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 「おはようございます、ニケさん」

バーの扉を開けると、ゆっくりとした動きで開店前の掃除をしていたニケさんとすぐに目が合った。彼は、相変わらず私と目が合うとおろおろと目が泳ぐ。

 「あ、おはよう。今日も早いね」

やっぱり少し視線をずらしてそう話すニケさんの目を私はずっと見続ける。彼は表情こそ多い方ではないが(人の事は言えない)、仕事の時とオフの時の顔は全く違うように感じる。それは良い意味でも悪い意味でもだ。

 「ちょうど読んでいた本が終わって出勤時間が近かったので。師匠は?」
 「あぁ、師匠は今食器洗ってるよ。てか、本読むんだね」
 「ええ、それなりに」

あなたもでしょう? と言いたかった私だったが、彼を仕事前から困らせてしまうと思うとその言葉は喉元で留めた。

 「ニケさん」

私が掃除をしながら不意に彼を呼ぶと、彼はとても分かりやすく大きく肩を動かして驚いた。

 「は、はい」
 「灰皿、この席に2つください」
 「あぁ、はい。どうぞ」

私は窓際の席に決まって2枚、灰皿を置く。その灰皿は必ず彼から受け取ると決めている。その理由は誰に話しても納得してもらえないと思っている。だから誰にも話さないし、もちろん彼にも言わない。
 今日の仕事は私の他に美咲さんと京子さんが来る予定になっている。京子さんがいるとバーの雰囲気も明るくなるので自ずとお客の機嫌も良くなる。私には無い魅力を全面に出してバー全体の活気が上がる。この前の一件もあるから、京子さんと顔を合わすと少し恥ずかしい気持ちになりそうなのは否めない。一方の美咲さんも、男の人を誘惑する顔や振る舞いで今日も売り上げに貢献するだろう。2人ともお世辞なんか一切なく私は尊敬している。もちろん、今日は来ない真希さんも風花さんもそれぞれに違う魅力がある。私には到底手にすることの出来ないだろう魅力ばかりだ。私自身も、みんなみたいに店や師匠の為に何か貢献出来る長所みたいなものを手にしたいと密かに思っている。

 開店前に考えていたことがずっと頭の中に残りながら今日は仕事をしていた。気がつくともう最後のお客が店を出て、ニケさんが店の前に設置された看板を片付けていた。時間の進む速度に驚きながら今日の店の営業が終わった。私の予想通り、京子さんも美咲さんも見事売り上げに貢献した。しかも、高いワインを開けたお客がいたので師匠の顔もいつもよりニコニコしていた気がする。実は、私も今日はお店に貢献出来た。まぁ確実に京子さんと真希さんが良い雰囲気を作ってくれたおかげだけれど。職場仲間の方たちを見ていると、私自身も変わらなければとは思うものの、家に帰ってきて寝る支度をしてベッドに入るといつもスイッチが切れてしまう。私は口先だけの人間で、それは自分が一番よく分かっている。今日はリラックスした日でもあったけれど、考え事も多い1日だった。脳内は整理されないまま、私は睡魔の誘惑にあっけなくさらわれる。