ETERNAL PROMISE  【The Advance】




「天気が良くてよかった」

「もぉ、菜都実も水くさいなぁ。ここに来たことあるんでしょ?」

 佳織も笑っている。菜都実が初めてでなさそうというのは感じていたけれど、それならば何時(いつ)と言うことになる。

「まぁね……。黙っててごめん」

「ううん。話せないことだってあるよ」

「うちさ、由香利がいなくなっちゃって。なんにも手が着かなくなっちゃって。やすに教えてもらっていた夕焼けが見たくなって、一人でここに来たんだ。原付バイク借りてね。いつか一緒に行こうって約束してたから、由香利の写真と一緒に見て、思いっきり泣いて。そこからやっとリセットした場所なのよ、ここは……」

 あの当時、法事も終わった後に菜都実が数日間学校を休んだことを思い出す。当時は疲れなどもあるはずだと、深くは追求しなかった。

 まさかこんな沖縄の離島にまで来ていたとは想像もしていなかった。

「今日も由香利ちゃんといっしょ?」

 夕日を見ながら、彼女が手帳を大事そうに握りしめていたから、そう思っても自然な流れだ。

「ううん、今日は違う。どっちにしても天国にはいるんだけど……」

 封筒に入っていた白黒の画像。モザイクのような背景に、小さな円が写っている。

 これは、経験した者にしか分からないだろう。首を傾げる二人を見て菜都実は微笑んだ。

「分からなくて当然。あたしの赤ちゃん。たった1枚だけ、あの子が生きていた証だから」

 入院の際、状況を確認するために撮ったエコー写真。

「この時には、もう心臓が動いてるのが見えた……。あたしなんてどうなってもいい。シングルマザーでもいから、あのまま頑張らせてやりたかった。でも、その日の夜に、この子は自分で外に出ちゃった。まだ外では生きられないって分かっていたはずなのに……」

 目が覚め、事を説明されて病室で号泣する菜都実に担当医でもあった叔父が渡してくれたのだと。

「だから、一緒に連れてきた。この子のお父さんの顔を見せてやらなくちゃって」

「菜都実……」

「分かってるよ、あたしだってここまで来れば覚悟決める。住所も分かってるし」

 夕陽に照らされた菜都実の顔は、自分たちより数段先の人生経験をしているように穏やかだった。

「わたしね、両親がいるお寺で聞いてきたんだ。赤ちゃんは絶対に菜都実のことを怨んだりしないって。菜都実がそんなに毎月忘れないでお参りしているんだから、空で楽しく幸せに遊んでいるって。お母さんが幸せになれるように逆に祈ってくれているって」

 茜音にも不定期に空白のスケジュールがあり、そんな時は決まって両親の眠る墓前にいる。

 悩んだり迷ったときに、現実の片岡家の両親と同等以上に彼女を落ち着かせるために手を合わせるのだと。

「きっと、茜音も私もそういう時が来る。菜都実って経験者がいるだけで安心だよ」

「佳織ぃ、この経験だけはあんまりしないほうがいいぞぉ。さぁて、おなかすいた。宮古に戻ってお店探す?」

「もう、お店は予約してあるよ」

 それまで黙って三人を見守っていた健がようやく入ってきた。

「健ちゃんごめんね。なんか重くなっちゃって」

「いや、みんな菜都実さんみたいな親ばかりだったら、珠実園の子どもたちの半分は居ないはずなのにって思ってさ」

 不慮の事故や病死など、やむを得ない理由で預けられる子供たちが半分ほど。残りは育児放棄や、両親の顔を知らない子たちもいる。

 健も今は職員として働きながら、茜音も彼らの役に立つようにと勉強しているが、一人ひとりの心の傷を癒していくことが一筋縄でないことは、自分たちの経験で痛いほど分かっている。




 ホテルにチェックインして、荷物を部屋に下ろしてからロビーに再集合。まだ開いている土産物屋などを覗きながら、商店街の一角にあるお店に着いた。

「へぇ、健君もお店選び上手になったねぇ」

「ま、まぁそんなとこ……?」

 郷土料理や海鮮がメインの食事処といった感じで、観光客だけでなく地元の人にも人気があるようだ。7時前という時間にもかかわらず、席はほとんど埋まっている。

「大丈夫? 予約席って空いてはいなさそうだけど」

 扉を開けて健が中に入っていく。

「うん……。すみません、予約をお願いしていた松永ですけど」

「あ、はい! こちらへどうぞ」

 手前のテーブル席ではなく、奥の座敷へと通される。

「すごぉい! こんな予約していてくれたの?」

 テーブルの上には、大きな刺身のお皿をはじめ、煮付けや焼きのもなどが並べられていたからだ。

「いらっしゃいませ。遠いところをおつかれさま。……菜都実ちゃん、すっかり美人になったわねぇ」

「えっ?」

 三人がその声の方を振り向いたとき、すでに菜都実は頭を畳にこすりつけていた。

「おばさん、ごめんなさい!」

 今回のイベントでは、これまで見たことのない菜都実の姿を見てきたが、ここまで号泣しながら頭を下げるなんてことも初めてのこと。見守ることしかできない。

「もう、たくさん泣いたんだもの。これからは菜都実ちゃんが幸せになる番よ」

「でも……」

 お店の女将さんと思しき女性は、自分たちの母親と同じような世代。泣きじゃくる菜都実の頭を撫でていた。

「遠いところいらっしゃい。おい、なに菜都実ちゃん泣かしてるんだ?」

「菜都実ちゃんがあの子をもらいに来てくれたの。早く呼んでおいで」

 やはり同じ世代の男性が顔を出す。

「健ちゃん……、いったい……?」

「マスターがさ、食事のことは心配するなって言ってたんだよ。こういう事だったんだね」

 なんてことはない。二人が早まって犯してしまった過ちについては、とっくに両家とも整理はついていた。

 もともと、二人の関係には異論がなかったし、あの事件でさえ時期が悪かったというだけで、それ以上の話は出なかったのだから。

「菜都実……」

 小さな声だったが、それにガバッと振り返った視線の先には、ひとりの少年が座っていた。

「やす……、ごめんなさい! やすは何も悪くないのに、やすが引っ越して、あたしはそのままで……。何度も謝りに来ようと思って、でもできなくて……」

 彼は菜都実の手を握った。

「菜都実も悪くないんだ。それよりもここに連れてきてくれた友達にお礼言わなくちゃ」

「うん」

 菜都実は席を離れて彼の横に座った。

「菜都実から聞いていると思いますが、自分が保紀です。菜都実とのことについては本当にお世話になりました」

 あの事件のあと、数年のブランクがあっても、しっかりと手を握っていられる信頼感。やはり二人の結びつきは変わらないということだろう。

「ほら、全部運んできちゃいな。菜都実ちゃん、今日のは全部保紀だから、味は保証しないからね?」

「ほんとに?」

「ど、どうかな……」

 最初に魚の煮付けに箸をつけた菜都実。

 この一行の来訪を聞かされて以来、メニューから仕込み、調理にいたるまで、他の注文の合間に彼がひとりで担当したという。

「うん……。美味しい。すごく美味しいよ。凄いね、やす……」

 再び涙が流れ出した菜都実。今度は笑っていた。




 最初のショックも収まって、保紀を入れて五人での食事は楽しく進んだ。

 なにより同行した三人が新鮮だったのは、やはり戻るところに戻れた菜都実が、今までに見たことがないほど柔らかい顔をする発見だった。

 あの事件のあと、菜都実とのけじめをつけるために選んだのが、宮古島でこの店を営んでいた年老いた親戚のところだったという。

 一家で移住した後に店を任せてもらい、高校に通いながら、店のことを一から覚えて今では厨房に立つことも多いという。

「菜都実に会うためにはちゃんと仕事して、独立できなくちゃと思って」

「うん、凄いよ。頑張ったんでしょ」

 ここまで来るには並大抵ではなかったはずだ。知らない土地での再出発というだけでハードルが高くなる。

「保紀、これ俺たちからな。必要になったら使え」

「俺たち?」

 調理着姿の父親から渡された封筒の中身を引っ張り出してみる。

「父さん」「おじさん……」

 周りも広げられたそれを見て息をのんだ。

 これまでに自分たちを含め何度も恋愛劇を繰り広げてきた茜音ですら、本物を見るのは初めての書類。

 婚姻届には両家の父親が証人のところに署名してあった。ウィンディーのマスターが、やることがあると言っていたのはこのことだったのだろう。

「これから話を進めても、どんなに早くても来年にはなっちまうだろうから未成年の承諾のところは書いていないけどな。必要だったら書いておくぞ?」

 保紀の父親が豪快に笑う。あの悲しい出来事から4年。物理的な距離を置いて再起にかける保紀の作戦は誰もが辛かったに違いない。

「大丈夫。もう急がない。ゆっくり決める。菜都実もそれでいい?」

「うん。これだって急展開なんだから。でも、あたしはもう決めてる」

 店の方も終わりに近づいて、菜都実も一緒になって皿の片づけに入っている。

「菜都実ちゃんいいのよ。お客さんなんだから」

「昔、おうちでご馳走になったときにいつもやってましたし」

 お茶の湯呑みだけになったテーブルを拭いて、菜都実は一息着いた。

「健くん、茜音と佳織も。なんか恥ずかしいところ見せたなぁ。でも、ありがとうね」

「荒療治できるかずっと気にしていたから、良い方に行ってよかった」

「なんかねぇ、茜音のすごさが改めて分かった気がする。本当に世話になっちゃった」

「でもぉ、あっという間に追い越されたよねぇ」

 実質上は婚約をしている自分たちでさえ、それをいつにするかなどは未定のままだ。

 暗くなった商店街を、保紀もホテルまで送ってくれた。

「明日のお昼はうちの店で用意します。夜はどうしますか?」

 結局、この食事代も保紀の修行代という名目で持ってもらってしまった。

「明日は、午後からみんな別行動だから、夕食は大丈夫。やすだって午後から休みもらったんでしょ?」

 せっかくだからと、明日の午後から菜都実が帰るまで休暇をもらった保紀には菜都実との時間を作ってもらいたいし、そもそも二人で来ている茜音たちも問題ない。

 佳織はと言えば、ネットで知り合った石垣島の友人と会うことになっているという。

「じゃぁ、また明日ね」

 ホテルの入り口で挨拶をして保紀は帰っていった。

「菜都実、よかったね」

「ごめんね。あたし佳織にも迷惑かけたなぁ」

「いいの。明日はこの部屋には戻らないんでしょきっと?」

 顔を真っ赤に染めた菜都実の肩をたたき、面白そうに何度もうなずく。

「私だってそんなことくらい分かってる。荷物はまとめておいてくれればいいよ。万一戻るようなことがあったら電話して?」

「うん。ありがとう。本当にあたしは幸せだわ」

 もっと夜中まで話し続けるのかと思いきや、長旅や緊張からの疲れで、すぐに部屋の電気が消えた。




「本当に、佳織には悪いね」

「私も今日は楽しみにしてるんだから。遠慮なくいってらっしゃい!」

 午前中は商店街のお土産店などをまわり、予定通りに昼食を済ませた後、菜都実を保紀に預けた。

「じゃぁ……、甘えることにする。埋め合わせはするから」

「そんなのいいって。ただ、明日の飛行機間に合うようにね。他の便は満席だったから、乗り継ぎも含めて全部取り直しになっちゃうぞ」

「分かった。それは守る。茜音とちがって、二人だし」

「その二人だから心配なのさぁ」

 佳織がその言葉を待っていたかのようにニッと歯を見せて笑う。

 今朝のホテルを出るとき、菜都実は明日までの必要最低限の荷物を持ってきていた。予定では明日の空港での合流になる。

 残りのメンバーは、その待ち合わせまで二人の邪魔はしないつもりだ。

 その場に現れない可能性もリスクとして残る。ただ、二人とも次は失敗したくないという意向をはっきりと示していたから、それを信じることにしている。

「じゃあ保紀君、菜都実のこと一晩お願いね」

 前の晩に続いて、お昼ご飯をご馳走になり、残りの三人がお店を後にする。



「じゃぁ、わたしたちも出よぉ」

 残りの三人で一度ホテルに戻って買ってきたお土産などの荷物を片づけてから、最初に佳織を空港に送り届けることになっている。

「佳織、本当にごめんね。お友達さんにもよろしくね」

「謝ることないじゃん。私にも予定あるんだし。茜音もうまくやるのよ?」

 横須賀からの土産を持った佳織を空港のロビーに送り届ける。

「帰りはバスで平良(ひらら)のホテルまで戻るから、私には気を使わないで?」

「本当にいいの?」

「こうやって、地方路線乗っておかないと、いざ茜音みたいに突然出かけると言ってもなかなか答え出ないでしょ? 空港だからタクシーもいるし何とかなるわ」

 佳織のスマートフォンには、石垣島を出たという連絡がすでに入っている様子で、楽しみがちゃんとあるというのも嘘ではなさそうだった。

「茜音もうまくやるのよ?」

「ありがとう……。でも、わたしも焦らないでいいよね」

「もちろん。健君と二人で考えられるでしょ?」

 佳織は茜音の肩をポンと叩いて、空港ロビーの到着口の方に歩いていった。

 


「これからどうしようか?」

 健が車の中で待っていてくれて、茜音の帰りを待っていてくれた。

「そうだねぇ。また海が見たいな。いつも忙しいから、ゆっくりお話しがしたい」

 そんな場所を茜音は菜都実と保紀から昼食の時に聞き出していた。

 昨日行った浜は菜都実の大切な場所だから2組のバッティングは避けたい。そんな気持ちを悟ったのか、菜都実は笑いながらお店にあった観光地図に油性のサインペンで書き込みをしてくれた。

「それじゃあ、行ってみようか」

 二人きりになった車の中、助手席の茜音の手を握って車を走らせた。




 昼食の時間も終わり、食器やテーブルの片付けも終わらせた店内。

「菜都実ちゃん、本当に悪いわねぇ」

「いえ、みんなご馳走になっちゃったし。突然押しかけて騒ぎを起こしちゃいましたから」

 結局、他のメンバーが出た後、まだ仕事中の保紀を待つために、店の客席側の手伝いを買ってでていた。

 店が違うとは言え、菜都実も飲食店の家の娘だ。接客はメニューさえ覚えてしまえばお手のものだし、調理師免許をとるために専門学校に通っていることから、ネイルなどの装飾もしていない。髪の毛をまとめてエプロンを着ければそのまま作業に入れる。

「このままずっと手伝って欲しいくらいだ」

「おじさん、それ冗談になってないですよ」

 今や両家公認で恋人同士という立場なのだから、希望さえすれば今日からでもそのポジションは手に入れられる。

「菜都実、お待たせ」

 厨房用から私服に着替えた保紀が迎えにきた。

「じゃぁ、行ってきますね」

 荷物を後部座席に載せて、保紀の運転する車の助手席に座る。

「こっちで免許取ったんだ?」

「小さい島だけど、やっぱ無いとな。どこに行く?」

 菜都実を乗せて、これまで通ってきた中学や高校などを回りながら海岸線を走る。

 菜都実が以前にこの島を走ったことがあると聞いて、その先は好きなところに行くだけだった。

「どうする? あのビーチ行く?」

「うん、最後はそこにしようって思ってた」

 昨日は自分の案内でやってきた海岸。あの出来事が無ければ、横須賀の海岸でいつでもこうして二人並んで夕陽を見ることができたのかもしれない。

「あたし、妹がいなくなって、からっぽになっちゃったとき、やすの写真に救われた。ずっとお礼が言いたかったんだ。ありがとう」

「あのくらいしか出来なくて、菜都実の役に立てたか分からなくて。でも、菜都実がここまで一人で来ていたってのは驚いたな。寄ってくれてもよかったのに」

「ううん。あの時は横須賀から逃げてきたんだ。耐えられなくなって。本当に着の身着のまま。とてもやすに見てもらえるような姿じゃなかった。やすにも、あのみんなにもいつも心配とか迷惑かけて。でも、みんな泣けちゃうくらい優しくて。今日の服はさっきの茜音と一緒に買いに行ったの。『せっかく沖縄の海に行くんだから可愛くしようよ』って」

「うん、ほんと可愛いよ。久しぶりだからすごく新鮮」

「そっか、それならよかった」

 セーラー襟と縦に飾りボタンのついたロングTシャツに襟と同じマリンブルーのミニスカート。スニーカーでもいいように茜音がコーディネートしたものだ。今朝、ホテルの部屋で着替えたとき、同室の佳織も絶賛していた。

「菜都実、強くなったんだね」

「ここで一人大泣きした。よく通報されなかったよ。やすのこと1日だって忘れたこと無いし、近くにいるのも分かってたけど、そんなあたしがその時に行ったとしても、今回みたいな展開にはならなかったと思う」

 今回、みんなが協力してくれたのは、やはりそれぞれがきちんと高校までを卒業し、将来に向けて確かに歩んでいることを認めたからに他なら無い。

「待たせてごめんなさい。本当のこと言うと、空港に下りるまでは恐かった。本当に最後は当たって砕けちゃってもいいやって思ってたのに。昨日の夜は不意打ちされたなぁ」

 計画した茜音たち三人や両親はともかく、保紀まで知っていたとなれば、自分だけが全容を最後まで知らされずに連れてこられたことに気づく。最初から「保紀に会いに行く」とタイトルをつければ、きっと自分が計画段階から躊躇してまうことを心配した友人たちの配慮だと。

「本当に来るのか、どういう顔すればいいのか俺も分からなかったよ」

「それはあたしの方が焦ったよ。どのタイミングなんだろうと思っていたら、ドッキリじゃん。まぁ……、せっかくここまで来たからにはって覚悟は決めてたんだけどね」

 昨日は四人で座った海岸に今日は二人だけ。

 海岸に打ち寄せる波は静かな音で二人のことを出迎えてくれた。




「やす、あたし、また弱くなってきちゃったよ」

「どうして?」

 唐突な告白。新しい環境でもあの時のように誰かが追いつめているのか。

「ううん。そうじゃなくてね、昼間に公園を通るのが辛い……。あの子が無事に生まれてれば、もう3歳だよ……」

「菜都実……」

 毎月の月命日にはお参りに行っている菜都実。まして自分の胎内に短い時間だったとはいえ、親子としての時間を過ごしたのだ。

「嫌かもしれない。だから、これっきりでもいい。この写真見てあげて」

 誰にも渡したことがないたった一枚の写真。保紀は菜都実以外で唯一それを手にする資格があるのだから。

「パパだよ……」

「やす……」

「忘れられるわけない。菜都実と俺の子だよ。今はニライカナイにいるね」

「なぁにそれ?」

「こっちで伝わる理想郷のこと。方角で言えば本当は東の方なんだけど、こんな夕陽だ、きっと見に来てるよ。人はニライカナイから来て、この世での役目が終わると再びそこに帰って行く。そして時間をかけて家の守り神になるって考えがあるんだ。この子はきっとまたこの世界に遊びに来る。その時には、今度こそ俺たちのところに来てもらって、一緒に生きていきたい」

 こんな信仰を最初から持っていたわけではない。しかし、横須賀で菜都実が償いを続けていることを知った保紀は自身も何か出来ることはと寺院に相談したところ、その子のことを忘れずにいてあげることが何よりの供養であり、自身の元気を取り戻すように教えられたという。

「菜都実、俺たちはこの子を忘れることはない。でも、先に進まなくちゃならない。もう一度、二人でやり直さないか?」

「やす、それって……」


 涙の筋をつけたまま、保紀を見上げる菜都実。

「いいの? こんなあたしで本当にいいの? こっちにいい子いないの?」

「大丈夫。昨日あんな紙もらっちゃったけど、今度はちゃんと菜都実と一歩一歩やっていきたいんだ」

 こちらに来てからも、誰とも浮いた話はないように気をつけてきた。

 小さな島だ。異性と歩いていただけでも話題になってしまいかねない。

 今回、菜都実を乗せて自分の(ゆかり)の場所を回ったことは、もしかすればもう学生時代の同級生の一部には知れているかもしれない。

 それでも、再び自分を訪ねてくれた菜都実を見捨てることは出来ない。あの当時と同じだ。元気そうにみせてはいるが、内面の傷が治りきっていない。こんな菜都実を泣かせたまま帰すわけにいかない。そして、一緒の空間にいた数時間だけで、保紀にも他の同級生の時とは違う安心感を覚えた。

「うん……」

「それとも、菜都実にはもう誰かいるの?」

「ううん。いないよ。あたしにはやすしかいない。こんなボロボロのあたしでもよかったら、手放さないで……。もう寂しいのは嫌だよ」

 もう隠す必要もない。たった一人、菜都実が体も心の全てを許せた人だから。

 若すぎた時の傷はあるけど、自分たち二人なら支え合って生きていける。

「分かった。菜都実は俺がもらう。約束したからな」

「うん。あたしこそ、よろしく」

 二人の陰が一つに溶け合ったとき、事の顛末を見届けた太陽は最後の光を放って海に溶けた。




 辺りが暗くなっていくなか、お互いの存在を求め合う。4年ぶりの吐息を逃がすまいと両腕を背中に回した。

「ねぇ……、やすはあのあと、誰とも付き合わなかったの?」

「できなかったよ。菜都実は?」

「あたしは、もともと白い目で見られてたり、噂もいろいろ流されちゃったし。そんなのに手を出してくる男子はゼロ。本当にあたしに声がけしてくれたのは、佳織だけだった。自分だってターゲットにされちゃうかもしれないのに。茜音もそう。嫌われてもいい覚悟で話したのに、逆にあたしが励まされちゃって。この旅行、あたしが大泣きしてもいいようにって、茜音の人選だよ。あの二人はあたしの特別。男子はいないよ」

 高校、そして専門学校と進むにつれて、どうしても年頃の女の子たちの中では色恋沙汰の話が飛び交う。

「そうだったんだ。その間、ありがとうともごめんって言うことも出来なかったけど」

「そんなのいい。でも嬉しい。結局あれから一度も、誰ともない。やす意外に考えられなくて……」

 中学での噂や、彼女の性格から連想されてしまいがちな男性向けのイメージとは全く逆で、『難攻不落』と言われ続けた茜音にも匹敵する信念の持ち主であることは、ほとんど知られていない。

「だから……、いいよ……。4年ぶり」

「菜都実……?」

「やすだって、想像はしてたんでしょ?」

 そんな菜都実の髪をくしゃくしゃにすると、再び車に戻った。


「どうするの? おうちに戻る?」

「家じゃなぁ……」

 宮古島に戻って、普段暮らしている平良(ひらら)地区を離れる。

 空港近くのビジネスホテルに部屋を取る。

「大丈夫? こんなことして?」

「もう学生じゃないんだし。俺にも彼女いますって言ってもいいさ。いくら狭いって言ったって、全員が顔見知りってわけじゃない」

 途中のスーパーで買ってきた弁当で夕食にする。

「やっぱり、あの食事一回食べたらダメだぁ」

「比較する方が間違ってるだろう」

 笑って流しても、それは保紀にとって最高のほめ言葉になる。

「やすがどういう将来を持っているのかまだ聞いてないけど、たまにはああいうご飯作ってくれたらいいなぁ」

「毎日でも頑張るさ。先にシャワー浴びてきちゃいなよ」

 その意味に気づいた菜都実はにっこり頷いてバスルームに消えた。



「ねぇやす……」

「うん?」

 室内はもう暗い。3階の部屋のカーテンは半開きだが、そもそも周辺に高い建物がない上、室内が暗いので外から見られる心配もない。遠くの方に空港の明かりと時々通る車のライトが見えるだけだ。

「あたしたち、どこからやり直す?」

「そうだな。メールで友だちからってわけにはいかないよな」

「そうだよね。どこがいいんだろう……」

 ベッドに入っている自分たち、シャワーあがりで着ていたバスローブでベッドに身を寄せている。

 お互いの体温が感じられて、すでに泣きそうになっている。比較したこともないけど、他の人ではダメなんだと。

「菜都実は後悔しない?」

「するわけない。あたしはやすのものって、ずっと決めてきた。みんなに迷惑もたくさんかけたけど、そんな人たちが許してくれるのなら、このまま進めていきたい。あの子のためにも……」

 そのために毎月のお参りを欠かさなかった。いつかは菜都実にも子供を授かることに周囲が祝福してくれる時が来ると。空に帰った命が再び自分に戻ってきてくれること。そして、今度も父親は保紀であってほしい。

 そんなことを毎月の墓前で語り続けてきた。次こそは自分の腕で抱きしめてあげたい。だから……、パパとママの準備ができたら降りておいでと。

「そうだな。そのために頑張ったんだもんな」

 横須賀を離れる直前、二人で小さな白木の箱を持ってお寺に行った。中には真綿だけしか入っていない。それでも泣きながら事情を話した菜都実に住職は何度も頷いて丁寧に炊き上げてくれ、墓碑も手続きをしてくれた。そんな過去の情景が脳裏に流れる。

「うん。あそこに戻そう。やすがあたしを教室で助けてくれた日。あそこからやり直そう?」

 あの夕陽に照らされた教室の時と同じ。保紀が菜都実の涙を唇で吸い取った。

「俺もあれっきり。下手って言うなよ?」

「あたしだって同じ。そんなこと言わない!」

 またあの日に戻って、今度こそみんなに認めてもらえるように。

「入籍するまではもう少しかかると思うけど……」

「それでいいよ。あの紙にあたしの名前書いて帰るから預かっていてね。出すときは二人で出そうね」

「俺の予約伝票だな」

 笑いながら保紀の準備をするのがあの4年前とは違う。もう失敗したくない。焦らず一歩一歩進んでいくために必要なこと。

「菜都実……、ずっと会いたかった……」

「やす、おかえりなさい……」

 彼の背中に両腕を回し、菜都実は耳元でささやいた。




 菜都実にメモを書いてもらった地図を頼りに、昨日訪れた下地島に再び渡る。

 南側を回った昨日と違うのは、道を途中で折れて島の北側に向かうように指示されている。

 ナビゲーションの画面に従いながら車を走らせると、正面にフェンスが見える。

「行っていいのこれ?」

「うん、メモには右に曲がってフェンス沿いに進むって」

 遠浅の海岸を右に見ながら、指示通りに突端まで進めた。

「へぇ、すごぉい!」

 下地島、この名前を聞いてピンと来る人にはいくつかの共通点があり、一つはダイビングスポットとして非常に有名なこと。もう一つには、下地島空港がある。定期便も少ないこの空港はパイロット養成の訓練空港としての顔も持っている。

 海の上に張り出した北側からの着陸シーンは、真っ青な海からの反射もあって、非日常な迫力を味わうことが出来る。

 その分、音もそれなりにするのだけど、周囲が海であり音が反響しないこと、そもそも飛行機を見に来ている者にとっては気にならないものなのかもしれない。

 茜音たちの真上を通過して着陸してすぐに飛び上がる、タッチアンドゴーの訓練は、あっという間に引き込まれてしまう魅力があった。

「なんか、菜都実がこの島を気に入っているのがわかる気がするなぁ」

 なんでもっと早くに知らなかったのだろうと思わずにはいられなかった。

 茜音もいつもの笑顔とは裏の、誰にも顔を見られたくないときもある。

 一人になりたいとき、茜音もよく海を見に出る。地元の横須賀だけでなく、江ノ島や鎌倉、城ヶ島にも何度も足を運んだ。

 しかし、近所の海はみな観光地ばかりで、物想いに浸りたいときに一人になることが出来ない。

 この島なら、訓練のときはそれなりに見学者がいる場所も、終わってしまえば波音だけの静かな海岸線に戻る。

 それを証明するように、二人が到着して30分もすると見学者もいなくなり、周囲は再び静寂を取り戻した。

「ねぇ健ちゃん……」

 コンクリートの防波堤の上に並んで座る。今日はもう訓練もないのだろう。

 エンジンの音が消えて、人気も見えなくなった。茜音が何度でも見たいと言っていた夕焼けの時間に差し掛かっている。

「なに?」

「本当にごめんね。せっかくのお休みを、私のわがままで疲れさせちゃって。ごめんなさい」

「そんなことかぁ。茜音ちゃん、未来に言ってたじゃん。二人の時間があればどこでもって。僕も同じ。一緒に旅行が出来て嬉しいよ」

 昼間は珠実園での仕事をして夜は夜間高校に通いながら、共同生活をしている健。

 茜音も自分の生家から学校に通いながら、少しずつ片づけを行っている。

 健が夜学を来年卒業することで、一区切りをつけようと徐々に準備を進めている。そのために、茜音が買い揃えるものはペア物も多くなった。

 同時に漠然とした不安もある。

「本当はね、そろそろ就職活動の準備も始めなくちゃって思っていたりもするけど。わたしに本当にできるのか不安だし。誰かの役にたてるのか。必要としてくれる人がいるのか。もし、本当に就職先を珠実園にするって決めたって、ちゃんと試験は受けないとだし」

 いつまでも学生時代ではいられない。

 大人になって健と二人、支え合って生きていこう。幼い頃から描いてきたロードマップももうすぐ一つの転換期を迎える。

 遠くにあったはずのゴールがもう手の届きそうなところまで来ている。その一方で自分の用意が出来ていないのではないか。そして、その準備をするにはどうすればいいのか。

「茜音ちゃん……」

 背中側から両腕で抱き抱え、上半身の力が抜けた彼女の重みを受け止める。

「健ちゃん、わたしは、健ちゃんに認めてもらえるのかな? もしかしたら、不合格なのかもしれないのに、優しいから……」

「この旅行で、佳織さんと菜都実さんから同じ事を言われたんだ。茜音ちゃんを助けてあげるようにって」

「もぉ、そんなことないのに……」

 うつむいた茜音の顔は見たことがないほど何かに怯えているようだった。




「……健ちゃん……。ちょっと昔の独り言を言ってもいい? 聞きたくなかったら聞かなくていいし。感想なんていらないから」

「わかった」

 夕日に照らされながら、目をつぶる。ぎゅっと握った拳からも、辛い回想を引き出していることがわかる。

「わたしが、ときわ園を出たあとのことはもういろいろ聞いていると思うの。小学校、中学校、高校も本当にたくさん。人に言えない、今も誰も知らないこともたくさんあった……」

 独り言だと言っているけれど、もちろん健は聞いている。施設を出て片岡家の一員として新しい人生を踏み出せたはずの茜音。けれど、それは書類上の話だった。

 彼女は大勢の犠牲者が出た航空機事故で奇跡的に生き延びた生存者。しかしながら、その陰には両親やその他の犠牲もあった。

 報道では犠牲者や遺族の事が大きく取り上げられ、生還した茜音たちには励ましと同時に心無い言葉もたくさん届いた。

 茜音自身、これまでの人生で一時だって忘れてはいない。一人娘を守るために命を落とした両親との幼い別れは、決して消えることがない彼女の心の傷だ。

 笑顔や言葉すら失った彼女を周囲の懸命な努力で立ち上がらせたところに、心ない矢が再び突き刺さった。

 どうしても当初遅れてしまった勉強の面。周囲の親からの声、それは自然に子供たちにも伝わる。茜音の事実がどこからか知れるとあっという間に広がった。

 以前の学校のように施設からの子供たちを受け入れていないところでは、その対策も十分にされておらず、両親がいないことを言われ続けた。性格的にも他人を攻撃することが出来ない彼女は必然的にいじめの対象になった。

「小学校はまだよかった。言葉で言われていただけだったし、仲間外れになっても一人になるだけ。そんなのは平気だった。中学からの方がね……」

 最初に入学した公立の中学校は、小学校からの持ち上がりも多数いた。その頃には学業や生活のハンデも克服していたのだが、結局環境は変わらなかった。登校も辛くなり、最終的には私立に転校となった。

「中学は受験もあるし、あと、いろいろ体の変化もあるから、みんな不安定だよね。それに、やっぱり恋愛だって始まってくるし。不安は他の人に向けた方が発散できるって言うもんね。仕方ないよ、わたしは何も言っていなかったし」

 振り返ってみると、茜音が正式に自身の過去を発表したのは高校2年生の冬になる。それまでにも、彼女の事情を知っているかに関係なく、交際を申し込まれたことは何度もあった。

 申し訳なく思いつつも、それらに応えることは出来ない日々。それが次第に別の方に発展してしまう。

「『片岡茜音を誰が最初に手に入れるのか』って言われていたこともあったんだよ……」

「ひどい……! そんなこと……。茜音ちゃんになんてことを……!」

 健の声が怒りに震えている。彼には絶対に許し難い話だった。

 そんな茜音の気持ちなど考えない馬鹿げたレースが始まってからと言うもの、それまで茜音に興味がそれほど無かった層からも声が掛かるようになった……。