ばす。
「全体的に休憩を増やして、今日の夜は一晩休んでから目的地に向かいますが、よろしいでしょうか?」
「何度も言うが、今夜は祥姫(しょうひめ)のところで婚儀を挙げる」
「後宮ですから。もう一泊くらいなさいませ」
「いや、私は祥姫以外の側室を迎える予定はないぞ」
「男性の宮でございます」
 こういうときに後に引かない清心は、早速供たちの間を回って、一人ずつの顔色を確認しながら言葉をかけた。
「みなさん、強行軍を組んで申し訳ありませんでした。今晩はゆっくりできるように手配しますので、もう少しがんばってくださいね」
「は! ……恐縮です」
 少女と見まごうようなころんとした童顔で案外優しい清心に、兵士たちは一瞬嬉しそうな顔をしたが、後ろで怜倫皇子が睨んでいるので慌てて顔を引き締めた。
 ひさしのある回廊に入ると、風を感じることができるようになった。怜倫皇子がふと清心を見やると、彼は少し頬を緩めて庭の一角を見ていた。
「清心?」
「すみません。畑を見ると和むんです」
 清心は短く答えただけだったが、怜倫は彼がいつも辺境の実家に帰りたがっているのを思い出していた。
 清心は日々筆頭侍従の仕事に尽力しているが、その地位で権力を振るうことには執着がない。それと同じで、怜倫に仕えることに手を抜いたことはないが、出世にも執着がないように思う。
唐柿(とまと)畑、どうなってるかな」
 ぽつりと独り言をこぼした清心は、その言葉に怜倫が焦ったのは気づかず、ゆく手に目を戻した。
 それから一刻ごとに水を飲んで休憩し、足も休めながら進んだために行程は遅れたものの、夕刻には一行は無事北の宮に到着した。
 怜倫皇子が唐柿畑を横目に入城すると、ひときわ立派な碧玉の扉の前でその宮の主が出迎えて言った。
「殿下、我が宮へよくお越しくださいました」
 ここは既に廃嫡になった怜倫の兄、碧成君(へきせいくん)の宮だった。神職に着いたために皇位からは退いたが多くの妃に囲まれて優雅に暮らしている。黒髪に少し浅黒い肌をした野性味のある青年で、怜倫に挨拶するとすぐに清心に目を移して気さくに笑いかけた。
「清心も、よく来たな。今日は暑かっただろう」
 清心はうやうやしく頭を下げて言った。
「突然の来訪を受け入れてくださってありがたく存じます」
「気にするな。……何ならずっといてくれてもいいぞ」
 怜倫はその言葉に、清心が初めて都に来た頃は碧成君の宮に寄宿していてずいぶんお世話になったと話していたことを思い出す。
 碧成君は朗らかに怜倫に向き直って言った。
「先に湯殿の用意をしております。休憩いただいた後、夕餉をお召し上がりください」
「お気遣いに感謝いたします、兄上」
 清心と親しいところは多少面白くないものの、突然の来訪を快く受け入れてくれることには感謝せざるをえなくて、怜倫は素直に礼を述べた。
 供たちを連れて宮に立ち入り、怜倫がいつものように清心を振り向いたとき、清心が膝をついていることに気づいた。
 怜倫がどうしたと声をかける前に、碧成君がひょいと清心を抱え上げて言った。
「変わらないな、清心。お前は武官じゃないんだ。兵士と同じように炎天下を歩いたらきつくて当然で、別に悪いことじゃないだろう。ちょっと別室で休みな」
「ご迷惑をおかけして……」
「お前の世話を焼くのは嫌いじゃないよ、俺は」
 まるで保護者のようにたしなめた碧成君に清心はこくんとうなずいて、その構図に怜倫の心中は荒れた。
 主君の立場で言ったとしても清心が同じように安心して自分の腕に身を任せたとは思えなくて、怜倫は碧成君に子どものように抱えられて行く清心を見送るしかできなかった。