保紀が菜都実を抱きしめながら聞く。
「なんか、胸きつそうになってない?」
「う、うん……。ちょっとね」
さっき服の上から手を当てた膨らみ。アスリートでもある菜都実にとって、この年になって少しずつ大人の女性としての体格になっていく象徴は嬉しい反面、困ってしまうことでもある。
部活の時はわざと締め付けの強いスポーツタイプを着けている。それを加味していても、だんだん胸元が窮屈になっているように見えた。
制服の下に着ける下着でさえ、少し小さく見えるデザインを選んでいるという。
仲の良い間柄なら、それほど気にする必要もないだろうが、菜都実のようにターゲットにされてしまうと、本人の意思ではどうしようもない事にさえ気を使わなくてはならないのかと、男子から見たら呆れてしまうこともある。
「気にしなくていいのに。まったく女子は分からねぇ」
そう、途中までは何度も経験してきたし、お互いを軽蔑することもない。親が留守の時に服を脱いで水着に生着替えしたこともある。
しかし、今日の保紀は違っていた。
大切な菜都実をあれだけ傷つけられていることを知って、何も出来ないことを自分で許せなかった。
菜都実も分かっている。こんな一時の快楽を得ることで事態が収まるわけでも問題が解決することもない。
それでも、今は保紀との繋がりが欲しかった。
「菜都実……。いいか……?」
保紀の声が緊張で掠れている。
「やす……。あたしでいいの?」
「菜都実しか考えられないんだ。俺も変になってるかもしれない。菜都実のことだから」
いつかは、その日が来るかもと思っていた。逆に心の中まで見透かされている彼になら。自分の全てを捧げてもいいかもしれない。
「やす、あたしね……、本当に初めてだから、きっと下手だよ? それで嫌われない……?」
「俺も初めてだ。菜都実と同じだ」
「うん……」
外の陽もすっかり落ちて月が出ていた。その月明かりと街の灯が微かに差し込んでくる教室。
菜都実は彼に頷いた。
「情けないあたしでごめんね……」
「……最後に聞くぞ。本当にいいのか?」
「うん、やすはあたしを助けるためにしてくれるんだもん。いいよ」
菜都実は潤んだ目で彼を見上げて頷いた。
「ね? 無茶苦茶な話でしょ?」
「凄いけど……、でも菜都実のことちゃんと思ってくれてたんだもん。良い悪いの判断はわたしに言える資格はないよ……」
もちろん、まだ中学生の行為としては一般的に褒められた話ではないし、互いの同意があったとしても結果に責任が持てる状況にはない。
ただ、この話を聞いているのは茜音だ。彼女には普通では考えられないことへの免疫ができている。
「結局さぁ、そのときはやすに抱かれて、初めてだからどうのとかより、そっちのうれしさの方が勝っちゃって。後先を考えなかったんだ」
「でも、保紀君は菜都実のことをそれで助けてくれたんでしょ?」
茜音はすっかり冷たくなった缶からコーヒーをすすった。
「うん。もう悔しくてさ。情けない話だけど。でも、続きの方がもっとあたしには堪えたの……」
菜都実は苦笑いして、視線を遠くに飛ばした。
「そのあとしばらくしてさぁ、あたし具合が悪くなって、貧血で倒れたんだ……」
「うん……」
言葉と同じように、菜都実の表情から力が抜けていた。
保健室に運ばれた菜都実は、すでに気を取り戻していた。
「今日はどうする? ずいぶんひどい貧血みたいだけど。もう5限目だし、帰ってゆっくり休んだ方が良くない?」
「そうします」
保健の先生に言われ、菜都実もそれを素直に受け入れることにした。
ただし、菜都実は真っ直ぐには家に帰らなかった。
「おじさん……。今日病院はお休みだよね……?」
学校が見えなくなったところの公衆電話で、菜都実は叔父に電話をかけた。彼は隣の市内で内科と婦人科を営んでおり、菜都実もよくそこに世話になっている。
「お休みの日でしかお願いできないことがあるんだけど……」
話が終わると、菜都実はそのままバスに乗って病院に向かった。
その医院は休診日だったけれど、念のため外来の建物には立ち入り出来ないようにしてくれていた。
誰もいない診察室で、菜都実は心細そうに落ち着きなく座っている。
「菜都実ちゃん」
白衣姿ではなく、普段着で結果の出た用紙を何枚か持ってきた彼は、菜都実の前に座った。
「うん……」
「菜都実ちゃん、分かっていたのかな?」
「うん……」
菜都実がうなずくのを見て、彼は一応事務的に結果を告げた。
「一応事務的にお話しするな。結果は想像どおり陽性。まだ初期だが、君の中にはもう一人の命がいるんだ」
「はい……」
「相手の人は分かってるのかい?」
「うん……。幼なじみだよ」
「そうか……。それじゃぁちょっと厳しいな……。学校とかにも言えないだろ?」
「うん……。許されないと思うけど……」
「ま、そこはどうにかしよう。でも、ちゃんと家族と彼には言っておいた方がいいだろう?」
黙って頷くしかない。
「今日はもう遅いから送っていくよ。弟たちにも一緒に言ってあげる」
「うん……」
表から見えないように、通用口から菜都実を表に出し、彼は菜都実を助手席に乗せて発進した。
「どうした。やっぱり怖いか?」
「ううん、そうじゃない。怖くなんかないよ。でも……」
「でもどうした?」
外は雨が降り出していて、制服で乗っている菜都実を気にするような人はいない。
「助けてくれたはずなのに、あたし結局やすに迷惑しかかけられない。やすとの結果だもん。本当はすごく嬉しい。でも結局あたしは……」
この結果は、保紀が自分を助けるために行ってくれたことの代償だ。自分も同意したのだから、彼に責任を押し付けるつもりなど最初からない……。
それでも、周囲はそう思ってくれないだろう……。助けてくれた彼が一方的に責任を追及されることは耐えられない……。でも、自分に何ができるのか……。
「ちょっと早すぎたんだな。これがあと5年ぐらい後だったら、誰もがこの結果に喜んであげられるんだけどな」
「そうだよね……」
車は菜都実の家に到着する。叔父は菜都実と一緒に店に入り、弟である菜都実の父親に耳打ちする。
マスターは店を臨時休業にすると、緊急家族会議となった。
「なんてことを……。一応聞いておくけどな、相手は保紀君か?」
「うん……」
父親に言われ、菜都実は顔を上げられなかった。
「これが3年先でおまえが18歳になっていれば、喜んで嫁に出してやるんだが。まだ……、そうもいかないか……」
そこに話を聞きつけて、保紀が家族と一緒に駆けつけてきた。
「菜都実!」
「ううん。あたしが悪いんだから。あたしがお願いしたんだもん」
さすがにまだ早すぎる行為の結果だとして、二人ともみっちり怒られてその日は解放された。
「兄貴、迷惑かけてすまない……」
その場で話し合いが行われた結果、やむを得ないが二人の将来を考えたうえで、菜都実の体をそのままには出来ないということも決まり、事態は内密に収める方向性で話がまとまった。
「そんなことになったんだぁ……」
「よく、両方の親がそれで許したわね?」
茜音と佳織の感想も妙だが、それが二人の素直な感想だった。
茜音が過去にお世話になっていた福祉施設や、その彼である松永健が働きながら生活を送っている珠実園にいる子たちの中には、そのような状況で誰にも相談できずに生まれ、肉親が育てられずに施設に預けられたという境遇の子もいる。
「まぁ、そこで大喧嘩してもなんにも解決にならないって、みんな分かってたのよね。病院だってたまたま身内だし。学校には体調不良ってことの診断書を書いてもらって、しばらくは運動も自粛。おかげで大会のメンバーからも外されちゃった。大会に出れば内定が確定した高校の推薦も取り消しになった……。でも、仕方なかったよ……」
「そんなぁ……」
そのときの菜都実の気持ちを考えると、茜音もやりきれない思いで染まる。
「でさぁ、さすがあたしの子供だよね。決着の付け方まで親とそっくりだったんだ」
「そうだったの?」
「次の休診日の前の夜、入院したのはいいんだけど……。直後に大出血してさ……。あたし病院のトイレで倒れちゃって。で、目が覚めたときに言われたのよ。終わったよって」
そのときの菜都実と同じように、きょとんとした茜音に、菜都実は続けた。
「あの子、自分で出て行ったの。あたしに迷惑かけないようにって……。とんだ親子だよね。結局お別れも言えなかった……」
そのあと、菜都実は部活に復帰することもなく引退。夏休みを迎えた。
「でね、そのあとやすが突然引っ越すことになっちゃってさ」
「えー?」
「まぁ、理由は話してくれなかったけど、間違いなく責任をとってのことだろうけどね。そんな責任なんてとる必要なかったのに」
「うん……」
「でも、やすは決心してたみたい。あとで両親が話してるのを聞いちゃって……。うちらがちゃんと責任を取れるくらいの歳になるまでは、あたしの前に現れないようにするって」
「それは辛いわね……」
佳織も顔をしかめる。
恋人付き合い初心者である佳織自身にまだ別れの経験はないけれど、保紀と菜都実は時期が早すぎたとは言え、お互いの気持ちを確かめ合った関係だと理解している。
それだけ心が通じているのに、会わないと決断するだけでも相当の覚悟だっただろう。
「だからね。お互いとあの子のことを忘れないようにって、あのお地蔵さまを二人でお願いしに行って建てたの。もう二度とあんな悲しい思いをしちゃいけない。それを忘れないようにって」
「それから会ってないの?」
「うん……。やすの決意どおり結局一度も」
「そっかぁ……。それは寂しいよね……」
菜都実の気持ちも茜音が一番理解できる。本当はずっと一緒にいたい二人が、理由や事情はともかく離ればなれにならなければならない状況は身をもって経験しているから。
そう、そして二人とも頭の中にはあるのだ。
今はもう「早すぎる過ち」の心配は要らない歳になっているのだということを……。
菜都実は、辛気くさくなってしまった空気を振り払うように続けた。
「でも、そのあとに佳織が声をかけてくれたんだ。ちゃんと覚えてるよ。あたしとやすのことは学校中で噂になっていてね。でも佳織はそのことは一切触れないでいてくれた。おかげで、あたしも元に戻れたって言うかな。高校もダメかなって思ってたんだけど、佳織が一緒に教えてくれて、合格できて、高校では茜音にも会えた。だからあたしは大丈夫」
一見、三人の中で一番悩みがなさそうだった菜都実。妹を失うという悲しみを経験する前から、彼女自信が命の十字架を背負っていたということに、茜音は衝撃を抑えることが出来なかった。
「茜音、佳織も……、あたしのこと軽蔑するならしていいよ。みんないろんな噂だけでも離れていったし。でも、二人にはちゃんと話しておく必要があるかなって。あたしたちみたいになっちゃいけないって」
「ううん……。頑張ったね。偉いよ菜都実はぁ」
茜音は菜都実の手を自分の両手で包み込んだ。
「どんなことがあっても、菜都実は立派なお母さんだよ。そりゃね、確かにちょっと早すぎたと思う。でも、今でもちゃんと覚えていてお参りしているんだもん。すごいよ。わたしはそんな菜都実を尊敬しちゃうよ」
「菜都実、辛かったでしょう……。話してくれてありがとう。私はその事が嬉しい。来月から行く日を教えて? また三人で行こうよ。お母さんはまた会える日を楽しみにしているって教えてあげなくちゃ」
二人はそんなことくらいでは動じたり離れていかない。菜都実が償いを今も続けていることは、失った命に対する責任をとっている証しなのだから。そんな友人を独りにしない。
「二人とも……。ありがと……」
空いている方の手で目のあたりをこすり、口調をいつものように戻して続けた。
「でもさ、茜音みたいに連絡が取れない訳じゃないんだ。ちゃんと年賀状とか誕生日とかには手紙くれるし。あたしもそれに返してるし」
「え? そうなんだぁ。じゃぁ行方不明って訳じゃないんだ?」
「うん。でも、実際に会うとなるとまだダメ。何となくだけどさ」
「そっかぁ。でも、いつまでもそのままでいいわけじゃないよね」
「まぁね。なんか、二人の前で泣いたらすっきりした。ありがとね」
「お役に立てたかなぁ? 逆に傷口を無理やり開くようなことを聞いちゃった気がするんだけど……」
「だいじょーぶだいじょーぶ。今日は本当にゴメンね。学校が始まってもお店で待ってるからさ」
「う、うん」
「じゃぁ、また次のバイトの時間によろしくー」
そういって菜都実は二人に手を振って信号を渡っていった。
残った二人は菜都実を見送った後もその間を動けずに考えていた。
「うーん。きっかけがないんだねぇ」
最初に口火を切ったのは茜音だ。
「そうだね。なんか話を聞いている感じでは二人とも仲が悪いって訳ではなさそう」
「うん。そうだよぉ。嫌いになっちゃったら、連絡先を渡したり、手紙を送ったりはしないと思うんだよね」
二人とも意見は固まっている。
「なんとかしてあげたいなぁ……」
菜都実は強がっていても、今でもその保紀のことを思って寂しがっているし、逆も間違いなさそうだ。
ただ、こうなった原因が原因だけに、なかなか二人だけでは再会するタイミングが計れないだけのかもしれない。
「これは…、健ちゃんに相談かなぁ」
「なに、なんか考えたの?」
唐突に健の名前が出たので、佳織は尋ねる。
「うん……。まだ出来るかどうか分からないんだけどねぇ……」
「微妙な問題かもしれないから、あんまり急いで首を突っ込まない方がいいかもしれないわよ?」
「そうだよねぇ。いきなり飛び込んでもねぇ」
ことの重大さは茜音たちの時以上かもしれない。
それぞれの居場所が分かっていながら顔を合わせられないのであれば、二人の想像を超えるものがあるのかもしれないから。
「もう少しいろいろ状況を調べてから動いてみることにするよぉ」
「そうね。でも新学期始まるから、あんまり時間はないかもしれないわよ?」
再び商店街に引き返し、本来の買い物を済ませながら、来週に控えた入学式などの予定を思い出す。
「そうだけど、空いている時間はあるよぉ。佳織の方が忙しいと思うから、わたしと健ちゃんで相談してみるよぉ」
佳織と別れたあと、茜音は一人、菜都実の家でもある喫茶店ウィンディに向かった。
日もすっかり落ちた後で店の中の方が明るくなっているためか、道路の反対側に立っている茜音には店内から気づかない。
店の中でいつも通りに給仕の仕事をしている菜都実が見えた。
昼間にあれだけのことがあったにもかかわらず、その様子は微塵も感じられない。
「いつもあんなことしてたんだもんねぇ。それは辛いよぉ……」
茜音は菜都実が忙しそうなのを見届けると、店には寄らずそのまま家の方へ消えていった。
「もし、二人が会いたいと思っているなら、そろそろ頃合いじゃないかなぁ? 高校も終わったわけだし、菜都実は専門だから2年でしょ?」
その晩、横須賀の茜音の家では佳織と呼び出された健も集まって夜遅くまで話し込む姿があった。
「4年制大学に行っちゃうと、またそこで時間が空いちゃうからねぇ」
同じように2年で卒業となる短大に通う茜音もその作戦は理解できる。高校を出た時点で、茜音は自分の将来をほぼ決めていたからだ。
学校に通っているのは、それまでの時間で何か自分に出来ることを少しでも増やしておきたいという気持ちからと周囲も理解している。
菜都実が進路を専門学校にしたと聞いたときには少し驚いたが、彼女の事情を知った今ではそれは十分すぎるほど理解できた。
それだけではなく、菜都実は自分が健との再会のための旅を続ける上で、いなくてはならないほどの協力メンバーだった。
献身的なほどの二人の手助けがなければ、茜音の今はないと考えていたくらいだ。
今の茜音が出来ることと言えば、その恩返しだと常々考えていた。
「ちょうどいいんじゃないか? お互いの気持ちは今から確かめるしかないとしてさ。もし菜都実さんたちの気持ちが今でもそれを望んでいるなら、協力することはしても」
ずっと話を聞いていた健が、そこで言葉を発した。彼も茜音と同じで、今回の話を聞いたくらいで動ずることはない。
「まずは、その彼がいまどこにいるのか。そこからだな」
この発言は、彼の経験上からも軌道修正は十分に可能だと判断したからに他ならないのだから。
「マスター、秋田保紀くんてご存知ですか?」
翌日のウィンディでのアルバイト、店内にお客や菜都実のいない一瞬の隙をついて、茜音はマスターからその保紀の情報を引き出すことにした。
いろいろ聞き方を考えたけど、時間もないからズバリ正面からの強行突破だ。
「おぉ、彼か。茜音ちゃんからその名前を聞くとはなぁ。彼がどうしたんだい?」
マスターは最初にその名前を聞いたときは驚いた様子だったが、特に嫌っているわけではなさそうで、逆に懐かしそうな顔をしている。
「うん、菜都実に恩返しがしたいから」
マスターも茜音が菜都実や佳織にお礼をしたいといつも言っているのを知っているから、それ以上は茜音への質問をやめた。
どうやら茜音が菜都実の過去を知ったと察したこと。茜音や佳織がそのことを興味本位のネタにしようとしているのではなく、真剣に娘の傷を治そうとしてくれていることを理解すると、メモに走り書きをして渡してくれた。
「こんな遠くにいるんですね……。偉いよ菜都実……」
「まぁ、菜都実も彼もちょっと早まりすぎただけなんだよな。二人とも悪気はなかったわけだし、もう今なら問題ない歳になった。あの報告が今だったら、みんなでお祝いなんだがなぁ……」
これだけ長く世話になっているマスターからも、保紀に対する敵意などは感じられない。
「茜音ちゃんや佳織ちゃんたちが動くのであれば、こちらも用意したいものがあるから、菜都実には内緒で日程を教えてくれないか……?」
本当に時期を間違えたことだけの無念さだけしか茜音には感じられなかった。
「分かりました。佳織とも話は合わせておきます」
「でも、この住所だとなかなか会いに行くのは大変だねぇ」
メモに書かれた住所は、これまで茜音が旅をしていた地域とはかけ離れている。飛行機ですら1本では行くことが難しい。
「すぐに行くってわけにはいかないねぇ」
菜都実には内緒で動くために、ウィンディでの仕事の後に茜音の部屋に集まる三人。
「遠いなぁ。でも、やると決めたらやるんでしょ?」
「やるしかないよね」
数日後、佳織は茜音に計画を伝えた。
「ゴールデンウィークで飛行機取れるかな?」
「このまま夏休みまで待つより、やれるだけやってみるしかないでしょ。最悪は船になるかも知れないけど構わない?」
自分の旅の時に、全国の交通機関を駆使して計画を組んでくれた佳織。どんな難しい場所でも彼女にかかればどうにかしてしまう。
「あとは二人の気持ち次第だね……」
新しい学校が始まったあとも、三人は時間を見つけては準備を進めていた。
「茜音、飛行機と宿の用意できたから。あとは段取りよろしくね」
「うん。わかった。あとは行って確かめるしかないね」
それを佳織と二人でマスターに伝えると、苦笑している。
「やっぱり、佳織ちゃんには敵わないな。将来は旅行会社にでも就職した方がいいんじゃないかい?」
そこで、出発前に渡したいものがあるから、タイミングをみて寄って欲しいと真剣な顔で教えてくれた。
「茜音ちゃんの言ったとおりだったな。菜都実のことは二人に任せるよ」
「分かりました」
茜音が前年夏の「10年の約束の日」に書き置きを残してまで単独行動を強行したとき、佳織が「必ず無事に連れて帰る」と、彼女の両親を説得したことを聞いていたから。
ゴールデンウィークのウィンディはマスターが一人で乗り切らせなければならなくなったけれど、その時の顔はお店のマスターとしてではなく、「菜都実の父親」そのものだったと後で気づくことになった。
「しっかし、茜音が沖縄に行きたいというとは思わなかったなぁ」
「だって、まだ一度も行ったことないし。わたしだって行きたいところはあるんだよぉ」
ゴールデンウィークでごった返す羽田空港。朝早くに集合したのは、茜音たち三人に健を加えたメンバーだった。
「それにしたって、四人でってのは予想外だったし? 健君と二人で行けば良かったのに?」
「だって、なんか卒業旅行もバタバタしててできなかったし……。佳織には悪かったよね。原田君には……」
佳織にも今は1つ年下の彼氏がいる。本当はその彼の分も構わないとしてあったのだけど、
「ほら、今年は受験生だし。終わったらどこでも連れてくからって。今回はお土産買って帰ることで許してもらったわよ」
「そっかぁ。佳織も厳しいなぁ」
急なスケジュールだったこともあって、全員が固まりに席が取れなかったと佳織は謝っていたけど、飛行機で行けるだけありがたいと茜音は思っていた。
「なんか……、運転手お願いしちゃってごめんねぇ」
今回の行程では、佳織の下調べの結果でも、公共交通機関だけでは不測の事態に十分な足が確保できないと言うことも予想されたことから、健がドライバーとしてアサインされている。
「それは構わないけど、2泊3日で行くにはちょっと忙しいかも」
「うん。でも仕方ないよ。それしか取れなかったし」
やはりゴールデンウイークでは限られたスケジュールの中で組み立てるしかなかったけど、茜音はそれでも決行することにしていた。
「乗り継ぎとか席が悪いけど許してちょうだい」
「いいよ。あんなに突然だったのに、なんとかなったんだし」
佳織としては、飛行機の座席をまとまって取れなかったことを詫びていたが、全員が同じ便で行けるだけよしとしていた。
「でも、結局むこうでどうなるかは分かんないんだよね」
「うん……。みんなは大丈夫だろうとは言ってくれているけどね」
佳織の計らいで、並びの席にしてもらった茜音と健。言葉や服装とは裏腹に、バカンス旅行という雰囲気ではなく、どこか重要な会議にでも行くような気分だ。
途中、化粧室に立ったときにちらりと見た菜都実の表情もやはり固く緊張しているように見えた。
羽田空港から沖縄・那覇空港まで3時間。そこから乗り換えを挟んで宮古空港まで1時間。直行便ならば現地でも十分な時間がとれるけれど、朝6時半のフライトではそれこそ前泊が必要になってしまうから、離島への旅のハードルを上げてしまう。
窓際でなかったので、健と話しながら時間をつぶして、経由地の那覇空港に降り立つ。
「ついに沖縄まで来たぁ」
「そっかぁ、茜音でも初めてか」
飛行機から出たその瞬間に空気が違う。強い日差しに照らされている景色が、飛行機の機内で薄暗さに慣れた目には厳しいくらいだ。
空港のコンコースに南国の花が飾られていて、構内に流れるBGMも三線を使っている独特の音色の曲と気がつけば、やはり自分たちの普段の生活圏とは違うことを実感する。
乗り換え時間があるが、預けた荷物はそのまま目的地に向かってくれるので、昼食を調達に佳織と健が行き、茜音と菜都実が待合いロビーに残った。
「ねぇ茜音……」
「はぃ?」
隣でSNSの日記を更新し始めた親友に声をかける。
「ごめんね……。宮古島……、遠いよね……」
「でも、行きたかったから平気だよぉ。学校で言ったら、みんな羨ましがってたし」
場所は決まっても、そこに何があるかまでの詳細は分かっていなかったので、以前のようにネットで調べたり学校の友人に聞いてみた。結果的に茜音自身でも十分に楽しめそうだという感触を持って乗り込むことにしたのだが。
「なんかさぁ、人選まで気を使ってもらっちゃったみたいでね」
そう、単なる観光旅行であるなら、もっと一緒に行きたいメンバーはいくらでもいる。
珠実園で共同生活を送りながらも、茜音の妹分として家族にも認められている田中未来《みく》や、佳織の交際相手の存在もある。普通の旅行ならみんな一緒にしても構わないほどの信頼関係は構築している。
しかし、今回はそうではない。現地の足として唯一車を運転できる健を加えてはいるが、この旅は茜音が全国を走り回ったあの1年間の続きとして企画されていることだ。今回の旅費を彼女が全て出していることからもわかる。
菜都実とて、行き先を告げられたときに、発生するかもしれない事態については十分想像できた。
だからこそ、茜音は何が起きても大丈夫な、絶対の信頼を置くメンバーだけに絞った。
「きっと、大丈夫だよ」
「だといいな……。でも、アポもなんもしていないのよ?」
「住所が分かっていれば十分だよぉ」
「本当に、どうなるか分からないよ?」
「うん……。きっと大丈夫。お父さんからの伝言。『元気になって帰ってきなさい』って」
ゴールデンウイークを菜都実たち不在でこなさなければならないマスターも、娘から連休中の留守について何度も聞いたけれど、「せっかくだから楽しんでこい」と今回の旅行を了承してくれた。
「まったく……、あたしみんなに迷惑ばっかり。借りも作っちゃうなぁ」
「借りなら、わたしだっていっぱいあるよ。だから、頑張らなくちゃって思うんだ」
「ごめんね。どうなるか結果も保証できないのに」
「ううん。菜都実のそばにいたいから」
それは、いつか茜音が同じことを発したときの佳織の答えだ。
嬉しいときは一緒に飛び上がって喜べばいい。押しつぶされてしまいそうな悲しみの時だって、三人なら何とか堪えられる。そのためには、いつもこのメンバーでなければならないと。
「あ、そうそう。これもう渡しておくね」
手荷物にしてきた、茜音のショルダーバックから封筒を取り出して菜都実に渡す。
「これ……」
思わず口を押さえる。菜都実と保紀二人へと書かれている手紙。
「今は開けちゃだめ。二人で開けて欲しいって預かってきたよ。わたしはそのタイミングにはいないと思うから」
「もぉ……、みんなしてあたしのこと泣かせたがってる?」
時遅く、買い物に出ていた二人も戻ってきてしまう。
「菜都実……、大丈夫だって」
「もぉ……、あたし、なんて友達に恵まれたんだろう……」
いつも元気を取り柄とし、大切な妹を亡くしたときでさえ、表では気丈に振る舞っていた菜都実が、例外として涙を見せられるメンバーに絞った茜音の意向に佳織も異存はなかった。
「もう、着いちゃうんだね」
健に茜音の隣席を替わってもらい、窓から午後の海を見下ろしながらつぶやく。
そんな菜都実の手が柔らかい両手で包まれる。
「茜音……?」
「わたしもそうだった……。去年の夏……。一人で夜のバスに乗って、確約なんかない約束のために。帰りがどうなるかなんて考えてもいなかった……」
高校3年生の7月。同行するメンバーの申し出を振り切ったかのように一人で出発した。
周囲を慌てさせたのは、それ自体よりも残してきた手紙の方で、うまく行かなかったときにはたとえ帰らなくても探さないで欲しいという内容の方だ。
「あのときはそれしか答えが思い浮かばなかった。みんなに心配とか迷惑かけたことも分かってる。でも、行くことで結果を確かめるしかなかったの。もう進むことも戻ることもできなかった」
「たぶん、茜音が一番分かるのかな。一番近くにいてくれるのが、茜音でよかったよ」
菜都実はそれ以上言葉を発しなかったし、茜音もそれきり黙ったまま。それでも飛行機を降りるまでつないだ手を離さなかった。
宮古島空港に着いて、レンタカーの手続きに事務所へ移動する。
「さて、せっかく来たんだし、一回りしてみますか」
「写真にあったビーチ行ってみたいなぁ」
「砂山ビーチでしょ? ナビ出る?」
もう一度空港の方に戻り、さらに北上。市街地を抜けてしまうと、サトウキビやパイナップルなどの畑が広がる。同じような景色が続くので、意識していないとどのくらい進んだのか分からなくなってしまいそうだ。
それでも近場になると「砂山」と書かれた案内板もある。ほどなくして駐車場に車を停めた。
「ちゃんとサンダル履いていきな。裸足だと痛いし傷だらけになっちゃうよ」
出発の直前、菜都実からそんなメールが入っていたことを思い出す。
数百メートルの坂を上り、切り通しから海が見えると自然と足は早まった。
「きれいだねぇ」
吸い込まれるように波打ち際まで走っていく。
真っ白な海岸線の浜に宮古ブルーとも呼ばれるコントラストは見事だ。
宮古島は石灰質の土台の上に珊瑚礁ができ、それらが隆起して生まれた島だと言われている。そのためか高い山がないので雲ができず、空は抜けるように青い。また同じ理由で降った雨がすぐに地面に染み込んでしまうため大きな川がないことから、この島の周辺の海は濁りがない。
珊瑚のかけらが細かくなった砂浜は真っ白だが、裸足で歩くには少々痛い。
波が時間をかけて浸食したこの浜にあるトンネルは島の名所としてもガイドブックにもよく登場する。
「この海を見るだけでも来てよかったって思っちゃうなぁ」
「うん。なんか帰りたくないなぁ」
「ほんと、ここまで来ちゃうとね」
「ねぇ、あんな方に空港あった? 宮古の空港とは方向違うよね」
佳織が指さす方には、飛行機が向かいの小さな島の方に降りていくところだった。
「下地ね。この時間ならまだ間に合うか……」
菜都実の声でさっきの砂山を登っていく。帰りの方が勾配がきついので、車に戻るだけでも一苦労だ。
助手席の茜音と後部にいた菜都実が入れ替わり、彼女はナビの画面など見ずに健に方向を指示していく。
以前は水道を隔てた伊良部島へはフェリーで渡るしかなかったという。海上の橋で繋がれてからはフェリーの時間を気にする必要がなくなった。
伊良部島に渡ってからも、海沿いの道を指示していく。
「さっきの飛行機は下地島空港って言って、今は格安航空会社とか、たまに訓練に使ってる。それよりも見せたいものがあんの」
空の色が真っ青から徐々に夕焼けの黄色に染まりつつある。
腕時計を見ながら、菜都実は目的の島、下地島への橋を指示して南側から海沿いのルートを進めた。
「健君、あそこの広くなっている路肩に停めてくれる?」
言われるままに車を下りると、海沿いが小さな砂浜になっていて降りていくことができる。
先ほどの砂山ビーチとは違い、海は岩場になっているので、魚たちが泳ぐ姿を見ることもできる。
「きれいだぁ……」
ビーチの石の上に腰を下ろす茜音。まもなく日の入りで、周囲を赤く染め上げていた。
ここから日の沈む方向には水平線しかない。全員言葉も出ずにその時間を見送った。
数分後、今日の太陽は真っ赤な残り火をあげながら、海の中へと溶けていった。