「本当に、佳織には悪いね」
「私も今日は楽しみにしてるんだから。遠慮なくいってらっしゃい!」
午前中は商店街のお土産店などをまわり、予定通りに昼食を済ませた後、菜都実を保紀に預けた。
「じゃぁ……、甘えることにする。埋め合わせはするから」
「そんなのいいって。ただ、明日の飛行機間に合うようにね。他の便は満席だったから、乗り継ぎも含めて全部取り直しになっちゃうぞ」
「分かった。それは守る。茜音とちがって、二人だし」
「その二人だから心配なのさぁ」
佳織がその言葉を待っていたかのようにニッと歯を見せて笑う。
今朝のホテルを出るとき、菜都実は明日までの必要最低限の荷物を持ってきていた。予定では明日の空港での合流になる。
残りのメンバーは、その待ち合わせまで二人の邪魔はしないつもりだ。
その場に現れない可能性もリスクとして残る。ただ、二人とも次は失敗したくないという意向をはっきりと示していたから、それを信じることにしている。
「じゃあ保紀君、菜都実のこと一晩お願いね」
前の晩に続いて、お昼ご飯をご馳走になり、残りの三人がお店を後にする。
「じゃぁ、わたしたちも出よぉ」
残りの三人で一度ホテルに戻って買ってきたお土産などの荷物を片づけてから、最初に佳織を空港に送り届けることになっている。
「佳織、本当にごめんね。お友達さんにもよろしくね」
「謝ることないじゃん。私にも予定あるんだし。茜音もうまくやるのよ?」
横須賀からの土産を持った佳織を空港のロビーに送り届ける。
「帰りはバスで平良のホテルまで戻るから、私には気を使わないで?」
「本当にいいの?」
「こうやって、地方路線乗っておかないと、いざ茜音みたいに突然出かけると言ってもなかなか答え出ないでしょ? 空港だからタクシーもいるし何とかなるわ」
佳織のスマートフォンには、石垣島を出たという連絡がすでに入っている様子で、楽しみがちゃんとあるというのも嘘ではなさそうだった。
「茜音もうまくやるのよ?」
「ありがとう……。でも、わたしも焦らないでいいよね」
「もちろん。健君と二人で考えられるでしょ?」
佳織は茜音の肩をポンと叩いて、空港ロビーの到着口の方に歩いていった。
「これからどうしようか?」
健が車の中で待っていてくれて、茜音の帰りを待っていてくれた。
「そうだねぇ。また海が見たいな。いつも忙しいから、ゆっくりお話しがしたい」
そんな場所を茜音は菜都実と保紀から昼食の時に聞き出していた。
昨日行った浜は菜都実の大切な場所だから2組のバッティングは避けたい。そんな気持ちを悟ったのか、菜都実は笑いながらお店にあった観光地図に油性のサインペンで書き込みをしてくれた。
「それじゃあ、行ってみようか」
二人きりになった車の中、助手席の茜音の手を握って車を走らせた。
昼食の時間も終わり、食器やテーブルの片付けも終わらせた店内。
「菜都実ちゃん、本当に悪いわねぇ」
「いえ、みんなご馳走になっちゃったし。突然押しかけて騒ぎを起こしちゃいましたから」
結局、他のメンバーが出た後、まだ仕事中の保紀を待つために、店の客席側の手伝いを買ってでていた。
店が違うとは言え、菜都実も飲食店の家の娘だ。接客はメニューさえ覚えてしまえばお手のものだし、調理師免許をとるために専門学校に通っていることから、ネイルなどの装飾もしていない。髪の毛をまとめてエプロンを着ければそのまま作業に入れる。
「このままずっと手伝って欲しいくらいだ」
「おじさん、それ冗談になってないですよ」
今や両家公認で恋人同士という立場なのだから、希望さえすれば今日からでもそのポジションは手に入れられる。
「菜都実、お待たせ」
厨房用から私服に着替えた保紀が迎えにきた。
「じゃぁ、行ってきますね」
荷物を後部座席に載せて、保紀の運転する車の助手席に座る。
「こっちで免許取ったんだ?」
「小さい島だけど、やっぱ無いとな。どこに行く?」
菜都実を乗せて、これまで通ってきた中学や高校などを回りながら海岸線を走る。
菜都実が以前にこの島を走ったことがあると聞いて、その先は好きなところに行くだけだった。
「どうする? あのビーチ行く?」
「うん、最後はそこにしようって思ってた」
昨日は自分の案内でやってきた海岸。あの出来事が無ければ、横須賀の海岸でいつでもこうして二人並んで夕陽を見ることができたのかもしれない。
「あたし、妹がいなくなって、からっぽになっちゃったとき、やすの写真に救われた。ずっとお礼が言いたかったんだ。ありがとう」
「あのくらいしか出来なくて、菜都実の役に立てたか分からなくて。でも、菜都実がここまで一人で来ていたってのは驚いたな。寄ってくれてもよかったのに」
「ううん。あの時は横須賀から逃げてきたんだ。耐えられなくなって。本当に着の身着のまま。とてもやすに見てもらえるような姿じゃなかった。やすにも、あのみんなにもいつも心配とか迷惑かけて。でも、みんな泣けちゃうくらい優しくて。今日の服はさっきの茜音と一緒に買いに行ったの。『せっかく沖縄の海に行くんだから可愛くしようよ』って」
「うん、ほんと可愛いよ。久しぶりだからすごく新鮮」
「そっか、それならよかった」
セーラー襟と縦に飾りボタンのついたロングTシャツに襟と同じマリンブルーのミニスカート。スニーカーでもいいように茜音がコーディネートしたものだ。今朝、ホテルの部屋で着替えたとき、同室の佳織も絶賛していた。
「菜都実、強くなったんだね」
「ここで一人大泣きした。よく通報されなかったよ。やすのこと1日だって忘れたこと無いし、近くにいるのも分かってたけど、そんなあたしがその時に行ったとしても、今回みたいな展開にはならなかったと思う」
今回、みんなが協力してくれたのは、やはりそれぞれがきちんと高校までを卒業し、将来に向けて確かに歩んでいることを認めたからに他なら無い。
「待たせてごめんなさい。本当のこと言うと、空港に下りるまでは恐かった。本当に最後は当たって砕けちゃってもいいやって思ってたのに。昨日の夜は不意打ちされたなぁ」
計画した茜音たち三人や両親はともかく、保紀まで知っていたとなれば、自分だけが全容を最後まで知らされずに連れてこられたことに気づく。最初から「保紀に会いに行く」とタイトルをつければ、きっと自分が計画段階から躊躇してまうことを心配した友人たちの配慮だと。
「本当に来るのか、どういう顔すればいいのか俺も分からなかったよ」
「それはあたしの方が焦ったよ。どのタイミングなんだろうと思っていたら、ドッキリじゃん。まぁ……、せっかくここまで来たからにはって覚悟は決めてたんだけどね」
昨日は四人で座った海岸に今日は二人だけ。
海岸に打ち寄せる波は静かな音で二人のことを出迎えてくれた。
「やす、あたし、また弱くなってきちゃったよ」
「どうして?」
唐突な告白。新しい環境でもあの時のように誰かが追いつめているのか。
「ううん。そうじゃなくてね、昼間に公園を通るのが辛い……。あの子が無事に生まれてれば、もう3歳だよ……」
「菜都実……」
毎月の月命日にはお参りに行っている菜都実。まして自分の胎内に短い時間だったとはいえ、親子としての時間を過ごしたのだ。
「嫌かもしれない。だから、これっきりでもいい。この写真見てあげて」
誰にも渡したことがないたった一枚の写真。保紀は菜都実以外で唯一それを手にする資格があるのだから。
「パパだよ……」
「やす……」
「忘れられるわけない。菜都実と俺の子だよ。今はニライカナイにいるね」
「なぁにそれ?」
「こっちで伝わる理想郷のこと。方角で言えば本当は東の方なんだけど、こんな夕陽だ、きっと見に来てるよ。人はニライカナイから来て、この世での役目が終わると再びそこに帰って行く。そして時間をかけて家の守り神になるって考えがあるんだ。この子はきっとまたこの世界に遊びに来る。その時には、今度こそ俺たちのところに来てもらって、一緒に生きていきたい」
こんな信仰を最初から持っていたわけではない。しかし、横須賀で菜都実が償いを続けていることを知った保紀は自身も何か出来ることはと寺院に相談したところ、その子のことを忘れずにいてあげることが何よりの供養であり、自身の元気を取り戻すように教えられたという。
「菜都実、俺たちはこの子を忘れることはない。でも、先に進まなくちゃならない。もう一度、二人でやり直さないか?」
「やす、それって……」
涙の筋をつけたまま、保紀を見上げる菜都実。
「いいの? こんなあたしで本当にいいの? こっちにいい子いないの?」
「大丈夫。昨日あんな紙もらっちゃったけど、今度はちゃんと菜都実と一歩一歩やっていきたいんだ」
こちらに来てからも、誰とも浮いた話はないように気をつけてきた。
小さな島だ。異性と歩いていただけでも話題になってしまいかねない。
今回、菜都実を乗せて自分の縁の場所を回ったことは、もしかすればもう学生時代の同級生の一部には知れているかもしれない。
それでも、再び自分を訪ねてくれた菜都実を見捨てることは出来ない。あの当時と同じだ。元気そうにみせてはいるが、内面の傷が治りきっていない。こんな菜都実を泣かせたまま帰すわけにいかない。そして、一緒の空間にいた数時間だけで、保紀にも他の同級生の時とは違う安心感を覚えた。
「うん……」
「それとも、菜都実にはもう誰かいるの?」
「ううん。いないよ。あたしにはやすしかいない。こんなボロボロのあたしでもよかったら、手放さないで……。もう寂しいのは嫌だよ」
もう隠す必要もない。たった一人、菜都実が体も心の全てを許せた人だから。
若すぎた時の傷はあるけど、自分たち二人なら支え合って生きていける。
「分かった。菜都実は俺がもらう。約束したからな」
「うん。あたしこそ、よろしく」
二人の陰が一つに溶け合ったとき、事の顛末を見届けた太陽は最後の光を放って海に溶けた。
辺りが暗くなっていくなか、お互いの存在を求め合う。4年ぶりの吐息を逃がすまいと両腕を背中に回した。
「ねぇ……、やすはあのあと、誰とも付き合わなかったの?」
「できなかったよ。菜都実は?」
「あたしは、もともと白い目で見られてたり、噂もいろいろ流されちゃったし。そんなのに手を出してくる男子はゼロ。本当にあたしに声がけしてくれたのは、佳織だけだった。自分だってターゲットにされちゃうかもしれないのに。茜音もそう。嫌われてもいい覚悟で話したのに、逆にあたしが励まされちゃって。この旅行、あたしが大泣きしてもいいようにって、茜音の人選だよ。あの二人はあたしの特別。男子はいないよ」
高校、そして専門学校と進むにつれて、どうしても年頃の女の子たちの中では色恋沙汰の話が飛び交う。
「そうだったんだ。その間、ありがとうともごめんって言うことも出来なかったけど」
「そんなのいい。でも嬉しい。結局あれから一度も、誰ともない。やす意外に考えられなくて……」
中学での噂や、彼女の性格から連想されてしまいがちな男性向けのイメージとは全く逆で、『難攻不落』と言われ続けた茜音にも匹敵する信念の持ち主であることは、ほとんど知られていない。
「だから……、いいよ……。4年ぶり」
「菜都実……?」
「やすだって、想像はしてたんでしょ?」
そんな菜都実の髪をくしゃくしゃにすると、再び車に戻った。
「どうするの? おうちに戻る?」
「家じゃなぁ……」
宮古島に戻って、普段暮らしている平良地区を離れる。
空港近くのビジネスホテルに部屋を取る。
「大丈夫? こんなことして?」
「もう学生じゃないんだし。俺にも彼女いますって言ってもいいさ。いくら狭いって言ったって、全員が顔見知りってわけじゃない」
途中のスーパーで買ってきた弁当で夕食にする。
「やっぱり、あの食事一回食べたらダメだぁ」
「比較する方が間違ってるだろう」
笑って流しても、それは保紀にとって最高のほめ言葉になる。
「やすがどういう将来を持っているのかまだ聞いてないけど、たまにはああいうご飯作ってくれたらいいなぁ」
「毎日でも頑張るさ。先にシャワー浴びてきちゃいなよ」
その意味に気づいた菜都実はにっこり頷いてバスルームに消えた。
「ねぇやす……」
「うん?」
室内はもう暗い。3階の部屋のカーテンは半開きだが、そもそも周辺に高い建物がない上、室内が暗いので外から見られる心配もない。遠くの方に空港の明かりと時々通る車のライトが見えるだけだ。
「あたしたち、どこからやり直す?」
「そうだな。メールで友だちからってわけにはいかないよな」
「そうだよね。どこがいいんだろう……」
ベッドに入っている自分たち、シャワーあがりで着ていたバスローブでベッドに身を寄せている。
お互いの体温が感じられて、すでに泣きそうになっている。比較したこともないけど、他の人ではダメなんだと。
「菜都実は後悔しない?」
「するわけない。あたしはやすのものって、ずっと決めてきた。みんなに迷惑もたくさんかけたけど、そんな人たちが許してくれるのなら、このまま進めていきたい。あの子のためにも……」
そのために毎月のお参りを欠かさなかった。いつかは菜都実にも子供を授かることに周囲が祝福してくれる時が来ると。空に帰った命が再び自分に戻ってきてくれること。そして、今度も父親は保紀であってほしい。
そんなことを毎月の墓前で語り続けてきた。次こそは自分の腕で抱きしめてあげたい。だから……、パパとママの準備ができたら降りておいでと。
「そうだな。そのために頑張ったんだもんな」
横須賀を離れる直前、二人で小さな白木の箱を持ってお寺に行った。中には真綿だけしか入っていない。それでも泣きながら事情を話した菜都実に住職は何度も頷いて丁寧に炊き上げてくれ、墓碑も手続きをしてくれた。そんな過去の情景が脳裏に流れる。
「うん。あそこに戻そう。やすがあたしを教室で助けてくれた日。あそこからやり直そう?」
あの夕陽に照らされた教室の時と同じ。保紀が菜都実の涙を唇で吸い取った。
「俺もあれっきり。下手って言うなよ?」
「あたしだって同じ。そんなこと言わない!」
またあの日に戻って、今度こそみんなに認めてもらえるように。
「入籍するまではもう少しかかると思うけど……」
「それでいいよ。あの紙にあたしの名前書いて帰るから預かっていてね。出すときは二人で出そうね」
「俺の予約伝票だな」
笑いながら保紀の準備をするのがあの4年前とは違う。もう失敗したくない。焦らず一歩一歩進んでいくために必要なこと。
「菜都実……、ずっと会いたかった……」
「やす、おかえりなさい……」
彼の背中に両腕を回し、菜都実は耳元でささやいた。
菜都実にメモを書いてもらった地図を頼りに、昨日訪れた下地島に再び渡る。
南側を回った昨日と違うのは、道を途中で折れて島の北側に向かうように指示されている。
ナビゲーションの画面に従いながら車を走らせると、正面にフェンスが見える。
「行っていいのこれ?」
「うん、メモには右に曲がってフェンス沿いに進むって」
遠浅の海岸を右に見ながら、指示通りに突端まで進めた。
「へぇ、すごぉい!」
下地島、この名前を聞いてピンと来る人にはいくつかの共通点があり、一つはダイビングスポットとして非常に有名なこと。もう一つには、下地島空港がある。定期便も少ないこの空港はパイロット養成の訓練空港としての顔も持っている。
海の上に張り出した北側からの着陸シーンは、真っ青な海からの反射もあって、非日常な迫力を味わうことが出来る。
その分、音もそれなりにするのだけど、周囲が海であり音が反響しないこと、そもそも飛行機を見に来ている者にとっては気にならないものなのかもしれない。
茜音たちの真上を通過して着陸してすぐに飛び上がる、タッチアンドゴーの訓練は、あっという間に引き込まれてしまう魅力があった。
「なんか、菜都実がこの島を気に入っているのがわかる気がするなぁ」
なんでもっと早くに知らなかったのだろうと思わずにはいられなかった。
茜音もいつもの笑顔とは裏の、誰にも顔を見られたくないときもある。
一人になりたいとき、茜音もよく海を見に出る。地元の横須賀だけでなく、江ノ島や鎌倉、城ヶ島にも何度も足を運んだ。
しかし、近所の海はみな観光地ばかりで、物想いに浸りたいときに一人になることが出来ない。
この島なら、訓練のときはそれなりに見学者がいる場所も、終わってしまえば波音だけの静かな海岸線に戻る。
それを証明するように、二人が到着して30分もすると見学者もいなくなり、周囲は再び静寂を取り戻した。
「ねぇ健ちゃん……」
コンクリートの防波堤の上に並んで座る。今日はもう訓練もないのだろう。
エンジンの音が消えて、人気も見えなくなった。茜音が何度でも見たいと言っていた夕焼けの時間に差し掛かっている。
「なに?」
「本当にごめんね。せっかくのお休みを、私のわがままで疲れさせちゃって。ごめんなさい」
「そんなことかぁ。茜音ちゃん、未来に言ってたじゃん。二人の時間があればどこでもって。僕も同じ。一緒に旅行が出来て嬉しいよ」
昼間は珠実園での仕事をして夜は夜間高校に通いながら、共同生活をしている健。
茜音も自分の生家から学校に通いながら、少しずつ片づけを行っている。
健が夜学を来年卒業することで、一区切りをつけようと徐々に準備を進めている。そのために、茜音が買い揃えるものはペア物も多くなった。
同時に漠然とした不安もある。
「本当はね、そろそろ就職活動の準備も始めなくちゃって思っていたりもするけど。わたしに本当にできるのか不安だし。誰かの役にたてるのか。必要としてくれる人がいるのか。もし、本当に就職先を珠実園にするって決めたって、ちゃんと試験は受けないとだし」
いつまでも学生時代ではいられない。
大人になって健と二人、支え合って生きていこう。幼い頃から描いてきたロードマップももうすぐ一つの転換期を迎える。
遠くにあったはずのゴールがもう手の届きそうなところまで来ている。その一方で自分の用意が出来ていないのではないか。そして、その準備をするにはどうすればいいのか。
「茜音ちゃん……」
背中側から両腕で抱き抱え、上半身の力が抜けた彼女の重みを受け止める。
「健ちゃん、わたしは、健ちゃんに認めてもらえるのかな? もしかしたら、不合格なのかもしれないのに、優しいから……」
「この旅行で、佳織さんと菜都実さんから同じ事を言われたんだ。茜音ちゃんを助けてあげるようにって」
「もぉ、そんなことないのに……」
うつむいた茜音の顔は見たことがないほど何かに怯えているようだった。
「……健ちゃん……。ちょっと昔の独り言を言ってもいい? 聞きたくなかったら聞かなくていいし。感想なんていらないから」
「わかった」
夕日に照らされながら、目をつぶる。ぎゅっと握った拳からも、辛い回想を引き出していることがわかる。
「わたしが、ときわ園を出たあとのことはもういろいろ聞いていると思うの。小学校、中学校、高校も本当にたくさん。人に言えない、今も誰も知らないこともたくさんあった……」
独り言だと言っているけれど、もちろん健は聞いている。施設を出て片岡家の一員として新しい人生を踏み出せたはずの茜音。けれど、それは書類上の話だった。
彼女は大勢の犠牲者が出た航空機事故で奇跡的に生き延びた生存者。しかしながら、その陰には両親やその他の犠牲もあった。
報道では犠牲者や遺族の事が大きく取り上げられ、生還した茜音たちには励ましと同時に心無い言葉もたくさん届いた。
茜音自身、これまでの人生で一時だって忘れてはいない。一人娘を守るために命を落とした両親との幼い別れは、決して消えることがない彼女の心の傷だ。
笑顔や言葉すら失った彼女を周囲の懸命な努力で立ち上がらせたところに、心ない矢が再び突き刺さった。
どうしても当初遅れてしまった勉強の面。周囲の親からの声、それは自然に子供たちにも伝わる。茜音の事実がどこからか知れるとあっという間に広がった。
以前の学校のように施設からの子供たちを受け入れていないところでは、その対策も十分にされておらず、両親がいないことを言われ続けた。性格的にも他人を攻撃することが出来ない彼女は必然的にいじめの対象になった。
「小学校はまだよかった。言葉で言われていただけだったし、仲間外れになっても一人になるだけ。そんなのは平気だった。中学からの方がね……」
最初に入学した公立の中学校は、小学校からの持ち上がりも多数いた。その頃には学業や生活のハンデも克服していたのだが、結局環境は変わらなかった。登校も辛くなり、最終的には私立に転校となった。
「中学は受験もあるし、あと、いろいろ体の変化もあるから、みんな不安定だよね。それに、やっぱり恋愛だって始まってくるし。不安は他の人に向けた方が発散できるって言うもんね。仕方ないよ、わたしは何も言っていなかったし」
振り返ってみると、茜音が正式に自身の過去を発表したのは高校2年生の冬になる。それまでにも、彼女の事情を知っているかに関係なく、交際を申し込まれたことは何度もあった。
申し訳なく思いつつも、それらに応えることは出来ない日々。それが次第に別の方に発展してしまう。
「『片岡茜音を誰が最初に手に入れるのか』って言われていたこともあったんだよ……」
「ひどい……! そんなこと……。茜音ちゃんになんてことを……!」
健の声が怒りに震えている。彼には絶対に許し難い話だった。
そんな茜音の気持ちなど考えない馬鹿げたレースが始まってからと言うもの、それまで茜音に興味がそれほど無かった層からも声が掛かるようになった……。
「中には無理矢理なんて考えた人もいた。だからね……、わたしの体、健ちゃんが思ってくれているよりも汚いんだよ。本当にごめんなさい……」
最初に服の上から胸を揉まれたのは中学2年だったと記憶している。
大きなダークブラウンの瞳、幼い頃から変えることのなかった両サイドの三つ編みを特徴とする髪型。
同級生から見ても発育も進んでいなかったから、男子からすれば格好の的のようなものだった。
次第にそれはエスカレートしていった。特に夏場は制服も薄着になるし、体育の授業で水泳がある時には水着にもなる。
偶然を装っては、水着の上からだけでなく、手や足を触られたことも。途中で回数を数えるのをやめた。
高校を卒業して、茜音が女性としてのプロポーションをほぼ完成させても、セパレートの水着を選ばないと聞いた裏にはこんな体験をしてしまっているからだと。
「もちろん、声を上げればいいことは分かってた。でも、もう誰にも迷惑かけられなかった。わたしだけが我慢すればいい。本当はそれも間違っているんだよね……」
それでも頑なに誰からの声に応じなかった彼女に最大の危機が訪れたのは高校2年の春先。
教師を装った偽の呼び出しに応じて体育館に行くと、三名の3年生が待っていた。
囲まれる状況から逃れようとしたとき、髪の毛を捕まれて足を取られる。
両手足を押さえられ、絶望の中、観念したように記憶を途切れさせた。
「茜音!! おまえら……、ゆるせねぇ……」「先輩とはいえ許せません!」
朦朧とした意識の中、菜都実と佳織が踏み込んできてくれたこと。目隠しのアイマスクと喋れないように自分の三つ編みの先を口に入れられテープでとめられていたものを恐る恐る外す。
教師が駆けつけたときには、菜都実による怒りの制裁も終わっていて、自分は佳織に泣きついていた。
「テープで塞がれていたから、キスも平気だったし、佳織から『大丈夫だから。何も傷はない』って教えてくれた。だからね……、今でも一人とか暗いところは苦手……」
絶句だった。紛れもない犯罪行為だ。学校を離れたことで、あの二人が自分に懇願するように茜音を託した背景にはこんな事件があったのかと。
「去年、健ちゃんに初めてのキスを渡せた。本当に嬉しかったの。もう、平気だって……」
「茜音!……」
もう我慢できなかった。横に座る彼女を抱きしめて唇を塞ぐ。塩辛い味がした。あの日もファーストキスだと泣きながら笑ってくれた。
「茜音ちゃ!!……あ…かね……よく無事で……いてくれて……」
健の声が怒りから嗚咽に変わる。
櫻峰高校は、男女の交際自体には寛容な代わりに、ことを起こせば制裁処分は厳しいと噂は聞いていた。
「……わたしがね、2日間の自宅待機を言われている間に、先輩たちは全員退学処分。所属していたバスケ部も廃部解散にされていた……」
当たり前だと健が怒りをぶちまけると、茜音は首を振った。
「バスケ部に入って頑張っていた人もいた。その人たちの人生を変えちゃったんだよ……」
「でも、ダメなものはダメだろ。茜音ちゃんの責任じゃない」
珠実園で櫻峰高校に入学した未来が事件があってバスケットボールは部活ではなく同好会でしか存在しないことを驚きで話していたのを思い出す。
その事件の被害者が、泣きながら自分に許しを請う茜音だなんて……。
「健ちゃん……。こんな汚れて傷だらけだけど、本当に……茜音でいいの? 健ちゃんに決めてほしい……」
「決まってる。茜音ちゃんは僕が守る!」
「うん……。ありがとぉ……」
強く抱きしめたときに着崩れした服を整えながら立ち上がって、フェンスから空港の中を見る。
星空の下、滑走路に一直線に延びる灯りは幻想的で、そのまま見入ってしまいそうだ。
「健ちゃん、わたしの道、きっとこんなに真っ直ぐじゃないよ?」
スカートの裾とブラウスのボタンを直した茜音が横に立った。
「僕たちの人生、こんな真っ直ぐだったこと無いんだよ? これからだって曲がってるよ。それでも茜音ちゃんとなら、どんな道でもいい」
「あはっ、もうプロポーズだね。うん、わたしも一緒。だから、どこにも行かない」
潮風の中、もう一度唇を塞いだ。両手を組み合わせてお互いの体を支え合う。
「離したくない」
「うん……。わたしも。もっと近くにいきたいの」
「茜音ちゃん、大胆なのか天然なのか分からないや」
突然笑い出した健に、不思議そうに首を傾げる。
「だって、そんなセリフ言われたらさ……?」
しかし、茜音の返事は落ちついていた。
「分かってるよ。健ちゃんとって……」
薄明かりでも分かるくらい顔を赤くした茜音をそっと抱き寄せて車に戻った。
ホテルの部屋に戻り、茜音はオートロックだけでなく、内側からの鍵もかけた。
ベッドサイドの灯りだけの薄暗い部屋。カーテンを二人で閉めて再び唇からひとつに溶け合う。
「健ちゃん……」
「茜音ちゃん……」
呼びかけに応えるように、背中に回していた手を徐々にずらしていく。
菜都実と一緒に買いに行った上下セットアップのセーラーワンピース。膝丈のスカートを吊っているサスペンダーを肩から外し、ホックを外して床に落とす。
七分袖ブラウスのボタンを外してこれも立ったまま腕から外した。
自分のポロシャツとジーンズを脱ぎ、茜音を抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。
「ごめん、痛かった?」
「ううん。今日の健ちゃん、積極的だね……ぁぅ」
言い終わる前に今日何度目か分からないキスをする。
これまでだって、お互いに一線を超えようと思ったことは何度もあって、いつもは話だけに終わってしまった。
昨年夏、10年ぶりの再会の直後から、ファーストキスを渡せた茜音には、先の覚悟もあった。その時は自分が倒れてしまい、健にも心配をかけたことから先送りになったけれど。
元からプロポーションのいい菜都実にも、高校の間に急成長した佳織にもかなわない自分の体型。
自分ではそれでもいいと思っていたし、友人たちからも茜音らしいと言われたけど、健から魅力がないことを理由に断られても仕方ないと思っていた。
「ごめんね、まだ子供体型だから……」
彼の両腕の中にすっぽりと収まって、背中を丸める
これまで、自分の意識とは無関係に身体を弄ばれた時とは明らかに違った。
自分でも分かる。呼吸が荒くなり、心臓の鼓動も経験したことが無いほど早鐘を打っている。
「茜音ちゃん……?」
健も茜音の変化を見逃さなかった。
「いや……、やめないで……」
「そ、そう? 辛そうじゃない?」
「違うの……。いろいろ思い出しちゃって……」
前の年、10年ぶりに茜音のもとにたどり着いたとき、彼女は川の中で冷え切っていた。
夢中で抱き起こして息をしているのを確かめて全身から力が抜けた。温泉での介抱は友人たちに任せたが、そのあとにバスタオルのみで布団に寝かされた茜音の手を握り続けた。
「起きてくれ」何度も呟いた。「絶対に失いたくない」。自分との約束のために来てくれた彼女。それが時間を経て「彼女を他の誰にも渡したくない」という感情だと確信するのに時間はかからなかった。
薄暗い部屋の中、茜音が確かに生きている証。呼吸とともに微かに上下している緩やかなカーブの胸元。決してグラビアに載るようなものではないけれど、自分を男として揺さぶるには十分だった。
その後も何度か着替えさせたり一緒に入浴もあった。それでも無理に急いで悲しませたくない。自分とひとつになることを許してくれるまではとこらえ続けた。
茜音がそれを許してくれた今、一回の仕切り直しくらい、これまでの時間を考えればなんて事はない。
「ごめんね、落ちついたぁ」
「茜音ちゃん……、愛してる」
「あうぅ、ずるぅぃ……。反則だよぉ」
目尻から涙がこぼれ落ちながら、茜音は笑顔を作る。
それには答えずに、健は穏やかに微笑んで茜音の頭をなでた。
「もう、辛いこと忘れていいんだよ。よく頑張ったね」
「うん……、もう……いいんだよね。これ……、ほどいてくれる……?」
「茜音ちゃん……」
茜音が差し出した、彼女の両サイドにある三つ編み。一番下で留めてあるヘアゴムとリボンに手をかけた時、彼女がギュッと目をつぶる。
二人とも分かっている。この2本の三つ編みは茜音が幼い頃、母親から施してもらった最後の髪型。
そして、健との10年間を忘れないために変えることはなかった。言わば彼女のアイデンティティそのものだ。
嬉しいことも辛いことも一緒に乗り越えてきた。特にこの留めている部分は彼女以外、あの二人の親友や健でも外させたことはない。茜音の心の鍵でもある。
「健ちゃん、いいよ。外して……」
ゆっくりと丁寧に、リボンを解いてから最後に下留めしてあるヘアゴムを外した。
両方の作業が終わると、恥ずかしそうに頭を振る。ストッパーがなくなった艶のある黒髪は順にほどけていく。
「ありがとうね。もう、わたし、隠しているものないよ。体も心も全部、健ちゃんに渡せる」
全ての防御を解いた茜音を両腕で抱き締める。直に密着している胸元から、茜音の心臓が早鐘を打っているのを感じた。
「緊張してる?」
「もぉ、わたしも初めてなんだからぁ……」
安心したように微笑んで閉じられた茜音の瞼から光るものが溢れていた。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「うん。ごめんね。びっくりさせちゃって。……はずかしぃ」
入浴を済ませて、再びベッドに二人で潜り込む。
健も茜音の破瓜の傷を気にしたけれど、どうやらその心配はなさそうだ。
この傷が塞がることはない。初めてのキスと同じで、彼女の決意の現れは健に伝わっていた。
「茜音ちゃんが元気になってくれてよかった」
「菜都実の詳しい話は聞いたことないけど、健ちゃんは上手だったんじゃないかな。あんなに優しくしてくれたんだもん」
今はパジャマを通してだけど、茜音の体温を感じる。この温もりを一生感じていきたい。
14年前、初めて彼女と出会ったとき、それまで周囲がだれも信じられなかった幼い自分の中に、何かが突き刺さった。
この子をもっと知りたい。ときわ園の職員たちが言葉が話せない茜音への接し方を探っている中、思い切ってスケッチブックとクレヨンを渡した。
『ありがとう』。今から思えば、まだ下手で小さな字だったけど、初めて笑ってくれた。それには園中の先生たちが驚いた。一番の問題児だった健があっさりと堅く閉ざされた少女の心を開いた。
その夜、健は園長室に呼ばれた。「茜音ちゃんを頼む」と。言われなくたって決めていた。「茜音ちゃんは自分が守るんだ」と。
園の中で唯一、男女で一緒に眠ることも許された。暗がりに怯える茜音の手を握って並んで寝た。
「健ちゃん……。ひとつ聞いてもいい?」
「うん?」
「ときわ園の最後のとき、わたしたち、駆け落ちしたでしょ? どうしてわたしを誘ってくれたの?」
「決まってるよ。もう、茜音ちゃんが好きだったんだ。離れたくなかった。でも、茜音ちゃんには本当に迷惑かけたって思ってたよ。本当にごめんね」
「ううん、わたしも同じだった。あれがあったから、今日まで頑張ってこられた。こんなわたしのことを好きで必要としてくれている人がいる。その人のために生きていこうって。健ちゃんがわたしをずっと支えてくれたんだよ。命の恩人なの。だから、これからも……、健ちゃんが嫌じゃなかったら、一緒にいさせて……くれたら、嬉しいな……」
鼻をすすりながら絞り出す茜音を抱き寄せる。
「一緒に、生きていこう。大変なこともいっぱいあるかも知れない。でも、僕も茜音ちゃんじゃなくちゃ嫌なんだ」
「未来ちゃんがいても?」
「あの子はもう僕から離れても大丈夫。でも、茜音ちゃんはそうじゃない。一番近くで見ていないと。手をつないでいないと、茜音ちゃんはきっと立ち止まっちゃう。だからね……」
頬に流れた涙を吸い取り、そのまま柔らかい唇も優しく吸った。
「ずっと一緒にいよう」
「うん、お願いするよ。……ただいま……」
「おかえり」
幼い頃と同じように、健の胸元に顔を埋める。いろんな事があった。あの頃とはいろいろ変わってしまった部分もある。
それでも、ここは自分が唯一全てを許せる人の腕の中だと。変わらない彼の匂いと、鼓動を感じながら茜音は意識を手放した。