「未来ちゃん、そこにいるんだろ? 入りなよ」
「うん……」
中から彼の声がして、未来はドアを開けた。
ベッドには茜音が寝かされており、健が横に置いた椅子に座っていた。
「大丈夫だったか?」
「うん。もう平気」
一度入浴して体を温めたのでもう水着ではなく、元の服を着たいつもの姿に戻っていた。
「さっきは、頼んじゃって悪かったな……。本当は僕がやるはずだったんだけど……」
「兄さんが茜音さんのお風呂入れたら、ちょっとここじゃマズイでしょ。そのくらいは私でもできるよ……。でも……」
「でも、どうした?」
口を閉ざした未来に、健はたずねた。
「茜音さん、すごく軽かった……。思ったよりずいぶん痩せてた……。服が厚手で気がつかなかったけど、私でも抱え上げられた……」
「そうか……」
健は黙って未来の前に小さな薬の瓶を見せた。
「それ、持ち物の中にあった栄養補助剤だ。数日前からなにも喉を通らなくなったらしい。仕方ないから、そんな薬で持たせていたんだ」
「えぇ? でも……、そっか」
そんなバカなと思ったけれど、振り返ってみると、食事の時間も茜音は給仕などに徹していて、ほとんど食べていないことに今更ながら気づく。
「昔と同じだ。神経で胃がやられると何も食べられなくなるんだ。昔も薬とか点滴で持たせたことがあったんだ」
健は、茜音の額にかかった髪を、そっとのけてやる。
「兄さんは、それを分からせるために……?」
「違う、それは偶然。調子が悪いってのは聞いていたんだけど、どう悪いのかはさっき里見さんから聞いて知ったんだ。誰にも知られたくなかったんだよ。だから本当は僕がやるべきだったのかもしれない」
未来は改めて寝かされている茜音を見た。
さっきはあんなに大きな声で恐く見えたのに。目の前に寝かされているのは、頼りなく見えるほど自分と大差ない小柄な少女だ。
「茜音ちゃんはいつもそうだ。ギリギリまで我慢しちゃうから……。それを見抜けなかった僕に全部責任がある……」
「兄さん……」
こんなに心配そうに声を絞り出す健を未来は見たことがない。
「恐かったかい?」
「えっ、うん……、私泳げないから」
「違うよ、あのとき怒鳴った茜音ちゃんだよ」
普段は大きな声を出すことはない茜音。だからこそのギャップに驚いたのは事実……。
「うん……。でも、仕方なかったと思う。私を助けに来てくれたのに、一人で意地張って……。まさかこんなことになるとは思ってなかったし」
それは健以外の誰にとっても茜音が倒れる事態は想定外だ。
「未来ちゃん。茜音ちゃんは、もう大切な人を誰も失いたくないんだ。だから、きっと僕があそこにいたとしても、きっと作戦は同じだったと思う。茜音ちゃんは未来ちゃんを認めたんだよ。自分の大切な家族の一人として」
「家族……?」
未来は、自分の家族を知らない。この世に生を受けすぐに、彼女は珠実園の門のところに置き去りにされていたという。
健のことを兄と呼ぶのは、そんな幼い頃から自分の面倒を見てくれたことに由来する。
「茜音ちゃんは事故で両親を亡くすまで、仲のいい家族の中で大事に育てられてきたんだ。だから、家庭がどんなに暖かい物かを知ってる。僕たちが茜音ちゃんから学ばなきゃならないものはたくさんあるんだよ」
「そっか……」
うなずいた未来を健は見て続けた。
「未来ちゃん。僕は言っておかなくちゃならないことがあるね……」
「うん?」
未来の表情が少しこわばった。
「言わなくちゃいけないことがある」
ついにそのときが来たと、未来は理解していた。
「ごめんな。未来ちゃんの気持ち分かってて、ずっと何も言わなくて」
「うん……」
「知ってるとおり、未来ちゃんと会う前から、僕と茜音ちゃんは二人だった。当時から将来のことは言っていたけど、それがどこまで本当になるかは分からなかったけどね。でも、僕もこの10年、茜音ちゃんことを忘れた日は1日もなかった。そして、それは茜音ちゃんも同じだった。先月再会したときに、僕はずっと思ってきたことを茜音ちゃんに言った。これからは何があっても茜音ちゃんを守っていくって」
「兄さん……」
ずっといつかは告げられると分かっていた答えだ。
健たち二人の話は、珠実園の中でも十分すぎるほど有名だったし、そんな二人の恋愛物語は、年頃を迎えた女の子たちにとって憧れとさえ言われているほどになっている。
一方で、幼い頃から健に面倒を見てもらってきた未来。
兄と呼びながらも本当の兄妹でないことは十分承知していた。
だからこそ、伝説となるほどの恋愛ストーリーの主人公である健のそばにいられることが自慢だったし、淡い期待も抱いた。
「私は、結局負けちゃった……。最初からそう思っちゃいけなかったんだよね。兄さんが茜音さんに会いに行くとき、本当は行って欲しくなかった。聞けば聞くほど、茜音さんが約束を破る人には思えなかったし、茜音さんが兄さんのことを真剣に探してるって知っちゃっていたから……」
「え?」
健には初耳だ。そうなると健がずっと探し出せなかった茜音の所在を彼女は知っていたことになる。
「学校でね、プログラミングの時間に見つかったんだよ。兄さんたちの名前を入れて検索したら出てきた。中を読んで、この人がそうなんだって……。でも、書き込みはできなかったし、兄さんにも知らせること出来なかった……。ごめんなさい」
「そっか。未来ちゃんの気持ちを考えれば、仕方ないことだよ。もう過ぎたことだ」
もしそのときに互いの情報を知ったとしても、結局二人はあの日まで会うことはなかっただろう。気持ちの上での雲泥の差はあったとしても。
「だから……、今度来る人が同じ名前だって知ったとき、もうどうしていいか分からなくて……」
「僕を取られるって思ったのか……?」
無言の返事を返した未来。
「だって、兄さん、もう珠実園を出て行かなきゃならない歳だし。きっと茜音さんのところに行っちゃうと思ったし……」
「まだ何も決まってないし。決まったとしてもまだ先の話だよ。いきなりいなくなることはないさ」
健にも未来が急に密着度を上げてきたことは分かっていた。分かっていても、自分には普段通りに接してやることが、彼女に出来るせめてものことだった。
「うん……、本当に茜音さんって凄い人なんだね。兄さんが惚れるのが分かった気がする。なんか、素直に祝福してあげられるような気がしてきたなぁ」
「なに言ってるんだか。そろそろ菜都実さんか佳織さんが来るはずなんだ。僕はみんなの夕飯の支度をしに行くから、しばらくついていててあげてくれるか?」
顔を赤くしながら、健は立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「うん……、分かった。私ももう少し休んでるね」
「寝てるからって、いたずらしちゃダメだぞ」
「大丈夫。今度茜音さんになんかしたら、それこそ兄さんに愛想つかされちゃう」
未来の顔がいつも通りに笑ったのを確認すると、健はその部屋をあとにした。
「あれ佳織、茜音は?」
夕立は上がったものの、地面がぬかるんで危ないとの判断で、その日の夕食はウッドデッキでのバーベキュー開催となった。
健や里見と一緒に手伝いをしていた菜都実は、佳織が一人下に降りてきたのを見つけた。
「目も覚ましたし、あとで降りてこられると思うよ。今はここの家主さんとお話し中」
「は? 茜音になんか関係あんの?」
菜都実は一瞬訳が分からなかったが、すぐに思い直した。
「茜音ってさぁ、どこに味方がいるか分からないよなぁ」
「まぁ、ただでさえあちこち出歩いているから、そんなところかもしれないけどね」
食事が終わる頃になると、子供たちは自然にデッキのあるダイニングキッチンではなく、大きな客間の方に集まりだした。
「今年はどんな曲かなぁ」
「なんかあるの?」
未来が健と話しているところに、菜都実が割り込んだ。
「ここの家主さんってさ、有名なオーケストラのコンサートマスターなんだって。だから毎年このタイミングでいつも演奏してくれるんだよ。その時々で曲が違うってのがあってさ」
「なるほどねぇ……」
珠実園の子たちがなかなかプロの生演奏というものに触れることは容易ではないだろうから、楽しみにしているということも理解できる。
その話をまた横から聞いて、佳織は納得したように腕組みをしていたけれど、それと同時にその人物が茜音と会っているということに、何かがあると感じた。
日も暮れ、周囲も暗くなった頃、その人物は客間に姿を見せた。
「皆さん、お久しぶりですね。ずいぶん大きくなられた方もいるようですが、お元気で何よりです」
バイオリンを手に現れたその男性は小峰と紹介されていた。普段は東京のオーケストラに所属し、コンサートマスターをしている身でありながら、この珠実園には何かと縁があって協力をしてくれているという。
「うわぁ……。あの楽団のコンサートなんて、とても取れないわ……」
小峰の自己紹介に佳織が目を丸くしている。
「本日は、思いがけない方とお目にかかれたので、特別な演奏でお聴かせできることになりました」
小峰氏はドアを開けて、玄関ホールで待機していた人物を招き入れた。
「あ、あのぉ……、本当にいいんですか……?」
そう言いながら楽譜を抱えて入ってきたのは、
「あれ、茜音だよな……?」
「珍しい。髪型まで変えてくるなんて」
「っていうかさぁ、あんな服を持ってきていたっけ?」
菜都実と佳織の指摘のとおり、その人物は茜音以外にないわけだが、いつも見ている彼女の姿ではなかった。
普段、両サイドの前の方で三つ編みを2本作っている髪型を、このときは後ろ側に垂らしている髪も入れて二つに分けて太い編み込みにしている。
服もこれまで見たことがない、白い丸襟のブラウスに青と白のギンガムチェックのエプロンドレスを合わせ、上品さというよりも、素朴さが強調されているようなデザインだった。白いストラップパンプスも持参品ではない。
「皆さんもご存じの、片岡茜音さんが本日の特別ゲストです」
小峰は茜音の隣に立って説明を続ける。
「以前のお名前は佐々木茜音さんとおっしゃいます。そして以前、私は茜音さんのご両親とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていました」
「えっ?」
菜都実が驚いた顔をしているが、佳織は謎解きが終わったような表情だった。
「この茜音さんのご両親は、佐々木秀一郎さんと成実さんとおっしゃいまして、お父様の秀一郎さんは当時、楽団の先代コンサートマスターをしておられました。世界でも有数のバイオリニストです。そして、お母様の成実さんは、新人でありながらトップのピアニストでしたから。お二人はいつもこの家で練習をされていたんですよ。そして、そのお嬢さんの茜音さんも幼い頃によくこちらに見えていますからね」
「えぇー?」
一斉に視線が茜音に注がれる。
「やっぱりかぁ……」
「なによ、知ってたの?」
納得している佳織に、健と菜都実が目を向けた。
「知らなかったわよ。だとしても、お店であれだけ弾ける茜音の才能を考えたら、なんかあるって普通思うじゃない」
「そっかぁ」
「『茜音』さんのお名前は、お生まれになった9月10日当日の夕焼けを茜色と、ご両親を結びつけてくれた音楽への感謝を込めてつけられています。茜音さんもご存知ではなかったでしょう?」
「はい。そんな話、はじめて聞きました……」
準備も終わり、茜音はピアノの前に座った。使い込まれたピアノだから、彼女が昔触った記憶があるという謎も解けていた。
今年の演奏会は特別だ。これまでのソロではなく、組み合わせを自由に変えられる。
目配せでタイミングをとったり、強弱も自在なところに、プロである小峰と、それに即座に応えられる茜音の実力は付け焼刃ではない。
小さな子達が歌えたり退屈しないような選曲で、あっという間に感じてしまった小一時間をセッションで演奏したあと、二人は小休止の水を口に含み、茜音に進行が任された。
「せっかくなので、このあとはわたしたちの歌を入れていきますねぇ。曲だけ決めてぶっつけ本番なので、間違えちゃってもごめんなさい。英語の歌詞ですけど、小学生のみんなでも聞いたことがあると思います」
再びのアイコンタクト。茜音の手が鍵盤の上を走り、小峰がバイオリンの音色を重ねる。
「ん? このイントロどっかで聞いたことがあるような……」
菜都実がつぶやく。
英語の歌詞であったけれど、メロディーは頭にすっと入ってくる。
「あ、『美女と野獣』だ……」
「そっか、二人だからデュエットできるんだ……」
男性パート歌唱が入る部分の伴奏はピアノのみに委ねる。
本来は分厚いオーケストラ譜面を即座にピアノ用にアレンジしてしまうなんて、もはや高校生の域を超えている。また普段お店ではボーカルを入れない。はじめて聞く茜音の声量はマイクを通していない。三人で行くカラオケのそれとは全く違う。
「すごぉい……」「すげぇ……」
演奏だけにとどまらず、実際の年齢を超えた歌唱力を見せられては、いつも一緒にいる二人でもただ驚くしかない。
「健君も相方歌えるようにならないとねぇ」
「えぇ? あんなの無理だなぁ」
これを即興で行えるのは素質も当然ながら、友人たちには内緒のトレーニングを行っている証拠だ。そうだとしても、普段見たこともない目つきから、頭の中をフル回転させるような集中力を投入しているのが分かる。
「茜音ちゃんのは特技というより、生まれ持ったものでしょ?」
里見は初めて見る茜音の別の顔に驚きを隠せない様子だ。
「まさに美女と野獣ならぬおじさんでした。さぁ、ここで今日は皆さんにクイズをお出ししたいと思います。難しいかもしれませんが、挑戦してみてくださいね」
小峰はホールの隅に設置してあるステレオの方に歩いて行った。
「これから、同じ曲を2回流します。片方がこちらにあるピアノで、もうひとつは秘密の場所で録音したものです。みんなに答えてもらいます。どちらかお分かりですかな?」
ピアノの演奏曲は、ベートーベン作曲の「エリーゼのために」の冒頭部分。習ったことがない子たちでも聞きなれたものの選曲は小峰らしい。
それを2回再生する。
子どもたちが、「1回目」、「2回目」だと叫んでいるが、茜音は答えを出さない。
「茜音さんはいかかですかな?」
「どちらも聞いた記憶がある音なので……」
茜音は最初の音色のキーを押し込んでみる。
「そうですね。こっちです。1回目のがこのピアノで、スタインウェイのD-274。当時も丁寧に調律されていますね。2回目のは……、たぶんお家にあるカワイのSK-EXだと思います。しばらく使われていなかったので、この間フルメンテナンスをお願いしたら、『ここにあったのか!』と驚かれて、ピアノ工場の職人さんを呼んでこられる騒ぎになったんですよ」
茜音が何気なく調律をお願いする電話をかけてからの騒ぎを手短に話す。
「素晴らしい。正解は1番目がこのピアノです。2回目のは茜音さんのおっしゃったとおり。型番まで見事です。どちらもお母様の演奏を録音したものですよ」
「茜音姉ちゃんすげぇ!!」
みんなの興奮はそれだけに収まらない。
小さい子たちは大騒ぎだけども、健をはじめとしたメンバーはすでに言葉が出なくなっていた……。
「では第2問目」と、小峰はバイオリンを2丁並べてみる。
「これら二つは、作られた年代が大きく違います。どちらが古いでしょうかな?」
使われた曲目は、これも誰もが知っているであろうバッハの「G線上のアリア」。
今度は、子どもたちは目を閉じたまま音色を聞いていた茜音の方をじっと見ている。
「小峰さん、これを聞き分けるのは難しいですよぉ。どっちも……。父の音色がします……。最初の方はイタリアのストラディバリウス……200年以上前のものです。もうひとつは、国内製のピグマリウスでしょうか……。それでも木材の熟成がしっかり進んでいますので40年以上前のものだと思います」
小峰は拍手で正解を表した。
「素晴らしい。完璧にお見事です。そして、どちらもお父様の音色とおっしゃった。そのとおり。どちらもお父様から生前お預かりしている品です。こちらもお嬢様にお返ししますよ」
小峰が彼女の事を「茜音さん」から「お嬢様」に呼び名を変えている。茜音の両親が尊敬されていたことと同時に、茜音の中にその片鱗を見出せたのであろう。
「小峰さん……。こちらは父の形見としてそのまま使われてください。わたしはこちらで十分すぎますから」
茜音はイタリア製の名器を小峰にそっと手渡す。
「お嬢様……、そちらは練習用だとお父様がおっしゃってましたよ」
「いいんです。楽器は、分かる方が管理をしてくださって初めて素敵な音色を奏でます。わたしのバイオリンは音を出すのが精いっぱいです。練習用で十分すぎます。これからも多くの人の心を癒してくだされば父も喜びます。お時間のある時にわたしにレッスンしていただいてもいいですか?」
「お嬢様……。もちろん、この不肖小峰が務めさせていただきます」
目を赤くして、茜音の手をそっと包み込む。
「茜音って、やっぱり凄すぎる……」
「なんてシーンを目にしてるの、私たち……」
あとで二人が知るのは、小峰に譲った方が最低でも数億円、茜音が受け取った方でも家が1軒建ってしまう値打ちとのこと。
菜都実と佳織も、普段一緒にいる友人の驚異の素性には、感想を表現する方法が見つからなかった。
「では、私はこの辺で一度下がらせていただきますよ。お嬢様、あとはお願いいたします」
「えっとぉ……、任されても困っちゃうんだけどなぁ……」
さっきまでの騒ぎからいつもの声に戻り、少し考えた後……、
「それでは……、もう時間も遅いので、いつもお店で最後に弾かせてもらっている曲を行きますね」
ウィンディでの演奏の最後と同じように、菜都実が部屋の明かりを落とした中で茜音は『星に願いを』を初めての原曲弾き語りで披露した。
「ありがとうございましたぁ」
「え~?? 茜音さんアンコールはぁ?」
お店ではいつもこの曲をアンコール用に使っている。子どもたちに言われてしばらく悩んだ茜音。
「それじゃぁ……。まだ誰の前でも演奏したことがない曲です……。わたしの大好きな1曲を弾いてみますねぇ……」
しかし、彼女はすぐには鍵盤に向かわない。このピアノも彼女の母親が演奏したものだ。
「茜音ちゃん、大丈夫……?」
「うん。大丈夫だよ」
茜音は小さくうなずいた。あれだけの集中力を使ったあとでは、さすがに疲労も出てきているだろう。
「えっと……、みんなも知っているように、わたしの今回のお手伝いは今夜、そして明日は珠実園に帰ると終わりです。それなのに心配をかけてしまって、本当にごめんなさい……。迷惑をかけたおわびに何かと考えました」
茜音はそこで再びピアノに向き直った。
「最後は……、曲はみんな知っていると思います。映画、オズの魔法使いより『虹の彼方に』です。聞いてください……」
"...Somewhere Over the Rainbow..."
映画を見たことがなくとも、あまりにも有名で、色々とカバーされているから、この曲を聴いたことがない人はいないだろう。菜都実たちも曲自体は知っているけれど、茜音の弾き語りは初めてだ。
「……わたしも幼い頃に両親を亡くして、皆さんと同じように施設で育ちました。いろんなことがあるかもしれないけど、わたしはあの経験があったから、今があるんだと思ってます。わたしは将来、皆さんのお手伝いができるように勉強して戻ってくることを約束します……」
静まりかえった部屋の中で、茜音の手が鍵盤から離れた。
「茜音さん、おやすみなさい」
「おやすみぃ」
部屋に戻る子どもたちを見送り、茜音はさっきまで演奏会の会場になっていた部屋に残って一人片付けを続けていた。
グランドピアノのふたを閉め、自分も部屋に帰ろうかと思ったとき、隣のダイニングの明かりがついていることに気づく。
「あれぇ、里見さん消し忘れたのかな」
リビングの明かりを消しながら隣の部屋を覗き込むと、窓際に人影が見えた。
「未来ちゃん?」
ウッドデッキから暗い外を見ていた彼女は振り返った。
「茜音さん。もう大丈夫なんですか?」
「うん、もう平気。心配かけて本当にごめんなさい。お風呂にもいれてくれたって聞いて。ありがとう……」
未来のそばに行くと、乾いた涼しい風が久しぶりの全力演奏で火照った体に心地よい。
「はぁ~、涼しぃ~」
さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこかに消え、どこかあどけなさも残るいつもの彼女に戻っている。
「あの、さっきの歌、凄く上手でした……。どうやって練習したんですか?」
「えぇ? あぁ……、いつも子守唄で聞いていたし、好きな歌だからねぇ」
茜音は空を見上げる。夕立の後の空には夏の星座がたくさん見えている。
「本当はねぇ、あの『虹の彼方に』は歌うつもりなかったんだよ……。練習はしてたけど、人前で歌ったこと一度もなかったし」
「そうなんですか? とっても上手だったのに」
「うん。『星に願いを』と同じくらい、ママに聞かせてもらった歌だからねぇ。あと、この衣装をもらったのもあったし……」
「持ってきたんじゃなかったんですか?」
さっきの時間から茜音が着ている服は、菜都実や佳織も出所を知らなかった。少なくとも茜音のクローゼットに入っていた物ではないという。
足下も演奏の時に履いていた靴を手にしてクルーソックスを二つ折りにしていた。もちろん屋内は土足禁止になっているから、衣装の一部だとのこと。
「これねぇ。ママが学生の時にオズの魔法使いのドロシーをやったときの衣装で作ったり揃えたものなんだよ。もちろんあの歌も歌ったって。小さい頃に写真を見せてもらって、可愛いから欲しくてねぇ。おねだりして、大きくなったらもらえるように約束していたんだけど。あの事故があって、どこにあるか分からなくて……。また会えるまでこんなに時間がかかっちゃった。ここの小峰さんが持っていて、渡してもらえたんだ。ママに会えたように思った。だからその時のつもりになって歌っちゃった。だから髪型も変えちゃったでしょ? 衣装が衣装なら髪型も変えなくちゃね」
「プロですよ、そこまでいったら。そのままミュージカルにして出られそう」
「セリフがねぇ、楽譜と違って頭のなかに入らないんだよぉ。ママはやっぱりすごい人だったんだなぁ」
「茜音さんでも苦手なものがあるんですか?」
「うん。わたしは中途半端な出来損ないなの。本当ならね、もっといっぱい教わらなくちゃいけないことがあったはずだから」
「そんな、あれで出来損ないなんて……」
「だって、パパもママもわたしに音楽を習わせることはしなかったんだよ? 遊びで真似っこはしていたけどね」
「え? さっきのあれで独学ですか!?」
先ほどのパフォーマンスは半端な力量ではない。それが独学だというなら、あとは天性のものだろう。
さっきの話を聞いただけでも、バイオリンもピアノも個人が易々と持てるレベルではない。それを幼い頃におもちゃ替わりに使っていたと聞けば、どれだけの人物かということになる。目の前にいるのはどこにでもいそうな女子高生なのに……。
「二人ともね、『茜音が自分でやりたくなったら教えてあげる。無理に教えるものじゃない』って。でも、その前にお星さまになっちゃった……。今になってみれば、レッスン受けていてもよかったなと思ったりもしてるけど。きっと嫌になっていたかもしれないな。公私がぐちゃぐちゃになっちゃうから。だから感謝してるの……」
昔の母親が着た服を喜んで身につけている。それだけでも彼女が母親のことが好きで親子の絆が深かったことが分かる。
未来は健が言っていた茜音の家族に対する思いを改めて教えられたような気がした。
「兄さんからいろいろ聞きました。本当に私たちが持ってない物を茜音さんは持ってるんですね」
「そうかなぁ?」
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
「さっき、兄さんに言われました」
「うん?」
「まいったなぁ……。私、フラれちゃいました……」
「そっか……」
未来は茜音の部屋で健が伝えたことを繰り返した。
「兄さんは、茜音さんだけを見てた……。はじめから勝負なんてなかったのに、茜音さんまで傷つけた……。本当にごめんなさい……」
「そうなんだ……。謝ることないよ。わたしも未来ちゃんの気持ち分かるから……。自分の一番大事な人がいなくなっちゃうって、本当に辛いよね……」
未来の気持ちは言われなくても分かっている。
自分たちの間が引き裂かれてしまった当時、分かっていても茜音はしばらく何も手につかなかったから。
茜音と健が出会ってからの時間は約3年間。それに比べれば遙かに長い年月を過ごしてきた未来。実の兄妹のように接してきた健と離れなくてはならないという事態を突きつけられたとき、素直に受け入れられないのも当然だと思った。
「あ~あ~、私ももう少し早く生まれれば良かったなぁ」
「そう?」
未来は再び空を見上げた。
「私って、茜音さんに勝てるところなんて何もないんだもん。せめて同じ時に生まれていればなぁ……。そうすれば……、同じスタートラインに立てたかもしれなかったなぁってね」
「そうかぁ……」
「んー、でもそれでもダメだぁ!」
「そう?」
「だって、茜音さんは、私や兄さんが持っていないものを持ってるんだもん。だから仕方ないことだよ」
未来の肩が少し震えているように見えた。
「私ね、これまで家族なんていらないって。自分一人で生きていくんだってずっと考えてきたよ。でも茜音さんに会うと変わるって兄さんがいつも言っていた。暖かいんだよね……。茜音さんが今は普通の家にいるからかなって思ったりしたけど、そうじゃないんだよ。家族で一緒にいるって、子供の時には本当に大切なんだよね。私なんか、親が誰だか分からないんだもん……」
未来は自分の両親が誰なのかを知らない。生まれたときから施設の中で暮らしてきた彼女は、そこでの生活が全てだから。
「そっか……」
茜音は未来の背後に回ると、華奢な体を抱きしめた。
「小さい頃って、こうされているだけで十分安心できるんだよね……」
じっと動かず、感触を確かめているような未来。
「健ちゃんに……、告白とかはしたの……?」
「え……?」
突然の質問に、未来は驚いて振り向いた。
「さっき、フラれたって言ってたけど、健ちゃんに未来ちゃんの気持ちは伝えたことはあるのかな?」
「ううん。だって、言えないよ……。兄さんと茜音さんの話は、私が物心付いたときから聞かされてきた。だから、私はずっと妹として接することしかできなかった。妹なら、好き嫌い関係なく一緒にいられるから。本当の兄妹じゃないから、本当はどうにでもできることも知ってるけど……。でも、茜音さんに今回会えて、負けてもいいって思えた」
それは未来の素直な感想だ。
健が茜音との再会を知らされ、それまで自分が隣にいた健との距離が安泰でないと気づいた。それからはこれまで以上に距離を近づけようと、彼女なりに健の気を引こうとアタックもしてみたつもりだった。
「結局、兄さんの気持ちは変えられなかったなぁ。だからずっと考えちゃってた。でも、今日のことがあって、こんな素敵な人で、兄さんが幸せならそれでもいいかなって思った」
自分とは違い、まだ恋愛経験で傷ついたことも多くない中学生の未来には、その答えを見つけ出すのも難しかっただろう。
「だから……、兄さんのこと、よろしくお願いします」
震えている未来の肩を両手でそっと押さえた茜音。
「大丈夫。わたしにとって健ちゃんは大事な人だけど、未来ちゃんにも大事な人。それはこの先も変わらない。だから大丈夫だよぉ……」
「私、茜音さんよりもっと幸せになってみせる。だから、もう大丈夫」
「そっか。こんどうちにおいでよ。未来ちゃんならみんな歓迎してくれるから」
「はい……」
未来は茜音と視線を合わせ、初めて満面の笑みを見せた。
「未来ちゃんたち遅いねぇ」
茜音はテーブルの上に料理を並べながら、リビングの掃除をしている佳織に言った。
「まあ、仕方ないよ。きっと大はしゃぎで健君とデートしてるんじゃない?」
「そうかもねぇ」
茜音は苦笑する。何も知らなければ、茜音と健の間に何かがあったかと思われるようなドキッとする会話。
実は茜音が提案したことだった。
「ねぇ茜音、いいの? 健君を貸しちゃって」
「うん、未来ちゃんの気持ちをちゃんと伝えた方がいいって思ったし」
「でもさぁ、結果は分かってるんでしょ?」
「うん、それでもいいって未来ちゃん言ってたから」
「そっかぁ」
菜都実は完全に納得はしていなかったようだけど、茜音が納得しているならとそれ以上は深入りしなかった。
珠実園の旅行の帰り、徐々にうち解けていた未来と茜音。その途中で茜音はある提案をしていた。
「そんな、いいんですか……?」
未来は驚いた顔で茜音を見る。
「うん、もし未来ちゃんの気持ちが、それでもいいなら」
未来はしばらく考えてうなずいた。
「うん。結果は分かってるけど、これまでやれなかったことやってみたい。気持ちもちゃんと伝えておきたい」
「そうだねぇ。うん、いいとおもうよぉ。健ちゃんと1日ゆっくりお話してきなよぉ」
未来の気持ちを知ってしまった茜音としては、このまま彼女に何もせずに放置しておくなどということはできない。
当然、健のことだから今さら茜音から未来に乗り換えたりすることはないと二人とも分かっているが、これまで一度も気持ちを伝えたことが無い未来にしても、自分の気持ちを整理した方がいいと彼女自身が思ってのことだ。
二人からそのことを聞いた健も、最初はかなり驚いたけれど、その後茜音から趣旨を聞いて双方納得しての実現となった。
当日、二人がどこを回るかなどは茜音も聞かないようにしていて、帰ってくる時間だけは決めて夕食はみんなで食べようと約束し送り出した。
「これで未来ちゃんもケジメがつくってやつか」
菜都実もセッティングが終わったテーブルの上を見て満足そうだ。
「まぁ、そこまでは言わないつもりだけど。未来ちゃんの気持ちが納得すればいいかなぁって思ってねぇ」
茜音もキッチンの片付けを終え、エプロンを外す。
「でもさぁ、茜音と健君、これからどうするの? これまでは未来ちゃんのことなんか考えてなかったと思うし?」
佳織も飲み物などの買い出しを終えて戻ってきた。今日は、帰ってくる二人を交えてのパーティを予定していた。
「うん、健ちゃんとそれも考えたんだぁ。健ちゃんもやっぱり放っておけないってのが本音みたいだからねぇ」
「だろうなぁ」
茜音によると、その検討結果もこの後に発表されるらしい。この内容は佳織も菜都実も聞かされていないけれど、あの茜音のことだから、相当思い切ったものだろうとは前から予想されている。
あの茜音の出生が明らかになった夜、彼女はその場で、これまでどおりに呼んで欲しいと頼んできた。
これまで片鱗をみせていた音楽性だけでなく、小峰が「お嬢様」と呼ぶほどの素性が加われば、いくら同級生といえども雲の上の存在だったわけで、呼び捨てにしていたことをすっかり恐縮していた佳織や菜都実だけでなく、「茜音ちゃん」と呼ぶ健や里見にもこれまでと変えないで欲しいと。
それが茜音が両親から身につけてきた教えなのだろう。両親が近所の幼稚園に茜音を入園させていることからも、特別扱いを受けないようにという教育方針だったことがうかがえた。
窓から見える風景が夕焼けから夜に変わる頃にようやく二人が帰ってくる。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
「遅ぉぃ! みんな腹空かしてるんだぞぉ」
さっきから鳴いているお腹の虫を押さえきれなくなっていた菜都実がかみつく。
「はいはぃ~、はやく始めよぉ。未来ちゃんも早く上がってぇ」
菜都実に健が謝りながら奥へ消えていく。一人残されていた未来に茜音は声をかけた。
「はぃ……」
未来がこの家に来るのは初めてだった。彼女が聞いていた茜音が今両親と住んでいる住所は分譲のマンションで、茜音の家でパーティというからにはそちらで行われるものだと思っていたからだ。
それがまさか茜音自身が所有する戸建ての家の前に来て、その話を健から聞いたときは言葉が出ないほど驚いた。
「凄いですねぇ……」
あまり他の家に遊びに行ったことがない未来だから、茜音の整理した家の中を見てため息をついている。
そもそも、同年代の佳織や菜都実も茜音のセンスの良さには文句を付けられないほどだったから、未来がこのような反応を示したのも無理はない。
「ほらほらぁ、みんな集まらないと始まらないじゃない」
リビングでどうしていいか分からずぽかんとしている未来を菜都実が呼んだ。
「茜音、準備は大丈夫なん?」
「えっとぉ、椅子が足りないから持ってこなくっちゃ……。健ちゃぁん……」
自分の部屋の机から椅子を持ってきてもらい、ようやく全員が席に着いた。
「じゃぁ、よろしくぅ」
そこで司会を健に任せる。
「それじゃぁ、未来。今日はおまえが主役だ」
「えっ?」
健が頷くと、茜音は冷蔵庫からまだナイフが入っていないケーキを取り出してきた。
「あっ……」
未来の声がそこで消える。
「未来ちゃんこれまで誕生日会を開いたことないって聞いたからね。これまでの分まとめてだから腕によりをかけて作っちゃいましたぁ」
白いショートケーキの上にイチゴが並べられ、真ん中にはHappy Birthday!の文字がチョコレートパイピングで書かれている。そして、上に立てられているろうそくは15本。
「え、今日じゃないよ……」
「細かいこと気にしない!」
「このパイピングは菜都実の力作だよぉ」
「ま~、店でやるかんねぇ。さ~、さっさと始めようぜぇ」
照れ隠しをするように菜都実はろうそくに火を付けた。
「お誕生日おめでとぉ~!」
「お~し、一息で消すんじゃぁ!」
「オーバーだねぇ」
しかし、未来は大まじめに大きく息を吸い込んで一気に全てのろうそくを消しきった。
「わぁ~、すごぉい」
留守番の三人が作った料理を平らげ、気がつくとすでに最後のバスも終わってしまっている時間になっていた。
「あちゃ、今日は車で来てないんだよな……」
「みんな、泊まっていきなよぉ。ベッドとソファとか使えば全員寝られるから」
茜音は最初からそれを想定していたようで、いつの間にか入浴の準備も終わっている。
「そっか。それじゃぁお言葉に甘えて」
菜都実と佳織が浴室に消えると、茜音は一人でキッチンの後片付けをしていた。
「未来ちゃん、今日買ったのが早速役に立つね」
「あ、そうだね」
背後でそんな二人の会話が聞こえる。
「へぇ? 何を買ってもらったのぉ?」
「新しいパジャマ買ってもらったの。今までのがだいぶ小さくなっちゃったから」
「そっかぁ。育ち盛りだもんねぇ」
嬉しそうに頷く未来に風呂を譲り、茜音は家の戸締まりを始めた。