さっと風が抜けた。

何か聞きたい音が聞こえた気がして、窓を見た。でも、昨日と何の変化もない、教室からの景色があった。窓から入ってきそうな緑のサクラの木の枝と、少しだけ遠くに陽を受ける家々があるだけ。


さわさわ、葉が揺られる。

聞きたい音とは何だったのか、自分でもよく分からない。あるいは、空間だったのかもしれない。きっと、今ではもう、消え失せてしまったものだ。
そうぼうっとする頭で思った。でも少し涼しい空気のせいか、どこかすっきりと澄んでいるようにも思えた。


昼休み後の数学の授業は、夏の終わりの空気になんとなく、ゆっくり流されていった。かすれる蝉の声を聞き、もう一度、風を頬に感じる。そして、また窓の外を見た。
入道雲が、何処かに置いてけぼりにされている私を、白く大きく、静かに見下ろしていた。
 


中学の時、今ではもう前世だったんじゃないかと思えるほど遠く感じるけれど、私には、大事な人がいた。好きだったのかもしれない。でも、そういった感情だけではなかった。
彼は、幼い頃からの友人だったし、私にとって兄のようでもあったし、時々弟のようだった。だから、その感情は、周りの女の子たちがいう、恋ではなかったのだろう。


彼は、ただ近くにいて欲しい、存在なだけだった。


左眉に、日が当たると明るくなる前髪を揺らして。

私が部室に入ると、おせー、と呆れた声を出しながらも、口の端をちょっと上げて。

トロンボーンの自主練をしていると、きまって彼もユーフォニウムで合わせてきて。

また明日、と明るい声で言い、軽く手を振って。

誰かが部活に残ると、彼も、他の同級生の部員たちも皆残り、それは平日はだいたいいつもだった。そんな日々が好きで、たまらなく恋しい。今となっては、もう、手の届かない瞬間なのに。きらきらしていて、紛れもなく私が生活していたはずだけど、思い出そうとすると、私ではない、誰かの記憶を観ているかのように感じた。


中学三年の時、すごく天気のいい日があった。午前中、部活が始まる前で、いつもの音楽室からの景色だったのだけれど、青空が、どこまでも青く、澄み渡っていた。そこへ美味しそうな白い雲が、ぷっかり浮かんでいた。私と同じく早めに来ていた彼に、話しかけた。
「天気いいねぇー。なんかさ、こうやって見てると、自分がビー玉の中にいるみたいに思えてこない?」
「うははっ、確かに。」
「なんで笑うのー」
「んーいや、ビー玉に閉じ込めたくなるくらいのいい日だなーと」

気持ちの良い空を見て、他愛ない会話をして、そんな日々は、もうない。

彼は、今、何をしているのだろう。もしかして、この心地のいい、けれどなぜか少し空虚に感じる夏の終わりの空を、見ていたり、しないだろうか。しないかもしれない。
彼はこことはだいぶ離れた、都市部の高校に行った。友達をたくさん作って、彼女もできて、カラオケとか遊園地だとかを遊び歩いたりしているのだろうかと想像すると、何となく切ない。夏休みは満喫しただろうか。

遠くの高校を受験すると聞いた時、一緒に本気で過ごしていた中学時代を、否定されたように感じてしまったのは、私の嫉妬の奥にある、寂しさからだったのだろうか。

彼はもう、中学の仲間たちのことなんて、思い出さない、きっと。


この時間が止まってほしいと願っても、それはするりと過ぎて行ってしまう。その変わってゆくものの中で、私は、ただ昔を思い出すことしかできない。もう終わった時間なのに。


ふっと、風がまた、私の髪を持ち上げた。さっきから幾度となく風は吹いていたけれど、今度は少しだけ強かった。懐かしい風だと思った。秋の香りが混じっていた。枝の葉が揺れて、互いに微かな音を鳴らした。

彼も、この空を、見ている。理由もなく、はっきりと思った。私は自分で、馬鹿げた考えだと思ったけれど、彼が見ていたとしても、見ていなかったとしても、それは私には関係ないのだから、どっちでもよかった。


カーテンが揺れた。

私は、右手の親指と人差し指の先をくっつけ、丸を作った。
そしてそれをそのまま目の方へ持っていき、その輪から、教室の窓の向こうの空を見てみた。

白いくっきりとした入道雲と、青く澄んだ空が、ビー玉みたいに切り取られた。

ビー玉を、カラスが横切った。





「……見てるかなぁ」