ETERNAL PROMISE  【The Advance】




 菜都実が二人を案内したのは、市内でも端の方にあるお寺だった。

 あまり大きな寺院ではなく、観光地にもなっていない様子でひっそりとしている境内の中には遅咲きの梅の香りだけが漂っていた。

「ここは……?」

 不思議そうな顔をしている茜音の前で、菜都実は桶に水を汲んでいる。

「由香利はここじゃないもんね。わざと分けたんだ。でもあの子も見てるとは思うけど」

 準備を終えると、菜都実は桶を持って歩き出す。

「あ、茜音。そっちじゃないんだ……」

「ふぇ?」

 一般の墓地区画ではなく、菜都実は別の一角の方へ歩き出した。

「そっちは……」

「うん、いいのこっちで……」

 慌てて菜都実の後を追う二人。突き当たりには小さな地蔵がたくさん立ててある一画があった。

 あまり来る人はいないのか。区画整理がされていて、墓碑の前に献花や供え物がある一般の場所よりも殺風景に見えてしまう。

 それに墓石がいわゆる地蔵の形をして並んでいるのも少し不気味さを感じてしまう要因かもしれなかった。


 しかし菜都実はその1つの前に膝をついてしゃがみこみ、妹の墓参りのときと同じようにその石碑を丁寧に清めた。一つ一つには献花台もなく、線香を手向ける箱もない。

 それでも彼女は黙々と作業を続けた。

 買ってきた花の茎を短く折り前を飾る。幼児用のお菓子と小さいプラスチックの容器に入ったジュースを供え、線香を地面に刺し終わった頃には、この寒い中でも顔からの汗が地面にしたたり落ちていた。

 手を合わせ、一心に何かを祈り続けている菜都実の姿は、茜音はもちろん中学の頃から一緒だった佳織すら見たことがないのではないだろうか。

「さ、終わり。ごめんね。二人の邪魔しちゃってさ」

 いつもの声に戻った菜都実だったが、ここまで見てしまった茜音と佳織が何もしないで自分たちだけ楽しむということが許せる性格ではない。

「菜都実、もしよかったら本当に悩んでること話してもらえないかな……」

「うん、まぁ二人ならもう話してもいいかな……」

 菜都実は石碑が見えなくなる角の所でもう一度振り向いて頭を下げると、今度はまっすぐに寺の外へと歩き出した。




「それじゃぁ、また明日ねぇ」

「うん、今日はありがと」

 別れ際、家に戻る菜都実を信号で見送る。

「まさか菜都実の話をここで聞くとはなぁ……」

「うん……。辛かったと思うよぉ」

 しばらく立ち止まって見ていると、遠ざかる背中がいつもより小さく見えた。

「毎月やってたなんて……。早く気づいてあげられたらよかったわ」

「そうだねぇ……。わたしもまだ菜都実の気持ち分かってあげられていなかったなぁ」

「茜音が悪い訳じゃないでしょ」

「うん、でも菜都実のあんな顔見たことなかったよぉ」

「まぁなぁ。原因が原因だけになぁ。茜音みたいに公表はできないよね……」

 二人はそこで顔を見合わせ、小さなため息をついた。




「悪いねぇ。なんか用事があったんでないの?」

 寺院を後にして、ようやく日差しが出てきて暖かくなりはじめたというのに、人気のない児童公園で、三人はベンチに腰を下ろした。

「どうせ大した用事じゃないから。それより菜都実の方が気になってさ」

 佳織が三人分の缶コーヒーを買ってきて渡す。

「そんなにあたし落ち込んで見えたかな」

「うん、そうだねぇ。落ち込んでいたというか、普段見たことがないから何かあったのかなって……」

 茜音の素直な感想だ。高校で出会ってから3年以上の付き合いになるのに、さっきの菜都実の姿は一度も見たことがなかったから。

「そっか……。まぁ、仕方ないかぁ……。誰にも話してこなかったもんなぁ……」

 さっきの線香の煙が昇っていった春霞のかかる青い空に視線を上げる。

「まぁ、別に見られたのが今回が初めてだってだけで、実は毎月同じことしてたんだけどさ」

 菜都実は、しばらく話を止めてどうするか考えているようだった。

「見てたと思うけど、さっきのお地蔵さんってさ、普通のじゃないんだよな」

「うん、それは分かったよ」

 それが分からないほど二人とも世間知らずではない。

 たくさん並んでいた小さな地蔵は、普通とは建立の由来が違う。

 病気や何らかの理由により、この世に生を受けることができなかった小さな命を祀るためのもの。戒名すら付いていないことも多い。

 一般的には水子地蔵と呼ばれる。地蔵とは名が付くけれど、経験した者からすれば、あれも立派な墓碑であることに違いはない。

「あれは、菜都実の弟妹の?」

 普通はそう考えるだろう。しかし、菜都実から返ってきた答えは二人の想像を超えていた。

「ううん。あれはあたしがお願いしたんだ。あたしのだから……」

「えぇ? 菜都実の……?」

 あっけにとられている二人。

「ど、どういうこと……?」

「あれはね……、あたしが中学の時に建てたのよ。彼氏と二人で……」

「そんな!」

「ほえぇ?」

 聞いている方には、菜都実の口から語られる話の内容すべてが衝撃の連続だ。

「うーん、とりあえず、どっから話せばいいかな」

「うぅ。どっから聞けばいいのかなぁ?」

 どうやらこれから語られる話の内容は数々の事態を乗り越えてきている茜音ですら想像できる範囲をすでに超えてしまっているような気がした。

「うん……。うちらもどこまで聞いていいものか分からないから、話したいところだけ話してくれないかな。菜都実の気持ちが少しでも楽になるなら、それでいいと思うし」

 佳織が促すと、茜音も同意というようにうなずく。

「まぁ、さすがにあんまり大きい声じゃ話せないんだけどさ。茜音と佳織だもんね、二人に隠し事はしたくないな……」

 菜都実は記憶をたぐり、整理をするようにぽつりぽつりと話し始めた。




 中学3年生1学期の中間テストも終わり、菜都実は部活の練習を引き上げ、昇降口で上履きに履き替えた。

 夕日もかすかに赤みを残すだけ。暗くなった校内には人影も見えないし、ほとんどの部屋の明かりが消えていた。

「遅くなったなぁ……」

 この夏の大会の予選も近い。夏の大会を終えれば結果はどうであれ菜都実たち3年生は引退だ。

 小学校の頃から体を動かすことが好きで、常に体育は5段階評価の5。

 中学1年生で陸上部に入ってからは、その頭角をめきめきと現し、常に学年のトップを走り続けてきた菜都実は、学校にとっても期待のホープであり、彼女自身も次の大会にかける意気込みは並々ならぬものがあった。

 この日の練習がここまで遅くなったのも、合同練習はもっと前に終わっていて、表向きは彼女自身が自分に課した居残り練習……だった。

「もぉ、全く嫉妬って恐いなぁ……」

 独り言をつぶやきながら、さすがに疲れた足をひきずり、教室のある最上階まで階段を上る。踊り場の窓からの色は、もうすぐ完全に周囲が暗くなることを告げていた。

 公立校で進んできた子たちには、高校で初めての受験を体験する中学3年生という時期は、誰だって不安定になる。

 それが自分の外に飛び出し、誰かの方向を向いてしまうと、周囲はそれぞれが抱えたそのイライラを同じベクトルに向けてしまう。

 特に微妙な心理の女子にとって、そのベクトルから外れることが非常に恐い。仲間はずれというレッテルを貼られたとたん、自分も被対象になってしまう恐怖感が常にあるからだ。

 そのきっかけは何であってもいい。周囲より何かが優れているとか、彼氏がいるとかそんな些細なことであっても構わない。いつ、自分が目標になってしまわないかと。

 だからこそ、どこかのグループに属していたいから、本音ではやりたくないことも、作り笑いをしながら同調しがちだ。

 それらのグループに属していない子は、本当に一部のごく少数派。

 自分の強い意志で適度な距離感を維持出来ている方はいい。問題なのは、いわゆる仲間外れにされてしまった側だ。

 個人的な心情では「かわいそう」と思っていながら、その子に手を差し伸べることによって、自分がグループから外されるだけでなく、理不尽な目に遭うことも少なくないから。

「まったく、バカバカしい……」

 もともと、小学生時代から菜都実はそういった同調行動には加わらないと立場をとる考えの持ち主だ。

 だから、小学生のときもあまり友達が多い方ではなかった。男子の比率の方が多かったくらいだ。彼女にとってはその方が都合がよかった。

 中学に入ってからもそれは続いていて、部活選びも自分一人であっさり決めた。

 その性格や行動力から、グループから強制スピンアウトされてしまった子の相談相手になったりすることもあったほどで、そういった子たちからは信頼も厚いのだけど、それはあくまで例外的なケースだ。




 何かの成績がいい、彼氏がいる……。

 菜都実は幸か不幸か、本人が気にすることもなくその両方を持ち合わせていた。

 確かに頭の方は正直言ってあまり自慢は出来ない。しかし中学在学中の各スポーツ大会での成績はその不足を補うには十分だったし、秋田(あきた)保紀《やすのり》という小学校からの幼なじみの存在は、誰の目から見てもお互いが特別な存在であることは明らかだった。

「あーあ、今日はどうなってるかなぁ」

 当然、教室の電気は消えている。小さくため息をついて取っ手に手をかける。

「あ、お疲れ」

「ひぇっ」

 誰もいないと思っていた教室の中から声が聞こえ、ビクッとする。

「そんなに驚かないでよ」

「え? やす…?」

 目をこらすと、自分の席のところに保紀が座っていた。

「もぉ、脅かさないでよ。でも、こんな時間までなにしてたの?」

「図書館で調べものしてた。菜都実だって、こんなに遅くまで」

「あたしは居残り。大会も近いしさ……」

「ほんとに?」

 保紀に顔をのぞき込まれ少し俯く。

「今日も、バラバラにされてたからさ、ちゃんと戻しておいた。大丈夫だと思うけど中身確認してよ」

 机の上に載せられている自分の鞄。ここ数日これがまともに乗っているなんてことがなかったのに。

 保紀に言われたとおり、中身を確認する。自分が入れた順番とは違っていたが、中身はちゃんと戻されているようだ。きっと誰もない教室の中でずっと探し集めてくれていたに違いない。

「ごめんね……。やすにも迷惑ばっか……」

「こんなことでいいのか?」

 保紀の言葉には怒りすら感じられていた。

「いいよ。あと半年。あたしは大丈夫。あたしが次の大会で優勝でもすれば、やすとつき合っていたからなんて言われないし。そうすればやすだって何も言われなくなるよ」

 直接は知らされていないけれど、この陰湿な状況は自分だけではなく、保紀にも及んでいることは十分考えられた。

「俺も大丈夫。菜都実こそ我慢しないでいいんだよ」

「ごめん……。ぇっ?」

 汗ふきのタオルで顔を覆った時、後ろ側から抱きしめられた。

「ダメだよ。ここ教室だよ……?」

「もう誰もいないよ。それに、そんな泣き顔のまま菜都実と帰りたくないな」

 しかたなく、菜都実は体の向きを変えた。

「やっぱり……」

 保紀が菜都実の顔を見ると、既に彼女の目は充血で赤くなっていた。

「菜都実をこんなに……、しやがって……」

 今度はさっきより強い力で抱きしめられる。

「うぅぅ……。ふぇ?」

 保紀は突然、菜都実の唇をふさぐ。

「ごめん、こんなことしか今の俺に出来ないけど……」

 それには返事をせず、菜都実は彼の誘いに応えることにした。

 無意識のうちに繋いだ二人の手が、体操着の上からでも分かる柔らかい菜都実の膨らみに触れる。自分の心臓が全身に伝わるくらい大きな音を立てている。


 自分達が初めてのキスをしたのは中学1年の時だ。

 それまでの遊び相手という関係から、気になる幼馴染みにシフトして、少しずつ、たった一人の特別な存在に変わっていくまでそれほど時間はかからなかった。

 誰にも教わったわけでない。それでも色々とこの年齢ともなれば興味本意で入ってくる情報は思春期の二人を少しずつ先に進ませるには十分すぎる。

「暖かいな、菜都実……」

 菜都実にも、保紀が何を望んでいるのかは、2年生の時から少しずつ、何度か経験していることだから分かっていた。

「ここ、学校だよ……?」

 陽はすっかり落ち、窓から見える範囲には明かりがついている部屋は見えない。職員室からこの教室は見ることが出来ないから、二人の生徒が残っていることも遠目には分からないだろう。

「もう俺たちしかいないよ」

「それもそうか」

 他の生徒の荷物が残っていないことを確認してから、二人で教室の鍵を内側からかける。

「もぉ、やすも気が早いんだから……」

 少し笑うと菜都実は保紀に自分の重みを預けた。




 保紀が菜都実を抱きしめながら聞く。

「なんか、胸きつそうになってない?」

「う、うん……。ちょっとね」

 さっき服の上から手を当てた膨らみ。アスリートでもある菜都実にとって、この年になって少しずつ大人の女性としての体格になっていく象徴は嬉しい反面、困ってしまうことでもある。

 部活の時はわざと締め付けの強いスポーツタイプを着けている。それを加味していても、だんだん胸元が窮屈になっているように見えた。


 制服の下に着ける下着でさえ、少し小さく見えるデザインを選んでいるという。

 仲の良い間柄なら、それほど気にする必要もないだろうが、菜都実のようにターゲットにされてしまうと、本人の意思ではどうしようもない事にさえ気を使わなくてはならないのかと、男子から見たら呆れてしまうこともある。

「気にしなくていいのに。まったく女子は分からねぇ」

 そう、途中までは何度も経験してきたし、お互いを軽蔑することもない。親が留守の時に服を脱いで水着に生着替えしたこともある。

 しかし、今日の保紀は違っていた。

 大切な菜都実をあれだけ傷つけられていることを知って、何も出来ないことを自分で許せなかった。

 菜都実も分かっている。こんな一時の快楽を得ることで事態が収まるわけでも問題が解決することもない。

 それでも、今は保紀との繋がりが欲しかった。

「菜都実……。いいか……?」

 保紀の声が緊張で掠れている。

「やす……。あたしでいいの?」

「菜都実しか考えられないんだ。俺も変になってるかもしれない。菜都実のことだから」

 いつかは、その日が来るかもと思っていた。逆に心の中まで見透かされている彼になら。自分の全てを捧げてもいいかもしれない。

「やす、あたしね……、本当に初めてだから、きっと下手だよ? それで嫌われない……?」

「俺も初めてだ。菜都実と同じだ」

「うん……」

 外の陽もすっかり落ちて月が出ていた。その月明かりと街の灯が微かに差し込んでくる教室。

 菜都実は彼に頷いた。

「情けないあたしでごめんね……」

「……最後に聞くぞ。本当にいいのか?」

「うん、やすはあたしを助けるためにしてくれるんだもん。いいよ」

 菜都実は潤んだ目で彼を見上げて頷いた。





「ね? 無茶苦茶な話でしょ?」

「凄いけど……、でも菜都実のことちゃんと思ってくれてたんだもん。良い悪いの判断はわたしに言える資格はないよ……」

 もちろん、まだ中学生の行為としては一般的に褒められた話ではないし、互いの同意があったとしても結果に責任が持てる状況にはない。

 ただ、この話を聞いているのは茜音だ。彼女には普通では考えられないことへの免疫ができている。

「結局さぁ、そのときはやすに抱かれて、初めてだからどうのとかより、そっちのうれしさの方が勝っちゃって。後先を考えなかったんだ」

「でも、保紀君は菜都実のことをそれで助けてくれたんでしょ?」

 茜音はすっかり冷たくなった缶からコーヒーをすすった。

「うん。もう悔しくてさ。情けない話だけど。でも、続きの方がもっとあたしには堪えたの……」

 菜都実は苦笑いして、視線を遠くに飛ばした。

「そのあとしばらくしてさぁ、あたし具合が悪くなって、貧血で倒れたんだ……」

「うん……」

 言葉と同じように、菜都実の表情から力が抜けていた。




 保健室に運ばれた菜都実は、すでに気を取り戻していた。

「今日はどうする? ずいぶんひどい貧血みたいだけど。もう5限目だし、帰ってゆっくり休んだ方が良くない?」

「そうします」

 保健の先生に言われ、菜都実もそれを素直に受け入れることにした。

 ただし、菜都実は真っ直ぐには家に帰らなかった。

「おじさん……。今日病院はお休みだよね……?」

 学校が見えなくなったところの公衆電話で、菜都実は叔父に電話をかけた。彼は隣の市内で内科と婦人科を営んでおり、菜都実もよくそこに世話になっている。

「お休みの日でしかお願いできないことがあるんだけど……」

 話が終わると、菜都実はそのままバスに乗って病院に向かった。



 その医院は休診日だったけれど、念のため外来の建物には立ち入り出来ないようにしてくれていた。

 誰もいない診察室で、菜都実は心細そうに落ち着きなく座っている。

「菜都実ちゃん」

 白衣姿ではなく、普段着で結果の出た用紙を何枚か持ってきた彼は、菜都実の前に座った。

「うん……」

「菜都実ちゃん、分かっていたのかな?」

「うん……」

 菜都実がうなずくのを見て、彼は一応事務的に結果を告げた。

「一応事務的にお話しするな。結果は想像どおり陽性。まだ初期だが、君の中にはもう一人の命がいるんだ」

「はい……」

「相手の人は分かってるのかい?」

「うん……。幼なじみだよ」

「そうか……。それじゃぁちょっと厳しいな……。学校とかにも言えないだろ?」

「うん……。許されないと思うけど……」

「ま、そこはどうにかしよう。でも、ちゃんと家族と彼には言っておいた方がいいだろう?」

 黙って頷くしかない。

「今日はもう遅いから送っていくよ。弟たちにも一緒に言ってあげる」

「うん……」

 表から見えないように、通用口から菜都実を表に出し、彼は菜都実を助手席に乗せて発進した。


「どうした。やっぱり怖いか?」

「ううん、そうじゃない。怖くなんかないよ。でも……」

「でもどうした?」

 外は雨が降り出していて、制服で乗っている菜都実を気にするような人はいない。

「助けてくれたはずなのに、あたし結局やすに迷惑しかかけられない。やすとの結果だもん。本当はすごく嬉しい。でも結局あたしは……」

 この結果は、保紀が自分を助けるために行ってくれたことの代償だ。自分も同意したのだから、彼に責任を押し付けるつもりなど最初からない……。

 それでも、周囲はそう思ってくれないだろう……。助けてくれた彼が一方的に責任を追及されることは耐えられない……。でも、自分に何ができるのか……。

「ちょっと早すぎたんだな。これがあと5年ぐらい後だったら、誰もがこの結果に喜んであげられるんだけどな」

「そうだよね……」

 車は菜都実の家に到着する。叔父は菜都実と一緒に店に入り、弟である菜都実の父親に耳打ちする。

 マスターは店を臨時休業にすると、緊急家族会議となった。

「なんてことを……。一応聞いておくけどな、相手は保紀君か?」

「うん……」

 父親に言われ、菜都実は顔を上げられなかった。

「これが3年先でおまえが18歳になっていれば、喜んで嫁に出してやるんだが。まだ……、そうもいかないか……」

 そこに話を聞きつけて、保紀が家族と一緒に駆けつけてきた。

「菜都実!」

「ううん。あたしが悪いんだから。あたしがお願いしたんだもん」

 さすがにまだ早すぎる行為の結果だとして、二人ともみっちり怒られてその日は解放された。

「兄貴、迷惑かけてすまない……」

 その場で話し合いが行われた結果、やむを得ないが二人の将来を考えたうえで、菜都実の体をそのままには出来ないということも決まり、事態は内密に収める方向性で話がまとまった。




「そんなことになったんだぁ……」

「よく、両方の親がそれで許したわね?」

 茜音と佳織の感想も妙だが、それが二人の素直な感想だった。

 茜音が過去にお世話になっていた福祉施設や、その彼である松永健が働きながら生活を送っている珠実園にいる子たちの中には、そのような状況で誰にも相談できずに生まれ、肉親が育てられずに施設に預けられたという境遇の子もいる。

「まぁ、そこで大喧嘩してもなんにも解決にならないって、みんな分かってたのよね。病院だってたまたま身内だし。学校には体調不良ってことの診断書を書いてもらって、しばらくは運動も自粛。おかげで大会のメンバーからも外されちゃった。大会に出れば内定が確定した高校の推薦も取り消しになった……。でも、仕方なかったよ……」

「そんなぁ……」

 そのときの菜都実の気持ちを考えると、茜音もやりきれない思いで染まる。

「でさぁ、さすがあたしの子供だよね。決着の付け方まで親とそっくりだったんだ」

「そうだったの?」

「次の休診日の前の夜、入院したのはいいんだけど……。直後に大出血してさ……。あたし病院のトイレで倒れちゃって。で、目が覚めたときに言われたのよ。終わったよって」

 そのときの菜都実と同じように、きょとんとした茜音に、菜都実は続けた。

「あの子、自分で出て行ったの。あたしに迷惑かけないようにって……。とんだ親子だよね。結局お別れも言えなかった……」

 そのあと、菜都実は部活に復帰することもなく引退。夏休みを迎えた。

「でね、そのあとやすが突然引っ越すことになっちゃってさ」

「えー?」

「まぁ、理由は話してくれなかったけど、間違いなく責任をとってのことだろうけどね。そんな責任なんてとる必要なかったのに」

「うん……」

「でも、やすは決心してたみたい。あとで両親が話してるのを聞いちゃって……。うちらがちゃんと責任を取れるくらいの歳になるまでは、あたしの前に現れないようにするって」

「それは辛いわね……」

 佳織も顔をしかめる。

 恋人付き合い初心者である佳織自身にまだ別れの経験はないけれど、保紀と菜都実は時期が早すぎたとは言え、お互いの気持ちを確かめ合った関係だと理解している。

 それだけ心が通じているのに、会わないと決断するだけでも相当の覚悟だっただろう。

「だからね。お互いとあの子のことを忘れないようにって、あのお地蔵さまを二人でお願いしに行って建てたの。もう二度とあんな悲しい思いをしちゃいけない。それを忘れないようにって」

「それから会ってないの?」

「うん……。やすの決意どおり結局一度も」

「そっかぁ……。それは寂しいよね……」

 菜都実の気持ちも茜音が一番理解できる。本当はずっと一緒にいたい二人が、理由や事情はともかく離ればなれにならなければならない状況は身をもって経験しているから。

 そう、そして二人とも頭の中にはあるのだ。

 今はもう「早すぎる過ち」の心配は要らない歳になっているのだということを……。




 菜都実は、辛気くさくなってしまった空気を振り払うように続けた。

「でも、そのあとに佳織が声をかけてくれたんだ。ちゃんと覚えてるよ。あたしとやすのことは学校中で噂になっていてね。でも佳織はそのことは一切触れないでいてくれた。おかげで、あたしも元に戻れたって言うかな。高校もダメかなって思ってたんだけど、佳織が一緒に教えてくれて、合格できて、高校では茜音にも会えた。だからあたしは大丈夫」

 一見、三人の中で一番悩みがなさそうだった菜都実。妹を失うという悲しみを経験する前から、彼女自信が命の十字架を背負っていたということに、茜音は衝撃を抑えることが出来なかった。

「茜音、佳織も……、あたしのこと軽蔑するならしていいよ。みんないろんな噂だけでも離れていったし。でも、二人にはちゃんと話しておく必要があるかなって。あたしたちみたいになっちゃいけないって」

「ううん……。頑張ったね。偉いよ菜都実はぁ」

 茜音は菜都実の手を自分の両手で包み込んだ。

「どんなことがあっても、菜都実は立派なお母さんだよ。そりゃね、確かにちょっと早すぎたと思う。でも、今でもちゃんと覚えていてお参りしているんだもん。すごいよ。わたしはそんな菜都実を尊敬しちゃうよ」

「菜都実、辛かったでしょう……。話してくれてありがとう。私はその事が嬉しい。来月から行く日を教えて? また三人で行こうよ。お母さんはまた会える日を楽しみにしているって教えてあげなくちゃ」

 二人はそんなことくらいでは動じたり離れていかない。菜都実が償いを今も続けていることは、失った命に対する責任をとっている証しなのだから。そんな友人を独りにしない。

「二人とも……。ありがと……」

 空いている方の手で目のあたりをこすり、口調をいつものように戻して続けた。

「でもさ、茜音みたいに連絡が取れない訳じゃないんだ。ちゃんと年賀状とか誕生日とかには手紙くれるし。あたしもそれに返してるし」

「え? そうなんだぁ。じゃぁ行方不明って訳じゃないんだ?」

「うん。でも、実際に会うとなるとまだダメ。何となくだけどさ」

「そっかぁ。でも、いつまでもそのままでいいわけじゃないよね」

「まぁね。なんか、二人の前で泣いたらすっきりした。ありがとね」

「お役に立てたかなぁ? 逆に傷口を無理やり開くようなことを聞いちゃった気がするんだけど……」

「だいじょーぶだいじょーぶ。今日は本当にゴメンね。学校が始まってもお店で待ってるからさ」

「う、うん」

「じゃぁ、また次のバイトの時間によろしくー」

 そういって菜都実は二人に手を振って信号を渡っていった。




 残った二人は菜都実を見送った後もその間を動けずに考えていた。

「うーん。きっかけがないんだねぇ」

 最初に口火を切ったのは茜音だ。

「そうだね。なんか話を聞いている感じでは二人とも仲が悪いって訳ではなさそう」

「うん。そうだよぉ。嫌いになっちゃったら、連絡先を渡したり、手紙を送ったりはしないと思うんだよね」

 二人とも意見は固まっている。

「なんとかしてあげたいなぁ……」

 菜都実は強がっていても、今でもその保紀のことを思って寂しがっているし、逆も間違いなさそうだ。

 ただ、こうなった原因が原因だけに、なかなか二人だけでは再会するタイミングが計れないだけのかもしれない。

「これは…、健ちゃんに相談かなぁ」

「なに、なんか考えたの?」

 唐突に健の名前が出たので、佳織は尋ねる。

「うん……。まだ出来るかどうか分からないんだけどねぇ……」

「微妙な問題かもしれないから、あんまり急いで首を突っ込まない方がいいかもしれないわよ?」

「そうだよねぇ。いきなり飛び込んでもねぇ」

 ことの重大さは茜音たちの時以上かもしれない。

 それぞれの居場所が分かっていながら顔を合わせられないのであれば、二人の想像を超えるものがあるのかもしれないから。

「もう少しいろいろ状況を調べてから動いてみることにするよぉ」

「そうね。でも新学期始まるから、あんまり時間はないかもしれないわよ?」

 再び商店街に引き返し、本来の買い物を済ませながら、来週に控えた入学式などの予定を思い出す。

「そうだけど、空いている時間はあるよぉ。佳織の方が忙しいと思うから、わたしと健ちゃんで相談してみるよぉ」

 佳織と別れたあと、茜音は一人、菜都実の家でもある喫茶店ウィンディに向かった。

 日もすっかり落ちた後で店の中の方が明るくなっているためか、道路の反対側に立っている茜音には店内から気づかない。

 店の中でいつも通りに給仕の仕事をしている菜都実が見えた。

 昼間にあれだけのことがあったにもかかわらず、その様子は微塵も感じられない。

「いつもあんなことしてたんだもんねぇ。それは辛いよぉ……」

 茜音は菜都実が忙しそうなのを見届けると、店には寄らずそのまま家の方へ消えていった。



「もし、二人が会いたいと思っているなら、そろそろ頃合いじゃないかなぁ? 高校も終わったわけだし、菜都実は専門だから2年でしょ?」

 その晩、横須賀の茜音の家では佳織と呼び出された健も集まって夜遅くまで話し込む姿があった。

「4年制大学に行っちゃうと、またそこで時間が空いちゃうからねぇ」

 同じように2年で卒業となる短大に通う茜音もその作戦は理解できる。高校を出た時点で、茜音は自分の将来をほぼ決めていたからだ。

 学校に通っているのは、それまでの時間で何か自分に出来ることを少しでも増やしておきたいという気持ちからと周囲も理解している。

 菜都実が進路を専門学校にしたと聞いたときには少し驚いたが、彼女の事情を知った今ではそれは十分すぎるほど理解できた。

 それだけではなく、菜都実は自分が健との再会のための旅を続ける上で、いなくてはならないほどの協力メンバーだった。

 献身的なほどの二人の手助けがなければ、茜音の今はないと考えていたくらいだ。

 今の茜音が出来ることと言えば、その恩返しだと常々考えていた。

「ちょうどいいんじゃないか? お互いの気持ちは今から確かめるしかないとしてさ。もし菜都実さんたちの気持ちが今でもそれを望んでいるなら、協力することはしても」

 ずっと話を聞いていた健が、そこで言葉を発した。彼も茜音と同じで、今回の話を聞いたくらいで動ずることはない。

「まずは、その彼がいまどこにいるのか。そこからだな」

 この発言は、彼の経験上からも軌道修正は十分に可能だと判断したからに他ならないのだから。