高校生活最後の夏休みは夏期講習で週五日塾通いだったから、夏をまったく楽しむこともなく過ぎてしまった。ついこの前終業式だと思ったら、もう始業式。勉強ばかりしていると、時間が経つのが速い。


 うだるような夏の暑さがようやく過ぎ去った頃から、塾の自習室には人が増えた。私がこの予備校に入った春期講習の頃は空席が目立っていたのに、夏が終わるといよいよ受験へのプレッシャーが強くなるのか、勉強に本腰を入れる生徒が多くなる。今までサボってきた子も、単語帳をめくって頑張りだすのだ。


 私は参考書を片手に、苦手な英語の長文読解に取り組んでいた。将来の夢はシステムエンジニア、西日本の国立大学の情報学部を志望している私。別に海外で活躍したいとか思っているわけではないのに、国立大学の受験には私大と違ってセンター入試を突破することが必須。苦手な英語からも、逃げられないのだ。


 最後の一問を解き終わり、答え合わせをする前にふと携帯で時間を確認するともうまもなく二十二時。今日、榊(さかき)は最後のコマまで授業があるから、あと十分で答え合わせをして、一緒に帰ろう。


 榊と同じ塾に入った経緯を説明すると、ちょっと複雑な話になる。きっかけは、ひょんなことから霊感があるという秘密が同じ霊感持ちの榊にバレてしまい、これまたひょんなことからある幽霊と三人で高校一年生の夏を過ごすことになった。

あの夏を通して、私は今まではコンプレックスでしかなかった霊が見える、という人には言えない能力を、生まれながらに授かったものとして受け入れられるようになった。榊に会うまで、私は自分の霊感に振り回されていた。時々おっかない霊が見えてしまって怯(おび)えたり、友だちができても、その子に怖い霊がついていると自分から距離を置いてしまうものだから、親友もできない。


 でも、自分より遥(はる)かに強力な霊感を持つ榊の弟子になり、霊感をコントロールする力や、簡単な術の使い方を教わったことで、私のコンプレックスは解消され、この力を人の役に立てていきたいと本気で思うようになった。しかし、その霊感修行も、受験を意識する高校二年生の秋には終わってしまった。それでも榊に密かな想いを抱いている私は、クラスが違って、一緒に霊感修行をする時間もなくなってしまった今、少しでも長く榊と一緒にいるため、同じ塾に入ることにした。


 不純な動機から入った塾だけど、私の目論見(もくろみ)は見事成功した。塾に入ってから榊と一緒にいる時間が増えて、クラスが違っても学校で会えば時々話すし、同じ桜(さくら)ケ(が)丘(おか)高校の生徒が何人もいるこの塾では、休憩室で一緒にお昼を食べている私と榊を見て、私たちが付き合っていると勘違いしている子もいるらしい。そりゃ、男女が二人きりでいつも一緒に、仲(なか)睦(むつ)まじくお昼を食べていたら勘違いもするだろう。


 榊と付き合ってる。もしそれが本当なら、どんなに素晴らしいか。いくら好きでも、想い続けても、榊が私をそういう対象として見ていないことは知っている。それに榊には、もう会えないとはいえ、忘れられない好きな人がいるのも知ってる。


 それでも、あと半年後、卒業したら、いよいよ榊と顔を合わせることもなくなってしまうのかと思うと、覚えたばかりの英単語のスペルがばらばらになって脳内から零(こぼ)れ出しそうになるほど、切なさで胸が埋め尽くされる。

 彼女じゃなくてもいい。片想いでもいい。榊にとっての私は、弟子でもいい。割り切ろうとしても、どうしてもそれ以上のことを求めてしまう。


 二十二時になり、周りの生徒たちが帰り支度をして自習室を出て行く。受付のエレベーターの周辺にも、さっきまで授業を受けていたと思(おぼ)しき生徒たちの姿がたくさん。その中に私は他の男の子より頭ひとつ分背が高い榊の姿を、すぐに見つけた。


「また自習してたのか」
「私は英語が弱点だから、英語を重点的に勉強してる。あーあ、ほんと、理系なんだから英語なんてなくなればいいのに。英語は文系だけでいいよ」
「英語は理系のセンスも必要な科目だと思うぞ」
「そうかなぁ」


 そんなことを言い合いながら塾を出て、駅まで歩く。秋の夜の街は人通りが多く、ほどよく冷えた空気を一日の勤めを終えた人たちが味わっているようだった。この駅周辺には塾や英会話教室も何件かあるけれど、居酒屋とか大人たちが楽しめるお店や洋服屋もある。私の地元の駅からは三つしか離れていないのに、ずいぶんと開けた街だ。


「なぁお前、なんでいつも授業終わるの俺のひとコマ前なのに俺のこと待ってるんだ?」
 榊に訊かれて、ぎょっとした。榊はさらに畳みかけてくる。


「自習室に遅くまで居残るのは別にいいけど、俺と違ってお前は女だし。毎日待ってる必要なんかないんだぞ、遅くなるとこの辺り、酔っ払ってナンパしてくる輩(やから)もいるし」
「それは! 師匠のボディガードも、弟子の仕事っていうか……」
「お前が何から俺をガードするっていうんだよ。お前に悪霊を倒すほどの技術はないし、仮に生きてる人間が襲ってきたとしてお前に何ができる?」


 そう言われたら、ぐうの音も出ない。だいたいボディガードなんて我ながらひどい誤魔化し方だ。榊の言い方は正論バッサリで、反論の余地はない。


「まぁいいけどさ」
 隣にいる榊が、呟(つぶや)くように言った。


「お前と一緒に帰るの、悪くないし」
「……そう」


 その言葉に何か特別な意味が含まれてないことなんてわかってる。あくまで私と榊の関係は霊能者としての師匠と弟子で、それ以上でも以下でもない。

 期待しちゃいけないのに、好きになってほしいなんて思っちゃいけないのに。

 どこにも行けない想いを抱いたまま榊と電車に乗り、三つ目の地元の駅で降りて、手を振って別れた。

 ホームの上、湿度をほとんど含まない風が通り抜けていった。