浜辺に、女性が佇んでいる。
 長い黒髪を靡かせて、彼女は、ただ。ただ。海を見ていた。
 まるで、物語のようであった。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁のように。
 海と、彼女は、そこに確かに存在していた。
 
 目を奪われるということが本当にあるのだということを、夏彦はその日、初めて知ったのである。


  ***


「何、お前、懸想したの」
「懸想って、お前な」
「想いを懸ける。良い言葉だよねえ」
 聡はそういってくふりと笑った。
 全く腹の立つ野郎である。

 大学帰りに寄り道をしては、喫茶店で、少しお高い珈琲を嗜むというのが、ここ最近の夏彦の日課である。特にこの場所は、色々な喫茶店に顔を出し、調査した結果、ようやく見つけたお気に入りの場所であった。

 人は、食事をする際には暖色を好むのだという。それ故に、飲食店では温かみのある照明を使うところが多いのだが、夏彦御用達のこの喫茶店は、一味違う。
 まるで水の中のように、青の照明が使われているのである。
 これだけだとイロモノの喫茶店のようであるが、なかなか本格的で、珈琲も料理も、デザート系も、どれも皆一流の味である。
 聡は目の前で青に染まったショートケーキを頬張っている。初めて連れてきたときは、食欲が失せる、と、あまりいい顔はしなかったのだが、何回か来ているうちにすっかり慣れてしまったようだ。
 視線に気がついたのだろう、聡は顔を上げる。目が合うと、口を下弦の月のように歪めて笑った。嫌な顔だ。明らかに楽しんでいる。
「で、相手はどんなコ?」
「おい」
「いいじゃないか。教えてよ」
「やだね。お前、楽しんでるだろ」
「当たり前でしょ。惚れた腫れたで大変なのは当人のみさ。周りはただの観客と相場が決まっている」
「本当に、やなやつだなお前は」
「いのち短し、恋せよ乙女。男なのが残念だ。ああ甘酸っぱい、甘酸っぱい」
 歌うように呟いて、彼はショートケーキの上の苺をぱくりと口に含んだ。
 夏彦と聡は大学の二回生である。同じ文学部在籍であった。
 聡は目立つ容姿であった。線が細く、顔立ちも中性的で、物柔らかな物腰。当然女学生にも人気があり、いつも誰かしらに囲まれている印象であった。
 対する夏彦は、頬骨の張った厳つい顔で、体もずんぐりと大きい。ただでさえ怖がられる風貌であるのに、それに加えて人見知りで、特に女性に関しては、どうにも鯱張ばってしまうところがあった。そのため、この二十年間というもの、ガールフレンドが出来たこともなければ、勿論お付き合いをしたこともない。
 何とも、不公平な世の中だ。
 人見知りなのは、置いておいても。せめてこの男に比肩するくらいの容貌であれば、また違ったかもしれないのに。
 夏彦は恨めし気な目で、目の前の男を眺めた。
「お前はいいよな、お相手がいるんだから」
 涼しい顔をしたこの男が、軽薄そうに見えて実は結構一途だというのを知ったのは、つい最近である。
 聡にはガールフレンドがいる。明美という名の、ボーイッシュで、背の高い、エキゾチックな顔立ちの女性であった。高校からの付き合いなのだという。一度だけ会ったことがあるが、明るく快活なその様子に夏彦は癒されたものだ。
「ふふん。いいだろう。ほら、これ、手作り」
 そういって見せつけてきた白いマフラーは、歪な形であったが、それすらも、一生懸命編んだのだと暗に主張しているようで、なんとも腹立たしい。
「ぼくは純粋に興味があるんだ。お前みたいな朴念仁が一目惚れするなんて、きっと相当な美人なんだろうな」
「ちがう、ただ少し気になっただけで」
「それを恋と言わずしてなんという」
「ちがうと言っているだろう」
「まあ、何とでもいいなよ。目は口ほどに物を言うってね」
 にやにやと笑う聡をじとりとねめつけて、夏彦は珈琲をずずっとすすった。


 
 夏彦がその女性に出会ったのは、つい先日のことであった。
 彼の住むアパートは、海の近くに建っている。大学に通うためだけに借りたその場所は、狭く、ぼろぼろで、壁も薄い。こんな風に寒い冬の日などは、隙間風が入り込む。
 炬燵やストーブは、甘えだ。学生ならば学生らしく、慎ましく暮らすべき、という謎の義務感にかられて、夏彦はこの冬も安い毛布で過ごそうと決めていた。一度贅沢を覚えたら、そのままなし崩しになってしまうような気がしたのだ。心頭滅却すれば火もまた涼しという。その逆だって可能なはずだ。

 その日も、彼は毛布にくるまって寒さをしのいでいた。

 朝の五時である。風の強い日であった。凍えるような風がひっきりなしに入り込み、夏彦の体温を容赦なく奪っていく。
 一度、目が覚めたら、もう駄目だった。何度寝なおそうとしても、体の芯を抉られるような冷たさが、彼の睡魔を奪っていく。
 ――起きよう。
 彼は布団をはね上げた。
 眠れないのなら、このままだらだらと布団の中にいても、仕方がない。
 それで、朝の散歩に出かけたのである。
 早朝の海は、静かであった。さすがに寒い。芯から順々に凍えるような感覚である。着ているダウンジャケットの襟を合わせるようにして、彼は浜辺に佇んでいた。
 まだ太陽も顔を出さない、けれど夜とも言い切れない。朝と夜の狭間。
 背後の月が、幽かな光で海原を照らしていた。青紫の水面はぬらぬらと光り、やがて来る夜明けの気配をうっすらと漂わせている。
 白く砕ける波しぶきが、月光を浴びてベールの様に輝いていた。
 絶え間なく続く、波の音。
 吹きおろしの風が、夏彦の少し伸びた髪を荒々しくかき混ぜていく。
 夏彦は、海が好きであった。
 心の、一番深いところが、ざわざわとざわめくのである。
 人は、海から来て、海に還る。どこかで聞いたフレーズであるが、まさにそれだ。
 きっと、自分は、前世は魚だったに違いない。
 理屈ではない。夏彦には、そんな、確信めいた思いがあった。深い青の底に沈む。手足はヒレに変わり、人間の皮を破り捨てて、深く、深く。
 そんなことを考えている折であった。
 吐く息が、白い。暗闇にすうと溶けていく。その息の先を視線で追って、彼は息をのんだ。

 女性が、居た。

 ほんの数メートル先である。いつからいたのだろうか。暗闇に溶けるように、彼女はそこに佇んでいた。
 海を、見ているようであった。風に乱れた長い黒髪。体にぴったりとしたジーンズに、革のジャケット。随分と細身である。すらりとした姿に、男性のような恰好がよく似合っていた。走り屋だろうか。バイクの音は、聞こえなかったが。いったい、いつから。
 夜が明けていく。藍色、薄ぼんやりとした紫、そして海原を金に染めながら、朝が、生まれようとしていた。水面に顔を出した太陽は、彼女の輪郭を金に染め上げていく。
 まるで、物語のようであった。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁を思わせる光景であった。
 女性は、たなびく髪をつうと抑え、ゆっくりと振り返る。
 夏彦は、動けない。
 もう寒さも感じなかった。
 音の一切を吸い込まれたかのような感覚。
 波の音も、海を渡る風の音も、最早、遠い。

 目が、合った。

 黒曜石の瞳が、濡れ濡れと光っている。
 その光を隠すかのように、彼女はそっと目を伏せた。
 泣いていたのかもしれなかった。
 長い睫毛のふちに、雫を宿し、自嘲するかのような笑みを浮かべていた。
 さくり、と音がした。黒の靴の足元で、砂が鳴る。
 女性はゆっくりと歩み、そのまま、夏彦の横をすうと通り抜けた。
 翻る黒髪から、幽かな、甘い香り。
 香水ではない。
 何か、花のような、懐かしさを感じる香りであった。

 目を瞬かせる。

 気づけば、朝日はとっくに昇り切っていた。
 まるで、立ったまま夢を見ていたかのようであった。
 夏彦は頭をひとつ振り、そっと後ろを振り返った。

 もう、あの女性はいなかった。ただ、甘い香りが。胸を締め付けるように、残っていた。


  ***


「それは、恋だわね」

 古本を整理しながら、頬を染めていったのは、夏彦のアルバイト先のオーナーである。五十がらみの女であった。名前を芳子という。
「恋」
 壁一面の棚にはたきを掛けながら、夏彦は憮然とする。
 この人も、聡と同じことを言う。
「違いますよ。俺はただ……ちょっと気になっただけで」
 舞う埃に顔をしかめながら、夏彦は呟いた。
 馬鹿馬鹿しい。そんなものではないのだ。
 ただ、振り向いた時の、長い睫毛に宿った光、輪郭を金に染めた姿、あの香り、それが少し気になる。それだけの話である。
「気になるってんなら、それはもう、囚われている証拠なのよ。囚われてからが恋のはじまり。もうそこからは逃げ出せないの。ああ、楽しいわねえ。いいわねえ、若いって」
 芳子は古本を手にしたまま、それに頬を寄せ、むふりと笑った。
「わたしにもあったわあ、身を焦がすような。赤いリンゴに唇寄せて……ふふふ」
 本に、口づけを落としそうな勢いである。
 夏彦は溜息を一つ吐くと、今にも芳子の餌食となりそうな古本をそっと取り上げることに成功した。
「芳子さん、ここは俺がやりますから」
「あらそお、じゃこの本、全部、しまっておいてくれるかしら」
「わかりました」
「それじゃ、わたしはちょっと失礼して……」
 昼の三時である。ちょうど芳子がいつも見ているテレビドラマの再放送の時間であった。
 夏彦は苦笑し、手に持った本を棚にしまう。


 壁一面の本棚には、様々な古本が積み上げられている。芳子には申し訳ないが、この本を読み漁ることもまた、午後三時の夏彦の日課であった。
 今日は、どの本にしようか。昨日は鏡花を嗜んだので、少し違った作風のものがいい。久しぶりに乱歩にしようか。しかし、今はどちらかというとそういうアンダーグラウンドな物ではなく、もう少しかっちりとしたものを読みたい気分だ。

 逡巡しながら、手を彷徨わせている時であった。
 入口の、呼び鈴が、鳴った。
「いらっしゃいま……」
 夏彦は口をあんぐりと開ける。
 本屋の入り口。今にも崩れ落ちそうに積まれた古本の隙間を縫うようにして店内を物色している。
 あの、女性だ。
 長い黒髪、すらりとした姿。黒曜石の瞳。
 海辺で会った、あの人が、今、ここにいる――。


  ***


「え、なに、それで、何も話さなかったっていうわけ?」
 聡は目を丸くした。
 翌日。
 講義終わりに構内をうろうろしていた聡を捕まえ、缶珈琲一本分の時間をもらうことに成功したのである。
 この男に相談事とは我ながら情けないが、夏彦は、心底困っていた。
 昨日の女性のことが、頭から離れない。
 しっかりとした日の下で見ても、彼女は変わらず美しかった。
 ゆっくりと、狭い店の中を歩く姿。立ち止まって、本を選ぶ指先。背に流れる黒髪。夏彦に、本を差し出した、白魚の手。先のほうだけ少し赤い、ふっくらした指。少し低めの掠れた声。花のような香り。
 そういったものが、ちらちらと頭に住み着いて、何も手につかなかった。アルバイトを終え帰宅しても、その姿はより一層鮮やかになり、まるで万華鏡を覗き込んだ時のような心持ちになったものだ。
 端的に言うと、夏彦は焦っていた。まるで自分が自分でないようである。
 今まで、二十年間生きてきて、こんな経験をしたことがない。あの女性のことを考えるだけで、心がざわざわとざわめいて、ちっとも落ち着かないのである。

 二人は寒風吹きすさぶベンチに並んで腰を下ろしていた。もう随分とそうしている。相談しようと思えど、夏彦とて、何を言えばいいか分からなかったのだ。
 逡巡し、ようやく口を開いた時には、温かかった缶珈琲は、とうに冷めきっていた。
「で? 奇跡的にも、アルバイト先で? 運命的な再会をしたというのに? 何も、できなかったというのかお前は」
「本は売ったぞ。会話も、した」
「あのさ」
 聡はあきれたように笑った。
「まさかその会話って、ウン百円になります。お釣りはこちら、じゃあなかろうね」
 その通りだったので、夏彦は押し黙った。
「……奥手奥手とは思っていたけど」
「んなこと言っても、何を、話せばよかったんだよ」
「いろいろあるだろう。名前とか、年齢とか……電話番号まで聞けたら完璧だけど、流石にぼくもそこまでは言わないさ、けどねぇ」
 聡はため息をついた。冬空に、白く消える息を目で追って、夏彦はぼそりとつぶやく。
「でも、そんなこと聞いて」
 いったい、どうしろというのだ。
「あのね」
 聡は冷えた珈琲をすすった。
「誰かと誰かが繋がるためには、どちらかが働きかけなきゃだめだ。だろう?」
「でも」
「現に、ぼくはそうした」
 確かに、そうだ。この男と、ガールフレンドの話は、耳にタコができるほど聞かされていた。
 夏彦は考える。自分は、あの女性と繋がりたいと思っているのだろうか。
 ――そもそも、繋がるとはどういうことだ。
「まあ、次に会った時に、せめて名前くらいは聞いておけよ」
「……次、と言っても」
 夏彦は下唇を噛み締める。
「また、お前の店に来ることもあるんじゃないのか」
「店に?」
「そう」
「でも、彼女が来たのは昨日が初めてだぞ」
「さあ、どうだか」
 聡の声が、のっぺりと耳に響いた。
「見えていなかっただけかもしれないだろう」
「どういうことだ」
「お前が意識していなかっただけかもしれないぞ」
「何を、言っているんだお前は」
 聡は朗らかに笑った。
「気になる人ができるっていうのは、そういうことだからさ」
 意味が分からなかった。いったい、聡は何を言っているのだろう。
「まあ、大丈夫だ。二度まで会ったのだから、縁があれば、あと一回くらいは好機があるだろう」
「――好機」
 ぽそりと呟いた言葉は、思いの外期待に満ちた響きであった。そのことに夏彦自身もぎくりとする。
 自分は、期待、しているのだ。もう一度彼女に会えることを。
「二度あることは、三度あると言うし、な」
 夏彦の言外の思惑に気づいているのであろう、聡はにやりと笑った。
「そして、三度目の正直とも言う」
 黙ってしまった夏彦に、聡はたたみかける。
「言ってみろ」
「は?」
「感情に、仕切りが必要だ。今のお前は混乱している。整理する必要があるだろう」
「……何を」
「覚悟を決めろよ。口に出して言うんだ」
 そう言うと、聡は口の端をひょいと持ち上げた。そのまま珈琲を一息に飲み、立ち上がる。
 風が吹いた。
 聡の白いマフラーが、ひらひらと舞っている。それをつうと抑え、聡は笑った。
「お前は、その人のことが好きなんだ」
 夏彦を取り囲む音が、一切合切、消えた。
 違う。そう言おうとしても、口が動かない。
 ――好き、だと?
 ――自分が、あの女性を?
 ――名前も知らぬその人を?
 聡の手から放れた空き缶が放物線を描き、屑籠に吸い込まれる。
「まあ、ぼくはね、全面的にお前を応援するよ。お前のそんな顔を見たら、せざるを得ないからな」
 思わず顔を片手で覆った。今、自分がどんな顔をしているのか、自覚したら最後だ。
 聡は高らかに笑うと、片手を上げて踵を返す。
 夏彦は、その後ろ姿を目で追った。
 顔が熱い。
 真冬だというのに、自分はいったい、どうしてしまったのであろうか。


  ***


「ああ、もう、何やってるの!」
 芳子の悲鳴で、夏彦は目を瞬かせた。目の前で、本が雪崩を起こしている。
 確か、検品をしていたはずであった。破れているものがないか、状態はどうなっているのか、それを確認してから、値段をつける。そんな作業である。
 今日は講義が四限まであったので、午後六時からの勤務であった。時計を見る。夜の八時を過ぎていた。あと一時間で閉店である。それなのに、夏彦の前に積まれた本は、一向に減ってはいない。
 いったい、自分はこの二時間、何をしていたのだろう。
「どうしたの、北村君。随分と上の空じゃない」
 芳子が溜息交じりに呟いた。
「す、すみません」
「も・し・か・し・て、恋の病かしらぁ」
「……違います」
 はたきを持って、腰をくねらせる芳子を一瞥し、夏彦は息を吐く。この人はいつもこうだ。聡にしても、芳子にしても、どうして自分をそんなに恋愛に絡めたがるのだろうか。
 夏彦とて、恋愛に興味がないわけではない。むしろ、大いにあると言ってもいい。けれど、たった二度しか会っていない、名も知らぬ人のことを、好きだ、というには抵抗があった。
 そう、確かに気にはなっているけれど。人を好きになるということは、その人の、人と為りを確かめて、ある程度の時間を経て、ようやく芽生える感情なのではないだろうか。
 崩れた本の雪崩は、床にまで及んでいる。随分派手に散らばしてしまったものだ。
 直そうと、手を伸ばし――ふと、一冊の本が目に留まった。
 頁が開いてしまっている。
 随分と古い。
 和綴じの本である。
 黄ばんだページには、墨で描かれた絵と、うねうねとした崩し字が踊っていた。
 思わず、手に取った。
「これ……」
 描かれているのは、女だ。綺麗な人であった。
 裸体である。女は水の――おそらく海の中にいる。
 すうと切れ上がった瞳は悲しげに伏せられていた。長い黒髪は乱れて体に張り付き、ふくよかな乳房がその隙間からちらりと覗いている。その乳房の下の方、ちょうど影になっているところから、鱗が、生えていた。
 まばらに生えたその鱗は、下半身にいくに従って密度を増していく。鱗に覆われた下肢は、魚の尾となり、力強く水しぶきを上げて。
 上半身は人、下半身は魚。
 ――人魚だ。
 異形の女は、その身を海に沈め、荒れ狂う海に抗うように泳いでいる。
 そんな、絵であった。
 不思議と、胸の奥がぎゅうと痛くなる。何だかとても懐かしいような気がする。この絵を、いや、この情景を自分は知っている……。
「ああ、それ」
 芳子は本を手に取った。画集のようであった。表紙にはタイトルと思しき文字が、これまた崩し字で踊っている。
「面白いわよねえ」
「面白い、ですか?」
「ええ」
 そう言って芳子は本を指さす。
「日本の人魚には、なかなか見ないタイプの絵だわね」
 芳子は、本屋の店主なだけあって、こういうものには結構詳しい。特に、古書に関しては博識で、打てば響くような答えが返ってくる。普段がああなだけに、そのギャップに最初は驚いたものであった。
「見ないタイプですか?」
「ええ。日本の人魚って、いかにも化け物然としているものが多いのよ」
「化け物?」
「般若のような顔に鯉の体がくっついていたり……、上半身が河童のように描かれているものも多いわね」
「ああ……」
 夏彦は頷いた。
 妖怪の類に関しては、夏彦はあまり詳しくない。しかし、聡から本を貸してもらったことがある。彼は専らその手の読み物が好きなのだ。
 面白いから読んでみろ、とのお言葉をいただき、一、二冊借りて読んでみた。図録と、読み物がセットになった本である。その中の一冊に、確か人魚もいたはずだ。夏彦が見知っている、童話の物と随分違ったのを覚えている。
 こちらは、どちらかというと、一般的によく知られている、アンデルセンの人魚に近い姿であった。
「それ、誰が描いたやつなんです?」
 夏彦は本を指さした。
「さあ。それが分からないのよ。古いものであることは、確かなのだけれど」
「……それ、俺が買ってもいいですか?」
「北村君が?」
「ええ。友人が好きそうなんです」
 嘘だ。
 聡に見せたら、どんな反応をするだろう。そう思ったのも事実である。しかし、それよりも、その人魚の絵が、気になった。
 妙に離れがたい。手元に置いておきたい。そんな心持ちになったのである。
「残念ながら、だめなのよ」
「え?」
 芳子は本を閉じ、机に置いた。
「これ、実はもう買い手が決まっているのよね」
「買い手?」
「そう」
 呼び鈴が、なった。
「噂をすれば」
 芳子が、笑った。
 入口を見て、夏彦は絶句する。
 そこにいたのは、あの――。
「いらっしゃい、葉子ちゃん」
「芳子さん、いつもありがとう」
「いいのよぉ。あ、これ、例の本」
 そう言って、芳子は本を彼女に手渡した。
 夏彦は息ができない。魚のように、口をパクパクさせるので精いっぱいである。
 確かに、あの女性だった。海で会った、そして、この店で先日会った、あの。
 彼女は本を検分しているようであった。白い指先が、黄ばんだ本の頁をひと繰り、ひと繰り確かめるように捲っている。
 真剣な表情であった。
「どう?」
「まだ私が持っていないものです」
 上目づかいでそう尋ねる芳子を安心させるように、葉子、と呼ばれた女性は微笑んだ。
「流石、芳子さん」
「ふふふ、良かった」
 芳子もつられたように笑う。
 夏彦は――未だに動けない。
 目の前の光景を、まるで水槽越しに見ているかのようであった。現実感がないというのだろうか。薄青に包まれた視界に、葉子と芳子が笑っている。
 黒髪が、さらりと流れた。
 ふわり、と漂う、花の香り。
 あの時も――海で会った時もそう思ったが、ひどく懐かしい香りであった。
「……くん、北村君!」
 夏彦は目を瞬かせる。
 青い視界は一瞬で消え、目の前には、呆れた風情の芳子が仁王立ちしていた。
「もう、なにぼーっとしてるの!」
「あ……」
「ちょっと奥に行くから、葉子ちゃんの相手、お願いね」
 電話がけたたましく鳴っている。奥の方だ。店の電話ではないので、芳子の私用であろう。
 慌てたように奥に消える芳子の背を目で追い、夏彦は慌てた。
 二人きりに、なってしまった。
 視線を戻すと、目の前の麗人は、相変わらずの風情で本の頁を繰っている。
 奥からは芳子の朗らかな笑い声が聞こえてきた。どうやら知り合いからの電話だったようで、何やら盛り上がっている。
 夏彦は、焦った。
 相手、と言っても。いったい何をすればいいのだろう。
 じっと見る。
 確かに、あの人だ。海で会った。そして、ここでも一度会っている。
 葉子ちゃん、と呼ばれていた。芳子の知り合いなのだろうか。
 それにしても、睫毛が長い。白皙の頬。きっと触ると少し冷たいのだろう。鼻は高めで、細い。少し開いた薄い唇から、真珠のような歯がちらりとのぞいている。
 覚えず、不躾な視線を送っていたようだった。葉子が、つうと顔を上げた。
 目が、合った。
 黒々とした瞳に、夏彦が映り込んでいる。
 体が、震えた。
 何か、喋らなくては。
 何を言えばいい。
「あ……」
 口が、上手く動かない。
 ――好機。
 聡の声が、聞こえた気がした。
 好機だ。
 しかし、何の好機だ。
 名前は既に知っている。
 ――年齢。
 女性に聞くのは失礼だ。
 ――電話番号。
 無理だ。不審がられるに決まっているではないか。
「あ……の」
「はい」
「う、海に……」
 口をついて出たのは、そんな言葉であった。
「海?」
「う、海に、いましたよね……」
 葉子は目を見張った。やがて、その瞳をゆっくりと細める。
「ああ……あの時、浜にいた人」
 少し低い、掠れた声だった。
「それじゃあ、恥ずかしいところ、見られちゃったかな」
 夏彦はぎくりとし、机の角に頭をぶつけたい衝動に駆られた。よりによって、なぜ自分は、その話題を選んでしまったのだろう。
 そうだ、この人は、泣いていたのではなかったか。
 睫毛に宿った雫を思い出す。その理由を知りたいと思わないでもなかったが、いくらなんでも、ほぼ初対面の相手に振っていい話題ではない。
 夏彦は慌てて話題を探した。
「よ、よく行くんですか」
「え?」
「う……海に」
「うん」
 葉子は本の頁を慈しむように撫でた。指の先を追って、夏彦は息を呑む。
 ――人魚だ。
「行くよ」
 そう言って、葉子は目を伏せた。視線は人魚の頁に注がれている。
 狂おしいまでの光を秘めた瞳であった。絵を見ているはずなのに、絵の奥の奥を覗き込もうとしているかのようである。
「海は故郷だからね」
「故郷?」
「そう。人は、海から来て、海に還るっていうけれど」
 葉子の言葉に、夏彦はどきりとする。
「もしかしたら、私は昔、魚だったのかもしれない。そう言ったら笑うかな?」
 顔を上げて、葉子は苦笑した。夏彦は……笑えなかった。
 全く同じことを、自分も考えてはいなかっただろうか。
「お、俺も」
 思わず言葉に出した。葉子は小首を傾げる。その拍子に、艶やかな黒髪がさらりと零れた。
「俺も、同じこと、考えます」
「君も?」
「ええ、なんていうか、青いのが落ち着くって言うか」
 しどろもどろになりながら、夏彦は言葉を探す。
「理屈じゃなくて、なんとなくなんですけど。海の底に行きたいとか、前世は実は魚だったんじゃないかってよく考えます。――その人魚も」
 ちらり、と人魚を見やった。
「なぜか、懐かしい気がして。だからその頁をあなたが見つけて、あなたがそんなことを言うなんて、なんだかすごく運命を感じて」
「運命?」
「あ、いえ、その」
 焦った。顔が熱い。自分は何を口走っているのだ。これではまるで、ただの遊び人か、危ない人だ。
 葉子は目を丸くし、一拍置いて、爆笑した。体をくの字に曲げて、笑い転げている。
「す、みません、俺、変なこと」
 葉子はまだ笑っている。
「違う、違う。顔、真っ赤で」
「え!?」
「君、おもしろいね」
 夏彦の顔が、ますます熱くなる。自分でも火照っているのが分かるくらいだ。さぞひどいことになっているのだろう。
「ああ、笑った、笑った」
 目じりにたまった涙をぬぐいながら、葉子は笑みを零している。
「なあに、随分盛り上がってるじゃない」
 いつの間に帰ってきたのだろう、芳子がにやにやしながら隣に立っていた。
「どう? 葉子ちゃん、ウチの秘蔵っ子。将来性抜群、性格真面目、顔は怖いけど気は優しくて力持ち」
「……よしてくださいよ」
 げんなりする夏彦を見て、葉子はまた、笑った。


 葉子は、よく店に現れるようになった。
 とは言っても、それは昔からのことだったらしく、単に夏彦が気づいていなかっただけだった、という話である。
「なぁに言ってるの! うちのお得意様なのよぉ」
 そう言ったのは芳子である。
「北村君も、何回か顔を合わせてると思ったけれど。あんな美人に気がつかないなんて、朴念仁もいいところね」
 芳子は朗らかに笑った。
「いい子よ。すっごく。古書が好きでねえ。それで、あの子の好きそうなのが入ると、一応取っておくのよ」
「古書、ですか」
「そう。特に、妖怪画ね。コレクションしているんだって話よ」
「へえ……」
「まだ若いのに、偉いわよねえ」
 その話が本当なら、なぜ自分は彼女に気がつかなかったのだろう。
 呼び鈴が鳴った。
 黒髪を靡かせて、本棚の前に立つ麗人を見て、夏彦はひっそりと頷いた。
 ――見えていなかっただけかもしれないだろう。
 ああ、そういうことか。
 聡が言っていたのは、このことだったのだ。
 自分は、彼女に恋を、している。
 だから、見えるようになった。
 つまり、そういうことなのだ。


  ***


「ついに、認めたか」
 学食できつねうどんをすすりながら、聡はにやりと笑った。
 対する夏彦はハヤシライスをスプーンの先でつつきまわしている。
「で、誘ったの?」
「何に」
「決まってるだろう。デートだよ、デート」
「デっ……」
 音を立てて、スプーンが皿の上に跳ねた。ハヤシライスの黒褐色が夏彦の服に飛び散る。
「うわ!」
 慌てて布巾で服をこする夏彦を見て、聡は呆れたようにため息をついた。
「その様子じゃ、まだなんだな」
「だって、おい、会って間もないご婦人に、そんな」
「そんなに固く考えることもないだろう。お茶しませんか、で済む話じゃないか」
「んな、簡単に言うなって!」
「何も、ホテルに誘え、って言ってるわけじゃないんだぞ」
「なっ、ちょっ、待て!」
「待たん。どうにもお前はじれったさすぎる」
 しれっと言いながら、聡はうどんの油揚げをかじっている。
「それで、名前は? 聞けたんだろうな」
「あ、ああ。葉子、と」
 瞬間、聡の動きが止まった。
「……葉子? 苗字は?」
「分からん」
 聡の事だから、きっとまたにやにやと笑い、こちらをからかってくるに決まっている。夏彦は、そう思っていた。
 しかし、聡はにこりともしない。
 顎に手を添え、何やら考え込んでいる風情である。
「植草?」
「ああ……いや」
 聡は目を瞬かせる。
「葉子、なんて名前、珍しくもないしな」
「は?」
「こっちの話だ。……ともかく、頑張れよ」
 その様子に、少しだけ違和感を覚えた。
 後に思えば、この時に。
 もっと深く突っ込んでおくべきであった。
 葉子、という名に何か意味があるのか、と。
 訪ねておけばよかったのだ。


 ***


「お茶、しませんか」
 そう初めて声をかけたのは、寒さも厳しい、夕の刻であった。
 その日は大学が休みだったので、午前からの勤務である。そのため、珍しく夕方には上がりの時間だった。
 そのタイミングで、彼女が来店したのだ。
 今しかない、そう思った。
 葉子は目を丸くし、そして。ゆっくりと、花が綻ぶように、笑った。
 通いなれた店で、初めて食べたケーキの味を、夏彦は一生忘れないだろう。青い照明のあの喫茶店を、葉子は気に入ったようであった。海の色に染まった苺のショートケーキをパクつきながら、彼女は笑っている。
 海の中にいるようだ、と言っていた。青の底は、こんな案配なのだろうか。それは随分と心地よいに違いない。
 とりとめない話ばかりを、した。
 好きな本の話。
 好きな食べ物の話。
 好きな音楽の話。
 人には、相性というものがあるのだと思う。夏彦も今回ばかりはそれを実感せざるを得なかった。
 彼女といると、気が楽になる。
 女性が苦手な夏彦にしては珍しく、自然体で話せる相手であった。


 それから暫くの間、そんな日々が続いた。特に約束をしたわけではない。しかし、夏彦の仕事が早く終わる日に、彼女はいつもふらりと店に現れるのである。
 葉子との逢瀬は楽しかった。
 不思議と、出自については話さなかった。向こうも聞かなかったし、こちらも触れずに会話をした。気にならなかったわけではない。けれど、聞いてどうなることでもないし、聞けば必ずはぐらかされる。そんな確信があった。
 どんな生涯を送ってきたかなど、そんなことは大した問題ではないのだ。
 目の前に彼女がいる。名前を呼び、呼んでもらう、それだけでもう十分なのだと、彼には分かっていた。
 ただ一つ、どうしても気になることがあるのだとすれば。それは、彼女が時々酷くつらそうな顔をすることだ。
 あの日も、そうであった。
 寒さも少しばかり緩んだ、午後のことである。
 この頃になると、もう仕事とは関係なく、二人は会うようになっていた。相変わらず約束はしていない。休みの日や、時間の空いた時に、夏彦はあの喫茶店に足を向けるのだ。葉子は、大抵そこにいた。会える日もあったし、会えない日もあった。会えた日はそのまま同席し、そのまままったりと過ごすのである。
 その日の彼女は、呆けていた。
 ここ最近、ぎっしりと縮まった蕾が、ゆっくりと花開くように、春の気配を感じるようになった。春は、好きだ。何かが始まるようなワクワクとした心持ちになる。
 暖かな予感に胸を膨らませ、夏彦は店の扉を潜った。
 青に照らされた店内、静かなジャズの響く中、壁際の席に、葉子は、いた。
「やあ」
 声をかけて、向かいの席に座る。
 葉子はひどく塞ぎ込んでいるようであった。いつもなら嬉々として食べ進めているはずのいちごパフェも、一向に減っていないように見える。
 来たばかりなのだろうか。
 いや、そうではない。
 パフェの上に乗っているアイスクリームが、だいぶ溶けている。青の照明に照らされたバニラアイスは、まるで海のようであった。その中で、苺が辛うじて頭を出し、助けてくれと言わんばかりである。
 葉子は無言であった。
 頬杖を突き、ぼんやりと青に照らされた店内を眺めている。
 彼女が話さないのは、今に始まったことではない。しかし、いつものそれとはどうにも調子が違うような気がしたのも事実である。
 夏彦は珈琲を注文し、鞄から文庫を取り出した。
 話したいことがあれば口を開くだろうし、そもそも口を出していい関係でもない。だから、いつも通りに過ごそうと思ったのである。
 運ばれてきた珈琲を一口、二口飲み、本を捲る。
 どのくらいの時間が経ったのであろうか。夏彦のカップが二度、空になるほどの時を経て、彼女はようやくぽそりと呟いたのである。
「魚は、いないのかな」
「魚?」
 脈絡のない言葉に、夏彦は目を瞬かせる。
「そう。せっかく海の底みたいなんだから。魚がいればいいのにと思う」
「一応、飲食店だから、それは難しいんじゃないか?」
「……そっか」
 そう言ったきり、彼女はまた口を噤んでしまう。眉を寄せたその表情に、夏彦はどきりとした。どういうことか、と聞くのは簡単である。しかし、そこまで踏み込んでいいものなのだろうか。
 葉子はスプーンで溺れかけている苺を掬い上げ、再び、パフェの中に沈ませている。
 夏彦は本を閉じると、葉子の様子を見るともなく見つめていた。
「切り離された水は」
 何回目かの救出劇の後、不意に発せられた言葉に、夏彦は首を傾げた。
「流れが止まってしまったら、やっぱり腐ってしまうのだろうか」
 夏彦は顎をさすった。切り離された水、とは、どういうことであろうか。質問の意味が理解できない。
「淀んでしまうのかな。循環させないと、いけないのかな」
 ああ、と夏彦は手を打った。
「もしかして、水槽の、話か」
 葉子は驚いたように顔を上げ、ややあって、こくりと頷いた。
「俺は、そう聞いたことがある。水は流れているから綺麗なままでいられるんだと。だから、魚を飼う際には、何かそういった、循環器のような物をつけるんだそうだ」
「そっか……。うん、そうだよね」
 そう言って、葉子はまた黙ってしまう。
 夏彦は逡巡した。
 葉子の様子は、明らかに普段と違っている。何か悩みがあるのだろうか。でも、それを聞いてもいいのだろうか。
 結局、その日はそのまま閉店時間になってしまった。いちごパフェは一度も口をつけられずに終わったようだ。
 店の前で踵を返す彼女の後姿を見て、夏彦は少しだけ後悔をした。
 もしかしたら、さっきの問いは、彼女の内側から出た言葉なのではないだろうか。だとしたら、やはり、突っ込んで聞くべきだったのかもしれない。しかし、どうやって聞けばいい。そもそも、この関係自体もあやふやであるのに、そこまで聞いていいものかどうか。
 自分は、彼女にとって、どういう存在なのだろう。
 空を見上げると、靄に包まれたかのような夜空が広がっていた。
 もう冬の色ではない。
 春が、近いのだ。


  ***


「よう」
 そう声をかけてきたのは、案の定、聡だった。
 講義が終わって、さあ飯にでも行くか、と思った時のことである。
 良い天気である。
 大教室の大きな窓からは日の光が燦々と降り注ぎ、ひと続きになった机にまだら模様の絵を描いていた。
 春休みの集中講義、というものに出席していたのである。
 せっかく学び舎に来ているのだから、精一杯学ぶことが自分の仕事である。夏彦はそういう考え方の持ち主であった。高い授業料を払っているのだ。勉強する機会があるなら、進んで行うべき、との自身の信念にしたがって、彼は長期休暇も頻繁に学校に来ているのである。
 だから、聡がそこにいたことに、夏彦は少なからず驚いた。
 彼はどちらかというと、座学はほどほどに、それよりも、外に出て、様々なものを見て、糧にしていく。そういう学びを取るタイプであった。
「これから、飯だろ? ぼくも行く」
 そんなわけで、二人で食堂にしけこむことになったのである。
「実は、ウチのツレがね」
「ツレ?」
 夏彦はナポリタンをかき混ぜながら聞き返す。
「明美が」
 聡はカツ丼の上の三つ葉を箸で器用につまみ、蓋の上によけた。
「気にしてて」
「何を」
「その……例の彼女とは、最近どうなのかって」
「どうって」
 今日のナポリタンは、ウインナーが多い。ここの学食は、日によって具材が変わることで有名である。この間頼んだ時は、パスタの半量ほどの人参がぶち込まれていた。
 ごろごろと転がったその肉片をフォークで突き刺し、夏彦は思案する。
 最近、どうなのか。
 この言葉に正確に答えるのは難しい。何故なら、彼とて『どう』なのかは分からないのである。
 確かに、よく会う。彼女は夏彦を拒否しないし、会話もする。名前を呼ぶことも多くなった。けれど、自分たちは何かを約束しているわけではないのだ。
「ちょっと、変なことを言ってもいいか?」
 カツを几帳面に一口大に切り分けながら、聡は言った。妙に歯切れの悪い言い方である。
 珍しい。
 いつもの彼は、いっそ小気味のいいほどの切れ味でもって、すぱりすぱりと言うはずだ。
 よほど言いにくいことなのだろうか。
「実は、ツレと、ぼくは、以前不思議なことにあってね」
「不思議なこと?」
 いったい何の話をするつもりなのだろう。夏彦は首を傾げる。
 聡は切ったカツを箸の先で転がしながら、もう片方の手を自らの首元に持っていき、そのまま何度かさすった。
 まるで、そこにあった何かを思い出しているかのような仕草であった。
「詳しくは、話せないんだけど。まあ、超常的現象と思ってくれていい」
「はあ」
「ねえ。おかしなことを聞くよ」
「なんだよ」
「その、お前の、その、『葉子』って人は、もしかして」
 聡は、そこで一度言葉を区切った。
「……長い黒髪で。黒の革ジャン、ぴったりしたジーパンを履いている、そんな人だったりするのか?」
 まるで、そうではないことを祈るような口調であった。目は、まっすぐと夏彦を見据えている。その狂おしい光に射すくめられ、夏彦は言葉を飲み込んだ。
 その通りの人であった。けれど、それを伝えてはいけないような気がした。もし伝えてしまったら、何か、とんでもないことが起こる。そんな気配すら感じていた。
 黙ってしまった夏彦を見て、思うところがあったのだろう。聡は、奥歯に物が挟まったかのような口調で、ぼそりと呟いた。
「もし、お前が、ぼくが言った通りの人と親しくしているようなら――」
 聡は、目を閉じる。
「――やめておいた方が、いい」
 夏彦は何も言えなかった。
 やめる、も、何も。
 ナポリタンを一口、含む。味はほとんど感じられなかった。それなのに、口の中には嫌な酸味ばかりが残る。
 よく、分からない。
 そんな夏彦に何を思ったのだろう、聡は軽く、じゃあ、と言い、カツ丼にほとんど手を付けぬまま食堂を後にした。


 聡の後姿を目で追いながら、夏彦は考える。
 何を示唆されているのかも、正直分からない。しかし、彼は信頼できる男である。そして、あの言葉が自分を気遣ったうえでの言葉なのも、彼にはよく分かっていた。
 だからこそ、解せない。
 聡は、言いたいことに遠慮はしない。夏彦のことを考えた上で忠告するのであれば、もっと具体的に言葉を落とすはずである。
 超常的現象と彼は言ったが、それがいったい葉子と何の関係があるのだろう。


  ***


 その日の晩のことである。
 夏彦は暗闇の中で、ぽっかりと目を開けた。様々なことが頭を駆け巡り、すっかり目が冴えてしまっている。
 時計を見ると、朝の四時であった。
 夏彦はむくりと起きあがる。
 考えていてもしかたがない。こういうときは、外に出た方がいい。
 行こう。久しぶりに。
 海を見に、行こう。
 早朝の海は、相変わらず静かであった。春とはいえ、この時間はまだ寒い。夏彦は着ているジャケットの襟を合わせるようにした。
 そういえば、初めて葉子に会った時も、この浜辺であった。彼女はここで、いったい何を見ていたのだろう。
 薄紫に染まる海原は、一定の音楽を保っている。まるで鼓動のようだ。ただ静かに、寄せては返しを繰り返し。
 どれだけの年月を、この波は繰り返しているのだろう。そこにあるのは、同じ水なのか、それとも違う水なのか。留まってしまったら、この海は海でなくなるのか。そんなことを考えて、夏彦は迷子のような心細さを覚えた。
 人は、海から来て、海に還る。
 深い青の底に沈み、手足はヒレに変わり、人間の皮を破り捨てて、深く、深く。
 ――人魚。
 ふと、思い出した。
「肉を食べると、不老不死になるって話だ」
 そう言ったのは、聡であった。古書で見た人魚が気になって、聡に訪ねた時の事である。食堂でカレーライスをつついていた彼は、首を傾げ、暫く何かを思い出そうとするそぶりをみせる。やがて紡がれた言葉が、それであった。
 ――不老不死。
「西洋と東洋では随分と違うようだけれどね。日本ならば、それが有名だ」
「へえ」
「だから、捕まえようとする人が多かった。しかし、捕まえたら捕まえたで、その人、あるいは村に、良くないことが起きる」
「ちょっと待て、その前に。――人魚は、いるのか」
「いるのか、って?」
「つまり、その。実在するのか、という意味だ」
「ナンセンスだな」
「しかし」
「お前も文学が好きなら分かるはずだ。いる、いないの問題ではない。いると書かれていることが重要なんだ。つまり」
 聡はそこで一度言葉を区切った。
「信じていること。それが一番大切だ。いる、と描かれているのなら、その当時の人にはいる存在だったのだろう」
 話を戻そう、と聡はスプーンで皿を叩いた。
「では。なぜ食べると不老不死になるか、と言う話だけれど。ぼくが思うに、海の印象に関係あるんじゃないかと思うね」
「海」
「そうだ。海の、波を見るとわかるだろう。寄せては返しというけれど。あの動きは永遠を連想させるに相応しいものなのだと思う」
「ああ」
「それに。海は、異界だしな」
「異界?」
「そう。常世の国だとか、ニライカナイだとか。つまり、海の向こうには理想郷があって、そこでは皆不老不死で幸せに暮らしている。そんな考え方が基盤にあるんだ」
 聡は、こういう話になると普段以上に饒舌になる。夏彦も、彼のこういう話を聞くのは好きであったので、ミルクセーキを吸い上げながら、話の続きを促した。
「そこに現れる不可思議な生き物――人でもなく、魚でもない。それを見た人が、不老不死の国から来たのだと思うのも当然の流れだ」
「ああ……」
「だから、それを食せば、その力を――つまり、不老不死の力を、そっくりそのまま体内に取り込むことができる、と考えたんじゃないかな」
 聡は見せつけるように、カレーから肉片をひとつ掬い上げ、ぱくりと口に入れる。
 夏彦は胸を撫でた。思った以上に、気味の悪い話だ。
 今の話を反芻する。
 要約すれば、不老不死のイメージは海から来ているのだということだろう。それならば、人魚を食すことは、海を食べることでもあるのかもしれない。
 それは、何となくしっくりとくる考えであった。
 海の律動ごと体内に取り込んで、血液の代わりに潮でもって、その寄せ返す波を鼓動の代わりとする。そうすれば、体内に永遠の海が完成するという寸法だ。
「羨ましいと思うか?」
 唐突に、聡が呟いた。先程の、滔々と話していた口調とは少し違った、どこか切なげな響きを持った言葉であった。
「何が」
「不老不死。お前は、どう思う」
 夏彦は考える。
 もし、自分が、余命幾許であれば。今日明日で儚くなることが分かっているのなら、それを望むのかもしれない。しかし。失うものがほとんどであろう。家族も、恋人も、友人も、皆自分より先に死んでしまう。時代も変わる。時の流れに切り離され、もう『自分』を知る人が一人もいなくなる。そんなことに耐えられる人間がいるとは到底思えなかった。
「俺は、ごめんだな」
「そうか。……ぼくもだ」
 そう頷いた聡が、どこかほっとした表情であったのを、夏彦はよく覚えている。


 海が、きらりと光った。
 夜明けが近いのだ。
 吐く息が、白い。暁にすうと溶けていく。その息の先を視線で追って、彼は息を呑んだ。
 葉子が、いた。
 ほんの数メートル先である。いつからいたのだろうか。海原の金に溶けるように、彼女はそこに佇んでいた。
 海を、見ているようであった。風に乱れた長い黒髪、その一本一本が金に染まっている。
 まるで、物語のようだ。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁のように、忘れられない挿絵のように。海と、葉子の後姿は、ただそこに存在していた。
 たなびく髪をつうと抑え、葉子はゆっくりと振り返る。
 夏彦は、動けない。
 同じだ。初めて、葉子と会った時と。
 音の一切を吸い込まれたかのような感覚。
 波の音も、海を渡る風の音も、最早、遠い。

 目が、合った。

「……夏彦君?」
 少し低い、掠れた声。
 沈丁花の香り。
「――随分、早いね」
 黒曜石の瞳が、濡れ濡れと光っている。
 駄目だ、と夏彦は唇を噛みしめる。どう足掻いても、もう否定できない。自分の心は、この人を欲している。
 手に入れたい。つなぎ止めたい。自分だけの物にしたい――。
 夏彦は一歩踏み出した。
 足元で、砂がきしりと音を立てる。
 耳奥で聞こえるのは、血の音か。
 いや、違う。
 これは海だ。
 夏彦の体の中に、海があって。
 それが今、耳元に響いてきているのだ。
 夏彦は無言であった。
 もう一歩。手を伸ばせば、彼女に届く。
 葉子の、黒曜石の瞳に、夏彦が映っている。
 その瞳ごと飲み込むように、夏彦は、葉子を抱き締めた。
 思った以上に、その体は細く、頼りなかった。
 彼女は一瞬身を固くし、むずがるように体を捩る。それを抑え込むように、夏彦は腕の力を強めた。
「葉子さん」
「……放して」
「葉子さん、聞いて」
「いやだ」
「俺は、あなたが」
「やめて!」
 悲痛な叫びであった。
 夏彦の腕の中で、葉子は体を震わせている。強くなる沈丁花の香りに眩暈がした。
「後悔すると分かっていた」
 呟かれた言葉に、夏彦は目を見開いた。
 湿度の高い音であった。ほとんど泣き声と言ってもいい。表情は分からない。俯いた彼女の黒髪から、白いうなじが覗いている。
「ごめんなさい」
「……なんで謝るの」」
「私は何度、同じことを繰り返すのだろう」
「葉子さん」
「罰が当たったんだ」
「葉子さん、何、言ってるの」
「あの時、あれを口にしなければ……違う」
「何」
「いっそのこと、私が本当に人魚なら」
「葉子さん」
「この肉を君に食わせたのに」
 抉るような言葉であった。心の奥底の、濁ったものを吐き出すかのように、彼女は呟いた。
「私は切り離された水だから」
「何を、言っているのか、分からない」
「流れないと、腐ってしまう」
 そう言って、葉子は顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。
 世にも優しい、慈悲の笑みであった。
「もうきっと、君には会えない」
 そっと解きほぐすように、彼女は彼の腕から抜け出した。金色に染まる海原を背負ったその女性は、ぞっとするほど美しかった。
「ありがとう……ごめんなさい」
「待って」
 引き止めなければいけない。そうしないと、もう二度と、彼女には会えない。
「どうか、覚えていてほしい。私の最後のお願い」
 金に滲む空に、彼女の体が溶ける。絵の具に水を落とした時のように、輪郭が曖昧になっていく。
「……人として生まれたのだから」
「葉子さん!」
「しあわせに……」

 伸ばした指先は、届かなかった。金に染まる世界に、彼女は。
 泡のように。
 ぱしゃり、と。
 溶けた。




 夏彦は暗闇の中で、ぽかりと目を開けた。
 ――夢か。
 喉が、乾いている。張り付いた気管に息を通すように、彼は大きく咳をした。視界が滲んでいる。どうやら泣いてしまっていたようであった。何か、酷くつらい夢を見ていた。寝ながら泣くだなんて、まるで子どものようだ。
 今は、何時だろうか。
 むくりと起きあがり、台所に向かうと、彼は蛇口を捻る。流れ落ちる水に、海の音が重なった。
 シンクに渦を巻く、水の流れを見て、彼は。
「……ああ」
 夢か、現か。分からないけれど。
 きっと。


 それから、夏彦が、葉子を見ることはなくなった。


  ***


「やあ、久しぶり」
 呼び鈴の音に振り返ると、幾分老けた顔がそこにあった。
「植草! 久しぶりだなあ」
「すごいな」
 聡はそう言うと、ぐるりと店の中を見回すようにした。照明の代わりに、壁や柱に埋め込まれたアクアリウムが、青や緑の光で店内を照らし出している。
 水槽で泳ぐ、色とりどりの魚を目で追って、彼は破顔した。
「海の中みたいだ」
「だろう?」
 夏彦は得意げに笑ってみせた。
「まさか、本当に開くとは思わなかった」
「俺も、お前が来るとは思わなかった」
 そういうと、聡は椅子に腰かけながら、笑った。
 今日は、カフェのプレオープンの日であった。朝からどたばたと準備をしていたが、それもようやく落ち着いて、あとは時間を待つのみ、という案配だ。
 大学を中退し、調理の道に入ると言った時も、聡は何も詮索しなかった。そのことがあの当時の夏彦にはただただありがたかったのである。
 思えば随分遠くまで来たものだった。がむしゃらに修行し、免許を取り、ようやく自店を持つことができたときは、嬉しさよりもむしろ、ほっとしたものであった。


 夏彦がこだわったのは、海の底をコンセプトにするということだ。本物の魚を眺めながら、ゆっくりできるカフェを作ろうと、そう決めていた。
 アクアリウム・カフェ、ということで、そこそこの注目を浴びているのだという話であった。それで、開業前なのにも関わらず、雑誌の取材が入った。今回のプレオープンに、作家を呼んで、記事を書いてもらうことになったのである。
 その作家の名を聞いて、夏彦は仰天したものだ。
「売れっ子だもんなあ、植草先生よぉ」
「おかげさまでね」
 聡は端正な顔をにやりと歪めた。まったく、変わらない、この男も。学生のときのまま、時間が巻き戻ったかのようである。
 ちくり、と差し込む胸の痛みに気がつかないふりをして、夏彦は笑った。
「頼むぞ、先生」
「任せろ。いい記事にしてやるから」
 そう言って、聡は持参の花束を渡した。
「これ、開店祝い。明美も喜んでたぞ」
「ああ、明美さん。元気かい? 一緒に来ればよかったのに」
「それが、あいつ。今、こうだから」
 聡は笑って、腹のあたりを撫でた。幸せそうな様子に、夏彦は破顔する。
「もう少ししたら、始まるから。もう少しだけ待っててくれな」
 そう言って、厨房に戻ろうとした時の事であった。
「ちゃんと、書くからな」
「え?」
「きっとあの人の目にも、止まるはずだ」
 夏彦は、そっと目を伏せる。
 長い黒髪。すらりとした姿。少し低い声。沈丁花の香り。一度たりとも、忘れたことがない、その姿を思い浮かべて、夏彦は笑った。
「誰の事だ?」
 そう言い放つと、聡は、やっていられない、と言わんばかりに、眉を下げ、肩を竦めた。


 月日は流れていく。
 体中に満ち満ちていた若さも、無鉄砲さも、年齢と共にすうと潮が引いていくようだった。
 ――もう随分と、歳を取った。
 夏彦は椅子に腰かけ、アクアリウムの光に満ちた店をぼうっと眺めていた。
 よくぞ、ここまで続けていけたものだ。幾分古くなった調度は、その年月の分だけ重さを増し、煌やかに輝く熱帯魚の群れも、もう何代目になったのかは分からない。
 白が混じった髭を撫でつけ、彼はよいしょと腰を上げる。
 外は良い天気であった。
 朝である。初夏の、まだ柔らかな日差しが、窓硝子越しに店に模様を描いている。アクアリウムの青と、あたたかな陽光が溶け合って、まるで南国の海のようだ。
 新聞の天気予報では、午後は崩れるとのことであった。
 雨宿りのために、少し混むかもしれない。アルバイトの子は、今日は休みである。
 夏彦は厨房に入った。少し多めに仕込みをした方がいいだろう。
 そうして、ゆるゆると店を開けていたのだ。
 どうやら、天気予報は当たったようで、午後になって幾許もしないというのに差し込む光に陰りが見えた。
 雨になるのだろう。
 夏彦が重い腰を上げて、傘立てを準備していた時の事であった。
 呼び鈴が、鳴り、入ってきたのは、男女のペアであった。男の方は常連だった。爽やかな出で立ちの、好青年然とした、気持ちのいい客である。
 いつもは一人で来るのに。女づれは、初めてではなかろうか。
「いらっしゃいませ」
 ほぼ機械的に声をあげ、夏彦は――絶句した。
 ――おごりますよ。何でも好きなものを頼んでください。
 ――いちごパフェ。
 ああ。
 長い黒髪。黒いジャケットにジーンズ。黒曜石の瞳。
「すみません、注文、お願いします」
 青年が手を挙げている。
 そんなことより、彼の前に座った女性は。
 記憶の時のままの。
 ――そんな。まさか。
 ――何年前だと思っている。
 夏彦がきちんと注文を取りに行けたのは、彼の意志が強かったからではない。体に染みついた、何十年もの経験が、彼を動かしただけである。女性は、震える手の夏彦を見て、何を思ったのだろう。軽く目を見張り、そっと、目を伏せた。その悲し気な黒曜石の瞳は、あの時のままであった。
 ――いっそ私が本当に人魚なら。
 そういう、ことか。
 そういうことなのか。
 厨房に戻った夏彦は、冷蔵庫から苺を取り出し、丁寧にカットした。透明な、足の高い器にババロア、シリアル、バニラアイス、ホイップクリームを乗せ、その上に、先ほど切った苺をたっぷりと乗せる。
 口元が、歪んだ。
 こらえきれずに、嗚咽となった。
「――葉子、さん」
 きっともう、呼んではいけないのだ。あの彼女と、この彼女を線で結んでしまったら、今度こそ彼女はいなくなってしまう。
 運んだパフェを、彼女は嬉々として食べる。夏彦はその姿を、そっと横目で眺めていた。

 これでいい。
 この距離で、いいのだ。


  ***


「マスター、いちごパフェ、ひとつ」
「あ、いつもの人か」
 夏彦は冷蔵庫から苺を取り出し、慣れた手つきでカットを始めた。
「いつもの人?」
「そう、常連、べっぴんさんだよねえ」
 話しながら夏彦はパフェを仕上げていく。
 もしも彼女が、切り離された水なのであれば。この場所が、葉子にとって、海であればいい。そんなことを考えながら、夏彦は微笑んだ。

 運ばれたパフェを見て、彼女は、笑った。
 世にも優しい慈悲の笑みだった。