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時間の流れは僕が思っているよりも圧倒的に早かった。歳を重ねてから時間を戻すようにに過去の記憶を辿ると一層そう感じる。気がつくと、また季節が変わった。気がつくと、また年をまたいだ。師匠が旅に出たあの日から3年ほどが経っていた。相変わらず師匠はここには帰って来ていない。僕は成人式を終えて家に帰る為にタクシーに乗った。学校に友達なんていなかった僕にとっては縁もなければ興味もない式だったけれど、行かないと師匠が写真をねだってきた時にめんどくさいよと優子に背中を押された。写真を撮る相手がいるはずもないのに渋々それを承諾して、普段は着ないちょっと背伸びをした大人っぽい紺色のスーツに袖を通して僕は仕方なく式に参加した。自分と同じくらいの歳の男の子や女の子たちがあんなに大勢いたのを初めて見た。煌びやかな袴やスーツ、振袖を身に纏い、美術作品のようにセットされた髪の毛を見せ合うように一同が集まって写真を撮っていた。バーのみんなと同じような素敵な笑顔で写真を撮っている彼らを見ていると、少しだけそれを羨ましく思った。それと同時に、この場に優子がいてくれたらよかったのにと、タクシーの中で急に寂しい気持ちになった。

 『今終わって家に帰る所だよ』

僕は優子にメッセージを送り、しばらくすると優子から珍しく電話がかかってきた。車内で運転手と2人きりのこの空間に少しの気まずさを感じながらも電話に出た。

 『もしもし。電話なんて珍しいね』
 『メッセージだと、もしかしたら気づかれないかもって思ってさ。おつかれさま。式、早かったね』
 『友達、バーのみんな以外にはいないからね』
 『今はどこにいるの?』
 『文化センターからの帰り道でタクシーに乗ってるよ。あと10分くらいで家かな』
 『ごめん。それなら目的地はあの公園にしてもらってもいい?』
 『え? どうして?』
 『私もニケさんの晴れ姿を見たいから』
 『え、えぇ?』
 『何? その変な声。今日のニケさんに拒否権は無いからね。じゃあ待ってるね』

僕の返事を聞かないまま優子はいそいそと電話を切った。優子が少し早口になる時は恥じらいがある時だ。僕は優子のそんな顔が無性に見たくなった。

 「すみません。やっぱり、またたび公園まで行ってもらっていいですか?」
 「かしこまりました」

方向の違う目的地へ車の向きを変えた運転手の不機嫌そうな顔が鏡越しで見えた。僕は心の中で謝っておいた。タクシーは本当に10分くらいで目的地の公園に着いた。

 「あ」

公園に着くと、そこには本当に久しぶりに見た白猫と仙猫さんと戯れる優子の姿があった。僕に気づくと優子は優しく笑って手を振った。風に乗って優子の柔らかい匂いが僕に届いた。

 「おめでとう」
 「え?」
 「成人。大人の仲間入り」
 「あ、あぁ。ありがとう。僕、何かしたかなって思って」

全く心当たりの無かった僕の反応を見て優子はまた笑った。優子は僕と一緒に住むようになってから笑う回数が格段に増えた。

 「でもそういう反応、ニケさんらしい」
 「は、はは。ありがとう」
 「よく似合ってるね。そのスーツ。こう見るとニケさんもすっかり大人だね」
 「背だけが伸びて中身は3年前から何も変わらないけどね」
 「どうだろ。私はそう思わないけどなぁ」
 「けどさ、優子が来てくれるなら成人式の会場に来てほしかったな。僕、1人だったし。優子がいてくれたら心強かったのに」
 「人が多い所は私も苦手なの知ってるでしょ。それに、この公園でニケさんを見たかったし。ほら見て。この人、カッコいいでしょ」

優子は白猫に笑いかけると、それに応えるようにニャウーと鳴いた。仙猫さんは昔と同じように鳴き声を出さずに僕を見つめ続ける。

 「ほら。白猫ちゃんもカッコいいって」
 「は、はは。どうだろうね」
 「そういえばやっぱり黒猫くんはいないね」

そう言って僕をじろりと見る優子の目を誤魔化すように僕はへへへと笑って視線を逸らした。

 「き、今日は違う所にいるのかな」
 「そういえばもう家で見た日ずっと見てないな。それこそ、もう3年ぐらい前になるのか。あの黒猫くん、家にも来てないよね?」
 「そ、そうだね。やっぱり他に住処を見つけたんだよ。きっと」
 「それなら少し寂しいな。まぁ元気でいるのならそれが一番だけど」

本当に寂しそうな顔になった優子を見て胸の奥が少しざわついた。確かに僕はもうこの数年ずっと黒猫になっていない。正直、黒猫になれていた僕がいた事すら忘れかけている。黒猫になっていた時に出来た優子との思い出もあるから絶対に忘れたくないし、黒猫になれるなら、たまにはまたなりたいとも思う。けれど、それは願望であって叶うとは限らない。

 「ふふ。私より寂しい顔しないでよ」

再び優子に笑顔が戻り、僕の心もまた落ち着いた。

 「ごめんごめん。そんな顔してた?」
 「ちょっと泣きそうになってたよ」
 「確かに僕も久しぶりに会いたくなったから。元気にしてるといいな」
 「そうだね。あの黒猫、ニケさんに似ていたから好きだったんだよね」

ナーと鳴いた白猫が優子の足元に来た。よしよしと白猫を撫でる優子の姿を見ていると、何だかとても懐かしい記憶が蘇ってきた。

 「そうだ。ニケさん、写真撮ろうよ」
 「え? 本当に撮るの? な、何か恥ずかしいんですけど」
 「言ったでしょ。今日のニケさんに拒否権はありません。その為にカメラも持ってきたんだから」

優子はスマホよりも小さくて、とても可愛らしいサイズのカメラをバッグから取り出した。手際良く優子は写真を撮る準備を進めていく。

 「じゃあ精一杯笑ってね」
 「いや絶対無理。優子、すっごい無茶振り」
 「ふふ、冗談だよ。リラックスしてね」

僕はされるがまま優子に写真を撮られた。何も言わずに次々とシャッターを切る優子の顔が次第に明るくなっていく。その様子を見ていた仙猫さんが低い声で鳴いた。多分初めて聞いた鳴き声だった。予想以上に低くて少しびっくりした。優子はその声には何も反応せずに僕を写真に収め続ける。

 「うん。ニケさんらしい表情」
 「それ、褒めてる?」
 「もちろん」
 「ならいいけど」
 「ありがとう。撮らせてくれて」
 「い、いえ。こちらこそ撮ってくれてありがとう。正直、師匠には見られたくないけどね」

撮った写真をカメラで1枚1枚確認していく優子は、それを確認していくたびに何故か泣きそうに目を潤ませていた。

 「ゆ、優子? どうしたの?」
 「ニケさん……。ごめん」
 「何で優子が謝るの?」

彼女の震えている声を聞くと、ざわざわと僕の胸の辺りが騒ぎ始めた。今から何を謝られるのだろう。

 「私、ニケさんとみんなに言わなきゃいけない事があるの……」

突然優子の目から堰を切ったように涙が零れ始め、その場に座り込んでしまった。一体どうしたのだろう。深刻な何かを言われる予感がして胸のざわめきが少しずつ増していく。

 「と、とりあえずあのベンチに座ろうよ。おんぶするから」

僕は優子を、そして自分も落ち着かせながら彼女をベンチへ座らせた。白猫と仙猫さんも心配そうに優子の方を見つめていた。

 「落ち着いて。チョコ、食べる?」

僕はジャケットのポケットに入っていた、銀色の包み紙で包まれたチョコレートを彼女に差し出した。

 「どうして今日、チョコ持ってるの?」
 「優子が食べるかなと思って。いつも少しだけ持ち歩いてるんだよ。知らなかった?」

優子は涙を拭いながらへへへと笑った。そして、僕の手からチョコレートを取った。触れた優子の手は氷のように冷たかった。その手を温かくしたくて僕は優子の手を優しく握った。

 「なんか今日のニケさん、大人だ。成人式を終えたから?」
 「それは絶対関係ない」

優子はチョコレートを口に運びゆっくりと味わいながらコートのポケットからスマホを取り出した。

 「どうしたの?」
 「みんなを呼ぶの。バーのみんな」
 「え、えっと……。ここに?」
 「うん。詳しい内容はみんなが来てから話すね」

 『みんな。突然ごめんなさい。私はずっとみんなに隠していた事があります。それはみんなにとっても大切な事です。ですので、みんなが来れるタイミングでビルの間にある、またたび公園に来てください。ずっと待っています』

優子が僕らのグループトークにメッセージを送った。すると、京子と風花からすぐにメッセージが返ってきた。

 『なに!? 怖いけど了解!』
 『すぐに向かいまーす!』
 「優子。僕には先に言っても」
 「ダメ。まだ言わない」
 「は、はい」

僕の意見をバッサリと切り落とした優子と僕は、しばらくみんなの返信が来るのを待った。その後、美咲と真希からもメッセージが返ってきて、30分もしないうちに2人がこの場所に向かって来てくれるようになった。落ち着きを取り戻した優子は、来るべき時に備えるようにじっとベンチに座っていた。時間は17時を回りすっかり日も暮れた。それからあっという間に夜が訪れた。僕らを見守るように仙猫さんと白猫が公園の入り口で見つめていた。すると、その入り口から美咲が入ってくるのが見えた。僕らに気づいた美咲は右手を軽く上げた。

 「よっ。2人とも。ニケくんスーツ似合ってるね」
 「こんばんは。ありがとう」
 「こんばんは。ごめんね美咲、急に呼び出して」
 「ううん、遅くなったけど。みんなはまだ来てないの?」
 「うん。突然言っちゃったからね」

美咲が僕らと合流してから20分ほどが過ぎて風花と真希がやって来た。いつも一緒にいる2人はやっぱり今日も一緒にやってきた。

 「ごめんね! お待たせ!」
 「ちょっと県外に行ってたから遅くなっちゃった」
 「ううん、忙しいのに来てくれてありがとう」
 「あとは京子だけだね」

京子は大体いつも最後に来る。それは仕事の時も息抜きでみんな集まる時も。意外だけどいつまでもそれは直っていない。むしろそれも彼女らしいと思うようになった。そして、19時を過ぎた頃に彼女はヘトヘトになりながらやってきた。全速力で僕らの前に来た彼女は肩で息をして、髪の毛と呼吸は乱れまくっていた。

 「ご、ごめんなさいっ! はぁはぁ、いつも、私が、一番、遅い……!」
 「落ち着いて息を吸って。大丈夫。京子、来てくれてありがとうね」

優子が彼女の背中を優しく撫でた。優子の顔を見る京子の目はいつもよりも潤んでいる気がした。

 「ふふ、京子はいつまでも京子だね」
 「うん。この中で一番若いね。間違いなく」
 「ニケくんより若いよ」
 「真希、それは悪口だよ」
 「ふふふ。ニケくんが大人になったって事だよ。改めてニケくん、新成人の仲間入りだね」
 「あ、あぁ。皆さんありがとうございます」

これだけの人数に祝ってもらえる事に未だ慣れていない僕は頭を掻き、そっぽを向いてそう言った。

 「そういう所はニケさんも昔のまま」
 「ふふふ、違いない」

それぞれの笑い声が楽器を奏でるように公園に響く。そういえばみんながこうやって集まったのは去年の10月にした優子の誕生日パーティ以来だったから多分3ヶ月ぶりくらいだ。以前と変わらずにバーをやっている僕らだけれど全員が顔を合わせるのは久しぶりで嬉しく思えた。

 「そろそろ話してくれる? 優子」

しばらくしてから美咲が徐に口を開いた。京子の呼吸も既に整っていた。優子は一度僕らを見渡してから何かを決心したように大きく息を吸った。

 「みんな。改めて集まってくれてありがとう。いきなりだけどこれからみんなをある所へ連れて行きます。私についてきてください」

優子は僕らにそう言うと、公園の外へ向かって歩き出した。公園を見渡すと、いつの間にか2匹の猫はいなくなっていた。

 「どこに行くの?」
 「ニケさんにも今は言えない。けど、すぐに分かるよ。私についてきて」