昔と変わらないこの部屋の天井。
「ママ、まだいないの……?」
目覚めた茜音の声は小さくて、部屋の外には聞こえていないようだ。
窓から差し込んでくる光には、彼女の名前と同じく茜色が混じっている。
朝、突然熱を出した茜音は、幼稚園をお休みした。
しかし、両親にはどうしても外せない音合わせのリハーサルがあるとのことで、茜音が困らないようにお昼ご飯などを用意し、早く切り上げてくることを約束して出かけていった。
薬が効いていて、さっきまで熟睡できていたせいか、身体は楽になっていた。それでも茜音はじっと寝ていなければならないという言いつけを守っていた。
「なんにも聞こえないの、いやだよぉ」
シンと静まり返った家の中の沈黙に耐えきれなくなり、たたんであったショールを肩からかけて窓の下にある台によじ登る。
高台にあるこの家の正面2階にある茜音の部屋の窓からは住宅地と少し離れた市街地の一部が見える。その日の天候や時間によって街の色が変わる。この景色が好きで茜音はずっとここを遊び部屋にしてきた。
そして幼稚園の年長になった今年の春、ようやく自分の部屋として与えてもらえた。それまでは夜も家族三人で川の字になっていたのを、彼女専用のベッドを入れてもらい、来年の小学校入学に備えてと机も先日入った。
しかし、その「自分の部屋を持つ」状況が逆に彼女の寂しさを膨らませる結果となってしまった。
同じ部屋に他に誰も寝ていないことから、恐がりの茜音は部屋を完全に暗くすることが出来なくなった。
近くのコンセントに常夜灯を付けてもらったとしても、まだ夜になっていないこの時間にもかかわらず部屋に一人ぼっちになっている。
これまでは共通の部屋だったから、両親が帰ってくれば真っ先に茜音のことを気づいて声をかけてくれた。しかしこれからはそうは行かない。
この部屋に入ってこようという行動がなければ、茜音は大好きな二人の顔を自分から探さなくてはならない。
「うぅぅ……」
少しずつ暗くなり、灯りがつき始めたまわりの家々。しかしこの家はまだ暗いままだ。
急に寂しさがこみ上げて、再びベッドに戻る。
「ママぁ、パパぁ……」
何度もつぶやくが、家の中にある物音は彼女が発するものだけだ。
「ママ……」
その1時間後、練習を途中で切り上げ先に帰宅した母親が家に帰って真っ先に開けた部屋は、愛娘が一人留守番をしていてくれた場所。
常夜灯の薄明かりの部屋の中、彼女は布団の中で膝を抱え小さくうずくまり、泣き疲れて眠っていた。
「茜音……」
平熱まで下がっているのを確認して、一度身支度を整えてくると、その夜は茜音のベッドで一緒に休む。
翌朝、目を覚ました茜音がその状況に気づいて1日甘えていたのは言うまでもない。
「……ちゃん、茜音ちゃん?」
名前を呼ばれて、意識が戻る。
「うんん……?」
健が茜音の顔を心配そうに覗きこんでいた。
「ほ、ほぇ……」
気がつくと、自分の頬に幾筋も涙の跡が残っている。
「大丈夫? ずっとうなされているみたいだったから」
「そっか、夢を見てたよぉ」
「夢?」
「うん……。まだ幼稚園の頃に病気で一人でこの部屋にいたときのこと。寂しくて泣いてたときのことだと思うよぉ」
「そっか、それでママとかパパとか言ってたんだ」
「うん。健ちゃんに会う前のことだよぉ」
そうだ。茜音がこの家を一度離れたのは幼稚園年長の冬休み。だから以前の記憶時代には健とはまだ出会ってもいない。
「楽しかった頃?」
「うーん。楽しかったのかなぁ。パパとママは優しくて暖かくて……。家族の中は楽しかったよ。でも、お家の外はそうでもなかったかもしれない。思い出せないから……」
健が思い出してみると、茜音のその頃の話は主に両親の話で、幼稚園や親戚の話というのは聞いたことがなかった。まだ封印されている記憶があるのかも知れないけれど。
「そういえばねぇ、健ちゃん。さっき聞こうと思っていたことがあったの……」
話題を変えたくて、茜音は健に話しかけた。
「なに?」
「あのねぇ、昨日健ちゃんがここに運んできてくれたと思うけど、それ以外に誰かいてくれたの?」
「いや? 僕一人だけど」
「じゃあ、あのお洋服からパジャマに着替えさせてくれたのも健ちゃん?」
壁のコートかけには、茜音が昨日着ていた服がハンガーに掛けられている。皺にもなっていないから、この部屋に到着してすぐに着替えさせてるれたのだろうが、そのときの記憶が全くない。
「うん。どうしようか迷ったんだけど……。茜音ちゃん汗びっしょりだったし、服のままだと寝苦しいと思って。お湯とタオルで身体を拭いてパジャマにしたんだ」
「そっかぁ。お母さんが、健ちゃんが夜通し看病してくれたって言うし、着替えも終わってたって感心してたんだぁ。でもぉ、それだったらぁ、昨日スカートの中見えそうになったときに目をつぶらなくてもよかったのにぃ。わたしのお洋服脱がせたんだもぉん?」
面白そうに茜音は笑う。
「う、うん、どうしようか悩んだんだ……。茜音ちゃんに無断でそんなことしていいなんて思ってなかったし。でも、茜音ちゃん苦しそうで、じっとしていられなくて……」
健は真っ赤になって取り繕おうとした。考えてみれば茜音の言うとおりだ。当然その時はただ茜音を楽にしてあげたいという一心だったから、責められることはない。そのことは当然彼女も分かっている。
「ううん。いいのぉ。本当にありがとう。一緒にいてくれたのが健ちゃんでほんとよかった。わたしのこと助けてくれたの何回目だろうねぇ」
施設にいた頃から、ずっと一緒にいてくれた健。
いじめられたときも病気になったときもいつも一番の味方になってくれた。だからこそ、茜音は彼女の全てを健にだけは見せることが出来る。
昨年の夏、川の中に落ちて記憶が途切れていたときの様子を友人たちから聞いた。まさかの事態に動けなかった二人に構わず、彼は自分を水の中から抱き上げ、そのままあの足場の悪い坂を一気に登って毛布で包んでくれたという。『あれは真似できないわ』と菜都実も証言している。
「そういう意味じゃ、健ちゃんは私の白馬の王子様だねぇ。お父さんとかお母さんよりも頼りにしちゃってるかなぁ……。でも、健ちゃんは今は珠実園の頼りになるお兄さんでもあるんだよね。わたしが独り占めするわけにいかないね」
「いいんだ。ちゃんと理由は話してきた。これから茜音ちゃんを送っていくよ。それが一番大事だから」
そのために健は一度園に戻って車を取ってきたのだと気づいた。
「うん。それじゃぁ着替えるよぉ。健ちゃん、パジャマから着替えさせてぇ?」
「茜音ちゃんの服は難しくて無理だなぁ」
「うそだぁ」
健はハンガーの服を茜音に渡す。目があった瞬間、二人とも思わず吹き出してしまった。
「まー、まだ襲われたって言われたくないからね。戸締まりの用意だけしてくるよ」
「わかったぁ」
結局、茜音はその週の半分を体調の回復に使ってしまったという。
「それじゃ、みんなまたねぇ」
「片岡さんたち、またお店に行くね」
教室を出ようとする三人にクラスメイトから声がかかる。
「うん、いつでも会いに来てねぇ」
「お幸せにね~」
「あぅ、それはまだだよぉ」
1年間過ごした教室とも、今日でお別れだ。
「あら、片岡さんも卒業生ね。無事卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
さっきまではまだ多くの生徒や教師がいた校舎内、今はその数もだいぶ少なくなっている。
あの夏を越えて、もはや学校のヒロイン伝説を作った茜音のことを知らない者はいなくなった。
胸に花飾りを付け、卒業証書の筒を持って階段を下りていく姿を見て、もう彼女が校内で見られないのを惜しむ声も聞こえるくらい、その存在は愛されるようになっていた。
「片岡せんぱーい!」
「あ、こんにちは。今日はどうしたの?」
パタパタと走ってくる下級生たちは、学校の中でも茜音を熱烈に応援してくれた2年下の女子二人だ。
「茜音、先に門の所に行ってるね」
「うん、すぐ行くねぇ」
菜都実と佳織は他の生徒や教師たちに挨拶をしながら昇降口へ歩いていった。
「どうしたのじゃないですよ。今日が最後じゃないですかぁ!」
「あはは、どっか遠くに引っ越しちゃうわけでもないのに、オーバーだなぁ」
二人が息を切らしながら茜音の前に駆け込んできた。
「だって、もう学校の中で先輩見られないのは寂しくて」
「うん、わたしも寂しいよ。二人にもいろいろ心配かけたね……」
この二人は中学生の頃に茜音の存在をインターネットのSNS上で知り、その時から応援してくれていた。
高校をこの桜峰に決めたのも、茜音がいるからという理由を教えてくれたこともあった。
「本当に、遠くに引っ越しちゃったりはしないんですよね?」
二人は少し心配そうにしていた。茜音の通う短大は都内にキャンパスがあるため、横須賀から通学するのか、地元を離れてしまうことが心配のようだ。
「遠くに行くことはないかな。今のお家は出て、横浜で一人暮らしを始めるつもり。でも授業がない週末とかは帰ってくるし、お店の方にはしばらくはお世話になるから。何かあったらいつでも遊びに来てよぉ」
「はいっ、分かりました。あのぉ、なにか記念品みたいなのもらえませんか?」
「あはは、やっぱり欲しいの?」
いわゆる『制服の第二ボタン』的なものを記念品として引き継ぐのはよくある話。ただ相手が同時に二人となると、少し考えてしまう。
「そうだねぇ……。何がいいかなぁ」
しばらく自分の服装を見ていた茜音。
「じゃぁ、この2つをあげるよぉ」
制服の襟のところから、学年色が入っていないリボンタイと校章のピンを外した。
「い、いいんですか?」
二人は予想以上の品物に、逆に緊張してしまっている。
「うん。二人とも卒業まで2年あるから、使ってあげてねぇ」
「はいっ!」
「それじゃぁ、いつもありがとうねぇ。またお話ししようねぇ」
後輩の二人に丁寧に頭を下げると、手を振りながら出口へ向かった。
「おまたせぇ」
「あ、来た来た。茜音! みんな待ってるぞ」
「へぇ?」
学校の正門のところで菜都実が茜音を見つけた。
「みんな写真撮りたがってるんだからさ」
「そうなのぉ?」
校内シンデレラとなった茜音だけでなく、いつも彼女のそばにいた二人というのもいつのまにか注目されるようになっていた。
「ほらほら!」
下級生だけでなく、教師側から声をかけられていたように、昨年夏休みの結果は前年度から引き継がれていた生徒会広報によって発表されていて、全校が知ることとなった。
同時に、直後の学園祭ではこの三人を中心に、実行委員からの課題を完璧に再現した展示を作り上げたことで、クラス展示の最優秀賞をも獲得している。
このことによって、片岡・上村・近藤の三人組の実力を知らない生徒はいなくなった。
中学までいつも苦汁を飲まされていたのが嘘のような高校3年生の後半だった。
「ありがとうございましたぁ!」
何組かのクラスメイトたちとの写真を撮り終えると、もう一度感慨深げに校舎の方を振り返る。
「どうしたん?」
「うん……、いろいろあったなぁって。わたしが初めて入学式と卒業式の両方が出来た学校だからなぁって思って……」
「そうか。茜音って小学も中学も転校続きだもんね」
佳織は茜音が転出した最初の中学校に在籍していたことを知って驚いていた。
僅か1ヶ月という期間、別のクラスだったこともあって、彼女の転校だけでなく存在すら知らなかったのも仕方ない。
それでも、もし当時出会うことが出来ていたら、そして茜音があの計画を当時から発動していたら……。
一番先に賛同できたし茜音も転校せずに済んだかもしれないと思っていた。
「ねぇ、茜音のタイと校章は?」
じっと振り返っていた茜音を菜都実が引き戻す。
「うん、欲しい子がいたからあげてきたよ。予備もあるし、そっちはちゃんと取っておく」
ようやく区切りがついたのか、茜音も家路へ歩き出す。
「どうするの? 今日はお店でお祝いでしょ?」
「ここからは直行しないとね。みんな待ってるんでしょ」
卒業式のあとは、ウィンディで内祝いをすることになっていた。これまでなかなか表に出てこなかったそれぞれの両親も呼ぶことにしている。
三人の希望で、貸し切りにはしない。常連客もいることを考えると、店は結構混雑してそうな気配だ。
「気合い入れていきますかぁ」
学校で時間を食ってしまったため、予定よりも遅れて店に駆け込んだときには、他の面々は到着していた。
「遅くなりましたぁ~」
店の一角を変更し、関係者のみのお祝いとしているが、マスターをはじめ、もともとウェイトレス係の三人が関係していることもあって完全にパーティーに集中できるわけでもない。あちらこちらから呼び声がかかる。
「みんな無事に卒業おめでとう」
マスターでもある菜都実の父親が料理を出してくれる。
「そんな、やりますよぉ」
「いいよ。今日は菜都実さんもお客さんだからね」
別の声が奥から聞こえた。
「ほぇっ? 健ちゃん!?」
思いがけない声が聞こえて振り返ると、カウンターの中にエプロン姿の健が立っていた。
まさか、厨房に立って手伝いをしていたのが、この半年ですっかり茜音のパートナーとして落ち着いた健だとは、茜音も聞かされていなかった。
「今日は臨時のバイトでね。それに、茜音ちゃんがここにいるきっかけになったんだから今日この場にいる資格は十分にあるだろう?」
「はいぃ……」
入学した日に出会ってから3年間。いろいろな事件があったにせよ無事に三人とも高校を卒業し、次への進路も決まったことを祝うもの。
「合格発表の日の最初の茜音ったら、本当に今と変わらないなぁ」
「へぇ、それまだ言うのぉ?」
高校時代に菜都実と佳織が初めて茜音に出会ったことから始まり、最後の1年と最近までの思い出話に花が咲いた。
「本当にさぁ、こういう高校生活は予想しなかったな」
佳織が感慨深げに漏らした。
「茜音って、他人の人生まで変えちゃうところが凄いわぁ。悪い方じゃないからみんな納得しちゃうけど」
菜都実が奥からドリンクの氷を補充してきて続ける。
「そうかなぁ?」
「だって、この店だって2年前はこんなに繁盛してなかったよ? ねぇ?」
このウィンディは、そもそもヨット乗りや釣りのレジャーを楽しんだ後の時間をゆったり過ごせるようにと個人経営の喫茶店としては大き目の店構えだ。だから以前は一番混雑する週末でも満席になることはなかった。
しかし、最近は週末ともなると、そもそもの層以外のお客さんが増えたために満席という日も珍しくなくなった。
「本当に、茜音ちゃんと佳織ちゃんには頭が下がったよ。メニューも増やしてくれたし、茜音ちゃんの演奏のおかげで夜が忙しくなったからね」
マスターの言うとおり、二人がアルバイトに加わってからと言うもの、どちらかと言えば男性向けが多かったメニューに、甘味や軽食の種類も増やし、女性や家族連れが来店しやすいようにした。
それ以上に、店の一角に張り出されているスケジュールの日は夜まで混雑がやまない。
茜音が菜都実の妹のピアノを引き継いで始めた生演奏は、今ではすっかりこの店の名物となってしまっている。普段はフリルのエプロンを付けたマイペースの店員も、この時は別の顔を見せる。
プロからもお墨付きと言われるその腕前は、今ではピアノだけに留まらず、自宅にあったバイオリンの演奏も披露することもあり、店の雰囲気をぐっと引き締める。
この時間を目的に来客する人もいるおかげで店の売り上げは予想以上に伸びていたという。
「これで二人がいなくなると痛いんだよな」
この店が実家の菜都実はいいとして、茜音と佳織がいなくなってしまうのはウィンディにとっても大きな損失となるだろう。
「そうだねぇ。あたしは大丈夫かなぁ。茜音はどうするの?」
佳織も当面は実家から通うことになっているので、このまま続けることは問題ない。
「うーん。平日毎日は厳しくなるかもしれないですけどぉ、週末なら続けられるかなぁ」
平日は横須賀の家ではなく、横浜の実家から学校に通うことを考えている茜音。しかし、最低限の生活費などを稼がなければならないのも事実なので、日数は少なくなってしまっても仕事を続けさせてもらえるのであればありがたい。
「交通費もちゃんと出すから、いつでも来て欲しいな。こいつも喜ぶし」
マスターは菜都実の頭に手を置いた。
「はぁい。続けられる限りは頑張ります」
結局、今後の時給のアップも約束してもらい、この日も結局最後まで手伝っていくことになった。
『カラン』
「ありがとうございましたぁ」
「茜音ちゃんと佳織ちゃん、まだこれからもよろしくな」
「はぁい。またお待ちしています」
夜も11時近くなり、店の外に出て最後のお客さまを見送る。
「はい、今日はこれで終わりにしようか」
いつもどおり、店頭の灯りを消して中に戻ると、片付けを終えたマスターがのびをした。
「よし、終わったー!」
「ねぇ、健ちゃんの帰りはどうするの?」
お店用の服から、来たときの制服に戻って荷物を片付けながら茜音は健に聞いた。
「うーん、お迎えが来るはずなんだけどね」
「そうなんだぁ」
最後の戸締まりを菜都実に任せ、父親のマスターは2階へ上がっていった。
「あー、疲れた。なんか、茜音の姿を学校でもう見られないってのが不思議なんだなぁ」
「うん?」
ソファー席に座っている菜都実は、楽譜とピアノの掃除をしながら片付けている茜音に言った。
「なんかさぁ、茜音と出会ったおかげで普通とは違う高校生活だったなぁって思ってさ」
「そうかなぁ?」
「絵に描いたような青春を見たって言うかさぁ。ねぇ佳織?」
帰り支度を終えた佳織は菜都実の向かい側に腰を下ろす。
「そうだね。よかったんじゃない? いい経験になったと思うよ。本当にこれから同じクラスじゃないって嘘みたいね」
そこまで言ったとき、表に車の音がした。
「健ちゃん、お迎えが来たよぉ」
「うん」
まだ鍵を閉めていなかった店の扉を開け、里見と未来が入ってくる。
「茜音ちゃん、もう体は大丈夫?」
里見は健からあの後起きた茜音のピンチの話を聞いて、ずっと気にしていた。
「はいぃ。あの日は健ちゃんに心配かけちゃいました……」
そんな茜音に、未来がつかつかと歩み寄る。
「茜音姉さん、この前はよかったですか?」
「うん?」
突然何を言われたのか理解できずにいると、未来はもう一度聞き直す。
「この前の、兄さんとの1日は楽しかったですか?」
「あぁ、あの日ねぇ。うん、よかったよぉ。でもわたしが倒れちゃって最後はわたしが失敗しちゃったけどね……」
しかし、それを否定するように首を横に振る。
「行ったところは全部いつも行っているところだったじゃないですか。それに、ずっとお店まわりだったじゃないですか」
「うん。そうだったかもしれないねぇ」
未来がだんだん口調を強めていくので、その場は一瞬で緊張が高まるが、茜音は相変わらずマイペースのままだ。
「それが終わったら、ただしゃべっていただけなんて、あんなのデートって言えないじゃないですか?」
「そっかぁ、未来ちゃんにはデートに見えなかったんだぁ」
「当然です、デートってもっと違うことするんじゃないですか? それも全部買い物が自腹なんて、兄さんにとってもあれはデートじゃなかったんじゃないですか?」
「僕もか?」
突然の展開にくわえ、いきなり矛先を向けられた健はびっくりして茜音を見る。
「当然でしょ? 女の子って男に優しくされて、思われているって感じることに幸せを感じるのに、あれじゃ何にも感じられないじゃない」
「いきなりそう言われてもな……」
「なるほどねぇ、そう考えていたんだぁ」
茜音は動揺する他のメンバーに向かって心配無用と笑顔で頷いた。
周囲の心配そうな顔をよそに、茜音の声は落ち着いていて、いつもと変わらなかった。
「あのね未来ちゃん。わたしたちには、あれはちゃんとしたデートだったんだよ?」
「そうなんですか? 無理に言わなくてもいいんです!」
「うん、興奮しないでぇ。あのね……、わたしのデートってね、『どこに行くか』とか、『何をするか』じゃなくて、『誰と行くか』が一番大事なんだよ」
「誰と……行くか?」
「そう。誰と行くかなんだぁ」
自分の中に想像もしていなかった答えを聞いてきょとんとする未来に、茜音は笑顔で返す。
「未来ちゃんの想像するような、遊園地とか水族館とかにお出かけするデートも健ちゃんは誘ってくれるし、そういうデートも大好き。でもね、わたしたちはね、どこでもいいんだよ。それこそ、近所の公園でも構わない。ゆっくりお話できること、一緒にお買い物できること、なんでもいいの。特別なことは何も要らない。二人の時間が過ごせたらそれでいいんだぁ」
茜音の自然体な口調や表情からも、無理をしているようには全く見えない。
「わたしはこれまで誰ともお付き合いしてこなかったし、だから他の人たちとは違うかもしれないね。でも、わたしが欲しいのはブランドのバックとか宝石の付いた指輪とかじゃないの。一緒にいてくれる健ちゃんの時間は、健ちゃんからしかもらえないし、それは絶対にお金で買えたりするものじゃないんだよね。わたしが一番欲しいのはそれなんだぁ。多少気まずくなったって、時には喧嘩しちゃってもいいと思うよ? 仲直りすればそれもいい思い出なんだよ」
当初の佳織たちにとっても、茜音から報告されるデートの内容には謎が多かった。未来が思った感想も当然のようにわいてきた。
しかし、それを話す茜音がいつも満足そうにしているのを見て、いつの間にか普通なんだと感じるようになっていた。
「そこまでね。未来ちゃん」
「そうだな。君には悪いけど、今の茜音ちゃんには誰も敵わないよ」
「里見さん、マスターさん……」
茜音が振り向くと、里見の声に続いたのは一度奥に戻っていたマスターの菜都実の父親だった。
「未来ちゃんの気持ちは分かるけどね、今の未来ちゃんのままじゃ、正直茜音ちゃんの相手にならないな」
「そうですか? それは歳とかは違いますけど」
まだ深い面識がないマスターに断言され、未来は少し苛立ったようにふくれた。
「歳とかじゃないんだよ。未来ちゃんと茜音ちゃんじゃ、そもそも恋愛の条件自体が今のを聞いただけでも分かるじゃない? 茜音ちゃんが欲しがってるのはひとつだけ。見方を変えれば、もの凄く贅沢な条件よね。『その人の時間が欲しい』って。それがこの前の二人のデートだったって思えば全て納得できるんじゃない?」
里見は未来にゆっくり問いかける。
里見自身も、これまでぼんやりとあった茜音の健への思いというものをこの場ではっきりと聞いて、ついに未来に確固たる意見を言うことが出来る確信を得た。
「そうかもしれないけど……」
「そうでしょ? それに、ここで一番困ってるのは茜音ちゃんじゃなくて、健君じゃないの? 未来ちゃんの気持ちも知ってしまっているから、一番苦しいのは健君なんじゃないかな?」
「兄さんが……?」
未来は顔色を変えて健を見る。
これまでは茜音を問いつめることしか頭になかったけれど。そうなのだ、カギは彼が持っているのだから……。
未来が青ざめているのを見て、健も苦笑いだ。
「里見さんも薬がちょっと強すぎですかね」
彼は頭をかき、未来の方を向いた。
「僕も前から言って来たけどね。未来ちゃんの気持ちはありがたいけど、それは君が言っていたような昔からの思い出からだけじゃなくて、去年10年ぶりに会って、茜音ちゃんの素直な気持ちを聞いて、僕も真剣に考えて決めたんだ。僕は茜音ちゃんの側にいるって」
「兄さん……」
「未来ちゃんの気持ちは嬉しいよ。僕の判断が君を傷つけることになることも分かってる。でも、先日のようなことがあると、いつかは茜音ちゃんや周りにも迷惑がかかっちゃうかもしれない。だから、もう僕のことは考えない方がいいよ。もちろん、今までどおりに珠実園の中での関係は構わないけれど、そのことを頭に入れておいて欲しいな」
「うん……」
「健ちゃん、みんなも、もういいよ」
しばらく黙って様子を見ているようだった茜音は、健を牽制する。
「未来ちゃんは、わたしよりいい男の子を見つけられるよぉ。だから大丈夫だよぉ」
複数から言われてしまい、鼻をすすり上げるようになってしまった未来をかばうように背中側から抱き寄せて茜音は言った。
「茜音姉さん……」
「うん。未来ちゃんの気持ち分かってるよ。未来ちゃんが寂しい思いしちゃうのも分かってる。でも、どうしたらいいのかが分からなくて……。ごめんね未来ちゃん……」
茜音に抱きしめられ、未来は体の向きを変えてしがみつく。自分の左肩のところで小さな嗚咽をあげる未来の頭を撫でる茜音。
「未来ちゃん、寂しいんだよね。だけど、未来ちゃんを必要としている素敵な男の子に絶対会えるから。だからこれまでどおり、未来ちゃんは何も変える必要はないんだよぉ」
「うん」
それまでの未来の態度からは、健を取られると危機感を募らせる彼女が、恋敵である茜音の発言で収まるとは周囲は思っていなかった。
しかし実際にはそうではなく、未来の気持ちを柔軟に受け止めてあげる用意がこれまでなかったことが原因だと茜音は考えていた。そしてその読みは当たっていた。
「もうね、茜音姉さんには敵わないってずっと前から分かってた。どうすればいいか分からなくて……」
「うんうん。そんな時はもっと素直に出していいんだよぉ」
茜音は佳織にカバンを持ってきてもらうと、その中から小さな紙袋を取り出した。
「これねぇ、いつも一緒にいるよっておまじないねぇ」
未来を体から離し、その首に細いチェーンのネックレスを付けた。
「いいの?」
未来はびっくりしたように、そのネックレスを触る。小さなクローバーのアクセントが付けられていて、制服の時にも目立たないような大きさになっていた。
「これ、この前健ちゃんと二人で選んだんだよ。あのときだって未来ちゃんのことを忘れていたわけじゃないんだよ」
「うん。ありがとう」
再び涙ぐんだ未来に茜音は優しい笑顔で頷く。
「もう遅いから、今日はもうおやすみだよ。明日から私は春休みだからいつでも来ていいよぉ。もっとゆっくり話そうよ。ね?」
最初とは一変して茜音のそばを離れたくなさそうな未来を珠実園に戻る二人に託す。
「健ちゃん、今日はお疲れさまぁ。また連絡するよぉ」
「うん、おやすみ茜音ちゃん」
里見の運転する車の後部座席に健と未来が並ぶ。
「またねぇ」
茜音は車が見えなくなるまで店の外で見送っていた。
「あれ、茜音は?」
「そう言えば遅いな?」
店内に残された佳織と菜都実は、車を見送っていたはずの茜音が店先にいないことに気づいた。
学校のカバンなどがまだ残ったままなので帰ることはないはずなのに、姿が見えないのでは心配になる。
「茜音!?」
思わず外に飛び出してみると、近くの防波堤の上にぽつんと座っている影が見えた。
「大丈夫?」
「うん? うんー。平気だよぉ」
「あんなに無理しちゃって。疲れたんじゃないの?」
二人から見ていたら、本当にどうなるかヒヤヒヤしたものだった。
「まぁ、あそこまでいきなり出てくるとは思わなかったけどねぇ。未来ちゃんも必死だったんだよ」
茜音は苦笑している。
「でもさ、本当にあんたは人間が出来てるなぁ。あんなふうに言われて、淡々とできるなんてさ。あたしだったら正反対に叩いちゃったかも」
「菜都実も手が早いんだから。でも、私も冷静ではいられないかもね」
「こうやって、三人でゆっくり話すことも、なかなか出来なくなるんだねぇ……」
ぽつりとつぶやいた言葉に二人ともハッとする。さっきも同じようなことを言っていたけれど、いよいよその時が来たと思うと、自然としんみりとしてしまう。
「でも、大丈夫じゃん。仕事もあるわけだし、学校での時間がなくなるだけだし」
「うん。そうだね」
全員それは分かっている。それでもそれぞれが新しい進路に進むことになれば、そこでの新しい生活が自分たちを変えていくことも分かっていた。
「でも、茜音のおかげで忘れられない高校生活になったと思うし、このあとどういうふうに変わっていっても、集まりさえすれば自然に帰ってこられるんじゃないかな」
「まー、あたしは大して変わらないと思うから、二人が帰ってこられる店を開けておくのが仕事になるかねぇ」
菜都実は照明を落とした店を振り返る。
「どうだろうねぇ、菜都実は男の子ができたら変わっちゃうかもしれないよぉ?」
茜音の生活も健と再会したことでかなり大きな変化があった。今は目立って交際している様子がない二人にも、それぞれの相手が出来れば多少なりとも変化は出てくるだろう。
「うーん。どうだろうな。あんま変わらないと思うよ?」
「えー、それどういうことぉ?」
二人から突っ込まれ苦笑いする菜都実。
「ちゃんと紹介しろよぉ? はぁ、そうなるとシングルは私だけかぁ」
佳織が天を仰ぐ。
「まだ全然分からないし、茜音の話に比べればちっぽけな話だけどさ……。佳織なんかは年下にいつももてるんだから、すぐにできるんじゃない?」
「そうだよぉ。いつもわたしのこと助けてくれたから、今度は佳織も幸せにならなくちゃねぇ」
帰宅の準備をしなければと思うが、三人ともなかなかそんな気分になれなかった。まだ色々話したいことが残っている。そんな思いが共通に残っているようだった。
「ねぇ、今日泊まってく? 明日の仕事はないでしょ?」
菜都実が三人分の毛布を持って降りてきた。
「そうだねぇ。この制服でいられるのも最後だから、今夜は付き合ってもらおぉ」
三人で窓のブラインドを閉め、店で一番奥のテーブルに陣取りそこだけ明かりを灯す。この席も前年の夏までは作戦室として三人がよく使っていた場所だった。
佳織も給湯器のお湯で紅茶を作って、テーブルにドンと置いた。
「茜音、戸締まりお願い」
「分かった」
自宅への連絡を終えた二人が鍵を閉めたりブラインドを下ろす。その間に菜都実が残っていた食パンを使って簡単なサンドイッチを作ったり、スナックをお皿に盛ってくれていた。
「さてぇ、女子会の夜は長いぞぉ!」
「今度からこういう形になりそうだね」
三人は顔を見合わせて笑った。