インドで実際にあった話。
――言語を勉強するための言語が必要になった。
まさしく、これが必要性だ。
しかしこれだけではまだ”英語”である理由がない。
「じゃあなぜ英語が選ばれたのかというと、インドの言語で教科書を作ろうと思ったときに問題が起こったからだって。それは……」
コメント欄を確認する。いろいろと予想が書き込まれている。
正解は――。
「”語彙数が足りなかった”から。”語彙がちがいすぎた”といってもいい。国際標準に沿って教科書を作ろうとしたんだけど、対応する単語がなさすぎてまともに翻訳することができなかった」
たとえば英語にあってインドの言語にない単語があまりにも多い。
不可能ってわけじゃないが、ひとつの単語を表すのにあまりにも冗長な表現になってしまう。
だれだって「りんご」を毎回、「丸くて木に生って、皮が赤くて、中身が白くて、真ん中に黒い種があって、甘酸っぱい食べもの」などと説明するのはイヤだろう。
もちろん今のは大げさにいえばの話だが。
「そんなわけで、教科書はそのまま英語のものを使うことにして、逆に、まずは英語そのものを学ぶことになった。そうして英語はインドの準公用語になっていった」
もちろん全員が全員、英語の教科書で学んでいるわけでもない。
上記がとくに顕著なのは非ヒンディー語圏や都市部の話で、ヒンディー語圏はそのまま勉強している。
そういう部族的な意味でも英語はじつに中立だ。
今となっては英語が第一言語になっているインド人も少なくない。
「それに対して日本の場合なんだけど、はっきり言ってあまりにも日本語が――”優秀すぎた”」
おそらくは、すべての自然言語の中でも一番すぐれている。
もちろん”あらゆる面において”という意味ではないが……。
「こと翻訳においては、日本語より優秀な言語はないと思う。まぁその分、習得難易度がバカ高くなっちゃってるんだけどね」
>>草
>>日本人だけど日本語わけわかんねぇw
>>ひらがな、カタカナ、漢字と種類多すぎなんだよなぁ
「日本語は表現の幅がめっっっちゃくちゃ広いんだよね。ほぼすべての言語の、ほぼすべての言葉は日本語でも表現可能、っていわれるくらい。実際、世界でもっとも翻訳本の数が多いのも日本語なんだよ」
外国語から日本語への翻訳本がもっとも種類が多い。
このあたりは識字率や文化や人口も関わってくるが、それを差っ引いてもやはり日本語は異常だ。
「その一番の要因はやっぱり、さっきコメントでもあったけど、3種類の文字を併用していることだと思う。それも表音文字と表意文字を。だから新しい単語を生み出すのもすっごく得意」
文字と発音がイコールであるひらがなやカタカナ。
文字そのものが意味を持つ漢字。
それらを併用しているからこそ、受け入れが広い。新たな単語も柔軟に日本語に組み込めてしまう。
「そんなわけで、英語をそのまま使う必要もなかった。……で、ここまでが前フリ」
>>え!?
>>まだ本題じゃなかったの!?
>>思いっきりマジメに聞いちゃってたわwww
「元々は、なぜ日本人は英語を……というか外国語を、かな? 覚えるのが苦手なのか、って話だったでしょ。で……あ、ちょっと待って。お水飲む」
>>ズッコケたわw
>>このタイミングでwww
>>ごくごく……
俺は「ぷはっ」と息を吐いた。
水分補給は大事。古事記にもそう書いてある。
「ごめんごめん、お待たせ。では、改めて。まず大前提としてわたしは、日本人は言語能力がむしろ高い人種だと思ってる」
>>そうなの?
>>日本語とかいう超高難易度言語使えてる時点で
>>漢字すごく難しい(米)
「そう! 日本語の習得は難しいの! けど全部が全部難しいわけじゃない。難しいのはあくまで”書き文字”にかぎった話。むしろ会話については、習得が簡単な部類に入る」
>>マジ?
>>それは意外やわ
>>俺の英語圏の友だちも日本語話せるけど書けないって言ってたわ
「たとえば英語の場合、発音とアルファベットを覚えれば終わり。けど日本語の場合、発音とひらがなカタカナを覚えても終わりじゃない。漢字を学ぶ必要があるから」
いってしまえば漢字というのはプラスアルファなのだ。
他国の言語習得に比べて、追加でひとつ書き文字を覚えているにも等しい。
「母国語を学習する時点ですでに、外国語をひとつライティングできるようになるのと同じくらいの労力が追加でかかってる。つまり英語が覚えられないのは――”リソースの振り分け”が原因だとわたしは思う」
学習のリソースにはかぎりがある。
実際、子どもにバイリンガル教育を施すことで”セミリンガル”になってしまう場合がある。
両方の言語とも一人前に話せない、というパターンだ。
「日本人は書き文字の能力は十分ある、というかそっちに割り振りすぎた結果が今なんだと思う。みんなも英語、リスニングよりライティングのほうができる、って人多いんじゃないかな?」
>>言われてみれば
>>ライティングはまだマシやわ
>>けどそれは学習順序の問題じゃない?
「たしかに。海外だと話すことからはじめて書くことへ移行する。赤ちゃんだってそう。けれど日本でも同じようにしたからといって、同じように話せるようになるかは正直、怪しいと思う」
大人になってから外国語を学ぶのなら、その理屈も通る。
しかし子どもにそれをやらせようとした場合……。
「さっきも言ったとおり、日本人はライティングのほうが能力高いから。かかるリソースを抑えるためにも、まずはハードルの低いほうから学ばせようって考えなんだと思う」
ただし、元から優秀な子どもは例外だ。
さっきのはあくまで日本の”落ちこぼれを出さない”という教育においての話。
リソースが足りなくなって落ちこぼれとなる子を減らすための措置だから。
「とまぁ、いろいろ語ったけど……まとめると。日本においては、日本語が母国語で、漢字が第一外国語、そして英語は第二外国語にも近しい。そう考えると英語を覚えるのが難しいの、納得しやすくない?」
ここまでが俺の意見。
コメント欄ではさまざまな意見が飛び交っていた。納得、肯定、反論、指摘などなど。
俺はしばらく眺めたあと、一番大切なことを告げる。
「ただし今のは”学校英語”の話。正直、点数を取るには勉強しかないと思う。けれどもし、英語を話せるようになりたいのなら――まずは恐れず飛び込んでみるべきだね」
俺は前世での最期を思い出していた。
自分がアメリカへ渡ったときのことを。
「あとは好奇心」
あのときVTuberの国際イベントのため海を渡らなければ、今の俺はなかった。
俺がこうして話せるようになったのは、今思えばあれがきっかけだった。
「だからみんなも、推しがいるならぜひ外国語を覚えよう! あるいは外国語を覚えて、さらなる推しを発掘しよう! 絶対に必要になるときが来るから!」
>>草
>>結局そこかいwww
>>いつものイロハちゃんで安心した
まぁ、俺は外国語がわかんなかったせいで、わけもわからず死んでるからな!
これほど実感の伴った言葉もないだろう。
必要性、リソース、失敗を恐れないこと、好奇心。
大事なのはなにか? コメント欄での議論は長く、白熱し続けた――。
* * *
その翌日。
俺は学校に着くなり「イロハちゃん!」とマイに声をかけられた。
「ん、どうしたの……ごほっごほっ。あ゛~、昨日の配信はちょっとしゃべりすぎちゃってさぁ~、もうのどがガラガラで~」
「それどころじゃないよ!」
「あ。そういえばあの転校生、やっぱりわたしの正体知って――」
「ああああの子、ヤバいよぉ~~~~!?」
「え」
思わず固まった。
マイが脂汗なんてものを浮かべているところを、俺ははじめて見た――。
――言語を勉強するための言語が必要になった。
まさしく、これが必要性だ。
しかしこれだけではまだ”英語”である理由がない。
「じゃあなぜ英語が選ばれたのかというと、インドの言語で教科書を作ろうと思ったときに問題が起こったからだって。それは……」
コメント欄を確認する。いろいろと予想が書き込まれている。
正解は――。
「”語彙数が足りなかった”から。”語彙がちがいすぎた”といってもいい。国際標準に沿って教科書を作ろうとしたんだけど、対応する単語がなさすぎてまともに翻訳することができなかった」
たとえば英語にあってインドの言語にない単語があまりにも多い。
不可能ってわけじゃないが、ひとつの単語を表すのにあまりにも冗長な表現になってしまう。
だれだって「りんご」を毎回、「丸くて木に生って、皮が赤くて、中身が白くて、真ん中に黒い種があって、甘酸っぱい食べもの」などと説明するのはイヤだろう。
もちろん今のは大げさにいえばの話だが。
「そんなわけで、教科書はそのまま英語のものを使うことにして、逆に、まずは英語そのものを学ぶことになった。そうして英語はインドの準公用語になっていった」
もちろん全員が全員、英語の教科書で学んでいるわけでもない。
上記がとくに顕著なのは非ヒンディー語圏や都市部の話で、ヒンディー語圏はそのまま勉強している。
そういう部族的な意味でも英語はじつに中立だ。
今となっては英語が第一言語になっているインド人も少なくない。
「それに対して日本の場合なんだけど、はっきり言ってあまりにも日本語が――”優秀すぎた”」
おそらくは、すべての自然言語の中でも一番すぐれている。
もちろん”あらゆる面において”という意味ではないが……。
「こと翻訳においては、日本語より優秀な言語はないと思う。まぁその分、習得難易度がバカ高くなっちゃってるんだけどね」
>>草
>>日本人だけど日本語わけわかんねぇw
>>ひらがな、カタカナ、漢字と種類多すぎなんだよなぁ
「日本語は表現の幅がめっっっちゃくちゃ広いんだよね。ほぼすべての言語の、ほぼすべての言葉は日本語でも表現可能、っていわれるくらい。実際、世界でもっとも翻訳本の数が多いのも日本語なんだよ」
外国語から日本語への翻訳本がもっとも種類が多い。
このあたりは識字率や文化や人口も関わってくるが、それを差っ引いてもやはり日本語は異常だ。
「その一番の要因はやっぱり、さっきコメントでもあったけど、3種類の文字を併用していることだと思う。それも表音文字と表意文字を。だから新しい単語を生み出すのもすっごく得意」
文字と発音がイコールであるひらがなやカタカナ。
文字そのものが意味を持つ漢字。
それらを併用しているからこそ、受け入れが広い。新たな単語も柔軟に日本語に組み込めてしまう。
「そんなわけで、英語をそのまま使う必要もなかった。……で、ここまでが前フリ」
>>え!?
>>まだ本題じゃなかったの!?
>>思いっきりマジメに聞いちゃってたわwww
「元々は、なぜ日本人は英語を……というか外国語を、かな? 覚えるのが苦手なのか、って話だったでしょ。で……あ、ちょっと待って。お水飲む」
>>ズッコケたわw
>>このタイミングでwww
>>ごくごく……
俺は「ぷはっ」と息を吐いた。
水分補給は大事。古事記にもそう書いてある。
「ごめんごめん、お待たせ。では、改めて。まず大前提としてわたしは、日本人は言語能力がむしろ高い人種だと思ってる」
>>そうなの?
>>日本語とかいう超高難易度言語使えてる時点で
>>漢字すごく難しい(米)
「そう! 日本語の習得は難しいの! けど全部が全部難しいわけじゃない。難しいのはあくまで”書き文字”にかぎった話。むしろ会話については、習得が簡単な部類に入る」
>>マジ?
>>それは意外やわ
>>俺の英語圏の友だちも日本語話せるけど書けないって言ってたわ
「たとえば英語の場合、発音とアルファベットを覚えれば終わり。けど日本語の場合、発音とひらがなカタカナを覚えても終わりじゃない。漢字を学ぶ必要があるから」
いってしまえば漢字というのはプラスアルファなのだ。
他国の言語習得に比べて、追加でひとつ書き文字を覚えているにも等しい。
「母国語を学習する時点ですでに、外国語をひとつライティングできるようになるのと同じくらいの労力が追加でかかってる。つまり英語が覚えられないのは――”リソースの振り分け”が原因だとわたしは思う」
学習のリソースにはかぎりがある。
実際、子どもにバイリンガル教育を施すことで”セミリンガル”になってしまう場合がある。
両方の言語とも一人前に話せない、というパターンだ。
「日本人は書き文字の能力は十分ある、というかそっちに割り振りすぎた結果が今なんだと思う。みんなも英語、リスニングよりライティングのほうができる、って人多いんじゃないかな?」
>>言われてみれば
>>ライティングはまだマシやわ
>>けどそれは学習順序の問題じゃない?
「たしかに。海外だと話すことからはじめて書くことへ移行する。赤ちゃんだってそう。けれど日本でも同じようにしたからといって、同じように話せるようになるかは正直、怪しいと思う」
大人になってから外国語を学ぶのなら、その理屈も通る。
しかし子どもにそれをやらせようとした場合……。
「さっきも言ったとおり、日本人はライティングのほうが能力高いから。かかるリソースを抑えるためにも、まずはハードルの低いほうから学ばせようって考えなんだと思う」
ただし、元から優秀な子どもは例外だ。
さっきのはあくまで日本の”落ちこぼれを出さない”という教育においての話。
リソースが足りなくなって落ちこぼれとなる子を減らすための措置だから。
「とまぁ、いろいろ語ったけど……まとめると。日本においては、日本語が母国語で、漢字が第一外国語、そして英語は第二外国語にも近しい。そう考えると英語を覚えるのが難しいの、納得しやすくない?」
ここまでが俺の意見。
コメント欄ではさまざまな意見が飛び交っていた。納得、肯定、反論、指摘などなど。
俺はしばらく眺めたあと、一番大切なことを告げる。
「ただし今のは”学校英語”の話。正直、点数を取るには勉強しかないと思う。けれどもし、英語を話せるようになりたいのなら――まずは恐れず飛び込んでみるべきだね」
俺は前世での最期を思い出していた。
自分がアメリカへ渡ったときのことを。
「あとは好奇心」
あのときVTuberの国際イベントのため海を渡らなければ、今の俺はなかった。
俺がこうして話せるようになったのは、今思えばあれがきっかけだった。
「だからみんなも、推しがいるならぜひ外国語を覚えよう! あるいは外国語を覚えて、さらなる推しを発掘しよう! 絶対に必要になるときが来るから!」
>>草
>>結局そこかいwww
>>いつものイロハちゃんで安心した
まぁ、俺は外国語がわかんなかったせいで、わけもわからず死んでるからな!
これほど実感の伴った言葉もないだろう。
必要性、リソース、失敗を恐れないこと、好奇心。
大事なのはなにか? コメント欄での議論は長く、白熱し続けた――。
* * *
その翌日。
俺は学校に着くなり「イロハちゃん!」とマイに声をかけられた。
「ん、どうしたの……ごほっごほっ。あ゛~、昨日の配信はちょっとしゃべりすぎちゃってさぁ~、もうのどがガラガラで~」
「それどころじゃないよ!」
「あ。そういえばあの転校生、やっぱりわたしの正体知って――」
「ああああの子、ヤバいよぉ~~~~!?」
「え」
思わず固まった。
マイが脂汗なんてものを浮かべているところを、俺ははじめて見た――。